脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

トレーナーと会員には感謝の気持ちしかない

2019-06-30 | Weblog
昨日親しい専門職の人が、「仕事でいやなことがあったんですよと言っていた。どうやらクライエントに理不尽な人間がいるらしく、恐らくわけのわからんことを言って、困らせたり、プライドを傷つけたりするのではないかと思っている。
専門職というのは立場的に難しい、それがサーヴィス業的なものであればなおさらのこと、相手が理不尽な人間であれば、相手が専門家というよりも、自分が客という立場を強く主張し「金をはらっているのだから」という態度ででてくる。

私はボクシングクラブを運営するにあたって理念がある。言い換えてみれば自分には「夢」があるのだ。私は利益を追求するタイプではない。何度も言うようであるが、このクラブを経営したのはサラリーマンや中年、女性がボクシングを通して、この場が彼ら彼女らの癒しの場となるため、そして中年や女性、サラリーマンから、学生、子供までそういう人間が、この場につどいこのボクシングを通して、励まされ元気になって帰って行く、ジムをそういう場にしたい、そう思ったからボクシングクラブを経営したのだ。だから一般の社会人や女性や子供に悪影響になるような暴力的な人間DQNややんちゃですの入会はことわっている。髪をそめた中高生もいくら学校で認められていても入会させない、小学生が髪を染めるなんて言うのは論外である。クラブでルールを乱すようなことをする人間を受け入れていたら、悪貨は良貨を駆逐するかのごとく、そういう目立ちたがり屋で気の荒い人間がクラブに集まってくる。そういう奴らの常識や行動を認めて一緒に共存していくことは一般のまじめに働いている社会人には無理がある。ジムに来てまでもそこまで気をつかう必要がないし、そういう奴らは害になるので入会を拒否している。

私はすごく考え方がはっきりしているし、若い時は仕事の理想ばかりを語るので、それがいささか非現実的に感じるのだろう。よく友人に「現実はちがう、お前はまだ若い、理念だけでは経営できない」と言われてきた。しかしそれから10年以上たってわかったことは、仕事には信念とプライドをもって挑め、ついでに言えば自分が学生時代に勉強してきたことはここでは十分に役に立っている。なんでも大学で興味を持って勉強したことはかならず社会で役に立つそれが勉強であるということだ。
考え方をきちんともっていれば、その考え方をわかってくれ、支えてくれる人間があつまってくれる。今現にこの自分の考えを共有してくれ、人が集まってくれるからこそクラブの雰囲気が保たれ運営されている。本当にそのことには心から感謝しているし、そういう存在があるからこそ自分の無力やたりなささがわかるし、トレーナーや会員の人たちへの感謝の気持ちを持ち続けることができるのだと思っている。女王様の相手をしてくれたり、いろんな立場の人たちに対する会員の気遣いがそうであるが、特にはじめて来られた方や、新しい方にサンドバッグやリングをゆずってくれることは、このクラブならではのことである。
「pros and cons」は英語で「賛否両論」ということであるが、これは決してこのことだけが正しいということではない、世の中にはいろんなタイプがある。しかしこれが自分の仕事のやり方である。私はボクシングクラブをひとつの学級経営のように考えているが、この場においてボクシングを通して「勇気」と「知恵」と「力」を与えられ、お互いが励まされ、成長し、充実してもらいたいと願っている。そのために自分はしっかりとした理念を持ち、その会員ひとりひとりの充実と成長のためいろんなことに配慮し、考えて行かなくてはならないと思っている。



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monopoly on violence

2019-06-25 | Weblog
マックスウエーバーは「職業としての政治」でまず国家であるためにはmonopoly on violence(暴力の独占)が第一だと言っている。所謂力なき国家と言うのは無意味であり、国家としての意味をなさないということであろう。確かにそれは国の秩序を守るためには当然のことだ。しかしその権力と言うのは時にはゲバルトになる。私は国家権力=ゲバルトと考えているが、その権力側の言動が時には相手に対する威圧になったり、強制になったりするもので、そこをよく理解しなければ権力者側と国民との間に摩擦が生じる。為政者や国家権力にたずさわる人間はそこをよく理解して行動しなければならないのだろうと思う。卑近な例だが、刑事が犯人をつかまえるためにまわりの迷惑おかまいなしに勢いだけでつっぱしっていいということはない。人権やモラルを無視してずけずけと人の空間に入り込んで、たとえそのことによって検挙率があがったとしてもそれはゆるさせるべき行為ではないだろう。権力を行使する側は当然のモラルや常識そして時には思いやりと言うものを示さなくては国民には理解されないと思うのだが、それは当たり前のことであろう。

そしてこれは監督やコーチも同じこと、いくら自分たちは上下関係がないとか言っていても監督やトレーナーと言うのは競技者から見たらある意味権力者であり、我々の言動が時にその競技者にとっては威圧になったり、強制になったりするものだ。人を指導するというのは熱意や勢いだけでは、相手の権利や人権を侵害することさえありうる。私はそこをよく理解して我々の言動を気をつけなくてはならないと思っている。指導者は教養をつめというのは、まさに物事の本質を深くとらえて、コモンセンスを理解する能力を養うためだ。指導者は子供でも読めるスポーツのハウツー本を読むよりもさっき言ったマックスウエーバーの「職業としての政治」やハンナアーレントを読んで暴力とは何かということを学ぶ方が競技者との関係をよくする。言い方をかえればそれぐらいのことを理解できなければ力を行使するなということである。もちろんコミュニティと政治は違うが、しかしコミュニティにも小さな権力が存在している。そしてこの権力がどう行使されるかということが重要なことであり、その権力を行使することが暴力的になったり、相手を支配するものになってはいけないと思っている。



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Karate Kid 4

2019-06-24 | Weblog
ある日ジョージから今度の日曜日50ドルやるから仕事を手伝えと言われ手伝った。行くとそこは空き地のようなところ。何をするんだと聞いたら「簡単だとにかく3つあなを掘れ」と、まさか死体をうめるためじゃないだろうなと多少の躊躇はあったが、しかし50ドルは闇以外ではアルバイトできない私にとって大きい金額、言われる通りあな堀にせっせと勤しんだ。あなはさほど深く掘らなかったが(この地点で死体じゃないなと確信したのだが)、それでも3つ掘るのに時間がかかり、たぶん6時間ぐらいはかかったと思う。そして仕事をおえた私はジョージのおごりでジッピーズへ、この後あなは何につかわれたかはわからないが想像の範囲でおまかせする。ちなみに彼は不動産関係の仕事である。このジョージ、今は不動産関係の仕事をしているが、しかし昔はギャンブラーだと言っていた。そして娘がいるのだがこの娘とはずいぶん長くあっていないといっていた。ジョージと私の出会いはカラカウアジム、そこはリングが2つある体育館のようなジムで、チームが自由にトレーニングできるボクシングのために開放された施設である。当時学生のチームの一員であった私はそこでトレーニングしていた。当時のアメリカはボクシングがすごく盛んでそこでやったスパーリングでまったく相手にならず、すごく悔しがってリングを見ていたら「強くなりたかったら明日またここに来い」と声をかけてくれたのが彼との出会いである。

カラテキットと言う映画がある。私が好きなのはパート3まである古いほうのやつ。この映画の主人公はダニエルラルーソ、転校してあることがきっかけで不良グループに目をつけられいじめられる。しかしそこでひとりの老人と出会い、空手を習いそしてそのことを通して成長していく物語である。この映画ではいずれもダニエルに立ちはだかる悪役が登場する。卑劣ともいえるやり方で彼を苦しめようとするのだが、その悪役に立ち向かう姿がすごく日本的で私はそこがこの映画の素晴らしさだと思っている。何が日本的かと言うとその解決が平和的で決して相手を徹底的にやっつけようとしないところだ。その不良グループにいじめられた時も決して強くなってやり返そうと言うのではなくトーナメントを通して正々堂々と戦おうとしたし、たとえ勝って自分が優位になっても徹底的にやらない。ロッキーとかでは勝利すると大歓声の中ヒーローになり負けた人間はみじめにさっていくのだが、この映画では勝負はもう終わったのだからと相手をゆるす。私は日本の武道の精神がここに語られているんだと感動した。

スポーツをやっていて思ったことは日本人のコミュニティと西洋人のコミュニティは違うと言うことだ。まず西洋は競争第一、ゴールデングラブで優勝した奴がかっこをつけて明日からみんな俺の首を狙いに来るなんて歯の浮くのうなことを言ってやがったが、アメリカはよしもわるしも競争の原理で動いている。日本のように試合が終わってわざわざ相手のところに行ってありがとうございましたなんて言わないし、コミュニティでお互いがそこまで深く教えあったりはしない。競争社会では自分が習得したことをいともたやすくライバルに教えることなんてまずない。さらによくクラブなどで自分が休んだら人に迷惑がかかると言うが向こうでは休んだらライバルがひとりへるのでラッキーだ、そういう社会と比べたら私は日本人は競争心がないと言えるのだが、しかしともに支え合い助け合って生きると言う精神がある。そこが日本人のコミュニティのよさではないかと思っている。

ジョージは日系人そしてカラテキットの老人も日系人だが、たぶん二人は同じ世代で日系人がすごく苦労させられた時代に生きた人たちだ。私はこの映画を見るたびに彼との出会いを思い出す。私は思う。人間は絶対に誰かがいないと成長しない。私が彼に声をかけられたように誰かがその人間を顧みて声をかけてくれなければそこからはいあがったり、さらに上の世界を目指すことはできないと思っているが、ジョージもカラテキットの老人も日本人が持っている助け合いの精神を持っていたその人たちで、私はそのことを日系人である彼らから学んだ。


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ボクシングと倫理学

2019-06-21 | Weblog
うちのクラブは高校生になるまでは頭をたたくようなトレーニングはしないさせない。理由は医学上危険なことであるからだ。にもかかわらずそれをあえて望む親がいるから驚いている。私はそういう親にはパンチの衝撃をまだ成長していない頭にうけることは危険だということ、そしてあえてそのことを理解しても子供に競技目的でボクシングをさせるのかと聞くのだが、しかし中には何を考えているのかはわからないが、子供の気持ちを尊重するという親もいるからあきれる。しかしそういう判断は子供ができないから大人がする。ボクシングは医学上子供にさせることは危険であるからさせてはいけないというのが常識的な判断だと思っている。
だいぶ昔読んだ社会学者の本で「Dialektik der Aufklarung: Philosophische Fragmente(啓蒙の弁証法)」と言う本がある。その中でナチズムの台頭について、ヨーロッパの理性は何かを成し遂げるための道具として利益追求のために発展してきたことを過程として、そしてそれがファシズムやナチズムに利用されたと述べている。そして大事なのは核兵器をつくる科学技術を進歩させるのではなくて、まずそれをつくっていいかわるいかという理性を持つことだと言っているが、子供にボクシングをさせるかどうかということも同じことだ。子供のころから競技させてアドバンテージをとるという利益追求の目的論ではなく、それをさせていいかどうかということを判断するために理性を働かせることが大事で、私はそのためにはまず医学的な見解がプライオリティでそして倫理学的なことが次に来ると理解している。
私は医学が専門ではないので倫理学的な見地から書くが、私自身は子供に競技目的でボクシングをさせることは倫理的にも問題であると考えている。まあこれは高校生もそうであるが、しかし高校性になると医学上は大丈夫だということなので、競技してもいいのだろうが、しかし高校生も含めて少年法の見地から言えば未成年だ。善悪の判断もとぼしいと思うし、自分で責任をとれるような年齢ではない。もしパンチのうちどころがわるかって相手が死んでしまったら、その責任をその子供に背負わすのか。特にあぶないのは中学生ぐらいであろう。体は発達しているが、しかし頭蓋骨はまだ発達段階だと言える。そういう段階で十分に力のついたパンチをもろにうけるのは非常に危険である。そういう判断も乏しく、何もわからないような状況で相手をたおせとただ相手をたたきのめすトレーニングをしてリングにあげるのは無責任、私はボクシングはそういうアクシデントがなるべくおこらないように高校生ぐらいからはじめるのが妥当だと思う。ボクシングは危険でけがをしやすいスポーツだ、そして最大の問題はそのけがを負わすために相手に打撃をくわえるということだ。誰かがけがをするということは必ずそのけがをさせる側も存在する。例えばあばらがおれたとか、鼻がおれたとか、そう言ったことに対してやられたほうは病院にいけばいのだろうが、しかしそれをさせてしまったほうはいたたまれない気持ちになるだろう。しかしそれが勝負だから仕方がないと言って割り切らせるのだろうか。ボクシング廃止論ではボクシングを禁止すべきことはボクシングの目的は相手を倒すことだからで、この行為が倫理上問題だと考えているからであるが、人をたたくという暴力行為はスポーツだからと言ってほかのスポーツのように簡単にかたづけられるものではない、おそらくこの問題は倫理上最大の配慮を持って考えられるべき問題であろうと思う。

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나팔꼳 이 피면 朝顔がさいたら

2019-06-17 | Weblog
ワイキキにあったインターナショナルマーケットプレイスと言うすごくあやしい市場がいつの間にかなくなっていた。この前ハワイに行った人の話によると、数年前からリゾート化された新しい建物が建っているらしく雰囲気もかなりかわったそうである。そこにはジウンの友人の親が店を出していたのでジウンとほんと時々遊びに行っていた。そこで売っているのは金のアクセサリー、それをおもに日本人観光客に売るのだが、彼女はお父さんが日本人?3か国語をすごく流ちょうに話すアジア系アメリカ人、日本語も上手に話せて結構観光客の関心を引いていたと思う。実は彼女は日本にも小学生の時1年ぐらいだが住んでいたらしいのだが、そこでおぼえているのが夏休みに朝顔の観察日記をつけたこと、でも日本の新学期にはアメリカに行ったので、そのつけた日記は結局提出できなかったそうである。彼女はジウンの教会の友達で、彼女がまだお腹の中にいた頃わけがあってお母さんとここに来たと言っていた。
話は少しかわるが、ジウンからアメリカにだされる最も多くの養子は、韓国人だということを聞いて衝撃をうけた。離婚したり、未婚のままで生んでしまった子供を祖国では女性ひとりの力では育てることはできないので、仕方なく養子に出すのだそうだが、韓国では女性の地位がひくく、当時は女性が社会に出て男性並みに働くなんていうことはほとんどできなかったので、断腸の思いで自分の子供を養子に出すそうであるが、彼女もたぶんそういうわけがあってここに来たのだと思う。

彼女は敬虔なキリスト教徒で、私にこういった。
「平等ってわかる?」私が「なんじゃそれ?」と言うと「力が物を言う現実の社会では本当の平等など実現できない、所詮弱い者は排除されたり、迫害される、人間が本当に平等になるためには、みんなが弱さを認めて、同じ罪人だと認めること、そして神によって救われること」そして彼女は有名な聖書の話をしてくれた。
あるひとりの娼婦がその現場をおさえられてみんなの前にたたされた。
当時女性の売春は見つかれば死罪で、こういう罪は群衆の前に立たされて石をなげられて殺されるという悪しき習慣があった。
当然女性が立たされたのは殺されるためで、その時まさにその女は、これからみんなに石をなげられて殺されようとしていた。
しかしその時イエスが群衆に立ちはだかった。しかし群衆はイエスに対して「お前は女の見方をするのか、その女は罪人だお前は犯罪者をかばうのか」と敵対心をむき出しにする群衆であったが、しかしその群衆に対してイエスはこう言った。
「君たちの間で罪のない人間が石をなげろ」そう言われて少し沈黙が続いたが、その言葉を聞いた群衆は年老いたものから順に帰って行ったそうである。
聖書によれば人間はすべて罪人で、罪を持っているから弱い存在である。
彼女いわくその罪人でよわい人間がそのことを認め、神によって救われることがキリスト教の根本的な考え方で、彼女らの言う平等とは、人間は罪を持っていて弱い存在ではあるが、しかしそのことを認めて神に救われて生きることだ、この時男たちが石をなげることができなかったのは、罪が無いと言ってしまえば彼らが神に救われることがない人間であることを認めてしまうことと、さらに罪人だと聞いてこの女も我々と同じで、救われなくてはならないということをその時悟ったからかもしれない。
人間は弱い存在だ、弱くて罪人であるから不平等や差別という感情を持ってしまい、人を迫害したり、殺してしまう。その時いつの時代になっても犠牲者となるのは女性や子供そして弱者である。イエスの教える平等とは人間は弱い存在であり、弱い人間だからこそ支え合い助け合って生きること、そのことを認めることからはじまる。彼が当時人に忌み嫌われていた人間たちや、娼婦のように軽蔑されていたような女性たちととともに行動し、ともに悲しみや喜びをともにしたのは、まさに人間というのはいくら立派に振る舞おうが、ごまかして生きようが彼ら彼女らと同じなのだ、そしてその人間が自らを認め、支えあって、助け合って生きることの大切さを教えようとした、そしてそのことにおいて平和を実現させようとしたのがイエスの思想である。私にはこの彼女の言ったことが100パーセントわかるわけではないが、しかし人間は弱さを認めることは大事なことだ、人間なんて所詮立派な態度や気持ちで人を助けることなんてできない、おそらく自分は弱いその弱さを共感できる部分でその人と同じ気持ちになれるのではないだろうか。

「強くなりたいか」この言葉は私とジョージがはじめて出会った時に彼が私に言った言葉だ。マイノリティーでボクシングが面白くなってきて、頭角をあらわし始めた頃、地元の結構強い人間に歯が立たず、私があまりにも悔しそうだったから声をかけてきたのだろう、お前はやんちゃぼうずだから気に入ったと言っていたが、この時から私は個人的に彼の指導をうけた。男は時には強くなりたいと願うものだ、そしてそれが私のようなマイノリティーの人間ならもちろんのこと、中には力をつけて人を見返してやると言う奴もいるだろうが、しかし力をつけたら自信がつくなどということは錯覚にすぎない、腕力で強くなろうが、自信なんてつかないし、本当に強くなったとは言えないだろう。たとえまた強くなっても今度は、さらに強くなる人間におびえなくてはならないから情けない話である。格闘技をする人間は強さを求める奴が多いが、しかしそんなものを求めても無駄である。そんな強さを求めるよりもまず自分の弱さと向き合い認めることが大事で、その弱さを認めたときに自分の足りなさに気づき、本当に大事なものが見えてくるのだと思う。
私はなぜか朝顔がさく季節になるとその市場で流ちょうな日本語をつかい、明るく観光客相手にセールスしていたその子を思い出す。たぶんここに来た理由は決してポジティブな理由ではないだろうが、しかしここで精一杯明るく生きる彼女を見て励まされたことは確かなことである。



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哲学コンクール

2019-06-14 | Weblog
自然の中には何一つ偶然的なものは存在しない。一切は神の本性の必然性から一定の仕方で存在したり作用したりするように決定されている。
(スピノザ) 
君たち人類の価値基準こそ、僕らは理解に苦しむなあ。今現在で68億人、しかも4秒に10人ずつ増え続けている君たちが、どうして単一個体の生き死にでそこまで大騒ぎするんだい?
(アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」)

これは中高生を対象にした倫理哲学グランプリのエッセイの課題である。このテーマで哲学あるいは倫理学のエッセーを書くようだが、私は課題を見た時「えっホントかよ」とさえ思ったぐらい難しいテーマである。特にスピノザなんて理解できるのだろうか。たぶんこれは著書「エチカ」の抜粋であり、神はすべてのものに宿っていて人間もその一部であり、少し広げて言うならば人間は目的を持って生かされているという汎神論である。おそらくこの文章を読んだだけではなんのこっちゃと思う人がほとんどだと思うのだが、こういう内容のしかも哲学書の抜粋したところを十分理解して中高生がエッセーなど書けるのであろうか。エッセーと言ってもたぶんこれは欧米で言うところのエッセーであって、その内容は日本語で言うところの論文である。おそらくこのエッセーを日本語的なエッセーと受け取って書いていたらその地点でアウトだろう。
この前親しい韓国人と哲学の話になって「人間だけが時間の感覚を持つ、だから人間だけが自分は永遠でないということを知っている」とハイデガーは存在と時間で説明してると言ったら「お兄さんは動物の気持ちがわかるのか。犬になったことがあるのか」と言われた。一瞬えっと思ったが、確かにそうだ。彼女の言葉は屁理屈のようにさえ聞こえるが、しかし現代は科学もかなり進歩してきているのでサルトルやハイデガーのような少し前の哲学者が持っている人間だけがとか人間こそがと言う価値観は正しいとは言えない時代になっている。ひょっとしたら犬にもそういう感覚はあるかもしれないし、これからそのことが実証されるかもしれない。サイエンスにはifは存在してはならないが、しかし哲学や倫理学のエッセーはその可能性を残しながらifと言う立場で物事を発言しなくてはいけないと思っている。ピケティの経済理論も完成されていないifでおわっているが、しかし完成されていないが、かつ未来に向けて挑戦している論文である意味完成された論文である。だからもしエッセーを書くとしたら自分はこうだという意見よりも、自分はその考え方をどう思っているのかと言うことを主張しつつ、さらにそこから未来への展望を語ったほうががうけがいいのではないかと思っている。




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혼잣말 キムホヨンの独り言

2019-06-09 | Weblog
「スモハラ」
うちのクラブの前を何人かの男がくわえたばこをして通る。うちの地区は比較的おちついているので、ガラの悪い住人はいないが、ストレンジャーがすぱすぱとたばこをくわえてすたすた歩く姿に非常に不快感を持ってしまう。タバコは吸う人間にとってどうってことはないのだろうが、吸わない人間いとっては非常に害である。タバコの煙は非常に重いので2、3メーターぐらいからでもただよってくる。時にはその煙を吸い込むときもあるのだが、非常に不快、また子供が歩いてきたら危険だとは思わないのか。最近ある作家が禁煙者に喫煙者が弾圧されているなどと言っていたが、この人はたばこの煙をうけるということが吸わない人間いとってどれだけ苦痛であるかと言うことを理解していない。所謂たばこをすわない人間はやられる方である。煙でのどが痛くなるし、気分が悪くなるし、とにかく近くですぱすぱとやられたら吸わない人間はたまったもんではない。もちろん相手のことを考えてルールを守ってすう喫煙者もいるが、しかしあの重い煙をかがされ、間接的に煙を吸わされる行為は、まさにされる側から見たら被害であり、傷害である。パワハラ、モラハラ、セクハラとあるが、私は煙をまきちらす輩をモラハラならぬスモハラだ。

「ヘタレ、弱虫に告ぐ」
私はボクシングをやったら自信がつくなんて思わない。気が弱いから、ヘタレだから何とかしたいと格闘技の門をたたくが、しかしその期待はたいてい期待外れにおわるであろう。なぜなら性格なんて持って生まれたものでそれをかえようとしても決してかえることはできないからである。しかしこの性格が生れ持ったものであるからかえれないというのは、決してネガティブなことではない。なぜならその性格そのものは自分が持っている特別なものであるからだ。それを宗教的に言うと英語でGiftと言うのだが、ギフトと言うのは神に与えられた自分特有の賜物ということらしい。人間はその賜物を持っているのだからその賜物を生かせということである。
人間には必ずいいところがある。気が弱いとかヘタレと言うのは人の痛みを共感できたり、人の気持ちがわかるということだ。
強そうな人間でやさしい人間はどこかで痛い思いをしている。人間と言うのは愚かだから我々のような少々腕力がある人間はどこかでどん底のような痛い思いをしなければ人の痛みなんてわからない。でも弱かったり、ヘタレと言うことはもともとやさしい人間だとも考えられる。その人がいるだけで和んだり、幸せを感じたりとそういう影響を与えるとしたら、そのギフトがいかされているということで、私はそれしかできないような人間が集まって恰も何かに逆らって生きることがかっこいいとか、そこに存在証明を求めるよりも、もともと持っているギフトをいかして人から愛される方がより良い生き方ができると思っている。自分が弱いと感じる人間は、かりそめの強さを求めるよりも、自分のもっている弱さゆえに人の気持ちがわかったり、共感できたりできるということに気づくこと、そしてその弱さに気づくことで今度は自分が人に何かをしてあげたいという気持ちにつながる。そういう気持ちがやがて自分の意志や目的となって自信へとかえられていくのだと思う。スポーツで人間形成なんておくがましいことだ。そういうことを言う人間に限って10秒で眠たくなるような持論を語るのだろうが、しかし大事なのは人に何かを教えてやろうとか、指導してやろうという偉そうな態度ではなく、お互いをリスペクトする気持ち、そのリスペクトする気持ちを持てばその人のよさというものが見えてくるだろう。







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나야 나  That's me myself.

2019-06-04 | Weblog
うちの子の友達にアジア系のバイレイシャルの子がいるらしく、その子が優秀で家柄もよくて裕福な子らしいが、うちの子の価値観では(あくまでこれは彼の価値観だが)アジア人のバイレイシャルは優秀な人間が多いらしい。この前もテレビでそういう子が出ていてそう思ったのだが、なぜそういう人が多いのか人種的にはそうかわらないに不思議だと言っていたので、そうかと私なりの考え方を答えた。あくまでこれは日本と言う特別な環境の中でと言うことだが、もともとバイリンガルとかトライリンガルは考え方やモノの見方がひとつではない。例えば「犬」は日本語、英語では「Dog」そして韓国語では「ケッ」である。日本でも英語圏では犬は親しみやすく愛らしい動物である。ヨーロッパでは冗談でもテロで犬に爆弾をかませてなんて言うと大問題になるらしいが、それだけ犬はヨーロッパでは愛されているし、それは日本も然りである。しかし韓国ではケッはどちらかというと嫌われている動物で、逆に韓国人に冗談でもあなたは犬みたいだなんて言ってはいけない。同じ犬と言う言葉でも国によってイメージが違う。そのことは日本語だけ、そしてひとつの文化しか知らないとよく理解できないが、言葉が理解できるのでふたつの見方ができる。そういう感覚をすでに持っているのがバイレイシャルだと思う。だから多面的な見方ができるし、人とは少し違った角度から物事を見ることができる。それがバイレイシャルのアドバンテージであると思っている。しかし考え方が自由すぎて一般の企業には向かないのか、そういう重要な仕事で地位のある人間はあまりいないと思う。これから時代はどうなっていくかわからないが、思想家や研究者、そして芸術家や芸能関係そういった類で活躍できるが、しかし莫大な財産や地位を築くというタイプではないと思う。

私も一応バイレイシャルだ。一応日本人で、日本は世界一住みやすいと思っているが、しかし日本のスポーツ集団はにがてである。だいぶましになってきたとか言っているが、しかしまだまだ権威主義的、どうやったら人前であれだけでかい声でしかもたいして知らない人間たちにあいさつできるのかわからないが(たぶんやらされているからだと思うが)パフォーマンスがおおげさだ。あいさつなんてTPOによっては会釈ぐらいでいいだろう。そのほうが品があるなんて思ってしまうのだが、私から見たら日本のスポーツ界は私には理解できないルールがあってついていけない。

試合がおわったミーティングなどで監督が話をしてそれを「ハイハイ」と一応返事だけしている光景も異様である。話していることはたわいもないような話であっても納得したように返事する。さらに監督は上から目線で偉そうに話しているのを見たらわるいがそれは看守と囚人のような関係にさえ見える。私だったらそういうくだらない話をしたら手をあげて質問してやるのだが、話がおわったら解放されるように解散、たかだかスポーツをするのにそこまで飼いならされなくてはならないのか理解できない。日本は競技者には厳しいが、しかし彼ら彼女らを管理する組織、所謂その管理者に関してはあまく、それはこれまでの不祥事を振り返ったらわかると思う。だいぶ前に会長に特別な接待をしたとかいうことが問題になっていた。自腹なら問題ないのだろうが、もし会計からでていたらそういう予算を出したことが問題で組織の管理の問題ではないかと思うが、組織が杜撰だとそういうことも問題にならない。さらにパワハラとか性的暴行なんて言うのは個人の問題だけではない。きちんとしたガイドラインをつくって、こんなことをしたらこうなりますよと厳しく徹底して管理すべきだと思う。外国のガイドラインを参考にして、まとめて文章化したら競技者も必要以上に我慢したり、泣き寝入りなんていうことはおこらないだろう。だいたい大きな不祥事をおこすような人間はそういった小さなことと言うか、うまく人を小ばかにしたり、差別したり、暴言をはいたり暴力をふるったりとそういう行為を繰り返している、ただそれが公になったり、事が大きくなっただけで本質的にはかわらない。そういった犯罪行為を抑止し、まともな人間が認められてコーチングしやすいように、自分たちは何をしてはいけないのか、そして何をすべきかということを言葉化する必要はあると思う。そのことをしっかりするだけでも雰囲気はかわるだろう。うちのクラブはすごく平和的だ。女性が多く中年も多い。トレーナーもまわりから社会人としてリスペクトされているし、まわりの会員の人たちも協力してくれて比較的人間関係においてはいい環境だと思っている。私がブログを書いているのは、これがガイドライン的な役割を果たしているというかそういう目論見があるからだ。そうでなければ書かないだろう。ある程度うちはこういう考え方でこういうことは絶対してはいけませんよということをはっきりと書いている。哲学までつかって書いているのは読む人にはしっかりと理解してほしいからで、しっかりとその言葉がまわりの理解を得て浸透したら、このコミュニティはしっかりしたものとなると信じているからだ。少し前まで愛のある体罰なんて言っていたが、きちんと文章にまとめてたら「暴力はふるうな、ただし愛のある体罰はいい」なんて書けるはずはない。文章化してきちんとガイドラインを持つことは何をしてはいけないかということの白黒をはっきりさせることは、よりよいトレーニングの環境をつくりだすためには必要なこと。さらに英語などでそういった類のドキュメントを読んだら、いかに監督やコーチは責任を持たなくてはいけないかと言うことがわかる。

「集合!」どどどっと集まるのは刑務所、競技者の質がわるいとそうなるが、「はいみんな集まってくれる」と自然とそういう言葉で集まるのが理想的。



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運動音痴、ヘタレ大歓迎

2019-06-03 | Weblog



韓国語には未来形があって日本語と英語には未来形がないという話をした。さらに韓国語には連体形と言うのがあって動詞や形容詞と名詞をつなげるのだが、これも過去、基本形、そして未来形とある。例えば食べるリンゴが基本形としたら、過去は食べたリンゴ、そして未来形は(未来に)食べるためのリンゴと英語や日本語にはない表現がある。ちなみに Ἀπολογία Σωκράτους(ソクラテスの弁明)はソクラテス裁判の概要であるが、この書物は古典ギリシャ語で書かれている。実は古典ギリシャ語も時制の区別がたくさんあって、未来はもちろんのこと、さらにアオリストと言う過去の表現があるが、これは完了や継続、そして反復などを持たない単なる過去の動作をあらわした表現である。当時は哲学がすごく盛んだった時代で古典ギリシャ語はソクラテスやプラトンの時代に使われていた言葉だ。私はこの言葉を学んだがすごくおぼえることが多くて断念したが、時制の区別がはっきりしていて、かなり難しく高度な言葉だと思っているが、おそらく古典ギリシャ語は当時裁判や議論が多かった時代に適応した言葉だと思っている。さらに朝鮮王朝の記録も歴史的なことを綴ったものではなく、おもに王の生活などをことこまかに説明し、記録したものだと聞いたが、おそらく古典ギリシャ語も韓国語も時制の区別がはっきりしているが、それは話すためだけではなく、証言したり、書いたり記録したりするには都合のいい言葉ではないかと思う。

このハングル文字をつくったのはセジョン大王と言う偉大な王様だが、当時朝鮮では漢字を使っていて一部の人しか読めなかった。それを憂いたセジョン大王が子供や女性も文字がきちんと読めるようにと学者を集めてつくったのがハングル文字、そしてのちに韓国語となる。私はセジョン大王をすごく評価しているが、それは単純に言って当時弱い存在であった、女性やこどもたちのために彼ら彼女らが生活しやすいようにと文字を発明したからである。セジョン大王はすごく本を読んで勉強した王様であると言われているが、彼はその学問を本当に人に生かそうとしたその人である。

うちのクラブでも優先順位は女、子供、男となっているが、これは格闘技の世界では女性がマイノリティであると感じるからだ。格闘技の世界はまだまだ男社会だ。暴力的な話で盛り上がったり、怒号をひびかせたり、裸でトレーニングするなんて言うのは言語道断であるが、過剰でない限りは公共の場で女性や子供が威圧感を感じたり、こわがったりするような行為はさけるべきである。正直言ってまだまだこの世界は自分勝手な奴が多い。常に優位な立場に立ちたい、人よりも目立ちたい、えらくなりたいという態度が見え見えであるが、自分は気が小さくて、傷つきやすいのにそういう自分のフィルターを通して他者を見ようとしない、弱いくせに強いふりをして生きる。そういう人間ばかり集まったとて、そこに何の意味があるのだろうか。今日あげた「너무 아픈 사랑은 사랑이 아니었음을」は、日本語に訳すと「とても痛い愛は愛ではなかった」という90年代にはやった歌、でもテハンノでジウンが言ってた「この世で一番偉大なサランは惜しみなく与える神のサランだ。しかし我々はパーフェクトじゃないから一方的に与えられない、与えてもらわないと傷つくし、時には自分の無力さを感じるが、しかし不完全で痛みを知るからこそ、人は共感できる。そしてその共感が連帯になり、大きな力になる。それがボランティアの本質だ。」人間は弱い弱すぎる。でもその弱い人間が強いふりをして生きることはしんどいことだ。せっかくその弱い人間が集まっているのだから、お互いがそれを認め合って助け合い、支えてあっていきたいと思う。

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