これは私の若かりしの話なので受け流していただきたいが、私はたいした実力もないが闘争本能だけは強かった。育ってきた環境が環境だったし、特に私が競技した外国はメルトポッド、才能や身体能力も違うので、気持ちを強く持っていないとまけてしまう。だからまけたくないと当時は闘争本能だけは人一倍あったと思う。こういう私であるからまずボクサーは敵、強いとか言われているボクサーはなんかむかつくし、うっとうしい、そういう人間をまず応援する気にはならない、テレビでインタビューをしているのを見たら「〇〇や」ぐらいに思ってしまうのだ。現役がおわってからは、そういう闘争本能を出したら厄介なことになるからずっと出してはいないが、当時は何とも言えない闘争心を燃やしていたのだからアホだった、いや病気だったと思う。
そんな私も今ではかなり落ち着き運動音痴やヘタレ大歓迎のジムを運営している。
うちのクラブの会員とはよく話をするのだが、おもしろいことは親とか伴侶、兄弟そして近い親戚に学校関係者が多いことである。中にはそのまま同じ道の職に就いていると言う人もいるが、そういう環境で育った人はまじめで不健全なことはきらう、きちんとこっちが教育的でまともな考え方をもっていなければ信用されない、そういう人たちが集まることでジムの健全性が高められると思っている。
うちに関係する私があった人たちはみなさん尊敬できる人たちであるが、中にはあれって言うチンピラみたいな教師や体育会系の頭が固くて理解力に乏しい教師もいる。前にいじめのことで頼まれて学校に行ったことがある。その時出てきた担任が私の話についていけず、うなづいておまかせしますというのが精一杯だったので結果的に校長と学年主任が来て、こうしましょうということで解決案を出すことができたが、やはり今の時代は親も高い教育を受けた人もいるのだからある程度高い知的理解は求められると思う。私自身偉そうに言っているが実際学校に頼まれて協力したことも何度もある。そのたびに思うことは教師の知的理解、話をしていやそれは違うと反論するのもある程度同じようなレベルで話さないと的を射たものではなく、ずれが生じると言うことだ。しかし相手がきちんとそれを理解し、対等に話せれば、自然と対話ができる。そして弁証法的な形をとって結果的にいい方向に解決がむかう、いろいろな人たちが集まるジムなどを運営する我々もまさにそうだが、学校関係者はある程度高い学力やリテラシーが求められると思っている。笑い話だが少し前にある大学生の会員が私のことを今までに見たことがない人だと言っていた。どういうことかと聞いたら、どういうことを質問しても、たとえ自分の言っていることがめちゃくちゃでも、話したらまともに答えがかえってくるらしい。人から相談された時、アウフヘーベンと言うかたちをとるのが私のやりかただ、相手の話をよく理解して、いや違うと言う時はかならず、その違うということを通してさらにまた違ったベターな答えが求められるように、いわゆるそれがヒントになるようにいろいろなことを試行錯誤考え話を進めていく、そのためには高い教養が求められると思っている。もう家の本棚には本が収納出来ないのでジムにかなりの数の本を持ってきている。私の場合は外国語で文献を読むことができるのが大きなアドバンテージであるが。なぜこんなに本を読むのと聞かれることもあるが、それは自分は不十分でもっと勉強していろいろなことを学び、クラブを本当によく導いていきたいからだ。話は文章の話になるが、私は我々のような社会人が集まってくる場の管理者できちんとした文章が書けないような人間は信じることができない。そういう人間が管理するコミュニティはぜい弱ででたらめ、文章能力のひくい人間は問題解決能力に乏しい、そういう人間が運営する集団は不平等や不健全な事態が出てくる。そこをよく理解して習い事をえらんだほうが懸命だと思っている。文章を書くと言うのはその文章に責任を負うと言うことだ。私がホームページにオリーブの哲学とジムの手引きのようなものを掲載しているが、それは私がきちんと責任をおってジムを運営していますと言う意味である。