脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

同情するなら寄付をしろ

2017-03-26 | Weblog

女の子だから、10代で結婚させられる。
女の子だから、学校に行かせてもらえない。
女の子だから、生まれてさえこられないこともある。
女の子だから、泣きたいときに泣くことも、
笑いたいときに笑うことも、怒りたいときに怒ることもできない。

もしも、この文章が間違っているように感じたら、
この世界の間違いを、まずは知ってください。

Because I am a Girl(女の子だから)
その後に来る言葉は、私たちの力で変えられる未来です。

これは人身売買の被害にあっている子供を救うための団体の言葉である。うちのクラブではこういう団体をおぼえて寄付をしている。前にも書いたがそれは哲学とか理念とかではなくちょっとした同情心で自己満足のたぐいともとれるかもしれないが、しかしそこで痛みを少しでも感じるならばその同情は正しさへと向かっていくことを信じていると前回のブログで書いた。今やインターネットを通して世界のことがわかる時代だ。日本語だけでも相当の情報が入ってくるのだが、世界と言うのは小さくなってきている。そういう中で感じることは自分は日本と言う国で生きることができて幸せだと言うことである。一方で我々が想像もできないような現実に生きている子供が我々が考える以上に存在している。世界に行けとか世界を見ろと言うのであればまずそういう現実に気づくべきだ。クーベルタンが提唱したオリンピズムとはまさにそういう趣旨も含んでいるのだが、こういうことも自分の欲望をみたすような生活をしているだけでは決して見えてこないだろう。ショーペンハウワーと言う人は同情と言う言葉を他者の苦痛を共にすると考えたが、我々はその痛みを感じることが大事なことだ。同情されると言うと何か上から目線でいい感じはしないだろうが、しかし同情とは痛みを感じることで、人間は自分に無力さや同じようなみじめさやあわれさを他人の中に感じる時、痛みを感じるショーペンハウワーはまさにその痛みが同情だというのである。

偉そうに言うが私は社会的にも差別をうける側である。いろいろととんでもないことを経験してきた。それでも若い時は群れずに一人で強くなければ生きていけないと思ったものだ、だがしかし今思うことは同情されることは尊いことで、必要だと言うことだ。人間はまず自分の弱さをおぼえてこの痛みを分かち合うことができなければ、群れの存在自体が無意味である。その弱さをおぼえて共感しあって助け合うことができるからこそ人間の群れは成長し、ひとりびとりが生かされるのではないかと思う。人間は弱い弱いから支え合う、ショーペンハウワー的に言うならば同情されると言うことは痛みを共有していることだ、その痛みを共有し補い合うことで一歩ずつ前に進んでいくことができる。私はそういう共同体こそが社会的であると言えると思っている。

試合は殺し合いだとなんてことを言うようなアホが結構いる。でも誰も本気でそうは思っていない、当たり前だがそれはスポーツ、そういうことを言っている人間はただ虚勢を張っているだけだ。でも私は本当にこいつ叩きのめしてやると明らかにスポーツの領域とは違う感情をぶつけていっていたが、社会的な差別や疎外感を感じるとそういう気持ちがおこってくる。そういう気持ちを込めて私は学生の時ボクシングを思いっきり競技した。今から考えたら弱いなりに一生懸命頑張ったが、でも結局ああっ俺って才能ないと言うことがわかった。強くなろうとしてもなれなかった。ただわかったのは自分のちっぽけな存在だ。でもそのことに気づくことで一歩また前に出て歩んでいくことができたと思う。虚勢を張っている奴にはわからないが、人間はその弱さを認めることで見えてくるものがたくさんある。昔韓国人の女の子があなたは強いけど弱いって言っていた、でもひょっとしたら本当に自分の弱さを認めることで弱いけど強いに変えられるかもしれない。しかしその強さはまわりから同情され支えられていく上での強さだ。

 

 


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Go and do likewise.

2017-03-20 | Weblog

この前障害者と思われる人がつきそいの人とスターバックスに来ていた。少しからだが不自由なのでその付き添いの人に助けてもらってケーキを食べていたのだが、その時ふと気づいたことがある。それは自分を理解ししてくれる人がいるかどうかということである。たぶんその人はその支えてくれる人がいなければここに来て何かを食べることはできない。しかしその様子を見てそういうディスアドバンテージを理解し、支えてくれる人の存在がいるということは幸せなことではないかと思った。たとえ体が丈夫であっても誰からも相手にされない、理解されないと心がやんでくる。マザーテレサはカルカッタには誰にも気づかれないで死んでいく人間がいる。そう言う人たちの隣人になるために活動をしたと言っていたが、人間に必要なことは誰かが自分を理解してくれること、そして自分を必要としてくれる人間の存在である。おそらく若い時の私であったならば、自分で何でもできないのはかわいそうだと思ったかもしれない、しかし年をとって見方をかえれば、自分を理解しそして支えてくれる人がいることは幸せなことだと言うことができる、たとえ同情的であったとしても自分の存在をうけとめて支えてくれることはある意味そこによい理解者がいるということでもあろう。

聖書の中にGood Samarianと言う有名な物語がある。もう何度も例えているので説明しない、そのまま原書をここにはりつけるが、On one occasion an expert in the law stood up to test Jesus. “Teacher,” he asked, “what must I do to inherit eternal life?”“What is written in the Law?” he replied. “How do you read it?” He answered, “‘Love the Lord your God with all your heart and with all your soul and with all your strength and with all your mind’; and, ‘Love your neighbor as yourself.’”“You have answered correctly,” Jesus replied. “Do this and you will live.”But he wanted to justify himself, so he asked Jesus, “And who is my neighbor?” In reply Jesus said: “A man was going down from Jerusalem to Jericho, when he was attacked by robbers. They stripped him of his clothes, beat him and went away, leaving him half dead. A priest happened to be going down the same road, and when he saw the man, he passed by on the other side. So too, a Levite, when he came to the place and saw him, passed by on the other side. But a Samaritan, as he traveled, came where the man was; and when he saw him, he took pity on him. He went to him and bandaged his wounds, pouring on oil and wine. Then he put the man on his own donkey, brought him to an inn and took care of him. The next day he took out two denarii and gave them to the innkeeper. ‘Look after him,’ he said, ‘and when I return, I will reimburse you for any extra expense you may have.’ “Which of these three do you think was a neighbor to the man who fell into the hands of robbers?”The expert in the law replied, “The one who had mercy on him.”Jesus told him, “Go and do likewise.”

そのサマリア人が倒れた男にかけよった理由がHe took pity on him.と書かれているが、日本語訳では憐れに思ってと訳されている。もともとpityと言うのは自分よりも弱い立場の人間に示す気持ちである。おそらく他の英訳ではSympathizeと訳されているのもあるが、しかし原書ではここはσπλγχνινομαιという言葉で、それは内臓をあらわす言葉だ。日本語でも断腸の思いと言う言葉があるが、英訳としてはpityのほうがσπλγχνινομαι近い言葉であると思う。まさに彼はその倒れた人を見て憐れに思って心を突き動かされ、いたたまれなくなったからそうしたのだ。おそらく自分たちが弱い人立場の人たちに何かをするとしたら、それは同情である。それはある意味、余裕のある人間が何かをしてやろうと言う傲慢にもつながるだろうが、しかし大事なことはそこに痛みを感じるかどうか、その人を見て心が痛むかどうかと言うことではないかと思う。うちのボクシングクラブも人身売買から子供を救うことを支援する団体に毎月少額ではあるが寄付しているし、クリスマスやその他の行事に弱い存在をおぼえて寄付しているが、そういったことは自分の体験や経験からくる同情のようなもので、信念や哲学とかそういうことではなく、そういう存在をおぼえるといたたまれないからそうしていると言ったほうがいいだろう。たぶんもともと弁が立つので私がこういうことを強調したらきれいごとや学問的な考察のように聞こえるかもしれない、そしてひょっとしたらそれは自己満足であるようにさえ聞こえる。でもしかしもしそこに痛みを感じるならば、それは決して間違った方向に向かわない、それはやがて真実に一歩でも近づくのだと信じている。


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Go Abroad!

2017-03-15 | Weblog

昨日大学生が交換留学に行くと言う話をしていた。私は海外に行くことはプラスになることだから絶対に言ったほうがいいと押したが、見聞を広めたかったら外国に行って何かを学ぶことは必須である。

私も海外に行って帰られた一人だ。学生の時、私は俺、俺、俺の自己中心的な人間だったと思う。とにかく一人称でしゃべる、人の言うことを聞かない、ピーターが留学に来た奴でf○ck you的な言葉を連発する奴はそういない、お前もう少し治安の悪いところだったら終わってると言っていたが、それゆえにこうと思ったら一直線に突き進むエネルギーは半端じゃなく自分が一番だと思っていたことは確かなことだ。年をとってそういう傾向のある奴はみっともないを通り越して哀れであるが、若い時は大なり小なりそういう時期があると思う。しかしそういう俺、俺、俺と言う自己主張があっても考え方が未熟のままでせまい世界にとどまっていると成長しない、ど派手な格好をして自分たちだけが通用する世界で滑稽なことを言うことが自己主張だと思っているDQNがまさにそうであるが、そういう奴らのする自己主張もどきは主張ではなく、言いたいことを言って仲間で認めてかばい合っているだけだ。私が海外に出ろと言うのは、小さい世界にとどまっていたら客観的に自分を知ることができないと思うからだ。受け入れられることも必要であるが、しかし時にはけちょんけちょんに否定されて一度考え方をバラバラにされることも大事なことであり、そういう経験を通して見えてくるものは大きい、そういう経験をするためには自分とは違う世界に身を置くことは必要なことで、そういう経験が大人へと成長する上での必要な過渡期であると理解している。最近の若い人はおとなしくなったのか、かわってへんな輩のえせ自己主張が跋扈している。ど派手な格好にど派手な髪型、そしてでかい声で聞いてもらえるからと武勇伝まがいの自慢話をしてあたかもそれが素晴らしい経験のように語る。格闘技の世界はいささかそういう輩が多いと思っているが、とにかく目立つことが自己主張で自分の存在感をあらわすことだと勘違いしている輩がコンビニやファミレスでかたまっている。そういう輩は時には違法改造車にのって元旦にごきぶりのようにごそごそと出てきて集団ではしる、こういう輩は車を磨く前に頭をみがけとさえ思うが、頭を使えないから車をつかう、私の理解ではこいつらは車にのっているのではなく車にのられている。子供には罪はないが子供に車の名前をつけたりするのはそういうことではないのか。自己主張は若い人たちの特権であり、そしてそれをお互いがぶつけ合い時には否定し受け入れあうことは青年の過渡期には必要なことだ。でもしかし本当にそれができる場所に身を置かないとただの内弁慶におわってしまう。若いうちはエネルギーがあるし、やりなおしがきくのだから時には大胆に外にむかってそのエネルギーを発散することは大きく成長するためには必要なことであろう。


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amateurの語源

2017-03-13 | Weblog

昨日なつかしい写真が出て来た。アレンのジムでミットを持ってもらっているスナップ写真だが、すごく懐かしい。ボクシングはおもしろいし平等なスポーツであってほしい。日本では活躍している競技者が少々不利じゃないかと言う試合で、名前で勝つなんて言うことがいわれるが、そんなこと向こうで言ったらまずアホだと思われる。アメリカは日本のように内弁慶ではなく国内では公平である。実は一度負けたんじゃないかと言う試合があった。結構うたれななあという実感があって、向こうの相手も俺の勝ちだという雰囲気でリングの中央へ、でもしかし意外にも勝者の手が上がったのは私のほうで私自身もあれと驚いた。しかし自分が勝ったことに納得できなかったので、それでその後ジョージがもういいやめとけと言ったが納得いかなかったので、審判にあれは俺の負けじゃないのかと聞きに行った。そう聞くとまずアマチュアのルールを説明して、確実なヒットと何よりもアグレッシブにファイトしたことそういったことも優勢とみなしてギリギリだが君の勝ちだとうことで説明してくれた。負けたと思っていたけどまぐれやたまたまではなく自分が買ったことには理由があるということを示してくれたことは、ギリギリでも勝てたがそれは自信になったことは確かであった。あまり言いたくないが私には競技する上でのプライドがあった。プロになるためにやっているのではないのだからひと試合ひと試合を納得できる形で競技したかったのだが、その審判も同様にプライドをかけて私の試合を取り仕切ってくれたのだ。その時からあくまでそこだけの話だが、私は審判と言うものを信用することができた。自分たちも一生懸命やっている分、彼ら彼女らも一生懸命プライドをかけて公平に試合を見てくれているんだと、そう思うと自分のやっているボクシングが好きになれるし、誇りに思える。時々スポーツで犯罪や不正がおこるが、そういう話を聞くたびにこの人たちは自分の仕事に誇りを持っているのかと思う。プライドを持つと言うことはその競技に勝つとか負けるとかにこだわることではない。アマチュアの語源はその事柄を愛するものというラテン語に由来しているが、その競技をやっていく上で公平であるかないか、そしてその正しい信念をもって、審判も含めて競技で来ているかと言うことではないかと思う。


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個性を認めるコミュニティとは

2017-03-09 | Weblog

前回ボクシング廃止論に関する記事をあげた。私の意見では特に格闘技の指導者は倫理観にかけた人間が多い。体育会系のルールが黄金律のように思い、そして何かに向かって行くことがあたかも崇高な生き方だと説く。しかしその向かって行くこともスポ根まがいの単純なもので、何を言ったら人は感動するかとかかっこいいと思われるかと言うようなたぐいのもので、そういう文句は暴走族の親玉でも説ける。そういう単純で稚拙なことしか言えないような人間が偉そうにしている群れはまさにボス猿を中心にしたサル山だ。まわりの取り巻きも取り巻きで自分がつながれている大きな首輪が見えないのかと思うのだが、人間と言うのは言葉によって生きているのだから、語る人間の知性がとぼしければその群れを生かすことはできないだろう。

これからのスポーツは人権を理解し、バランスを持った倫理観、そして群れを通して人間がどう成長していくかと言うことを考えなくては、共同体としての力を持つことはできないと考えている。今医学や心理学などが進んできた時代、今まで見えてこなかった存在が見えてきている。ADHDや発達障害、性同一性障害、そしてそれだけではなくいじめや女性差別などスポーツクラブと言えどいろいろな問題に直面していると思う。そういう中で私はその群れというか共同体が持つ力は非常に重要だと思っている。人権を重んじ偏らないバランスのとれた倫理観、そして何よりも言葉を大事にすることによって群れを管理していくことで、群れの質をよくしていくことができるし、その集まる人間がよければお互いが影響し合い刺激し合って正しい方向に導かれていくと信じている。あいさつは基本だとか体育会のルールを持ってそれで相手をだ出すようなやり方は、更生施設とかわらない。よく札付きの不良がボクシングを通して構成したという話はまさにそういうことだろうが、そういうたまたまチャンピオンとかになった人間をあげてボクシングは人間の生き方をかえる、ボクシングを一生懸命やったら成長するなんて言うのはちゃんちゃらおかしいことで、非常に特定した考え方だと思う。本当に大事なことはそういう更生施設のような環境で誰かにかえられるのではなく、他者とかかわりその相互作用によってかえらていく姿であって、そのかかわりを通してこそ本当の自分が見えてくるのだと思う。自分が受け入れられたり、人を理解すると言うことは人間の成長には必要なことでそれはすべての人間にいえることだと思っている。

私は人の痛みがわかるがサイコ的傾向があり、コミニケーション能力がひくかった人間だ。今そう言うことを言えばみんな驚くだろうが、しかし事実そうであったと言わざるを得ない。ではなぜ成長できたかと言うのは日本語以外の言語を理解できたからである。えらそうに言うが日本語だけしか話せない人間の考え方は似たり寄ったりだ、そういう中で民族や文化考え方が違うとはじかれる。当たり前だが学校でも友達が少なく私は宇宙人のような扱いを受けていたことは事実であり、そしてそれは日本では当たり前のことだと思っている。でもしかし日本語だけではない他の言葉特に英語が話せるとたくさんの人と交流できるし、そこで得た体験は大きい。外国と言うのは広いもので話せば当然自分と同じような考え方の人がいるだろうし、全く違う人もいる。そこで自分が受け入れられ、そして受け入れていく体験が本当の自分のスタンスをつくり、そう言う経験が人にかかわっていくことの自信となる。

私は国語力のひくい人間があいさつは基本とかわかったようなことを言って体育会のようなルールで押さえつけて強制していくことで本当に人間は成長しないと思っているし、今そう言うことを正しいとすることは時代錯誤である。これからの集団はそういういろいろなものを受け入れていく能力のある群れが必要だ。私が責任者は知性を磨けと言うのはその群れの質をよくし、健全な相互関係においてかかわっていく群れを形成するためで、そういう中でこそ人間の個性が磨かれ成長するのだと思う。

 

 


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ボクシング廃止論

2017-03-08 | Weblog

ボクシング廃止論!?

 

―― なるほど、では研究しているときに面白いと感じるときってどんなときでしょう?

 

ひとそれぞれとは思いますが、私だったら、英米圏の倫理思想史を勉強しているときに浮かび上がってくる論点が現代の問題にも現れてきて、その結びつきを発見するときは面白いですね。歴史は繰り返すと言いますが、思想史のなかで現れた問題が現代でも現れていると、面白い指摘がいろいろと出てくるんですよね。

 

 

―― 具体的にどんな議論が面白いと思いましたか?

 

そうですね、なにかあったかな……最近あんまりそういう経験がないんですよね。昔はもっとあった気がするんだけど(笑)。

 

ああ、ボクシングを廃止すべきだという議論は面白かったですね。

 

 

―― 気になります! どんな議論ですか?

 

私がイギリスにいたときに、イギリスを中心に議論されていて。ボクシングの他にも危険なスポーツっていっぱいありますね。でもボクシングってどうですかね。柔道や剣道と違って、基本的に相手を殴って気絶させて倒したら勝ちというスポーツなんですよね。これって他のスポーツとは危険の質も目的もちょっと違いますよね。もちろん「違いはない」と考える人もいるのですが……。

 

私はどちらかというと廃止したほうがいいんじゃないかと思っている方で、まあ『はじめの一歩』を読んでいるとすごく面白いと思うんですけど(笑)。

 

ボクシングについては、アマチュアボクシングみたいにポイント制にするなり、別のルールにするなりすればいいんじゃないかという議論があるんです。ただ「そんなことしたらボクシングがボクシングじゃなくなる」という人もいて。でもスポーツのルールってどんどん変わっているので、変えてもいいんじゃないかなと思うんですけどね……。

 

いろいろと議論はありますが、たとえば「ボクシングはスラム街での貧困生活から抜け出す重要な手段だ」という意見もあります。

 

1998年、試合中に脳出血を起こして引退したスペンサー・オリバーというボクサーは、「おれたちがボクシングを始めた理由は、生きていくのが困難で、しばしば他には何もやれることがないような環境で育ったからだ。だが、このスポーツはおれたちにいろいろなものを与えてくれる」と語っています。

 

オリバーの意見には共感するところもあります。でもたとえすべてのボクサーがスラム街で育ってきたとしても、スラム街全員の少年がボクサーになるわけではありませんし、ボクシングがスラム街の問題を根本的に解決するわけではありません。ボクシングを奨励するよりは、スラム街の問題を根本的に解決すべきです。

 

「現にボクシングを必要としている少年たちがスラム街にいるじゃないか」という反論もあります。でもボクシングはスラム街からの「唯一の抜け道」ではありません。音楽やバスケットボールによってスラム街から抜け出せるならば、そちらのほうがよいと思います。

 

 

―― それこそ「人の価値観はそれぞれで、ボクサーだっていろいろな危険は覚悟の上でボクシングをやっているじゃないか」っていうこともできますよね。

 

ええ、それは医療で言うインフォームド・コンセントの問題と近い話なんです。例えば何歳からボクシングを始めて、そのとき以来、本当に危険性を知ったうえで同意しているのか、とか。また、同意殺人や安楽死の問題でも言えることだと思いますが、仮に本当に危険を知ったうえで同意したとしても、その同意を有効と見なすべきかどうなのかについても考えないといけません。

 

 

―― どこからどこまでをオッケーとするか、線引きが難しいんですね。

 

ラドフォードという哲学者は、イギリスの哲学者であるジョン・スチュワート・ミルの自由主義の立場から、ボクシングについて次のように擁護しています。

 

 

もしこうした危険、苦痛、さらには苦難が、自分のものであり、またそれらを自発的にかつ危険を承知のうえで選んでいるのであれば、しかも他人に危害を与えないのであれば、われわれは、道徳的に、そうした危険をともなう活動に参加することが許されるべきだ。というのは、そういった活動を禁止することは、われわれの自由と幸福に干渉するだけでなく、人間の生の完全さと強烈さを減じることによって、人間の生を小さくすることになるからだ。

 

そこで、ボクシングが自由に選ばれ、このスポーツに従事することを選んだ者以外はだれも傷つけず、 また彼らが危険を承知しているならば、ボクシングは[…]禁止されるべきではない。

 

 

でもいまお話したように、そもそもボクシングの危険性をちゃんとわかったうえでボクシングをやっていたのか、とくに、もしスラム街の少年が「唯一の抜け道」としてボクシングを選んだ場合、それは自ら同意したといえるのかという疑問があります。苦しい状況から抜け出すために、危険なことを選ぶしかなかったのかもしれません。

 

さらに「同意しているのであればよい」のだとしたら、同意の上であればロシアンルーレットを行ってもよいことになってしまう。ボクシングはよくてロシアンルーレットはいけない理由はどこにあるのでしょうか? あるいはわれわれはロシアンルーレットも認めるべきなのでしょうか。

 

自由主義の重要な論点に「同意したとしても、決して奴隷にはなれない」というものが昔からあります。仮に奴隷契約は許されないことを認めた場合、それではどこまでなら許されるのか、安楽死は許されるのか、ボクシングは許されるのか、やはりどこかで線を引かなくてはいけないんですよね。自由主義をどこまで追求するか。過剰な自由主義を認めないのであれば、ボクシングの是非をもう一度よく考えなくちゃいけません。

 

ボクシングは面白いスポーツだと思います。ボクサーはおそらく、人間のいろいろなものが試されている非常に重要なスポーツだと思うのですが、それでも、「それでいいのだろうか?」という疑問がある。面白いものを許してしまったら、古代ローマのグラディエーターでもなんでもできてしまうし、同意だけですべて片付くかと言うと、そうでもないという話なんじゃないかなと。

 

 


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