脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

추억만이 남아시간이 흘러지만(思い出だけがたくさん残り、時間が流れるけど)

2019-07-30 | Weblog
ハワイの気候はすごく穏やかで気持ちがいい。常夏なので暑いと言うイメージがあるが日本のようなじめじめとした暑苦しさはない、日陰に入れば快適である。私たちは練習の後よく行くところがあった。それはセブンイレブンである。ハワイにはセブンイレブンがたくさんあって、よくそこではお世話になったのだが、そこにドリンクの持ち帰りコーナーがあった。そしてそこにスーパージャンボカップサイズと言うドリンクのサイズがあるのだが、そのサイズはおおよそ子供の遊具ぐらいのバケツを少し大きくしたぐらいのサイズでかなり大きく、たぶん日本人だったらひくぐらいの大きさである。そのサイズを私たちはそのセルフのコーナーに行って選び、おのおのがお気に入りのドリンクを入れて購入、そしてみんなでぐびびーっと飲む、それがたまらなくおいしくて練習後の楽しみのひとつでもあった。
私の学生時代の楽しかった思い出はたくさんある。でも思い出は一人でつくるものではなくて人がいてそれは思い出になると思っているが、私の場合は本当に恵まれていたと思う。前に私は運動をしたかったができなかったといったことがある。それは日本のクラブ、いわゆるスポーツがあわなかったからであり、こんなところでやっても意味がない、あほらしいと感じていたからだ。私が経験した海外のボクシングは自由であった。意味もない礼儀や人間関係を強要されることもないし、そこには気をつかわなければいけない人間もいない、人間関係やまわりを気にすることなくただ相手と対戦して勝敗を決めるそういう平等なスポーツであるボクシングに魅せられていたことは確かなことで、本当にそこでは生き生きと競技出来たと思っている。
思い出すのはあるギャングみたいな人間がいるチームと対戦した時である。日ごろからマナーのわるい彼らに私とバーガーは露骨にいやな顔をするので、まわりがビビって刺激するなとよく言われていたが、ある時私がこいつらのひとりと戦うことになった。日ごろから私たちは嫌っていたのでこの時ばかりと気合が入る。そして案の定思い切り打ち合いに、トーナメントでもないのにここまでやるかというぐらいなぐりあって、そして結果私の判定勝ち、リングから降りて来た時は大した試合でもないのにすごく盛り上がって、おそらくまわりは何をそこまで盛り上がっているんだと思っていただろう。しかしそういった一見いがみあいのようなうちあいであったが、試合後にその相手と目が合った時相手がにっこりと笑った。たぶんそれは私に対するリスペクトのしるしだと理解しているが、現にその後彼らの私たちに対する態度はかわった。少なくとも練習場であっても我々を無視して自分たちの気に入った音楽をガンガン鳴らすということはなくなったと思う。
これは私のモットーだが、スポーツ特にボクシングは思い切りやるからレスペクトと言う言葉が生れる。だから遠慮してはいけない、思い切りトレーニングして、全力でやるからこそそこで得るものは大きいのだ。
私の競技人生はすごく楽しかった。リングでは悔しい思いもしたし、民族が違うから多少のいがみ合いもあったことは確かなことだ。そしてたぶんそこはうれしいことよりも悔しいことのほうが多かった場所であったかもしれない。でも私はその自由な場所で思い切り自由に競技出来たと思う。そう言った思い出を今この年になって思い出し振り返る。추억만이 남아시간이 흘러지만(思い出だけがたくさん残り、時間が流れるけど)それらはすごくいい思い出でそれらは私の年輪になっている。思い出はこれからつくれるから思い出だ、若い人も年配の人もたくさんここで楽しい思いをしてそれが思い出になったらいいと思う。

試合後あまりにもうちあったために私の目がはれて全体が黒目のようになりエイリアンとまわりに揶揄されたが、次の日エイリアンアタックじゃと水鉄砲で乱射してやった。





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スポーツの理性

2019-07-28 | Weblog
決勝か準決勝でエース級のピッチャーを投げさせなかったということが物議をかもしだしている。私自身はこの判断は適切であったと思う。投球数が多かったら肩のことを考えて休ませるのが指導者として当たり前の行為だ。あれだけ激しい大会のしかも夏に連投させるのは肩に大きな負担がかかかる。おそらく医学的、あるいはスポーツ科学的に考えてもけがをしたり肩をこわす可能性がある。疑わしいことはしないさせないというのが指導者がしなくてはいけない配慮だ。勝ちたいという気持ちは競技者だけではない、もちろん監督もそうである。そういう中での苦渋の決断で、それが一生懸命やって出た結果ならばそれはそれで受け入れるべきだ。あまり野球を知らない私から見ても甲子園の連投は過酷、あれでよく肩がおかしくならないなあと思ってしまうが、私自身は甲子園にも球数制限と言うのを採用したらいいのではないかと思っているが、よくTシャツなどに全員野球と書いてあるのだから、それを9人だけが負うのではなく、本当に分担してやったらいいと思う。

私の見解ではスポーツなんて言うのはしごけばしごくほど強くなる。ボクシングは人権の疎い国が台頭してきているし、北朝鮮なんて言うのはまさにそうだ。人権の疎い国は欧米が子供のボクシングを問題視している一方、英才教育と称して子供のころから頭をバンバンたたくトレーニングをしているだろうし、北朝鮮に至っては人権がないので思い切りしごける。大事なのは人権をそこで重んじるかということである。「Dialektik der Aufklarung(啓蒙の弁証法)」でホルクハイマーは利益追求に結び付き目的達成のためだけに発展してきたヨーロッパの理性はファシズムや戦争の兵器開発の道具となってしまったと批判しているが、本来理性とは善悪を判断するもので、言葉をいいかえれば核を作る技術ではなくて、それをつくっていいかどうかと言うことを理性を持って考えることである。スポーツも然り、ただ勝てばいいとか、強くしたらいいなんて言う考え方は本当に競技者のことを考えているとはいいがたい。監禁状態でそれだけに集中させるなんて言うのは人権蹂躙だし、未だにしごきも本人たちが納得したらしごきでなくなるわけだが、そういったことを強くなればいいんだという自分たち中心の考え方や小さい世界からではなく、物事をもっと一般化して考えることも大事、ボクシングは小学生から頭をたたくような行為をしていいのかということを強くするためにと言う理論ではなくて、本当にその子供たちの将来のためにいいのかわるいのかということを医学的、そして倫理的に見て判断するための理性が必要であろう。監督や管理者と言うのは理性を働かせなくては本当の意味でいい環境をつくりだせない、監督や管理者は競技者の今、そして近い将来、未来をよく考えた上で何が正しく必要なことかと言うことを決断する責任と義務があると思っている。

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CNNの記事を見て

2019-07-24 | Weblog
FacebookではCNNのニュースをタイムリーで流しているのだが、昨日海外でボクサーの死亡事故の記事が掲載されていた。記事は当たり前だが英文であるが、その記事の1文である。It added that Dadashev had to be placed into a medically induced coma after the operation in order to allow the brain swelling to subside.特に脳がふくらんでる症状っていうところがひっかかったが、これって試合だけでおこることなのか、私は専門ではないので聞いてみなければわからないが、おそらくそれは試合よりもむしろトレーニングの仕方に問題があったんじゃないかと思っている。
私の見解では日本と私の経験した国のボクシングでは少しトレーニングに対する考え方が違うと思っている。まず日本は何をするにも力を入れすぎ、私から見たら根性論的だ。スパーリングと称してガチで思い切り殴り合いをするのは危険だ。中にはカーッと来て敵意むき出しでなぐりかかっていくのもいるが、そういうはげしいうちあいをして脳にダメージをうけないはずはない。さらに平気で未成年に10キロ近くの減量をさせるが、こういう成長期にいくら本人が望んだとしてもさせるべきではないが、そういう状態でスパーリングやはげしいトレーニングさせるのは非常に危険であるということは素人でもわかることだ。一方米国は日本のようにはげしいうちあいをするということはない。向こうはどちらかというと実戦が大事なので、試合は日本よりも圧倒的に多いが、しかしトレーニングでけがをしてはもともこもないということで、はげしくうちあわないマスボクシング程度のコンタクトトレーニングである。私が競技したところでは練習中に鼻がおれたとか、眼帯骨折をしたとか、そういった類のえげつないけがをすることはめったになかったが、いくら試合ではやくとめるかということよりも危険性を回避するためにトレーニングの段階で指導を入れるべきだと思っている。鼻がおれたとか眼帯骨折したとかというような危険なスパーリング、所謂けんかごしのスパーリング、強いダメージをうけるスパーリング、無理な減量は、いくら試合に勝つためだと言っても医学上問題だということであれば厳しい指導を入れるべきであろう。さらにケガをしたりケガをさせたりするのを当たり前のように思っているような人間もいるが、しかしそういったことがないように十分注意する。そういうことが起こりにくい環境をつくることが管理者に求められている。うちでは武勇伝ややんちゃ話を得意げに話すような人間は不適格な人間とみなしているし、おら行けとかスパーリングで煽るようなことはしない。そういう人間を認めたらクラブは暴力的になるし、見栄をはろうといいところを見せるために自分よりも実力のない人間をボコボコにしかねない、自分が一番すごい自慢をするバカも出てくるだろうし、そういう人間が集まれば暴力的なジムになる。まわりが安全に楽しくボクシングしてもらえるような管理の仕方をするのが管理者の役目だと思っている。



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God save us.

2019-07-22 | Weblog
韓国に송소희という若い民謡歌手がいる。前から思っていたのだが、彼女がすごく私の親しかった友人に似ている。特に力強い目はすごく似ていて、彼女の子ではないかと思っていた。でもこの前親しい後輩にその話をしたら「お兄さん彼女はたぶん整形してますよ。多分目はそうだと思うけど、動画かなんかで比べてみたらいいですよ」だって。私は思わずえっとなってしまったが、さすが整形大国、これからはなるべく原型を重視してこのような思い込みはしないようにしたい。その私の友人はビジネスが専門、すごく流暢に3か国語を話す。日本語にいたっては母国語でもないのにすごく流暢で日本や韓国のこともよくわかっているので在日韓国人ではないかと思ったが、しかし彼女はハワイ生まれのアメリカ系韓国人2世である。私はよく彼女と議論をしたが、その度けちょんけちょんにやりこめられた。少し自慢になるが私はその彼女に勇敢だとほめられたことがある。どう勇敢かと言うのは、日本人の男は女性に意見されたり何か言われると傷つくらしく、そういうことが苦手、所謂女性に言われなれていない人間が多いらしい。しかし女性が意見しても何を言われても動揺することなく聞いて自分の意見を言ってくるのはある意味勇敢だ、心が強いと言っていた。

私が嫌いと言うか信用できない人間は、その群れの中でしか自分の言いたいことが言えない人間である。たぶん女性に意見されるのが苦手慣れていないというのはある世代から上の人たちに圧倒的に多いと思うのだが、そういう人間たちが牛耳る組織は極めて保守的、おまけに英語など語学力がないと理解している。スポーツの集団特に格闘系はこの手のタイプが多いのではないかと思っているが、ジェンダーや国籍などの枠を取っ払って平等にするというのは、ただ口で言っているだけではだめ、実際にスタンスをひろげて話をしなければわからないことや理解できないこともある。私自身も彼女と話をして外国人として気づかされたことも多々あったし、ジェンダーやそして発展途上国の立場などいろいろな観点から物事をみさせてもらうことができたと思っている。よくスポーツは平等だというがそれはそのスポーツ組織においても同じこと、スポーツと言う場はすべての人が活躍しなくてはならない場なのだから、我々はもっともっといろいろな国や相手の立場を知ってそれを受け入れなくてはならない、そのことは世界が身近になりひろがっている現代社会において求められていることだ。

日本人がかわっていると思うのは、組織をつくるとき同じ学校や仲間で集めること、私がもし新しい組織をつくるとしたら、まず英語が話せる人間、国立大学出身者、脳外科のDrなどを優先して変革、刷新を計るが、日本人の場合は組織を機能させるというよりも仲間集めにしか見えない、村社会の延長で村長がかわった程度だ。
アーミッシュや厳格なユダヤ教徒はひげを戒律によってそらないし、イレズミ等も民族によっては文化的な事柄である。何が言いたいのかと言うとボクシングは平等だ。だから原点に返ってもう少しものさしを広げて考えてみるのも大事だ。あまり価値観がせまいとそれをする人間は疎外感や窮屈さをおぼえてしまう、リングはすべての人間に開かれているというのが私の考え、マイノリティの私が救われたのもキャンバスの上では誰もが平等だったからで、どんな人間もそこではボクシングを競技する権利はあるのだ。確かにうちのクラブは社会人中心なので絶対にDQNお断りだが、しかしジムが特定な人間をわけがあって拒むのとボクシングが人を拒むのとは意味が違う。私なんかはむしろやんちゃとかいきがっているやつを逆にボコボコにしてやるぐらいのほうがおもしろいと思うのだが、ボクシングは誰にでも極力そのリングに上がる権利を認めなくてはならない、どんな人間でもリングに立てば同じ、だからこそそこは神聖な場でありうるのだと思う。
考え方やものの見方を広げることは自分の理解をこえてそれを認めなくてはいけないからたいへんなことだし、勇気のいることだと思う。でもそれでもボクシングは平等だという精神に立ち返ること、そのことによって私が救われたように多くの人間が救われると思う。


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進んで嫌われる

2019-07-21 | Weblog
人間には当たり前だが、いいところとわるいところがある。まずその両方を知っていいところを徹底してリスペクトする。そしてわるい部分を出せないようにすること。それが私の育成論である。事実私はここにきた人ひとりびとりのリスペクトできるところをよく見て、リスペクトできるようにしているが、人間は必ず自分にはない秀でた素晴らしい部分がある。そのことを徹底して認めること、本当に心からそうすることができたら人間はかわることができる、そして自信を持つことができると信じている。しかし人間はただ素晴らしいところを見てそれを称賛するだけではダメ、私の場合はコミュニティを考えてそれが全体に機能するように、その人間のもつわるい部分を徹底的に出させないようにしているが、本当に人をそこで生かしたいと考えるならば、人間の持つわるい部分に関しても徹底してきびしく接することも必要であり、時には大いに自分から進んで嫌われるのも管理者の仕事だと理解している。

私がよく占い系の診断でよく出てくるのは考え方がぶれない、ぶれないからはっきりと意見が言えると言ったようなたぐいである。占いの類なのでどうかと思うが、しかしある意味あたっていると思う。そしてそのぶれない考え方は学生時代に思い切り議論して、自分の意見をちょんけちょんにされて、構築してまたけちょんけちょんにされての繰り返し、そしてそういう経験を通してはじめて自分の考え方になり、それはやがて自信のようなものになったのだと思うが、しっかりとした観察力を持って相手の長所を認め、ぶれない敬意を払うことがここでの人間関係をつくっていくことにおいて大事なことだと思っているが、本当にぶれない敬意を払うことで、人間は生かされ自信をたもつことができると思っている。
うちのトレーナーやサポートしてくれる人たちは本当に私にできないことをやってくれている。ある意味ここでは生き生きとそのギフトを十分に発揮して指導してくれたり、サポートしてくれている。その彼らには私は頭が上がらない、本当に心からリスペクトしていることは確かであり、そういう気持ちを感じとってくれているから、その素晴らしいギフトを発揮してクラブの雰囲気をよくしてくれているのだと思う。コミュニティ全体の雰囲気をよくしたかったら、人間の長所が出やすいコミュニティ、そういうコミュニティづくりを目指すべきだ。そしてそのためには管理者自らがひとりびとりをよく見て、心から敬意をはらうことが必要である。
私は思う。ほめてのばすとかサルに芸を仕込むのではないのだからそういう言葉はあほすぎる。人を認めるならば根本から思い切りその人を認めて敬意を払えということ、私の考え方では根っこをしっかり育てて自信をつけたかったら相手に敬意を払ってリスペクトすることだ。


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슬픔 이여 안녕 悲しみよこんにちは

2019-07-19 | Weblog
キムナンドと言う学者がいる。ソウル大の哲学の教授で何回かNHKの白熱教室で取り上げられた大学教授である。日本人には知られていないが、彼はラジオで人生相談をよく持っている。
これはその人生相談で彼に対してよせられたハガキであるが、その手紙の内容は詳しくは忘れたが、その便りをよせたリスナーの家はまずしく病気の母親がいる。彼は本当は進学をしたかったのだが、しかしまずしさと母親の面倒をみなくてはいけないので、その夢を断念せざるを得ず、小さな工場に就職したらしい。
彼の生活は仕事と親の面倒を見るだけである。一体こういう生活のどこに幸せがあるのかという半ば彼に対する挑戦状のようなハガキが彼のもとに送られてきたそうだ。
それをうけとった教授は最初どう返答していいのかわからなかった。そして言った一言が「今おかれている境遇を受け入れろ。自分の人生を愛せ」と言う言葉であった。
これを言った時、は決してこのことが本当に正しいとか、それを彼に頭ごなしに認めろなんていう権利もない。そしてこういう無神経なことを言って、彼のことを傷つけてしまうかもしれない。そのことによってうらまれても仕方がないだろう。がしかしこれは自分が言える精一杯のことでそれが最も真実に近いのかもしれないと思ったそうだ。

しかしら何日かしてそのリスナーから返事が来たが、その手紙にはこう書いてあった。最初は彼はその言葉を教授から聞いた時はなんもわからないくせに何を言っているんだ、俺の苦労もわからないくせにと、その無責任とも思える言葉にひどく傷つき教授をうらんだそうである。しかしある時どういうきっかけけでかは忘れたが、そこまで言うのだったら、自分の今の境遇を受け入れそして前向きに生きていこうという気持ちがおこりそして努力したそうだ。前向きに考えては行ったものの自分の生活など一向にかわるはずはない、毎日がやすい賃金で働き、そして帰ると親の世話を見なくてはいけない毎日、しかしある時そういう生活を続けていく中でひとつ発見したことがあった。
それは苦しくても自分の人生を受け入れて前向きに生きようとする彼を見てまわりの態度がかわったそうである。そこから少しずつまわりの彼を見る態度がかわり、たいへんだねえ、それでも親の倒を見る君は本当に立派だよと言うように声をかけられ、少しずつでも変化があらわれ、自分の置かれている境遇を受け入れることができ生き方が楽になったそうである。

人間は不公平であるのは当たり前だ。人間はみんな平等だなんていう言葉があるが、しかしこういう言葉は嘘であることは間違いない。間は生まれた時から能力差というものがあり、その努力の量も限られてくる。それに裕福な家に生まれるか生まれないかと言うのも、運命次第である。しかし大事なことは自分の人生を受け入れることだ、自分の受け入れ方がかわればものの見方がかわる、自分の生き方を肯定できるかできないかは自分次第で「ニーチェも人間が生まれてきたことの偶然性を知る、しっかり語る、しかしそのことでがっかりしない人間なんてつまらないとも思わない、偶然の世界と人生をありのままに受け取る、それが強い人間である」と言っているが、それができれば人間は自分の生き方に生きがいや幸せを感じることができると思う。
昔学生の時食事目当てで行っていたハワイの教会でこういう話を聞いた、それは「神は陶器をつくる職人で我々はその作品である」と言う話である。一見何のことかと思ったが、しかし聖書には神は陶器を作る職人で人間はその作品だと書いてある。それは何を意味しているのかと言うと、し神が陶器を作る職人であったならばその陶器が不完全だとすてられてしまう。しかしそれでも自分たちがそこに存在するということは神の作品であり、不完全ではないということだ、だから自分が今ここに生まれてきて、体験しているということはすべて意味のあることであるというたとえである。私はかつていろいろな境遇の子供を見てきたが、自分の運命を受け入れるというのは最終的には自分次第、そしてその自分の今の境遇を受け入れるか受け入れないかということで今後の人生が大きくかわってくると信じているが、自分もそうであったように、自分はここに偶然存在しているのではなく、どうであっても必然的に存在していると信じて生きる時、多少なりとも自分をかえる発見があり、前向きに生きることができると信じている。自分の境遇を嘆き悲しむだけでは後ろに下がっていくだけだ、どうせならばそれを受け入れて前を向いて歩いてい行く方がベターな選択だ。



 


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当方儀礼の国と日出ずる国をなめんじゃねえ

2019-07-16 | Weblog
スマホの翻訳機能がだいぶベターになってきたらしい。でも韓国語はいまいち特に英語はカジュアルな言葉を好むので、翻訳機が言葉のおわりにヨをつけずにパンマル(ためぐち)になる。さらに何々くださいというのは直訳すると何々チュセヨであるが、しかし例えばピビンバチュセヨでは少し乱暴な言い方、これだとピビンバくれみたいになる。基本的にはチュセヨの前にチョム(少し)を入れるのが礼儀である。韓国語や日本語には敬語がある。特に韓国語は助詞にも敬語があるのだが、翻訳機をつかっているのかわからないが、しかし我々には敬語があって、それが正しくつかわれないと一人前ではないとみなされる。日本語や韓国語を正しく翻訳するにはまず敬語の概念がなければだめだ、そのことを理解して翻訳しているのだろうか。

これは私がまだ若いころ、関西国際空港からの帰りの急行電車での話、時間は10時半ぐらいだ、平日だったのでほとんど人がいなかった。発車と同時にひとりの女性が駆け込んできて私の前の席に座った。ガイドブックを見ている。一目で韓国人とわかった。しばらくして私のほうを見て言った「ニホンジンデスカ」「ええ、君日本語話せるんだ」と聞くと、わからないのできょとんとしている。こちらから話しかけてやるとすごく安心したように、ここに座れと私を隣の席によんで話しかけてきた。話によると彼女はどこかに行った経由で大阪に来たようでその経由の時間を利用して大阪で有名なお好み焼きを食べに来たのだと言う。こんな夜中にまだ二十歳ぐらいの女の子がしかもひとりでお好み焼きを食べに来るなんてにわかに信じがたいが、しかしコレアンは日本人が考えられないような大胆な旅行の計画をする。私は彼女に食べに行くって終電はどうするんだ、第一この電車でナンバに行けば関空までの終電がなくなるだろう」と言うと突然焦りだして「タクシーは大丈夫ですよね」と聞いてきたので「うんでもかなりお金がかかるよ」とにかく終点に近くなっていたのでとりあえず終点まで行って帰りの電車があればそれにのって帰ろうと言うことになった。しかし終電はないそこでタクシーにのって帰ることになった。そして私は彼女に「で君いくらもってるの」と財布を確認すると3000円ぐらいとあと少しの小銭と米ドルとウオン「3000円ぐらいじゃ帰れないなあ、ちょっと待って」と駅員のところに行ってタクシー代がいくらぐらいかかるか聞いたら当時15000円ぐらいかかると言う。「えっ15000円ですか他に何か方法は」と聞いたらサウナにでもとまったらどうかと言うが、しかしそれはできない、なんで俺が見も知らない韓国人にここまで振り回されなくてはならないんだと思ったが、仕方がないので「これで帰れるよ」と15000円を彼女に渡した。最初はすごくためらっていたが、しかしこんなところに置いていくわけにはいかないし季節は冬である。結局彼女はそのお金をうけとったが、お名前と住所を教えてくださいと聞くので「名前はウオンビン(当時のイケメンNO1俳優)だ、お金はいいからウリナラで日本人が困っていたら助けてやって約束ね、タクシーはそこから出ているからじゃあ」と言ったら、日本語で「アリガトウゴジャイマス。じゃあウオンビンシ」と深々とペッコプインサをしてタクシー乗り場に去って行った。彼女がペッコプインサをしたのは電車の中で私が女性のするペッコプインサは礼儀正しくて品があるから好きだと言ったから感謝の気持ちをこめてしてくれたと思うのだが、それにしてもマクドナルドのスマイル0円にたいしてペッコプインサが15000円だからかなり法外な値段であった。東洋の礼は西洋人にはない東洋人の素晴らしさだと思う。若い時は欧米人のようにふるまうことがかっこいいことだと錯覚していたが、しかし感謝の気持ちをこめて頭をさげてするおじぎは本当に相手の気持ちが伝わるものである。おそらくこの文化は西洋人にはわからないだろう。結局私はひとりの韓国人の女性を助けたと言うかホテルまで返したのだが、しかしこんなことを言っては何だがもし彼女がアメリカ人だったら同じことをしたかどうかはわからない。もししても事情を説明してお金は返してもらったであろう。なぜここまでしたかというのは彼女が自分の好みだったからとか、美人だったからとかそういうことではない。おそらく彼女とはどこかでつながっていると感じたからで、それはお互いが元をたどれば同じ人種であるからだ。日本と韓国は仲があまりよろしくない、しかし我々は共通する文化がある。深々とお辞儀をされた時に感謝の気持ちが伝わる。最近は韓国系の歌を聞いて感動すると言う日本人もいるが、日本人と韓国人はマウム(心)とカスム(胸)で気持ちや感情をとらえる。以前韓国人の恩やハンというのは自分が伝えたいのに伝わらないもどかしさの感情や気持ちだと言ったが、韓国人の歌を聞いてジーンと心にひびくのはその恩やハンを日本人は心でそれを受けとめそして胸でそれを感じるからだ。日本語でも心にひびくとか、胸いっぱいの幸せとか言う言葉があるが、英語の胸は空気をいっぱい吸い込めても気持ちや感情は入ってこない。すなわち西洋人と我々の心のとらえ方や感情のとらえ方が違うのだと思う。私自身は韓国と言う国は嫌いである。がしかし気持ちは伝わるのだからヒョンジェにはなれると思っている。

うちの子供によく言っているのは人種差別をしてはいけないだ。おそらく日本人の家庭でこういうことを言う親はほとんどいないと思っているが、しかしこれはこれからの日本にとって大事なことであり、こういうことを家庭でも教えていかなくてはならない時代である。

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일쩨

2019-07-14 | Weblog
私が人を見る時ひとつの基準として見ているのが、その人間にはどういう人間が集まってくるかである。昔は少々わるかっても、今それなりの人たち教育レベルの高い人や責任のある仕事をしている人たちから、信頼を得てリスペクトされているならば、その人間は本物と言ってもいいだろう。一方同じような人間やそれ以下の人間しか付き合えない、そういう中であの人はえらいなんて言われるのはウジ虫がハエになった程度だ。私自身前者の人間をかなり信頼しているが、そういう人間は人をポジティブにさせる大きなエネルギーを持っている。

正直私自身もほめられた人間ではなかった。昔冗談で「俺がもし何かやって逃げるようなことがあったら、俺を見つけるのは至難の業だ」とあほ発言をしていたが、私の場合は言葉がわかるし、教育を受けているからたちがわるい。今からは想像できないが、たぶん私が道をはずしていたら要注意人物になっていたであろう。事実親が外国人だということは当時大きなディスアドバンテージだ。やくざとか暴走族とかいいとこ格闘家みたいなやつらが聞きたくもない武勇伝を語る、そこは見栄と虚偽の非常にみっともない世界だ。ジムでは私が弱い者の立場に立つ、暴力を徹底して排除するのはそういう世界を見て来たからだ。それでもそういう類のやつらと傷口をなめあって生きて行けばいいのだろうが、そういうことをしても先は見えている。ウジ虫がハエになってきたないものの上をぶんぶんと飛び回って俺は自由だ、これが俺の世界だと言ってもそこにあるのは一面Shit、まともな世界ではない。本当にまともな人間になりたかったら教育を重んじることだ。格闘技などで自信をつけるなんて言っているが、そういう自信はテンポラリーなもので、その世界でしか通用しない。そして教育を受けていなければそれはやがてコンプレックスにもなる。でも教育を重んじて教育を受ければそれは自信になるであろう。知識をたくわえて言葉をおぼえてまともな会話ができたら相手が自分を見る見方がかわってくる。忙しくて社会的に責任を持った人ほどどんなに忙しくてもその人に価値があると思えば、時間をつくって会ってくれるが、そのひとりになりたければ、しっかりとそこで教育を重んじて知識をたくわえ教養を身に着ける。ある意味相談される側の人間になることである。言葉をおぼえたり、本を読むということは決して無駄にならない、本当にその人の価値を高めるものだと思っている。私自身もまだまだもっとおぼえることも多いが、しかし教養を身に着けて言葉をおぼえることでたくさんの人と話すことができるし、自分の世界が広がって行くことがわかるであろう。

今日のタイトルは일쩨(イルチェ)である。イルチェと言うのは日本製とか日帝と言う意味。差別ではあるがうまいこといいよるなと思う。



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Inside you have strong root 

2019-07-12 | Weblog
ブログで時々Karate kidのことを挙げているが、それらは私が好きな映画で内容はすごく単純であるが、この映画を見るとアメリカ人が日本の武道と言うものをどうとらえているかということがわかる。その映画でこういうシーンがあった。確か1980年代に上映されたKrate kid 3だったと思う。空手を教える老人が盆栽の店を出そうとしているので、その友人である主人公ががけにある盆栽の苗を必死の思いでとってくるのだが、その盆栽をこともあろうか敵対するグループにとられて枝を徹底的におられてしまう。
しかしその盆栽が何日かたってその老人によって復活させられる。あれだけぼろぼろにされたのに見事に復活した盆栽を見て驚く少年に、老人はこういう「inside you have strong root, no need nothing except what inside you to grow. Understand!(大事なことはあなたの心に強い根を持つことだ、あなたの心を成長させろ、それ以外に必要なことはない)」
実際にこの映画では最初肉体的な強さを求めて戦うが、その肉体的な力が限界になり、窮地にたたされる。しかしその窮地に立たされた時にミヤギが少年にアドバイスすることで、その気持ちが内なる世界に向かい、そこから力を得た少年が起死回生のごとく立ち上がり、勝利していくのだ。おそらくこの映画の作者は日本の武道と言うのを肉体的な強さよりも精神的な強さとしてとらえているのだろう、Krate kid 2では日本人の生活をかなり時代錯誤にとらえていたが、しかしこの映画を注意深くみると、作者が日本の武道をリスペクトしていることがわかる。
半分以上日本人ではないと思っている私だからこそ理解できることであるが、日本の武道の精神は素晴らしい。勝負には関係なく勝っても負けても相手をたたえることができる余裕、そういう余裕が日本の武道にはあると思う。現にこの映画においても自分に害をあたえてきた人間たちをたとえ勝負に勝ってもそれをゆるし、改めて相手をリスペクトするというシーンがあるが、あれだけやられたら普通はここぞとばかりにさらにボコボコにしたり、相手に何かとどめをさしてやろうと思うのだが、しかしそれでも相手をゆるし、そしてたたえるのである。怒りやみじめさやおごりをすててただ相手をリスペクトするのは心が強くないとできないことだ。そしてそれは特に自分が負けた時はそうであるが、しかしこれができるから人間の心が成長して豊かにされていくのだと思っている。きれいごとに聞こえるがstrong rootと言うのは人を愛したり、リスペクトする気持ちから生まれるものだ。かっこよく言えば愛の精神に根差すことだと思っている。怒りや憎しみそして見栄や虚栄心からは何も生まれない。人を愛したり愛されたり、リスペクトすることは人間の原動力となる。人間は自分が愛されている、リスペクトされていると思えるから強くなれるそれがstrong rootであると思う。そしてこういう気持ちが持てるのは自分もまた誰かによって愛されリスペクトされてきたからである。私がここで大事にしているのはお互いがリスペクトできること、そしてそのことはまず私がどのような相手に対しても、私がトレーナーたちからされてきたように心からリスペクトできるかということだと思う。私はここで人をたたきのめしてではなく、リスペクトされることによって心の根を持ち、自信をつけてほしいと思っている。人を心からリスペクトする。そのリスペクトすることで人間は自信が持てるというのが私の考え方だ。アホな競争は自尊心を傷つけるだけ、運動音痴でもへたれでも、いやそうだからこそその人にはリスペクトされるところはあるのだ。そういうところをよく見て本当に心からその人をリスペクトしたいと思う。




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元CAから聞いた話

2019-07-10 | Weblog
human trafficing (人身売買)のちょっとしたシンポジウムに参加した。人身売買はおもに東南アジアなどで女性や子供が奴隷として売買されているのだが、売られた人間は労働や売春などを強制され、中には臓器をとられるために殺され、最近ではその売買がインターネットなどで行われているのだが、彼ら彼女らは抵抗できない貧困層やマイノリティである。
だいぶ前オリンピックで金メダルを本物かどうかということで噛んでそれを証明するバカげた行為があったが、はっきり言ってあれは不適切、本当にイラッとくる。これはフィリピンの元CAから聞いた話であるが、フィリピンでは金の採掘には多くの貧しい子供たちがかかわっていて、その多くが貧しさゆえに家族を助けるために命をかけて金を採掘するらしい。中には深さ25メートルほどの今にも崩れそうな井戸にわずかな金をとるためにもぐるそうであるが、それは間違ったら死につながるそういう危険な作業に2万人以上の12歳未満の子供がたずさわっているのだ。たぶん金をかんだ奴らはのりと勢いでやったにすぎないが、しかしもう少し世界に出ていくならばこういう現実をよく理解してから行けと思う。彼ら彼女らは命がけでスポーツを競技していると言うが、しかしその12歳未満の子供たちは本当に命の危険にさらされながらわずかな金を採掘しようとしている。それだけではなくこういう過酷な児童労働を強いられているのはユニセフの発表では1億5000万以上いるのだ。にもかかわらずそれを本物かどうかなんてテレビに向かってオリンピックと言う世界の舞台でやるのだから、本当に程度がひくいと思う。本来ならば罰金ぐらいとってやったらいいと思うのだが、私が競技者に見聞を広めるために勉強しろと言うのはまさにこういうこと、はっきり言ってそのほとんどの国が日本よりも貧しい国そういった国に配慮するのがスポーツマンシップではないか。あと1年で東京オリンピックが開催される。次の東京オリンピックまでには英語を話す競技者を20パーセントぐらいにするとか、教育面にも力をいれるべきだと思う。




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