脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

2022年のごあいさつ

2022-12-26 | Weblog
2022年のごあいさつ

MOBには様々なタイプの人たちが集まっていますが、基本的にうちのクラブは共同体の価値を重んじるコミュニタリアンという立場をとっています。クラブにおいても立場の弱い人が同じように満たされなくては共同体としての価値はないと考えているのですが、私の言う立場の弱い人とはボクシングにおいてどういう人がマイノリティかということを考えるということです。ボクシングのような格闘技は男性社会でそれができる人間が中心の社会で、競技者優先であればその共同体は自ずとそういう人たちだけが目立っていきます。しかしMBOではマイノリティである女性や子供、そして運動音痴の人たちを優先的に考えることで、コミュニティのバランスを保っているわけですが、それらのことはすべて会員の人たちのご協力によってなりたっていると思います。「管鮑の交わり」という言葉があります。MOBは様々な立場の人たちが利害関係なく集まってきていますが、集まった人たちが立場をこえてお互いに協力し合う、人がいっぱいになった時手をとめて指導してくれるベテランの人たちの姿はまさにそういう光景を映し出していますが、本当に皆様方には日ごろからご協力いただき深く感謝しています。2022年も皆様には運営的にも精神的にも助けられました。本当に恵まれた年であったと思います。本来ならば皆様方ひとりびとりに感謝の言葉を表さなくてはいけないのですが、ブログにて恐縮ですが、年末のご挨拶とさせていただきます。 ありがとうございます。そして来年もよろしくお願いいたします。

There are many different types of people in the MOB, our club basically stand on a communitarian, which emphasizes the value of community. We believe that a club has no value as a community if people in weak position can not be satisfied their needs as well. A martial art such as boxing is a male-dominated society, and if the priority is given to competitors, the community will naturally become  male-dominated . However, MBO maintains a balance in the community by giving priority to minorities such as women, children, and those who are not good at sports, all of which are made possible by the cooperation members. There is "A Damon and Pythias friendship" in a proverb, MOB members who are diffrent tipys of people come together without their interests, and they cooperate with each other. Experienced members veterans help and teach when the room is full of people, that reflect just such a scene. I am truly grateful to all of you on a daily basis. You have all helped me both operationally and spiritually in 2022. It has been a truly blessed year. I should express my gratitude to each and every one of you, but I am sorry to express in this blog, but I would like to send my year-end greetings to all of you. Thank you very much. And I look forward to seeing you again next year.




  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

May the miracle of Christmas fill your heart with warmth and love. Merry Christmas!

2022-12-22 | Weblog
Amazing graceと言う歌がある。一時期ヘイリーウエスタンらが歌って有名になった曲であるが、これはもと奴隷商人が神の恵みにふれて改心した気持ちをあらわした歌である。
時はクリスマスシーズン、時々食事にありつきに行っていた教会でこの曲を聴いている時、ジウンに「これ作曲した奴ってもと奴隷商人だろ、散々人を殺しておいて最後の最後に自分は救われた、自分はなんて幸せなことかということをよくもまあまあ歌にして歌えるもんだ、最低な奴じゃねえか、本当に改心したんだったら死を持って償うべきだ」と確かそのようなことをぼろくそ言ったと思う、しかし彼女はそんな私に「ホヨンそういう視点ばかりで物事を見ていたら心がすさんでいくよ、そんなことばかり言っていたら幸せになんてなれないよ」と言ったのだが、正直、そう言われてドキッとした。確かに私は人間の悪の部分についての指摘は鋭いし、実際そういうことを指摘して人間なんてそんなもんだと思っていた。しかし実際はそう言って勝ち誇ったような気になって、言ったところで自分の心が満たされるわけでもなく、何となくそれが負け惜しみのようなものだと思っていたのだが、彼女は私の心を見透かしているのか、時々こういう確信をついたことを言うのだ。その週の夜ではあるが、ジウンの教会でクリスマス会がもたれるということで私は彼女に誘われて半ば強引にクリスマス会に参加させられた。彼女はクワイヤーに参加していて5曲ぐらい、そこで韓国語と英語のクリスマスの歌を歌ったと思う。そして最後に歌った歌が有名なO Holy Nightである。あっこの歌知っていると聴いていたが、聴いていくうちに不思議な雰囲気につつまれて、そしてなぜか自然と涙があふれてくる、おそらくそれは私がこの曲と言うか彼女たちの歌っている姿に甚く感動をおぼえたからだろう。ある作曲家は歌うことは祈ることだと言ったが、まさにその彼女たちの歌う姿は祈りそのもので、その歌声を天にとどけようとしていた姿に深く感動したのである。人間は本当に高尚なものにふれると自分の罪深さや弱さがわかる、聖書などで神が人の前に現れた時に「こんな罪深い私を」とひれ伏す姿が表現されているが、それは人間なんてそういう大きな存在を前にしたら無力で弱いものだと言うことを表現しているのだと思う。そして徹底して自分の無力さを思い知らされる時、大事なものに気づかされる。以前の私は上から目線でうがった見方で人間なんて所詮こんなもんだとうそぶいていた、所謂自分を絶対化し神の目線で世の中を見ていたと思う。しかし我々が神になったところで、ひとりでは何もできない、ひとりでは自分すら幸せにできない愚かな存在だ。しかし自分がへりくだって、無力だとわかる時、愛し合うことや助け合うこと、そして支え合って生きることの大切さがわかるであろう。人間は同情されたり、愛されたり、助けてもらったりすることで生きている、そしてそれを我々は感謝の気持ちで受け入れることが必要であり、その相互関係が人間の心を豊かにするのだと思う。結局最後の試合で、私は小さな島々のファイナルでまけてしまったが、その時自分の限界を知り、小ささそして無力さを知ることができた。おそらく私のこの体験はアメイジンググレイスの作者にも似た気持であったのだろう。神聖なものにふれて自然と出てくる涙はまさにそうだったと思う。
さびの部分でFall on your knees, O hear the angel voices(ひざまずいて天使の声に耳をかたむけろ)とあるが、傲慢な態度では天使の声を聞くことはできない、自分の無力さを知りへりくだることで、見える大切なものがあるが、それは平和や確かさにつながるものだと信じている。

May the miracle of Christmas fill your heart with warmth and love. Merry Christmas! 平和なクリスマスをお過ごしください。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

The massacre day on Christmas, but ....

2022-12-19 | Weblog
クリスマスまであとわずか、欧米ではたぶんアドヴェントを迎えていると思う。この季節巷ではクリスマスのイベントやセールにむけてにぎやかになるが、クリスマスは宗教とは関係なく日本でも重要なイベントである。クリスマスはキリストが生れた日、そしてこの誕生を喜びの日として全世界が迎えているが、しかしこの日はそのキリストをめぐって嬰児が大虐殺された日であることを知っているだろうか。その出来事はバイブルに記述されているが、原因は当時王様に君臨していたヘロデと言う王が「東に新しい王様が誕生する」と言う予言者の言葉を聞いたことによるものだ。そして彼は、それを信じ、それでは自分の身があやういと、保身のために嬰児が生まれる場所を探させ、そしてそのあたり一帯の嬰児たちを皆殺しにしたのがクリスマスに起こった出来事である。実は私はこの話を当時仲の良かったジウンにしたことがある。「こういうめちゃくちゃな話があるので、俺はクリスマスを祝えない」と、でもジウン曰く確かにこの日、大虐殺があった日であるかもしれないが、しかし、イエスの誕生と言うのもある意味犠牲的なもので、ごたごた書くと宗教くさくなるので、かいつまんで言うと、神が人としてのかたちをとってこの世界に到来したのは人類が愛し合うためであり、そのために神は自らを喜んでささげて人間のための犠牲となった。彼ら彼女らの言う基本的なLoveと言うのは惜しみなく与えるもので、そのことを知ることが大事だと言う。さらに彼女は続けて言った。キムホヨン、クリスマスはプレゼントをもらう日ではない。プレゼントを与える日だ。この日は子供たちはプレゼントをもらう日だが、でももらう子供たちよりもそれを与える大人たちの心が満たされる、この日はもらう喜びよりも与える喜びを知る日、ここにクリスマスの貴重なメッセージがある。私は基本的にクリスマスはお祝いをしない。なぜならこの日多くの生まれたての嬰児たちが大虐殺にあった日であるからだ。だから私はこの日はその嬰児たちをおぼえてクラブの名前で募金をするようにしている。クリスマスは家族団らんで集まってケーキを食べたり、教会に集まって自分たちはなんて幸せなんだと思うのもひとつのあり方だと思う。でも大事なことは我々は何かをもらうのではなく、与えなくてはならない、与える喜びを知る日だ。私が募金するのは決して喜びとかそういう傲慢なものではないが、しかしこの日いろいろな世界の子供たちのことをおぼえて、それに目を向けて少しでも協力できることで、いくらかでも心に安心感をおぼえる。たぶんその安心感は、与えあうことで人間は満たされる、人間は与えあって支え合う生き物なんだと言う天上からのメッセージだと思っている。

Christmas is just a few days away, and in Europe and the United States, are probably during advent. Christmas is an important event in Japan as well, regardless of religion. Christmas is the day on which Christ was born, and the whole world celebrates his birth as a day of joy, but did you know that it was also the day of the massacre of infants over him? The incident is described in the bible, and the cause is that Herod, the king in jewish at the time, heard the words of a prophet that a new king would be born in the east. He believed it, and he had the king look for a place where infants would be born, and killed all the infants in the area, which is what happened on Christmas Day. I actually once told this story to Jieun, who was a good friend of mine at the time. I told her that "I could not celebrate Christmas because this incident is so messed-up story", but she said that "although it may have been the day of the massacre, the birth of Jesus was also sacrifice for us. God came into the world in the form of human being to love each other, and for this purpose, God willingly offered himself as a sacrifice for us. She said that "the basic Love is giving generously and it is important to know that. She went on to say. Kim Hoyoung, Christmas is not a day to receive gifts. It is a day of giving. This is the day when children receive gifts, but more than the children who receive gifts, the adults who give them are filled with joy. Here is the precious message of Christmas." I basically do not celebrate Christmas because it is the day of the massacre of many newborn babies. So I try to remember them and donate in the name of the club. I think it is ok that Christmas is a time for families to get together and eat cake, or to gather in church and think how happy we are. But the important thing is that we receive something, but we have to give, and this is a day to know the joy of giving. It is not a joyful or arrogant thing for me to donate, but I feel a sense of relief when I remember the children of the world on this day and am able to help them in any way I can. Perhaps that sense of security is a message from the heavens that humans are fulfilled by giving to each other, and that we are creatures that give to each other and help each other.

Celtic Woman - O Holy Night (2020 Version)

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近読んだ本

2022-12-14 | Weblog
2022年の10月に出版された「バカと無知」という本がある。おもしろかったのでお勧めしたいが、辛辣ではあるが非常に的を射た意見である。ここでいうバカとはかいつまんで言うと自分を過大評価して学ぶことをしない人間、ついでに付け加えるならば知っているということをひたすら言おうとする人間、そういう人間は結構いるが、私がDQNと認識しているのはそういうたぐいの人間たちである。私は正直この手の人たちとはかかわりたくない。というのはこの本の中でも言っていたが、一緒に議論すると話にひきづられて合理的な判断ができなくなる、話が進まず、正しい判断ができないからである。
認知神経科学者のバハドル・バーラミの実験では優秀な人たちが話し合うとプラスの結果が得れるが、しかし誰かがそうでないならば結果がどんどんわるくなり、コイン投げで意思決定をしたほうがましになるという結果を得ているが、私自身何かを決めるときはみんなで話し合って決めるよりもそれをよく理解している人に聞いて物事を判断するほうが正しい判断ができると思っている。今の知識社会においてみんなで決めましょうという民主主義的な判断が必ずしも正しい判断とは言えない。バハドル・バーラミは「集合知を実現するには、一定以上の能力をもつ者だけで話し合うこと。これなら欠けた知識を持ち寄って、それを一つにまとめることで、個人の判断より正しい択をすることができる。それが無理な場合は話し合いをあきらめて、優秀な個人の判断に従った方がよい選択ができること。これはある種の貴族政だ。」と言っているが、正しい選択や判断はそれが可能な人たちが決定していくほうが平和で平等であるだろうということが言えるのだろう。

参考文献「バカと無知、人間、この不都合な生きもの、言ってはいけない 」橘玲 新潮新書




  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

A frog in well will know ocean.

2022-12-12 | Weblog
10年ぐらい前のさかなくんのいじめ体験がインターネットの記事にあがっていた。いじめの世界はさかなと似ているらしく、たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいるようだが、せまい水槽に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃し始める。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れたら。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始める。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきて、いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれるそうである。広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まる。メジナは同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士にもかかわらず。さかなくんは部活内でいじめがあっていじめられていたそうだが、さかなくん曰くいじめは狭い世界だから起こるそうだ。
ジムでは絶対に暴力的なことはおこらないように徹底して管理しているが、それは格闘技という狭い世界は間違った価値観を生み出しやすく、特に暴力に対しては少しずれた感覚があると思っているからだ。いじめに関してよくあるのが、俺はいじめられてたけどやりかえしたという見栄話。たぶん昔は弱かったけど頑張って見返してやろうと思って力をつけたというおちになっているのだろうが、しかしたいていの人間は今やられている人間の立場に立ちたがらない、いじめるほうがわるいとか世間体を気にして言っているがとどのつまりいじめられないように力をつけろ、やられたらやりかえせと言っているのだ。
基本的に人に暴力をふるえない人間が一定数で存在する。そういう子供に無理にやられたらやりかえせとボクシングをさせることはセカンドいじめに等しいであろう。私はここにいじめられているから何とか強くさせたいと親が来ても、まずほかに解決法がないのかということ聞いて、そして必要であれば一緒に考えるし、場合によっては学校にいくこともある。いじめられる子供のたいていはやられても暴力をふるえない優しい子供たちである。そういう子供に格闘技をさせることは罰である。人間はそれぞれ個性がある。だから時には力や腕力の弱さを認めることもひとつの成長、もっと他にできることがあるのだから、弱さを認めて、その力が弱い子供が活きる道を示してあげればいいと思う。そういう意味では話し相手を見つけることは大事なことだ。同じような仕事同じような学校の出身者が集まるような価値観が狭いコミュニティではなく、いろいろな人たちが集まるコミュニティに入って刺激をうけて自分の世界を広げることは大事なことだ。昔俺のことは誰もわかってくれない的なことを言う人間に「お前世界に人口は何人いるのかわかってるの全員と話したのか?と言ったことがあるが、自分の世界から一歩出て外の世界に踏み出したら、必ず自分をかえてくれる人に出会うと信じている。私自身も差別される側の人間であったと思う。今でも差別は存在するし、なくなることはないだろう。でも自分の世界から一歩ずつ踏み出したことでいい意味で見方や考え方がかえられ成長できたと思う。

"(いじめられている君へ)さかなクン「広い海へ出てみよう」" 朝日新聞デジタル 参照


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エッセイ

2022-12-05 | Weblog
静岡で園児虐待のニュースが話題になっている。市はそれにかかわった人間を告発すると言っている。でもしかしここでその起こったことに対して厳罰するだけでは問題は解決しない。教育の現場ではこういう問題に関してはいつもトカゲのしっぽきりのような対処の仕方をするが、なぜそのようなことがおこるのかということを徹底的に調査し、問題を深くとらえて、必要であれば職場の環境を整えたりすることも大事ではないか。私のまわりには大学や教育委員会も含めて教育関係の人がいるので、そういう人たちからいろいろと話を聞かせてもらうが、今教育の現場はたいへんで、かなりストレスがかかる仕事である。そういう状況だからこそいろいろと改善すべき点があるのではないかと思っている。
はっきり言ってこういう人間が多数存在するのは環境にも問題があるからだろう。環境が改善されていないから教師の質が悪くなる。今の教育の現場はブラックだ、さらに人権が軽んじられている。教師が体罰や暴言をはくと問題になるが、しかし子供や親はさほど問題にならない。はっきり言ってひどい話はたくさんある。こんなこと常識いやそれをこえて刑法でもゆるされることではないようなことが学校だから公にできないということで我慢していることも多くあると思う。我々の時代は学校の教師になるような人は有名大学あるいは国立大学を卒業した一般的に優秀な人がなるというイメージがあるが、しかし今やどちらかというとそういう人たちは選択しないのではないかと思われるが、本当に子供のことを考えるのであればもうすこし教師に権限を持たせて、職場環境をかえる、そうすることで教師の矜持を保つことも大事ではないだろうか。これは私の意見であるが教育学でもラディカルでよく世の中にとりただされている人たちは学校をコミュニティとしてとらえていない、どちらかというと能力主義で、人によっては教育は金で買える、そのコミュニティだからこそ培われる何かを信じていないようである。今学校の教師がおかれている環境はよくないが、そういう中でどうやって子供と向き合い、教え指導できるのだろうか。教師が尊敬されないと学校に行かなくてもいいという人間が増えてくる。学級崩壊は授業がおもしろくないとか、学校がおもしろくないという問題ではない、根本は教師が尊敬されるかされないかだ。

こういうニュースがでて、相手に徹底的に非があるとわかると、これはおいしいとばかりに正義ぶって糾弾する人間特に政治の人や有名人みっともないし茶番である。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゲオルク・ジンメルの言葉

2022-12-03 | Weblog
クリスマスシーズンのソウルは寒い、それは耳がちぎれるんじゃないかと言うぐらいの寒さだ。韓国はキリスト教徒が多いのでクリスマスは休日、街のイルミネーションはかなりにぎやかである。クリスマスに久しぶりに会ったチング、韓国系アメリカ人で3か国語を流暢に話す。最初空港で会った時にはなんて話そうかなんて思っていたが、空港で私の姿を見つけてすぐに駆けよってきて「やあ久しぶり。元気にしてた」と、その後なぜかテハンノでプッチンゲを食べに行って彼女とはたくさんのことを話したが、それは昨日会ったかのように話すことができた。たぶん友達ってそんなもんだと思う。久しぶりに会って何を話していいのかなんてあれこれと思うことはない、友達は何年たっても何十年たっても普通に話せるから友達だ。そういえば昔、彼女とはたくさんのことを議論した。日韓の関係を話し合った時はこれで関係がおわるんじゃねえかと思うぐらいの激しい議論であった。そして時には傷つくこともあったし傷つけることもあったが、しかしそれでもそれは若さゆえに受け入れることができたし、何よりもそういう経験が若い時には必要であり、そういう経験を通してできた友達とはいつまでたってもかわらぬ関係でいれるのだろう。
社会学者のジンメルは「若者の言うことは間違っているが主張することはただしい」と言っているが、若い時はたくさんのことをあれこれと議論することは大事なことだ。議論することだけが正しい生き方ではないが、しかしそういうモラトリアムには思い切り自分の存在を表現していくことも大事なことで、そういうことを主張し受け入れあっていくのは若いからこそできることであり、それはある意味若さゆえの特権であってもいいと思う。ラインやフェイスブックの返事が来るとか来ないとかそんなことはたいしたことではないだろう。私の意見ではそんなものをすぐかえすとかかえさないとかで悩んでいるようでは本当の友達とは言えない。本当の友達とは何年会わなかってもまた昨日会ったように話すことができる存在、そういう存在を私はチングと呼んでいる。
私はそのチングの影響を受けている。クリスマスには虐げられている子供や女性をおぼえてクラブの名前で募金しているのは、そのチングからたくさんのことを学んだからだ。まだまだ世の中には多くの子供や女性たちが幸せとは言えない状況の中にある。自分一人では何もすることはできないが、しかしせめてこのクリスマスにはMTオリーブフィットネスボクシングクラブを通してそう言う人たちのことをおぼえたいと思う。

It is cold in Seoul during the Christmas season, so cold that one might say one's ears are being torn off. Since there are many Christians in Korea, Christmas is a holiday, and the city is quite lively with lights. I met jingu(freind), a Korean-American who speaks three languages fluently. When I first met her at the airport, I had no idea what to say to him since we haven't met for long time, but as soon as she saw me at the airport, she came running up to me and said, "Hey, long time no see. After that we ate out puchingae at Daehakuo and talked a lot, but we talked like as if we had met yesterday. Maybe that's how friends are. Friends are friends because they can talk normally no matter how many years or how many decades have passed. That reminds me, I had many discussions with her in the past. When we discussed the relationship between Japan and Korea, it was so heated that I thought it might be the end of the relationship. Sometimes I was hurt and sometimes I hurt her, but I was able to accept it because we are young, and above all, such experiences are necessary when we are young, and the friends you have made through such experiences will always be your friends. Sociologist Gimmel says, "What young people say is wrong, but what they insist on is right. It is important to discuss many things when you are young. Discussing is not the only right way to live, but it is important to express yourself to the fullest during such a moratorium, and it is possible only when you are young to assert and accept such things. I believe it is a privilege of being young. If you are worried about whether or not you get a line response immediately, they are not a true friend. A true friend is someone with whom you can talk as if you had met yesterday, even if you have not seen each other for years.
I am influenced by that jingu. I have learned a lot from her, which is why I donate in the name of the club in memory of abused children and women at Christmas. There are still many children and women in the world are not happy. I can't do anything on my own, but at least this Christmas I want to remember them through MT Olive Fitness Boxing Club.



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする