脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Hey Behave yourself!

2020-03-30 | Weblog
これは私の若かりしの話なので受け流していただきたいが、私はたいした実力もないが闘争本能だけは強かった。育ってきた環境が環境だったし、特に私が競技した外国はメルトポッド、才能や身体能力も違うので、気持ちを強く持っていないとまけてしまう。だからまけたくないと当時は闘争本能だけは人一倍あったと思う。こういう私であるからまずボクサーは敵、強いとか言われているボクサーはなんかむかつくし、うっとうしい、そういう人間をまず応援する気にはならない、テレビでインタビューをしているのを見たら「〇〇や」ぐらいに思ってしまうのだ。現役がおわってからは、そういう闘争本能を出したら厄介なことになるからずっと出してはいないが、当時は何とも言えない闘争心を燃やしていたのだからアホだった、いや病気だったと思う。

そんな私も今ではかなり落ち着き運動音痴やヘタレ大歓迎のジムを運営している。
うちのクラブの会員とはよく話をするのだが、おもしろいことは親とか伴侶、兄弟そして近い親戚に学校関係者が多いことである。中にはそのまま同じ道の職に就いていると言う人もいるが、そういう環境で育った人はまじめで不健全なことはきらう、きちんとこっちが教育的でまともな考え方をもっていなければ信用されない、そういう人たちが集まることでジムの健全性が高められると思っている。
うちに関係する私があった人たちはみなさん尊敬できる人たちであるが、中にはあれって言うチンピラみたいな教師や体育会系の頭が固くて理解力に乏しい教師もいる。前にいじめのことで頼まれて学校に行ったことがある。その時出てきた担任が私の話についていけず、うなづいておまかせしますというのが精一杯だったので結果的に校長と学年主任が来て、こうしましょうということで解決案を出すことができたが、やはり今の時代は親も高い教育を受けた人もいるのだからある程度高い知的理解は求められると思う。私自身偉そうに言っているが実際学校に頼まれて協力したことも何度もある。そのたびに思うことは教師の知的理解、話をしていやそれは違うと反論するのもある程度同じようなレベルで話さないと的を射たものではなく、ずれが生じると言うことだ。しかし相手がきちんとそれを理解し、対等に話せれば、自然と対話ができる。そして弁証法的な形をとって結果的にいい方向に解決がむかう、いろいろな人たちが集まるジムなどを運営する我々もまさにそうだが、学校関係者はある程度高い学力やリテラシーが求められると思っている。笑い話だが少し前にある大学生の会員が私のことを今までに見たことがない人だと言っていた。どういうことかと聞いたら、どういうことを質問しても、たとえ自分の言っていることがめちゃくちゃでも、話したらまともに答えがかえってくるらしい。人から相談された時、アウフヘーベンと言うかたちをとるのが私のやりかただ、相手の話をよく理解して、いや違うと言う時はかならず、その違うということを通してさらにまた違ったベターな答えが求められるように、いわゆるそれがヒントになるようにいろいろなことを試行錯誤考え話を進めていく、そのためには高い教養が求められると思っている。もう家の本棚には本が収納出来ないのでジムにかなりの数の本を持ってきている。私の場合は外国語で文献を読むことができるのが大きなアドバンテージであるが。なぜこんなに本を読むのと聞かれることもあるが、それは自分は不十分でもっと勉強していろいろなことを学び、クラブを本当によく導いていきたいからだ。話は文章の話になるが、私は我々のような社会人が集まってくる場の管理者できちんとした文章が書けないような人間は信じることができない。そういう人間が管理するコミュニティはぜい弱ででたらめ、文章能力のひくい人間は問題解決能力に乏しい、そういう人間が運営する集団は不平等や不健全な事態が出てくる。そこをよく理解して習い事をえらんだほうが懸命だと思っている。文章を書くと言うのはその文章に責任を負うと言うことだ。私がホームページにオリーブの哲学とジムの手引きのようなものを掲載しているが、それは私がきちんと責任をおってジムを運営していますと言う意味である。



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A Theory of Justice in MOB

2020-03-28 | Weblog
ジムなどいろいろな人たちが集まる場において平等であると言うことはそこに集まってくる人たちの当然の権利であり、ジムは平等でなければならないと思う。そう言うとみんなそうだと言うけれどもじゃあ平等って一体どういうことなんだろう?特にこの問題は我々のような管理者がよく理解していなければならないことだ。私はこういう公共の場において何が平等かと言うことを考える時、まず考えるのはロールズの「無知のベール」だ。「無知のベール」って一体どういうことと思うだろうが特に第一原理について特筆すると、簡単に言えば人間は何もない状態ならば、自分が必ずしも恵まれた状態であるとは考えない、むしろそうではないと考えるのではないかということから、格差の被害者になった場合を考えて社会秩序を選ぶと言うことだが、さらに私流に解釈して、弱者の立場に立って自分の利益ばかり考えないで、まず相手の利益を考えて、そこから自分たちにとって何が一番得なのかと言うことを考えていきましょうと言うことだ。
昔学校での話。給食でカレースープの量が圧倒的に教師の方が生徒よりも多かったらしい。「あっ先生ずるい」と生徒たちは抗議、でも先生は「お前らと胃の大きさが違う」といったらしいが、この先生が言った一言も無知のベールを通して考えれば、その人の必要に応じて分配されると言う意味では平等である。最近の企業も勤続年数に応じて給料があがるというよりも40代から50代の子供が大学受験にかかる時期にたくさんもらえるというシステムにしているような会社もあるらしいが、おそらくこういう考え方も発想は少し違うが無知のベールを通して行きついた平等とも言えるであろう。

ジムに来る目的はダイエット、健康維持、ボクシングの技術を身に着けたいと様々であるが、共通して言えるのはみんながその権利を損なわれることなく楽しくトレーニングすることである。うちのクラブが目指している平等性とはマイノリティーがそこで生き生きと権利を持って堂々とトレーニングできることだ。マイノリティと言うのは格闘技では女性やおっさん、そういう人たちが顧みられて疎外感を感じることなく堂々と楽しくトレーニングできる環境を整えなくてはならないと思っている。
ここで会員の人たちのほとんどが試合に勝つとかジムを強くするとかと言うようなことは求めていない、楽しくトレーニングしたい、ジムの雰囲気をよくしたいと言う人たちがほとんどである。うちのクラブでは自然と出来る人や競技者が女性やおっさんビギナーたちに教えることが当たり前のようになっているが、それはみなさんがそういう目線に立ってくれているからである。うちの競技者はよく教えてくれる、だからここに来るのが楽しいと言ってくれる人もいるが、教える方も競技だけではなく、教えることでまた違った意味でボクシングの楽しさを知ることができるし、技術的なことも向上できる。たかだかボクシングができるからと言って特別感を出すものはいないし、威張るものもいない。お互いが尊重しあうことができるのであるからこそ安心した環境で楽しくトレーニングできるのだ。

MOBのJusticeは弱者の立場に立つと言うこと。試合に出るものやその取り巻き見たいな人間がジムででかい顔をして優先的にトレーニングするような底辺学校の教室のような雰囲気にはしたくない。平等と言ってもそういう力関係のあるところでは女性やおっさん、気の弱い人が遠慮してしまう。私みたいなおばさんがとか遠慮するような姿勢を見せたら、私は「いや堂々とやってください。お望みとあらばリングの上のやつけちらしますよ」と冗談で言うが、私は絶対に立場の弱い人たちが隅っこの方でトレーニングしたり、遠慮したりしてトレーニングするようなクラブにはしたくない。本当に私が理想通りのクラブにしてくれている会員の人たちには心から感謝している。大学の教授でもある私のコーチが言っていた。リングを降りたらジェントルマンであれ、そして教養を積め。でもうちの会員の人たちはリングの中でもジェントルマンだ。



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You got to be aware with your behavior

2020-03-24 | Weblog
前にインターネットの記事で高島屋の店員の態度がわるいと言う内容の記事があったのだが、そこには店員が人によって態度をかえる。カジュアルな服装で行っても相手にしてくれないと言うような意見を取り上げていた。しかし高島屋と言うのは言わずと知れた高級デパート、日本橋の高島屋は天皇の御用達で私は実際朝高島屋を貸し切りにして天皇家がお買い物をしているのを見たことがあるのだが、そういうグレードの高いデパートにカジュアルな服装で行くのはTPOをわきまえていないともとれる。韓国もそうだが外国ではこういうデパートにはあまりラフあスタイルでは行かない、ヨーロッパのルイビトンの店などにラフな格好で行列をつくるなんていうのはTPOをわきまえていない。日本ではお客様は神様だが、しかし外国では物は人を選ぶわけでルイビトンのようなバッグはそれなりの人が持つから様になる、それが格と言えるのだ。このインターネットの記事にもあるように日本と言うのは被害者であろうと言う立場からしか物事を考えることができない国である。教養がとぼしく、やってることはめちゃめちゃでも俺は被害者だと言えば言いたいことが言える国、しかしその一方で人よりも持っている人間やステータスの高い人間には非常に厳しい国である。天皇ご用達の格式のあるデパートに海水浴にでも行くような恰好の人間が、商品を手に取ってわいわいがやがやとされる気持ちにもなってみろと思うのだが、それは学校の教室に金髪で来る子供と同じ、多くの人間は売り手側や教える側から物事を考えることができない、常に被害者意識でしか考えることができない、だからこういう記事が堂々とさも正しいかのように掲載されるのだと思う。
悪用されたら困るので詳しくは書かないが、政治家や革命家にとって利用しやすい人間はまさにそういう被害者意識を持った人間だ、人間は共感されることを望むが、しかしそういう考え方しかできない人間は人に利用される。日本には新興宗教が多いのはまさにそれが理由だと理解しているが、日本人は広く深く物事を洞察する能力がとぼしい。日本人は外国人に比べて思考の仕方が違うのは哲学ができないからだ。最近の企業戦略なんていうのもベースに哲学がなければそれを理解し、実践して行くことは難しいとさえ思える。安倍総理は道徳を強調していたがグローバル的にはそんな国内の小さなルールのこだわるよりも哲学を学んでグローバルにとらえていく方が大きなアドバンテージになるであろうと思う。
 
                    


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我慢強い日本人

2020-03-24 | Weblog
後輩の韓国人が日本の会社に転職した時の話。その会社には5年目になる自分より5つ年下の女性がいたらしい。そこでその女性にいじめられたと言っていたのだが(本人談)ダメ口をきかれる、日本語を直される、韓国語や英語は使うなと言うのはいじめかどうか微妙なことであるが、そういういじめがあったようだ。
実は彼女は身長は私よりも高い、おねえさんが客室乗務員で顔もきりっとしていて美人ではあるがなかなか迫力がある顔、その彼女が相手のあまりにも理不尽な行為に(あくまで本人談)に我慢できずに切れたらしい。
一方相手は150センチ代の小柄な女性、その女性に二人になった時に指でクイクイとこっちにこいと相手を引き寄せて言いたいことを思い切り言ったそうである。相手はあまりの迫力におされてすみませんとあやまっていたそうだが、想像して笑ってしまった。話を聞いて「お前やりすぎ」と言うと、彼女は「私は5か月もたえた、5か月もですよ。」と言ってきたので、私は彼女にそれぐらいは日本人だったら言わないし最低でも1年は我慢するよと言ったのだが、まあ彼女の気持ちもわからんでもない。日本人は我慢強いおまけに慎重すぎる。外から見たらわかるけれども、たぶんその我慢強さは世界一、我々のセンサーでは言ってはいけないことが多く、何かを言うときも慎重によく考えて話さなくてはいけないのだが、私はこのよく考えてと言うは和をみださないようにと言うニュアンスで考えている。
日本人が我慢強いというのは、これは民族のアドバンテージだ。今日本は自粛と政府から促されて行動を慎んでいるが、えらいと思うのは大人だけではなく、保育園ぐらいの子供も我慢をしてルールをきちんと守って行動していることである。
最後にこのひと騒動がおわったら、子供たちはほめられるべきである。状況を受け入れて我慢して、ルールを守って拡散防止のためにがんばったのだから、それは称賛にあたいすることだ。
もうすぐさくらの咲く季節になるが、さくらを見るとすごく落ち着くし、それは見事で美しい。でもさくらが美しく、心を落ち着けてくれるのは、寒くて厳しい冬をのりこえて、そして見事に咲いてくれるからだ。さくらは日本人の象徴である。おそらく日本人がさくらを好むのは、我慢して耐えてそしてそこから本物になっていくという考え方が精神構造に組み込まれているからだと思っている。

ただ私から見てわるいところもある、それは自分の意見をはっきりいわないということだ、それは会議などの公の場においてそうである。日本人の勉強会や学会、会議などもそうであるが、集団で集まってする話し合いは、どちらかというとひとつの意見に集中して発言しようとする。それを擁護したりそれは少し違うという意見を出し合うが、しかしそれは何か多数決を決めているようでクリエイティブではない。特に年長者や古株はひとつの意見と言うよりも、いつの間にかまとめ役になっていてうざい、脆弱な組織になればなるほど保守的で議論できない体質を持つ。スポーツの組織がおかしくなっていくのは権威主義的で、意見がひとつのところに集中し、きちんと議論できる体質ではないからだと思っている。しかし外国人は思っていることをそこで出して激しい議論をして、お互いを理解しようとするのだが、私はそのほうがクリエイティブな発想を生み出すことができると思っている。韓国人と日本人が仲良くできないのは日本人が我慢強くて慎重すぎるからだ。これはすごく素晴らしいことでもあるのだが、しかしもっと言いたいことを個人レベルで言えばいいと思う。向こうは思った以上に話し合いと言うか議論ができる、確かに一方的で話にならない人間もいるけど、けんかになる覚悟で思い切り言いたいことを言いあえば、いい結果が生れることもあるだろう。そうやって人と話し合って何かをこえていくことは本当に人としての成長につながるし、それはその人のキャパをひろげていくだろう。




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I am from the continent.

2020-03-19 | Weblog
毎日コロナコロナとうんざりしているが、しかしきちんと情報を集めないといけないので新聞やニュースは見ている。素人目の意見であるが日本政府はよくやっていると思う。韓国のように莫大な予算を組んで検査を進めて、コロナ対策を徹底するのもいいが、しかし余計に予算を使うよりも日本のように医療システムがマヒしないように、疑わしい人や体調不良の人に限って検査をうけてもらって、治療してもらうと言う方が懸命ではないだろうか。確かにロイター通信は「Aggressive and sustained testing is a powerful tool for fighting the virus」と韓国とイタリアを比較して、致死率が圧倒的に低かった韓国方式を評価しているが、イタリアでは医療崩壊、そして韓国も大邱では医療崩壊がおこっているようであるが、私はピークをおさえて半ば自然的に終息させていくという形の方が懸命であると思っている。
よく海外のマスコミから日本は検査に積極的ではないと言うことが問題視されているが、しかし私はこの考え方の中に大陸と島国の考え方の違いを見る。韓国が大陸だと思ったのは邪魔なものが入って来たら、それを徹底して排除しようとする姿勢である。コロナ対策に日本の7倍ほどの予算を組んでコロナ感染者をあぶりだして、治療していく、私は韓国のニュースなんかもよく見ているが、完全武装で消毒液をまきちらす光景がうつしだされるたびに、すごい非常事態だななんて思わされるし、おそらくああいう光景は日常茶飯事なのだから国民もパニックになるだろう。一方日本は自粛自粛とコロナをおそれている感じはするが、しかし生活はいたって普通、医療が崩壊することもなく、確かに経済面では大きな打撃をくらっているだろうが、しかし海外のようにパンデミック的な感じもない。民族性を十分に生かしてうまくコロナを対処している。日本人は調和を重んじる民族だ。民俗学的にはどうかわからないが、私は歴史的あるいは宗教的に見て大陸の考え方は排除、そして日本は調和であると考えている。よその土地を侵略して、相手の民族を支配するというのは排他的で、この行きすぎた例がホロコーストやエスニッククレンジングである。宗教も一神教は排他的だ。十戒の一番初めには私の他に何者も神としてはいけないと言う言葉があるぐらいだから、他の宗教は絶対に認められないと言うのが彼ら彼女らの宗教観である。しかし神道はすべてに神が宿っていると考えられるし、仏教などでもいろいろと神々が排除されることなく合体してそれが奉られているが、コミュニティにしてもそうだ。日本人はどんなにそのコミュニティをかきみだすような人間がいてもすぐに切ると言うことはしない、できるだけ解決策をだそうとするが(しかし解決策ではなく我慢であるが)、これは私からみたら理解できないことである。何事にも調和をもとめるのは日本人の特徴であると私は思っている。

カラテキットと言う映画がある。この映画のシーンでトーナメントに向けてダニエルがミヤギと特訓するシーンがあるのだが、その特訓がトーナメントに出るというのに空手のトレーニングらしきことはさせない、ペンキ塗りをさせたり、ワックスがけをさせたり、ボートの上で空手の型をさせたりとおおよそ空手とはまったく違うような、いわば雑用か遊びである。普通だったら組手をしたり、パンチやキックのトレーニングをするのだが、彼はそんなことはさせない、日常や大自然を通して教えたのは戦うことではなく、調和である。空手と言うのは単に相手を傷つけるための道具ではない、まず心を鍛えて、調和を保て、そうすれば平和な心が生れると言うことをその大自然や日常を通して伝えようとしたのだ。日本人の素晴らしいところは何事にも逆らわずに、運命を受け入れて自然と調和できるところである。自然は我々の力ではどうすることもできない、待たなくてはならない時もあるし、我慢しなくてはならないい時もある。そういう理屈をいにしえの時代からよく学んできたのではないかと思う。今ようやく収束の兆しが見えてきたが、自然にさからうことなく、じっと耐えて、待つ日本人(在日韓国人などの外国人も含むが)は偉大だと思う。

私は日本人を知れば知るほど、違うと思う。やはり大陸の人間だろう。


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겉과 속이 다르다(表と奥が違う)

2020-03-19 | Weblog
本音と建前と言う言葉がある。たぶんこれは日本語独特の表現だ。たぶんそれを英語で表現するならば「private」と「public」という言葉になるのだろうが、それは日本語のそれとは少し意味が違う。お隣の国韓国は겉과 속이 다르다(表と奥が違う)という言葉がそれに近いのだろうが、しかしこれも少しニュアンスが違う。韓国人は割と本音をズバズバ言う民族なのでそこまで相手のことを気にする必要はないのであろう。一般的に本音と建て前というのは韓国語のように裏と表のある人のようにどちらかと言えばわるくとらえられている言葉だといっても過言ではない。それはある意味日本人の特徴をあらわした言葉であるといってもいいだろうが、私はこの言葉をむしろ積極的にとらえている。
新しく入ってきた人が慣れてきたらよく言うのが、うちのクラブは雰囲気がいい、いばったり、しょうむないことを言う人もいないし、むしろサンドバッグなどのたたく順番をゆずってくれたり、親切に声をかけてくれる人たちがいるのでトレーニングしやすいということだ。確かにうちの会員の人はすごくまわりに気をつかってくれて、その気遣いがクラブの雰囲気をよくしていると思う。そしてこれらの行動は決してその人たちの社会性とは無関係ではない、みなさんそれなりに社会では責任のある立場にある人たちが多いので、悪く言えば世間体を気にする、外面がいいということが自分の行動をどうとられるか、あるいは責任を持った行動をとるというところにつながっているということも無きにしも非ずであろう。人間は本音と建前があってあたりまえのことだ、世間体を考えたり、建前があるからこそ、人に気をつかったり、人間は正しい行動をとろうとするのだが、これはおそらく集団を重んじる日本人の特徴であると私は思っているが、その建前をひきだすことがコミュニティの質をよくすることでもあると思っている。そしてまずそういうコミュニティにしたかったら責任者の言葉のレベルをあげることである。類は友を呼ぶというが、責任者に教養がない、日本語がとぼしければまわりに集まってくる人間もたかだか知れている。その責任者のまわりにやんちゃですとかアウトロー、何か少したりないような人間しか集まらないというのは、その責任者の教養のレベルと言葉に問題があるからだが、そういう連中が仲間以外のまわりの人間のことを考えて正し行動ができるはずはない。どちらかというと自分の好きなことしかしない、自分勝手だと思っている。
人間のコミュニティは言葉によって形成される。その責任者の言葉のレベルが群れの質をあらわすといっても過言ではない。コミュニティの質をあげたかったらまず言葉の質を上げることだと思っている。さらに質の高い言葉は人の価値を高めると信じている。時代劇で武士の家庭で厳かな言葉をつかって会話しているシーンをみるが、まさにそういう言葉が人の人格をつくるといってもいい。バカみたいな言葉でしか人と接することができないようでは、その人の価値を上げることはできない。聖書に人はパンだけで生きるのではないという言葉があるが、人間の価値をあげるのは言葉だ。それはほめたりとかそういうことではなく、ある程度洗練されたただしい日本語をつかい相手を尊重することでその価値が高められていく、そういう言葉による相互関係において価値を認められそのコミュニティに存在することに誇りを持ったり、尊重するようになる。そして誇りを持ったり、尊重できるからこそその社会において責任を持って行動できるのだ。
日本の社会には暗黙のルールがある。こんなことをしたらはずかしいことだとか、人から白い目で見られるとか、確かに善悪の判断で行動するということもあるのだろうが、しかし積極的にその人間のよさを集団においてひきだすためにはその建て前をどう理解するかだと思っている。私が思うに社会である程度責任をもって行動している人はきちんとした建て前がある。その建て前があるからこそ責任をもって行動せざるを得ない。世間体とか建て前とか少しネガティブにとらえられるが、しかしそれは人間が社会的動物だということのあかしであり、自分勝手な行動をとらないという積極的な意味もふくんでいる。ゆえに私はこの建前とか世間体をポジティブにとらえている。

PTAとかなんでも無学なおっさんが、さあ今日は無礼講で行きましょうとか本音で話しましょうなんていうのはろくな話し合いにならない。そういうおっさんに限って俺は教育のことはわからないがと言って無駄な持論を展開する。こういう人間に私は非常に品のなさを感じるのだが、こういう人間になぜまわりが「わからなかったら余計なことは言うな」「本筋からはなれたら切るぞ」「もし発言したかったら質問という形にしろ」と言わないか不思議だ。私なら間違いなくそう言う。


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予想通りいけばいいが

2020-03-18 | Weblog
クラブは成人会員のみで活動、コロナウイルスの影響は予想していた以上にワースであった。少し前韓国人の医師に(とは言っても一般の医師だが)日本人はまわりに迷惑をかけてはいけないと言う気持ちが強い、人の目を気にするから自粛しろと言ったら徹底して自粛する、コロナが予想以上に拡散していないのは、民族性の違いだと言った(実際はもっといろいろと説明したが)、それに対して彼は韓国は検査の体制が徹底している、誰でも気軽に検査が受けることができて、韓国のコロナ対策は予算が日本の7倍だ、おまけに情報公開が透明だから、数だけで行けば多くなるのは当たり前だ、日本にも同じようにポジティヴの人間がまだたくさんいると思わないのかと言っていた。まあそのこともわかっていたし、正直医学的な観点で言われたらそれはそうかとも思ってしまうが、しかし状況から考えて、今現在検査が進んで数が多少出て来てもそこまで拡散すると言うことはないと思っている。うちの県の話になるが、一部の機関から現在新たに感染した人が9日以降確認できていないし、半数はすでに退院、事態は少し落ち着いてきていると言う発表をうけて、現在のところ常識的な判断を踏まえて活動、そして4月からは従来通りの活動に戻ると思う。

話はお隣の国の話になるが、韓国経済は大きな格差がある、経済的には不況と言ってもいいと思う。この前ラジャーが言っていた韓国は優秀だけど経済学がだめだと、私は歴史学は興味と基準がちがうので話にならないし、政治もむちゃくちゃだと付け加えたが、しかし私は思う彼ら彼女らひとりびとりのポテンシャルは極めて高い。英語の学力も非ネイティブ圏で世界のトップ10にはいっているし、実際アメリカのIVYリーグにも多くの韓国人が入学している。学会なども普通に英語でできるし、インテリ層は3か国語は話せると思う。私は日本人なので、韓国よりも日本の方が優れていると思っているので日本のコロナに対する対策はぜい弱だみたいなことを言われたらなんだと思うのだが、しかし外国人に聞いてみても日本よりも待遇がいいし、勉強しやすい、国内はいい意味でも悪い意味でもウエスタニゼーション化が進んで、グローバルになってきたと思う。

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言葉のヒットアンドウェイ

2020-03-16 | Weblog
大学生がジムってこわい人ばかりかと思ってたけど、ここはかなりイメージが違いますね。と言っていた。たぶんこわい人と言うのは私のきらいなやんちゃですやアウトローのことだと思うのだが、さらに興味深く聞いてきたので、私はこう言った。「そういう人間を集めないようにするには日本語を正しくつかうこと。ボクシングでもヒットアンドアウエイと言うのがあるが、正しい日本語や正しい敬語をつかうことは人との距離を持つことで、これがきちんとできていないと人との距離感がもてない。程度のひくい人間が集まってくるのはその責任者の言葉がとぼしく、距離感がないからだ。言葉がとぼしければなあなあな関係しか持てない。そういう人間関係にはそれなりの人間しか集まってこないことは確かなことだと思う。」
お金をかりたり、人にきやすく頼みごとをする。人に迷惑をかけることになんとも思っていない、DQN同士は距離が近い。距離が近いから仲間意識が強く、ひとりジムに来たらまたひとり、そしてまたひとりと来るのだが、はっきり言って仲間意識が強く、集団で集まる彼ら彼女らは時には社会の害になる。一方きちんとした人は人と人との間に距離感を持っていて、なるべく人に手間をとらせない、迷惑をかけないようにする。そういう常識がしっかりしていて自立しているから安心してつきあえるのだ。日本語がとぼしければ、いくら体育会のルールを持ってまとめようとしても、集まってくる人間の質がわるいので、クラブが健全であるとは言えないと思う。うちではボクサーだからと言ってそれがアドバンテージにはならない。ここではよき社会人そしてよき親であることが大事なことだ。あいさつができて一応程度はひくいが人と話をあわせることができても、ギャンブル好きとか、そういうたぐいの借金をかかえていたり、暴力的であったり、DVやネグレクト、子供だったら学校の授業態度がわるいような人間はここには来てほしくないし、もしそうだとしたら一般の社会人が集まるコミュニティではすぐに馬脚をあらわしていずらくなるだろう。そういういいかげんな人間は言葉遣いや態度でわかる。正しい日本語がつかえないと、関係がなあなあだから言葉があいまい、灰色である。うちでは子供に競技目的でボクシングをさせることは医学上問題なのでやらせない、希望者がどうとか、あぶなくなったらとめるとか、子供相手にそういう灰色の言葉つかわないのが私の考えであり、正しい日本語をつかうことがそういう人間をよせつけないというのが私の考え方だ。
言葉によって人と距離を持つことは大事なことだ、この距離感があるから物事を客観的に見ることができるし、クラブを健全に保てると思っている。

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コロナウイルスにおける「穢れ」の問題

2020-03-11 | Weblog
コロナをめぐる報道のあり方は人権無視だということを前回のブログで表現した。どこの誰かと言うような報道の仕方はひかえる必要はある。病気にかかって、さらにマスメディアでさらされることはまさにセカンドレイプならぬセカンドディジーズである。

日本人の宗教観に穢れと言う概念がある。「穢れ」とは神道や仏教における観念であり、清浄ではなく汚れて悪しき状態を指す。とくに死、疫病、出産、月経や犯罪によって身体に付着するものであり、個人のみならず共同体の秩序を乱し災いをもたらすと考えられたため、穢れた状態の人は祭事などに関われずに共同体から除外された。そして昔はこのことによって疫病などの危険を回避し、あるものを神格化することで秩序を保ってきたのだろうが、しかし問題なのは穢れを徹底して忌み嫌う精神構造、穢れたものだから当然排斥されて当たり前だと言う考え方だ。この考え方は日本あるいはユダヤ思想に特徴的にみられるのだが、今回のコロナ患者へのマスコミの対応もその日本人の潜在的な古い考え方に基づく差別構造が垣間見られる。
先日穢れについて調べていたら、私と同じような視点で福島を見ていた人の論文がひっかかった、その日本学術振興会特別研究員 法学博士石川さんの論文の抜粋である「被災者・避難民のみならず、被災地のがれきや青森の雪までも排除するのは、まさに震災と原発事故という災いによってもたらされた「穢れ」が共同体の秩序を乱すことを恐れ、自分たちの共同体の清浄を保ちたい望む前近代的心性ゆえである。」放射線パニックにおちいった人たちが被災地の人たちを穢れとみなし、排除しようとしたわけだが、実際保育園を断られた、避難所で遊んでいたら自粛しろと言われたなど、差別をうけたそうである。福島とコロナ感染患者との関係は必ずしも同じではないが、しかし構造は同じだ。犯罪をおかしたわけでもないのに感染者などと相手が特定できるような仕方で報道すると言うことは、その人たちの人権を無視しているだけではなく、相手を穢れとして見ているいわゆる差別だ、逆に言うと何もわるいことをしたわけでもない一般の人間を感染者などとさらしものにしていいのかということが問題であるが、私は日本の報道のありかたに問題を感じている。そしてそれらの問題は日本人の持つ差別構造とは無関係ではなく、潜在的に存在するということを認識しなくてはならないと思う。

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もうすぐサクラが咲く

2020-03-10 | Weblog
現在成人会員のみで活動、日常をそこまで制限するのも不自然だと言う理由で活動しているが、今こわいのはコロナと特定されたらどこの誰か本人が特定されるような報道をすること、そこまでする必要あるのかとさえ思うが、あそこまで行けば報道は暴力だ、別に犯罪をおかしたわけでもないのに全国ネットでさらされる人間の気持ちを理解して報道しているのだろうか、何町のどこどこで働く何歳の女性とか、最近尋問されて虚偽の証言をしたとかで患者のひとりがさらされていたが、そりゃこんなことされたら虚偽の証言もしたくなる。今や生活がコロナによっておびやかされているのではなくて、報道によっておびやかされていると言っても過言ではない。人権を守るために政府は報道の規制をしなくてはだめだ。

私はそっちの専門家ではないので、人の流れでその先行きを考えているが、私の個人的な見解は来週1週間がピーク、それからだいぶ落ち着いてくると考えている。中国はかなり沈静化していると聞いているし、回復者数も多くなってきた。今日本で次々とあがる患者は検査でわかった人たちが次々と判明した程度、拡散したと言うほどの数ではない。この1週間で拡散をふせぎ回復者数の数が上むきになって来たら事態はかなり収束に向かうと予想している。日本人は右向け右の民族なので自粛して外へ出るなと言われたらそれを守るのが日本人、日本人はしてはいけないと言われたら絶対しない。たぶんそのおかげで拡散させることをだいぶおさえることができていると思う。この前韓国人の後輩に韓国ではかなりコロナが拡散されて患者が多くなったが、日本人が拡散をとどめているのは右向け右の民族でルールーを守る、全員が同じことをするからだと言ったら納得していたが、まわりに迷惑をかけてはいけないと言うのも日本人の特徴だ、コロナにかかったら人に迷惑がかかると行動をひかえる。そういう国民性がいい意味でコロナ拡散防止に働いていると思う。私は現在政府が自粛を促していることに関しては懸命の策だと思っている。時には過敏すぎるとの声もあがっているが、しかし拡散を防ぐためにはしかたがないことかもしれない。もうすぐサクラが咲く季節だ、サクラは日本人の象徴的な花である。冬の厳しい季節を耐え忍んで、そして見事に咲くさくらは地味であるがすごく存在感がある。日本人は他の民族に比べて耐えることに意味を見出す民族だ。耐えることは無駄ではない、たえた後には必ずサクラが咲く暖かい春がやってくる。

新入会者や見学の受け入れを20日以降に考えているのはこれらの動向を見て大丈夫ではないかと言うことで、現在のところそう判断している。


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