脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

LAで話題になった韓国人ボクサー

2022-06-30 | Weblog
私がジウンと知り合ったのはとある場所、アレンに連れて行ってもらった時に、そのおばさんの店をそこを手伝っていたのが彼女である。彼女は大学でビジネスを専攻していて英語、韓国語、日本語を流暢に話す。そこで意気投合した私たちはいろいろとお互いのことを話した。ボクシングをやっていると言うとへーっと冷めたように面白いと聞いてきて、そしてあるボクサーの話をしてくれた。その話は今でも鮮明におぼえているが、彼の名前はkim DeukKoo在米韓国人の間では有名なボクサーである。なぜ有名かと言うと彼はラスベガスのファイトで死んでしまったからだ。当時勢いのあったブーンブーンマンシーニと言うボクサーとの激しいなぐりあいの末、命をおとしてしまったのだが、この試合からボクシングのタイトルマッチは15ラウンドから12ラウンドになったことは有名な話だ。このストーリーはニュースなどでも取り上げられて、ドラマや映画にもなっている。ボクシングは危険だ。日本ではそういうことがあまり語られていないようだが、欧米では医師などが介入し問題を提起することで、ボクシングの在り方やルールがかわることもある。15ラウンドから12ラウンドになったのはまさにそうであるが、ヨーロッパでは子供にはボクシングさせない、米国も子供にボクシングさせることは消極的になっているが、これらはすべて医学的な見地に立って危険だと判断されるからである。ボクシングの試合にはアマチュアもリングドクターが存在しているが、私は彼ら彼女らの役割は大きいと思う。減量なんていうのもある程度の範囲をこえれば危険だし、スパーリングにおける脳のダメージなんて言うのも素人にはわからないのだから、そういう専門家の話をしっかり聞いてまずボクシングは危険だと言う認識を持つ必要はあると思う。子供の頭をたたくというのは医学的見地からだけではなく、倫理などの問題も含めて考える必要性はあるが、そういう意味では責任者にはそれなりの知的レベルが求められるというのは自問自答の意味もあり、これが私の見解であるが、」新聞や本を読まない、片言の英語すらも理解できないような人間が医学的なことや倫理的なことをある程度理解して群れを管理していくことは難しい。子供にボクシングさせて大丈夫かと聞いたら、軽くあてている(どの程度)あぶなくなったらとめる(あぶなくなつてからじゃあおそいんだよ)スパーリングは本人の希望次第(判断力のない子供にそういう責任をおわせない)とかそういう灰色の答えがかえってくるのは真面目にその安全性について考えていないからであろう、大事なのはそういう危険なことをさせて優秀なボクサーをつくるのではなく、ケガや大きなダメージを受けないように子供を守ることだと思う。
うちのクラブではもちろん高校生までは頭をたたくコンタクトトレーニングはしないさせない、ボクシングは危険だと言うことを前提としているが、私の見解ではコンタクトトレーニングの低年齢化はその群れの知的レベルに比例すると思っているが、平和的にトレーニングするためには、その指導者、責任者がよく考えることだ。ボクシングのどうやったらうまくなるかなんていうのは子供の遊びのようなものだ。群れを管理するものに必要なのはまともな判断力で、その判断力を養うためにいろいろな見地から学ぶことが大事で、私はその群れの知的レベルをあげたらジムは平等、安全に機能すると信じている。

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Come back tomorrow

2022-06-17 | Weblog

私はよくブログなどでKarate kidについて話題にしている。私が好きなのは古い方のやつで、ひとりの少年が日系のおじいさんを通して成長していく物語である。私がこの映画が好きなのはこの映画にはたくさんの教訓があるからである。映画で主人公は理不尽なことでトラブルにまきこまれてしまうのだが、しかし何があっても力にたよるのではなく、平和的な解決を求める徹底した非暴力を貫き、生きていくためにはバランスが大事だと説く、そして私も実際日系人からボクシングをならったので主人公と自分を重ねてしまうのである。
私とジョージの出会いはカラカウアジム、ヒスパニック系の人間とスパーをしてまったく相手にならず、くやしくてくやしくてなぜかリングを見ていたら声をかけてくれたのがジョージで、そこから彼にボクシングを教えてもらった。今でもよくおぼえているのは合気道の達人とか言ううさんくさいじいさんを連れてきて特別プログラムを組んでくれたことだ。私はそのじいさんの指導でフラフープを改造したへんてこな道具を使う運動と誰がこんな歩き方をするんだと言う歩き方を30分から40分ぐらいさせられたのだが、時々成果が出たかどうかじいさんがチェックするのだが、その時「お前そこでかまえてみろ」と言ってかまえたらここに力が入っとると容赦なくじいさんのツキが入る。いきなりの攻撃に「何するんじゃくそじじい」と思わず出そうになったがそこは我慢、でもじいさんの修行のおかげでパンチのスピードがめちゃめちゃはやくなって、不器用でフックとかうてない私でもジャブクロスだけで勝つことができたので本当におどろいた。プロボクサーだったたけちゃんがよく私の体の使い方はまねができない特殊だとほめてくれているそうであるが、そういう指導を受けたら力をぬくことがいかに大事かと言うことがわかる。私なんかはボクシングにも合気道の練習を取り入れたらいいと思っている。
そのジョージは今はこの世にいないが、私は学生時代にここでジョージとボクシングができたことは私にとっての大きな財産だ。たぶん彼は私のことを強烈に覚えているだろうし、私はもしもう一度生まれかわったとしても彼と一緒にここでボクシングをするであろう。今日あげた動画でひととおり空手のレッスンが終わった後にミヤギがダニエルに”Come back tomorrow”と言う。確か最初ジョージと会った時ジョージもそう言って私を受け入れてくれたと思う。

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校則は必要

2022-06-13 | Weblog
法律の書物で一番使われていないのは教育六法ではないかと思う。元来ならば教育六法を盾にして教育委員会が教師を守らなくてはならないのだろうが、しかしその逆で教育委員会はむしろ攻める側だ。マックスウエーバーは「職業としての政治」でまず国家であるためには"monopoly on violence(暴力の独占)"が第一だと言っている。所謂力なき国家と言うのは無意味であり、国家としての意味をなさないということであろう。 暴力の独占と言う言葉は少し乱暴であるが、しかし何事においても秩序を守るためには力の行使は必要であり、それがなければ無秩序状態になると言うことである。うちのクラブは中学から私立に通っていた人が多いが、私立の学校は校則もわりと厳しいので、みなさん校則を守り学校生活のルールをきちんと守ってきた人たちと言えるが、往々にしてうちの会員の人たちは真面目に校則を守り学校生活をおくってきたと言ってもいいだろう。マスク着用の時もそうだが、今必要で守らなくてはならないと言うことを認識したら、みなさん一斉に決めた日からマスクを着用してトレーニングしてくれる。裸でトレーニングして汗をまきちらす、けんかごしでなぐりかかっていくなどという野蛮でDQNがやるテンプレのような行動はしないし、こんなことをやったら神経を疑われるような行動はとらない、そういう道徳的なセンスをしっかり持っている。だからこそ管理しやすく、ジムが平等で平和であると言えるのだろう。彼ら彼女らの行動はもちろん家庭や教育に基づいたものであると思うが、しかしこれらのことは学校生活とは無関係であるとは言えない、むしろ学校生活において訓練されてきたからこのような行動がとれるのだと思う。今教師の力がうしなわれつつ校則が意味をなさないが、しかし校則は大事でそれを守らせるための力は必要だ。うちのクラブは暴力的な脅しはなく、こわい人など存在しない、文化部のような独特の雰囲気があるが、それでも道徳レベルが高いのは、彼ら彼女らが生きてきた過程において培われたセンスであり、もちろんそれは学校生活も関連していると思う。

参考文献
マックスウエーバー「職業としての政治」

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“Gemeinschaftsgefuel community feeling

2022-06-06 | Weblog
常日頃からジムにはどういう人たちが集まってくるかと言うことを問題にし、一般の社会人が安心してトレーニングできるようにアウトローやDQNを入会させないと言うことをモットーにしているのがうちのクラブである。
アドラーにおける共同体感覚は「自分はグループの一員だと言う感覚を持っている。」「積極的に仲間の役に立とうとする。」「かかわる人たちと互いに尊重尊敬できる関係を持っている。」「すすんで協力しようとする」とのことであるが、これらは根本的に言って余裕がなければできないことだ。余裕とは人に何か喜ばれることをすることで心が豊かになっていくことを喜びと感じる人たちのことで、教える立場にしてもそこで中心になって偉そうにできるからとか、先輩風をふかして自分が好きなことをできるからとか、そういうケチなことを考えてはいない、仕事にしても、心にしても余裕のある人が集まっているから人にゆずることができたり、何かを与えることができる、そのおかげでジムはアホなヒエラルキーなど存在せず平和に運営できるのだと思っている。エイリッヒフロムは著書「愛されると言うこと」の中で「愛」についてこう語っている。「愛とは炎のようなものである。それは誰かに分け与えないと、消えてしまいかたくつめたい石のようになるだろう」と。Eフロム曰く愛とは、愛されることではなく、愛することであるということだ。この言葉は「愛は惜しみなく与える」と聖書の中にもでてくるが、この言葉はたいへん有名な言葉で、確かマザーテレサなんかも引用している言葉である。我々人間はコミュニティの中で生き、そしてそのコミュニティにおいて本当に生かされた環境をつくりたければ、 感謝し感謝される関係を築くことである。そのためにはまず人のために何かをしようとするボランティア精神が大事であり、その精神がコミュニティを豊かなものにすると信じている。しかしそれは人からやれと言われてするものではなく、ボランティアと言う言葉があるようにそれは自発的なものでなくてはならないと思っているが、そうなるためにも管理者自らがひとりびとりを尊敬することは必要なことである。そしてそのコミュニティをよくしていくのはそこに集まる人たちの持っているセンスである。それは教育や家でのしつけなど様々なことが要因となるが(私はこのことと運動部のルールや礼儀が同じものであるとは考えていないが)そういうセンスを持った人たちを中心にコミュニティの形成を考えることで、ボクシングと言う暴力を扱ったスポーツに一般の人や女性が安心してトレーニングできると信じている。

ここに来てこのコミュニティの中で楽しく意味のある時間をすごすことで、希望や、勇気、そして元気と言う言葉を感じてほしい。人間はひとりびとりは無力であるが、しかし支えあい認め合うことで大きな力が生まれると思う。よくやったね。ありがとう。感謝してるよの一言は単純な言葉かも知れないが、しかしそれがしっかりとした相互関係の中で語られる時、人間の存在を確かなものとするだろう。人間は存在を認められなくては成長しないし、生きていくことはできない。感謝しあうと言うことはお互いを認め合うと言うことだ。ボクシングはその競技を通してそれができる素晴らしいスポーツだ、そしてそのスポーツをそのようにするためにはしっかりとした土台を築くことが大事だ。

*アドラー心理学で"Gemeinschaftsgefuel" は日本語では「共同体感覚」と訳されるが英語では"social feeling"私がセンスと言う言葉を使うのは英語的な発想である。

参考文献
E フロム「愛するということ」



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