脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

メリトクラシーではないが

2021-08-26 | Weblog
マイケルサンデルはMeritocracy(能力主義) について、そのインテリ上層部の人たちが、自分たちこそが男女平等や人種問題を理解し、気をつけていると自負しているとした上で、ignorant な階級の人たちこそがそれらを理解しないとし、差別をしている傾向があると指摘している。
確かにそう言われてみたらそうとも言えるだろう、インテリ層がignorant な人たちを見下すことはどこの世界でもありがちなことだ。

しかし能力主義ではないけれども今世の中を正しくみようとするならばignorantではだめだ、ある程度のインテリジェンスが必要であると思う。確かにサンデルの言うメリトクラシーの人たちはそういうignorantな人たちを見下してはいるのだろうが、LGBTや 男女平等やあるいは人種差別宗教などはある程度知識ないと相手を理解できない問題であり、違う考えや異質なものを受け入れるのは単に寛容さといったことだけでは限界があるだろう。

MOBもひとつのコミュニティである。コミュニティには当然そういう人たちも参加してくるのだから、特に管理者はそういったことをよく理解してその組織やコミュニティを管理していく必要がある。コロナ禍においてもコロナはこわいとか気をつけようと警戒するのではなく、しっかりと情報を集めて何が正しいかそしてどう行動すべきかということを判断する、そのためには日ごろからコロナに関心を持って理解しようとすることは管理者に必要なことである。

さらにここに集まる人たちも同じくニュースなどに無関心ではなく日ごろからそういう話題にもしっかりと関心を持って自分の身は自分で守る、そして日本人の美徳でもある、人に迷惑をかけないようにするという気持ちを持つことは大事なことだ。少し厳しいことを言うがコロナに無関心と言うのはコミュニティに対して無関心と言ってもいい。カラオケやライブハウスなど一番行ってはいけないようなところに行って、次の日平気でトレーニングする、そして感染して、そういう知識がなかった、知らなかったとあっけらかんと言うなんて、これはまわりに対する裏切りでもある。私は前にジムには学校生活をまじめにおくってきた人たちが大多数で、彼ら彼女らは何をしていいのか悪いのかと言う判断がしっかりしているので、決めたことが正しければ積極的に守ってくれるので動かしやすいと言ったことがあるが、それだけではなくうちのクラブの人たちはジムを単なる練習場としてとらえていない、人が集まるコミュニティとして人間関係の中でジムをとらえてくれていて、大事に考えて配慮してくれているおかげで健全でかつ秩序が保たれているが、私は本当にそのみなさんの配慮には頭が下がる思いである。
これからはひとりびとりがコロナに関心を持って、ある程度の知識をもった上で、思いやりの気持ちを持って人に感染させないように配慮すること、そのことが求められることであり、100%感染を防ぐことはできないが、それでもなるべくみなさんがここに来て感染しないように努めていきたいと思っている。

参考文献 「実力も運のうち、能力主義は正義か」 マイケル・サンデル

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暴力とスポーツ 3

2021-08-19 | Weblog
コロナ対策で本を選ぶ基準となるのは、著者がどういう研究をしているかということである。実際英語なども読めるが、しかし日本とは状況が違うのでなるべく日本語でウイルスの研究者の本を購入して読むようにしている。今のところマスクとうがいそして換気が効果的だと判断してジムではマスクを着用してトレーニングしてもらっている。

前回暴力の構造について説明したが、今回はその暴力に対してどういう管理の仕方をしているかと言うことを述べたいと思う。
私は基本的に人間は基本的に弱くておろかだと考えている。その愚かな人間が集まる社会において、どういう関係性が暴力を生み出すのかと言うことをしっかりと構造的に見て注意して管理していくことが最も大事で、暴力を生み出さない群れをつくることだと信じている。

ジムで一番その暴力がおこりやすいのは実戦トレーニングである。うちでの実戦トレーニングはカーッと来て敵意むき出しでなぐりかかっていくことは暴力だとしているので、実際に大きなけがをすることなく比較的安全に実戦トレーニングができているが、しかしそれでも実際にそこで小さいけが、例えば拳が痛いとか首が少し痛いとか、そういう事態がおこった場合はどういう状況でおこったかということを聞いて、フィジカル的な問題ならDrに相談したりしているが、実際にそこでは実戦と言う場で拳がつかわれるのだから、いろいろなことを考えて注意して管理することは必要である。そしてそういう状況で起こってはいけないことがある。それはけんかやいじめやからかいに近いような暴力である。
例えば敵意むき出しでけんかごしでなぐり合い、相手をボコボコにする。オラオラかかってこいと自分の強さを見せつけるために相手を挑発、こわがらせる。さらに実力差があるのにあいたところにふざけてきついパンチを入れる。これらは一番やってはいけない暴力、こういうことは笑ってすまされることではないし、男だからよくある通過儀式のようなものだと軽く考えない。もしこういうことがおこればすべては私の管理不足、社会人をあずかっているのだからやんちゃやならず者の発想でトレーニングされては困る。けがをさせたりしたりするのは当たり前ではない。みなさんに安心してボクシングを楽しんでもらうためには暴力行為を徹底排除して、こういう事態がおこれば誰であれ100%追放するつもりである。

ここに来てくれる人はみなさん我々を信用して来てくれている人たちである。ヘタレ、運動音痴大歓迎と言うのはただのキャッチフレーズではない。心からそういう人たちがここに来てスポーツとしてボクシングを楽しくトレーニングをして、そして体力や自信をつけてもらいたい、そう願ってこのボクシングクラブを設立したわけだが、みなさんが安心して喜んで楽しくボクシングをしてもらうためにはサル山のような力関係をつくらない、これがほころびになるんじゃないかという部分をよく見て、きちんと対処する、それが私の管理者としての役目だと思っている。



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暴力とスポーツ 2 아니야

2021-08-17 | Weblog
うちのクラブは徹底的に暴力を排除しているが、特に格闘技の世界は暴力をどう管理するか=管理能力であると思っているが、しかしただ単に暴力はダメだと言うことではなく、その群れの目的な性質を見て、何が暴力を暴力たらしめるのかということをよく考えて構造的に暴力を考えて対処することが必要不可欠だと思っている。

前回言ったがクラブで起こる暴力や理不尽な指導の元凶となっているのは至上勝利主義と家父長制だ。私は日本とアメリカのスポーツ感の違いをアメリカは「競技者を競争させる」そして日本は「競技者を育てる」と言う図式で見ているが、正直この競技者を育てる、あるいは育てなければならないと言う考え方は監督たちに大きな負担をあたえているように思える。それはある意味彼ら彼女らの見栄にもつながるのだろうが、監督は強豪と呼ばれる学校程競技者を育てなければならない、そしてかつ勝たなくてはいけないと言う使命感や責任を背負わされているように見えるが、アマチュアのしかも学校の監督ぐらいでなぜそこまで負担を強いられるのかわからない。さらにクラブなども強豪と呼ばれる学校は厳しい寄宿生活をさせているところもあるようだが、何のためにそうしているのか理解できないが、中高生をそこまで管理する必要があるのだろうか。おそらくこういう管理システムにおいては家父長制と言うシステムが生きてくるのだろう。監督をお父さんと認め、お父さんの言うことは絶対的でみんなそれに従うと言うシステムは力による関係性を生み出しやすい。そういう管理化された小さい世界は暴力を容認しやすく、目的によって暴力が正当化されることもある。強くするために体罰もそうだし、格闘技のよくあるオラオラかかってこいなんて言うかわいがりなんてまさにそう、さらにコツいたり、たたいたりしてからかうのもそういう世界ではいじめではなくいじりになるが、監督がお父さんで競技者が子供、お父さんどころか皇帝のようにふるまっている監督もいるが、こういう世界はバリバリの縦社会、そういう社会では力関係が生れることは確かである。ボクシングは暴力を扱うスポーツだ「強くなることは優しくなることだ」とか「弱いものをまもれ」とかそういう子供でも言えるような陳腐な考え方を人に押し付けても意味はない。人間は基本的に弱くておろかだ。その愚かな人間が集まる社会において、どういう関係性が暴力を生み出すのかと言うことをしっかりと構造的に見て注意して管理していくことが最も大事で、暴力を生み出さない群れをつくることだと私は信じている。

ここではまず力関係をつくらない。特に体育会のような上下関係が支配すると力関係が生れてそれが暴力につながることもある。あいさつなんて会釈で十分だ、大きい声であいさつさせるなどの運動クラブ特有のパフォーマンスを排除しているのは、そういうシステムを生み出し、力関係をつくらないためだ。

うちのクラブでは毎月発展途上国の子供、特に少女が教育を受けれるように支援している団体にドネイションして支援している。タリバンをどう見るかはその人次第であるが、しかしタリバンは完全なPatriarchy(家父長制)だ。私は彼らのシステムは人間の本来の自由をうばうもので、間違っていると思う。



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暴力とスポーツ

2021-08-12 | Weblog
野球選手が暴力で無期限停止処分、当たり前だが暴力は容認されるべきことではない。事実オリンピックでも結果を残せない監督は体罰は必要なことだと堂々と主張していた人たちであるが、暴力は対立を生み出すだけである、特に若い人たちは雰囲気を大事にしたがるが、その雰囲気づくりをよくするためには暴力は排除、そしてお互いをレスペクトできる、そういう環境をつくることは大事なことだ。

うちのジムは暴力を徹底的に排除している。よくある格闘技での教育と称してのかわいがりや、実力差があるのに相手をいためつけたり、カーッと来て敵意むき出しでなぐりかかっていくのも暴力とみなしているが、相手が明らかに威圧感を感じたり怖がったりするような行為も暴力。例えば武勇伝ややんちゃ話を立場を利用してベラベラと得意がって話したり、裸で汗をまき散らしてトレーニングするなんて言うのは言語道断、最近ではサルでも人前で芸をする時は服を着ているのだから、公共の場、しかもそこには女性もいるのだからある程度の配慮を持ってトレーニングする必要はあるだろう。武勇伝ややんちゃ自慢をアホが集まって自慢しあうと、ジムのシステムがおかしくなる。そこに力関係ができてジムの秩序がサル山のようになって力のあるものが優先になる。競技者が実戦練習もミットうちも優先で、女性や健康維持のおっさんたちは多少遠慮してトレーニングしなくてはならないというのはまさにそういう力関係が働いているのだろうが、暴力的なことを容認したらかならずそこには力関係が生れる。私が厄介だと思うのは暴力的な行為が容認されて、支配する側と支配される側の関係ができてしまうことである。これは特に先輩後輩の人間関係に見られるが、後輩たちが支配されることに心地よさを感じて、それが自分たちのクラブや仲間内での通過儀礼的のようなものだと思ってそれを容認するのだが、運動クラブ出身者は先輩にいじめられたことや顧問がいかに理不尽だったかと言うことを楽しそうに語っているが、そういう連鎖がそこだけの特定な世界を作り上げるのではないだろうか。私はスポーツの場において暴力的なことは容認してはならないと思うし、それを徹底して排除すると言う姿勢を持つことは大事なことであると思う。

著書「暴力の哲学」の中で酒井氏は「ただ暴力を拒み、いっぽう的に暴力反暴力という二元論でしか見れないうちは暴力はなくならない」と言っているが、さらに言うと暴力は個人と相手だけの問題ではない、それは社会をとりまく我々の問題でもあるということだ。例えばいじめも暴力であるが、経験者が講壇に立って自分の経験をかたって、そこでどう立ち直ったか回避したか、あるいはそれを共有して、いじめる人間にはそれなりの罰をあたえろという二元論的な考え方に至るだけでは根本的にいじめは解決できない、構造的に物事をとらえないと解決できない問題でもある。前にも言ったがホワイトフラジリティの著者である、ロビン・ディアンジェロは差別は自分がしないとか、自分は親から人には平等に接しろと言われて生きてきたと言う個人的な問題ではなく、アメリカ社会は白人が優遇されるようなシステムが既存していると言うことを知ること、すなわち構造的に差別を見ることが大事であると言っているが、スポーツにおける暴力も暴力事件が起こるたびにスポーツ選手や監督にありきたりのコメントを求めるのではなく、何がそれを暴力たらしめているのかということを構造的にとらえて考える必要はあるだろう。

私はクラブで起こる暴力や理不尽な指導の元凶となっているのは至上勝利主義と家父長制だと思っている。うちのクラブではみなさんが平等に楽しく生き生きとトレーニングできるようにそういうシステムを中に入れないようにしている。

参考文献
「ホワイトフラジリティ」 ロビン・ディアンジェロ 明石書店
「暴力の哲学」 酒井隆史 河出書房新社 

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4年前のブログから

2021-08-05 | Weblog
金メダルをかんだとか、私にしたらどうでもいいことが話題になっている。次のブログは4年前に書いた私のブログである。

human trafficing (人身売買)のちょっとしたシンポジウムに通訳として参加した。人身売買はおもに東南アジアなどで女性や子供が奴隷として売買されているのだが、売られた人間は労働や売春などを強制され、中には臓器をとられるために殺され、最近ではその人身売買がインターネットなどで行われているのだが、犠牲者になっているのは抵抗できない貧困層やマイノリティである。

だいぶ前オリンピックで日本人が金メダルを本物かどうかということで噛んでそれを証明するバカげた行為があったが、はっきり言ってあれは不適切、本当にイラッとくる。これは東南アジアのCAから聞いた話であるが、その国では金の採掘には多くの貧しい子供たちがかかわっていて、その多くが貧しさゆえに家族を助けるために命をかけて金を採掘するらしい。中には深さ25メートルほどの今にも崩れそうな井戸にわずかな金をとるためにもぐるそうであるが、それは間違ったら死につながるそういう危険な作業に2万人以上の12歳未満の子供がたずさわっているのだ。たぶん金をかんだ奴らはのりと勢いでやったにすぎないが、しかしもう少し世界に出ていくならばこういう現実をよく理解してから行けと思う。アスリートは命がけでスポーツを競技していると言うが、しかしその12歳未満の子供たちは本当に命の危険にさらされながらわずかな金を採掘しようとしている。それだけではなくこういう過酷な児童労働を強いられているのはユニセフの発表では1億5000万以上いるのだ。にもかかわらずそれを本物かどうかなんてテレビに向かってオリンピックと言う世界の舞台でやるのだから、本当に程度がひくい、本来ならば罰金ぐらいとってやったらいいと思うのだが、私が競技者に見聞を広めるために勉強しろと言うのはまさにこういうこと、次の東京オリンピックまでには英語を話す競技者を20パーセントぐらいにするとか、教育面にも力をいれるべきだと思う。





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インテグリティ

2021-08-04 | Weblog
最近時々インテグリティと言う言葉を耳にする。
「インテグリティ」(integrity)とは、誠実、真摯、高潔などの概念を意味する言葉。組織のリーダーやマネジメントに求められる最も重要な資質、価値観を示す表現として、特に欧米の企業社会でよく使われる言葉で、企業のインテグリティを最優先し、法令順守だけでなく、より幅広い社会的責任の遂行と企業倫理の実践を目指す広義のコンプライアンス経営を、インテグリティ・マネジメントと呼ぶそうである。この言葉は宗教指導者の様相を呈するようでもある。誠実さや高潔さが求められるのはまさにそうであるが、これからは女性が当たり前のように社会で活躍している時代、そういう類の女がいる飲み屋の接待が当たり前になったり、宴会などで女性を男性の隣に座らせたり、酒をつがせたりするのはもはや犯罪行為である。今までは俺についてこいとか、どっしりかまえて最後に俺が責任をとるというような、家父長制の長のようなリーダーシップがもとめられていたが、しかしこれからは家父長制に基づくような仲間づくりのような古い考え方は淘汰されていくだろう。仲間が組織にかわり、女性が社会に貢献している今、インテリジェンスや誠実さ、そして高潔さが求められるのは当たり前になってきているのではないかと思っている。

そして私が宗教指導者と言ったのはその宗教指導者からリーダーシップを学ぶことができると言うことである。しかし宗教指導者と言っても新興宗教の類のものではなく、バイブルやコーラン、そして仏典と言った古い書物のことで、そういう古典ともいわれる書物から多くのことを知ることができると言うことである。
私は基本的には宗教には固執していない、哲学や宗教をかなり学んできたので説明してあげているが、学生時代の監督がよく古典から引用していろいろなことを語ってくれたことを思い出す。私が今でもおぼえているのは聖書のThe book of judgesからの引用である。それは12人のイスラエルのリーダーの活躍について記した書物で、そこにはギデオンと言う男がいて、その男がリーダーに選ばれた。そして彼がリーダーに選ばれた理由が、戦いの後につかれた兵士たちが水を犬のようにがぶがぶ飲んでいた横で、きちんと膝をついて行儀よく敵からの襲撃に備えて毅然とした態度を保ってへたばることなく、水を飲んでいたと言う理由である。
私はそれを聞いてかっこいいなあと思った。どんなにしんどくても外敵に備えて、へたれこむようなことをせずに毅然とした態度で水分補給をする作法ともいえる彼の行いに感動したことは確かである。おそらく彼のこういった姿から高潔さがうかがえると思うが、宗教的な書物はそれだけではなく、人間が必要な誠実さ、そして知恵についても教えてくれるが、その古い書物からその当時の人はどう戦ったか、あるいはどう問題を解決したかは興味深いことであり、温故知新と言うことはまさにこう言うことであり、そこからは多くのこと、リーダーシップについても学べるであろう。

彼は私のことをすごくかってくれていて、おそらく何か通ずるものがあったから話してくれたのだと思うが、それ以来、どんなにしんどくてもへたれこまない、差し入れなどの水を飲む時は、全員に配り終えたのを見届けて自分が飲む、リーダーになった私はそういう行動と言うか、作法をもって行動することを心がけていたと思うが、今考えたらそういう彼が教えてくれたことはリーダーシップにおいて求められる高潔さであったと思っている。

References "The scriptures, The book of judgements"


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