脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

ヒーローへの警告(特に戦隊もん)

2007-09-29 | Weblog
最近うちの子どもがウルトラマンシリーズにはまっていて、よくDVDなどで見ている。私たちの時代のヒーローと言えば、仮面ライダー、ウルトラマンである。彼らは悪の組織と徹底的に戦い、勝利をあげ、我々に勧善懲悪をうながす。特にウルトラマンシリーズには愛とか勇気というテーマがあるので、戦闘シーンは見られるが必ずしも子ども達に悪影響とは言えない。これに対して戦隊ものというのがある。おそらくゴレンジャーあたりでこういうものがでてきた思われるが、私はこの戦隊者にたいしてあまりいい感情をいだかない。ウルトラマンや仮面ライダーは悪の組織に対してひとりで挑むいわば一匹オオカミ的ヒーローである。最後のボスキャラに挑むときも一対一のさしの勝負で相手と戦い勝利する。しかしこれに比べて戦隊ものはいただけない、5人で力を合わせてたたかうまではいいのだが、問題はその最後である。最後のボスキャラが一人であるのに対して、5人まとめてかかって行き、ゴレンジャーにいたっては、ボールの爆弾をみんなで回して、最後は悪者をなぶり殺しにするのであるから、これはもういじめを促しているとしか思えないのである。少しおおげさかも知れないが、今日のアニメやこういったヒーローものが子どもに与える影響は大きい、その昔仮面ライダー見た子どもがライダーキックのまねをして窓から落ちるといった事件があって、これがあまりに多いので、TVで「ライダーキックはしないでね」の注意を促し、学校でライダーキック禁止令がでたことがあったが、アニメやヒーローものなどはこれがどのように子どもにえいきょうするかということを考え、台詞や行動を注意深く考えて作らなくてはならないと思う。テレビと子どもの関係は密接である、少なくともPC(political collect)に神経質になるよりは子どもへの影響を考えることのほうが大事なことではないだろうか。

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ダイエットカウンセラー

2007-09-28 | Weblog
時々ダイエットをしたいという人から相談の電話がある。私自身も実際ボクシングを通してこのことをやっているのだが、意外というか、あたりまえなのかダイエットは女性の大きな関心事のひとつである。簡単に言って私が進めるダイエットはボクシングである。基礎体力をつけて基礎代謝を上げ、そして落としたい部分に応じて練習のやり方を考える。基本的には食事制限は強いない、なぜなら食べれば運動すればいいわけで、間食などの問題もボクシングに取り組めばストレスも減り、かなり控えるようになると思っている。今のところこれでやせた人は多い、10月からはダイエットの無料相談も受ける予定である。

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ボクシングと笑い

2007-09-27 | Weblog
「バラの名前」という映画がある。これは修道院で次々起こる殺人事件をジェーンコネリー演じる探偵修道士が弟子と共に解決していく事件である。実はこの殺人事件のストーリーには、アイロニーが込められている。それは次々と起こる殺人の原因がバチカンが封印していた、禁書であるイエスが笑ったということを記述している書物を見つけたということである。今ではまったく違うが昔、笑うことが軽んじられていた時代がある。特に修道院などが中心になって学問が生まれた14世紀あたりは、それが顕著にあらわれていて、その理由がイエスが笑ったと聖書に書かれていないからだというから滑稽である。実は私は「笑い」というテーマで論文を書いたことがある。そのためベルグソンや他の哲学者の文献を見たのだが、笑いについてよくわからなかった。しかし聖書はおもしろいといえるし、人間の笑いというのがよくわかる書物である。特にイエスと学者たちが大勢の群衆の前で議論し論駁するシーンがしばしば見られるのだが、その時イエスが彼らにアイロニーを込めて語ったことばは、ユーモアたっぷりで、その言葉にまわりの群衆はどっと笑ったのではないだろうか。MTオリーブの人たちはよく笑う、しかしこれは不真面目さから来るものではなく、楽しんでくれているからだとそう思っている。笑いというのは大切である。そしてボクシングのような緊張を強いられるようなスポーツには特に大切であると思う。イエスの時代の群衆はしたげられ、群衆は笑うことさえも忘れていたかもしれない、しかしこういう時代のそういう群衆の中から生まれた笑いであるからこそ、笑いは大きな意味を持ち力となるのではないだろうか。

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風を感じて

2007-09-26 | Weblog
3年ぐらい前の秋保育園に子どもを迎えに行った時のこと、いつものように保育園に入っていくと運動場で彼が風に吹かれていた。たぶんこれが生まれてはじめて風を感じたのだろう、彼が喜びいっぱいに満ちて風を感じていたことはたいへん印象的であった。はじめて体験することは、喜びであり、それはいくつになってもそうである。しかしありきたりの生活ではそのことを体験できない。ボクシングを始めることはある意味冒険である。年齢によれば何もそんなことをしなくてもと思うかも知れない。しかしその一歩踏み込んだところに大きな発見があり、ほかでは得ることのできない喜びがあると思っている。あの時のこどもの顔はとてもうれしそうで、たのしそうだった。そういう体験をボクシングというスポーツを通して体験してほしい。そしてそのためボクシングの楽しさをどうにかして伝えたいと思っている。

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a cup of coffee

2007-09-25 | Weblog
私はコナコーヒーが好きである。しかしここ高知では私の好むコーヒーが売られていない。このコナコーヒーは基本的に4種類ある。その中でもピーベリーという種類は一般的に一番味がいいとされており、味香りなども日本人好みの味であるので好まれるにちがいない。実はこのコーヒーは種を持ってきて栽培したのはアメリカ人であるが、適応し、それを育てたのは日本人だそうである(a cup of coffeeより)。コナというのはハワイ島の土地で、コナコーヒーはその土地にちなんでつけられたことばで、その持ち込まれたコーヒー豆が、コナという地の土地に合うのではないかということからその土で栽培され、今日のコナコーヒーが誕生したらしい。私はこのコナコーヒーにはたくさんの思い出があり、向こうでの生活でノスタルジックな味わいを思い出させてくれたのも、one cup of coffeeである。

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ノスタルジー

2007-09-21 | Weblog
ここ3年ほどハワイに行っていない。私の恩師はそれでも訪ねてきてくれるのだが、本当なら私が家族をつれてたずねていかなくてはならないと思っている。青年時代に外国のしかもボクシングクラブで過ごせたことは自分にとって大きいことであった。10何年か前10年ぶりぐらいにハワイのジムを訪ねていったときのことだ、10年と言えばひと昔、私のいたところもすっかりかわっっていた。特にワイキキや日本人がよく行くところはすごく変わっていた、昔ならガイドブックになんかのらないようなところでさえ観光客が来るようになり、驚いたぐらいだ。しかしその中でもかわらなかった場所がある。それはジムである。ジムに入ると10年前となにもかわっていなかった、おなじにおい、そしてかつて私が感じた雰囲気につつまれ10年前に戻ったような気がした。時代がめまぐるしく変わる中、いつの時代になっても変わらないものがある。そしてその変わらない確かなものを支えているのが、ジムで言うところのボクシングスピリットであり、いつもかならずその場所に行けばその変わらない確かなものに出会えるのである。今の時代だからこそそういう場所が必要であるように思える。はたしてMTオリーブはそのようになっているだろうか。

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考えるボクシング

2007-09-20 | Weblog
だいぶ昔「脱学校の社会」という本を読んだ。今ではそのことがまるまるあてはまることはないと思っているが、おおまかに言って、著者がいいたいことは無批判に受け入れる制度(学校)からの解放である。私は練習生には「人の話は聞け、しかし必ずしも言うことを聞く必要はない」と言っているが。往々にしてこの世界では「はい」という答えを求められるような気がする。よく選手がコーチによばれてアドヴァイスを受けている時、しきりに「はい、はい」と言う言葉が聞こえてくるのだが、彼らは本当にわかっているのだろうかと不思議に思うことさえある。孔子は一番弟子である顔回が愚直であることをほめたが、しかし若い人間が経験も何もないのに無批判にものを受け入れることは危険なことである。我がジムの教育方針として選手(特に若い人)には考える機会を与えるようにしている。パンチのことから、ボクシングの戦略、そして最終的に自分はどういう人間になりたいかというところまで、できるだけ自分は選手に関わり、考えろと口でいうのではなく、考える機会を与えている。

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おもしろい話

2007-09-19 | Weblog
ずーっと昔3人の友人が私のところにあそびにきた。せっかく来たので初日はおいしいレストランに連れて行ってやろうと思い、当時の私のガールフレンドに安くておいしいレストランを聞きつれていった。で中に入ると予約した席に通され最初に飲み物を聞かれる。しかし、このとき彼らは最初にコカコーラーを注文したかったのだが間違ってAは「I am coke」と言ってしまった。(お前は松山千春かと思ったが(ちょっと古いが))ここまでは海外旅行の失敗としてよくあることだが、この話には続きがある。実はAがそう答えた後、何とBは「me too」と答えてしまったのだ。この答えにウエイトレスは爆笑、笑いすぎて仕事ができないぐらいだった。嘘のようだが本当の話である。

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シャローム

2007-09-18 | Weblog
ユダヤ人のあいさつは、シャロームというらしい。「平和]とか「平安」という意味で、これは自分にたいする平和よりも、むしろ相手への平和という願いがこめられているそうである。私はかつてから選手に、自分がしんどいとき他人をはげますことを進めてきたが、与えると言うことは人間の成長にも、自分が満たされることにおいても大事なことである。人間というのはしてもらうことに関しては、どん欲な生き物である。E フロムは愛の性質について、人間の関心は愛されることであるといった。しかし、それでは本当の意味で満足することはできない。そういう愛はどん欲である。むしろ与える愛が人を見たし、成長させるといったが、まさに人間にはそういう崇高な能力自体がそなわっていて、そのことを実践することによって自らが満たされ高められて行くのである。崇高な愛というと実践することは困難である。しかし互いに励まし合うことは難しいことではない、そのことを実践してくれたらと願っている。

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涙は心の糧である。

2007-09-14 | Weblog
この前ふとした話から自分は滅多に泣かないというと、ある人がそんなこと想像できないと言った。確かにここ20年ぐらいはジーンとくることはあっても泣いた記憶がなく(しかしそうだからと言って無感動とか冷たい奴ではないが)、泣いた事と言えば向こうに行ったとき、初めてのスパでパンチがあたらず悔し泣きをしたことぐらいで、(実際その事が自分を大きく変えたが)そう簡単には泣いてはならないという気持ちが私の中にある。男が(と言えばフェミニズムに興られるが)涙を流すときそこには大きな理由がある。私もこの世界で悔し泣きをいくどとなく見てきたが、一生懸命全力でぶつかっていく人間の涙は、のちに大きなに変えていく力があるように思える。今悔し泣きにしても、感動にしても安価な涙が多くなったように思える。ちょっとしたバラエティで作り物の話に感動するのは、私なりに考えてばかげたものだと思う。涙は人間が与えられた感情の中でも最も高価なものである。そしてそれは一生懸命生きる人間の心の糧となる賜物であるかも知れない。

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