脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

オリーヴの経営理念

2010-05-31 | Weblog
Mtオリーヴは、ボクシングから英会話までありがたいことに、興味をもって来て下さる人が多いが非常に感謝している。
Mtオリーヴは次の3つの経営理念を持って運営している。
1、情報、インテリジェンスを重要視する。
2、無駄な拡張はせず。会員に還元する。
3、社会貢献を目指す。
どれもごく当たり前のことであるが、しかし絵に描いた餅ではなく、これを理念にして生かすとなると少し難しい。
まず情報重視ということであるが、これは現代では当たり前のことである。
特にボクシングなどの横文字関係を扱う仕事は必須条件で、情報はインテリジェンスと訳されるが、まさにこの情報は現代社会においては武器であり、前にも述べたがこの情報を集め、そしてそれを適切に正しく処理して、駆使していくアビリティが、今の時代のリーダーには求められるのではないかと思っている。
おおげさに聞こえるが、インターネットが普及された現代社会において、情報と言うのはどこでもひろえる。
もう言わずともわかるが日本語でボクシングだけでも、情報はごまんとあり、それが英語になるとその100倍、いや1000倍はある。
その情報を収集し、流されることなくそれを駆使していくアビリティが必要であり、オリーヴにとって語学と言うのはその情報を収集するための手段としての必要条件である。
もう面倒見とか親分子分の関係を築いていく統率力は古いし、派閥を生み出す悪しき弊害である。特に我々のようなベンチャー企業には情報は重要である。この情報をどう集め、どうそれを生かす能力が問われる。
2、無駄な拡張はしない、会員に還元する。
これは文字通り、無駄な拡張はしないということである。
業種によっては拡張しなければ生き残りが難しい場合もあるが、オリーヴは無駄な拡張はせず、そのためオンリーワンというか、自分たちの個性を生かした仕事をし、仕事で得た利益もある程度会員に還元するということを考えている。
ボクシングクラブにしてみても、英会話ができるのは運営されているのは、私が英語スクールを経営しているからだし、またクラブの運営の仕方も体育会系の延長ではなく、社会人にあった雰囲気作りができているのも、アメリカでボクシングクラブに所属していたからであって、手前みそだが、運営においても十分個性的であると理解している。
また英会話を会員に無料で提供すると言うのは、自分たちのせめてもの感謝である。
この時代にこうして忙しい中、ここを選んで来てくれているのであるから、ボクシングだけではなく、今社会人が求められる英語を無料で提供し、役立ててくれればと思っている。
さらにオリーヴはボクシングだけではなく、付加価値と言うものを考えている。
3、社会貢献
これは最近の企業に求められることであるらしい。
しかしこれらは重要なキーである。
よくサラリーがどうだというが世の中金だけでは動かない人間もいる。昔日本人はエコノミックアニマルと下げずまれたが、しかしこれはがめついというわけではなく、はっきりした企業理念がもてないからである。
しかし時々金の話題しかしない、成金がいて、そういう人たちとごいっしょさせていただく機会が多少あったが、下品である。
幸せという字は、土という字の下に円のマークを書くが、土地と金さえあれば幸せだというのだろうか、またひどいのになると自分の銅像までたてるのがいるが、冗談ならまだしも、ここまでいけば下品極まりない話であるが、しかし基本的には私は日本人は正直で、勤勉だと信じている。
私腹を肥やすだけでは人はついてこない、特にオリーヴのスタッフは金では動かず、情には流されないので、高尚な理念が必要で、この仕事を通して自分はどう人にあるいは社会に貢献しているかということ、そしてこういう貢献をしていこうと言う取り組みが、彼ら彼女らのモティヴェーションにつながると信じている。
世の中金では動かない人間はたくさんいる。キャバクラやホステスバーで自分がどれだけ金を持っているかと言うことを自慢するバカよりも、むしろ自分はどう生かされているかということを考えて生きている哲学をもった人間も中にはいて、そういう人間と一緒に仕事をすると仕事が、自分の喜びになると私は信じている。




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ダイエットも情報だよ

2010-05-28 | Weblog
昨日UH(ハワイ大)の学生とSkype で話をしていた。彼はスポーツ学科のような学部を専攻していて、私がスポーツクラブを経営していることを知っているので、Fitess firstって知っていますか?と聞いてきた。
初めて聞く言葉であるが、これは今英語圏ではフィットネスとして爆発的にはやっているらしく、彼曰くこの運動というか、フィットネスは日本語で言うところの、ダイエットではかなりヒットしているそうである。
でこのFitess first日本語で言うところのダイエットだけではなく、体の引き締めが目的であるそうで、その引き締めをすることで、余分な脂肪を取り除き、シェイプアップするそうである。
実際アメリカは日本に比べて肥満率が高く、こういうフィットネスが進んでいるようだが、彼ら彼女らの基本的なシェイプアップの仕方は、体重をおとすというよりもむしろ体を引き締めることでシェイプアップし、見た目を重視するやり方である。
いろいろと情報を聞いて思うことは、日本人はダイエットがへたで、いろいろな情報に振り回されているということだ。
特にそれほど太ってもいないのに、機械や食事制限をして痩せようとする人がいるが、特に食事制限は、肥満や医師から宣告されたわけでもないのに、運動しないでわけのわからないダイエット食品で、痩せようとするのは健康上あまりよくないことだし、効率よくやせれるとは思わないし、むしろそれをやめたらリバウンドするおそれがある。
今ダイエットというかフィットネスはエアロビクス的動きに、筋トレのような動作を加えたエクササイズは欠かせなく、その運動で筋肉をつくっていって、基礎代謝を上げ脂肪を燃焼していくことが主流であるそうである。
これは私の見解であるが、日本はだいぶ遅れて来た欧米の情報を買わされているんじゃないかと思っている。
特にダイエット商品なんかは、向こうでうれなくなったら、日本で情報を流し、宣伝し、買わせてひと儲けするというしくみが、できているような気がしてならないのだが、こういう情報も、むこうのサイトに入って見たらわかることでもある。
前にも言ったが本当に痩せたかったら、情報に流されず、確かな情報と自分にあったシェイプアップの方法を見つけることである。
たぶんこれが絶対と言うシェイプアップの方法はない、だから本当に痩せたいと願うならばまず自分で考えて、次にアドヴァイスをもらうことで、そのためトレーナーにいろいろと質問することが大事である。
一概にシェイプアップやダイエットと言うが、これらの言葉は専門性の強い言葉である。
ボクシングにおいても体力のあるうちは、体育会系のようにばんばん練習すれば、効果が表れるであろうが、しかしやりすぎると体を壊してしまうし、第一30を越えてからやるにはもう少し考えてやらないと、長い目で見て健康的なという意味では、効果を得ることは難しいであろう。
オリーヴに30代以上の人が来ているのは、実際に考えてアドヴァイスできる能力があるからである。特にここのブレーインは優秀な専門家で、近々外国からのアドヴァイザーも考えており、協力してもらう予定である。
昨日情報と言う言葉を挙げたが、情報と言うのは今や仕事にはかかせない、ましてやこういうスポーツクラブには不可欠であり、ここではなるべく30代以上の人が楽しく、かつ効果的に練習してもらえるように心がけたいと思っている。







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情報はインテリジェンスと訳される

2010-05-27 | Weblog
昔大学生の集団で遊びに行った時のことであるが、そこでゴルフのミニゲームをした。
その時私たちの組はミニゲームだけでは刺激がないので、勝った者には1000円を渡すというかけをした。
ゲームは白熱し、接戦していた。
さらに誰かがこれだけではおもしろくないので、ホールインワンは300円でどうだと言い勝負は白熱し、私たちの集団だけへんに盛りあがった。
ホールは確か10ホールぐらいあったのだが、みんなホールインワンをねらって必死であったが、しかしその中で一人の男だけが手堅く勝負を決め、優勝に近付づいていた。
ホールは最終ホール、手堅く行けば彼の優勝、しかしもともと勝負師だった私は、彼の手堅い勝負の仕方に、ふがいなさを感じ、つい大きい声でホールインワンを狙えとばかりに「男だったら勝負しろ、それでも男か」と言って彼をあおったのだ。
しかしその時そこにいたアメリカ人の女性が、その言葉を聞いて私に食ってかかってきた。
彼女は日本語が流暢である。
「男だったらなぜ勝負をするのか、女だったらできないのか」と私は返す言葉もなく、いやっとあせっているとさらにたたみかけるように、その場で15分ぐらいきつく言われ、かなり焦ったことをおぼえている。
意外と日本人の男は女に意見をきつく言われたことがない。
痴話げんか的な言われ方や、甘え的な言われ方できつく言われることもあるようだが、しかしこと議論となると話は別、自分よりも能力があると思うような女性をさけるような傾向がある。
もうかなり前から女性の大学の進学率が上がり、優秀な女性が増えてきている。
アメリカなどの大学でも、日本人の学生は男よりも女のほうが優秀だとか、何とかという話を聞くが、こういう女性が進出してきた今は、どう女性を尊重し、ボスであればいかに統率していくかということが、大きな課題である。
時々言動なども威厳たっぷりに振る舞い、男らしさを強調するのがいる。
傷つきやすく、大した議論もできないくせに、自分は考えをしっかりもっていると錯覚しているが、しかしそういう考えは、一方的な縦社会だから大事にされるわけであって、能力主義のフラットな関係を求める今日では、議論すればわかることであるが、こういうタイプは今のこの情報時代にはついてはいけないであろう。
今は情報の時代である。
情報というのは最近ではインテリジェンスとも訳されるが、情報と言うのはインテリジェンス、知識であってこの情報がなければ、通用しない。ボスであればなおさらのことで、情や仲良しでつながるのならば問題ないが、仕事ともなれば別、この情報をいかに集めそれを駆使する能力が統率力であり、おおまかに言って、この情報をどう集め、どう駆使していくかが統率するにあたって求められることであり、一番重要だと思っている。
それは今までの軍隊のような統率力とは違う。
今や性別だけではなく、いろいろな人間が集まって来ているのだから、縦社会の統率力ではだめだろう。
この前うちのスタッフの女性と外国送金のことで、話になった。
私が外国に送金をするのは、少し経費がかかるということを聞いていたのだろうか。
ある金融機関のウェブアドレスを送ってきたのだ。
実際その会社はアメリカのカード会社と契約していなければ使えないので、彼女に使えないとメッセージを送ったら、数時間後、彼女から今度は日本語の説明文が送ってこられ、私が使えない趣旨を説明すると納得していたが、しかしもしこういう文章が来るたびに日本語の文章を探して送ると言うことを繰り返していたら、間違いなくこの人は、バカだ能力がない人だと思われるだろうし、仕事がはかどらないので見限られるであろう。
私の職場に限ってではないが、今やボス(上司)は情報をしっかりたくわえ、アドヴァイスする能力が必要である。
そのため仕事によっては外国語を理解することは、必要条件であり、そういうことで得たインテリジェンスを他の情報と照らし合わせ、決断することが大事である。
スポ根的な人間は「撃て、行け、突っ込め」が決断だと思っているが、情報を駆使して決断しなければ、それは第二次世界大戦の二の舞を演じることになり、日本はこの情報戦に負けたのである。
しかし情報と言ってもインタネットをただつついて、ガセネタをつかまされるようなことではなく、そのためにしっかりと知識を蓄え、何がわるいかただしいかということを判断できる分析力が必要で、国語辞書を見て字をおぼえるのも、ひとつの情報のエッセンスとして大事な作業である。





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MTオリーヴにおける組織の運営とは2

2010-05-26 | Weblog
最近ありがたいことだが、社会人や女性の人たちの入会や問い合わせが多い。
私自身このクラブを始めたのは、ストレスや仕事で悩む社会人をこのスポーツで励ましたいと言う気持ちがあるので、たいへんうれしいことである。
私はボクシングクラブのような共同体を運営する時、コモンセンスということを重要視するのであるが、それにはわけがある。
それはここが社会人中心のクラブであり、それを意識することで気持ちよく練習してもらい、ジムを使いやすい場にしたいからであり、こういういろいろな人が集まる場所は、公共性を考えて運営しなくてはならないと考えているからである。
コモンセンスとは英語ではこう書かれてある。
「The ability to behave in a sensible way and make practical decision」すなわち英語で言うコモンセンスと言うのは思慮分別のある行いと、実用的な判断力ができる能力のことで、前にもあげたように、コモンセンスとはいわゆるでかい声であいさつしたり、かたまって独自のオウンルールのようなものをつくって、それが礼儀だというようなこととは全く違ったことであり、オリーブはボクシングクラブであると同時に社会的集団であるので、指導するほうも、このコモンセンスを意識しなければ運営することに困難さをおぼえるであろう。
今入会者が多く、私自身英語の教室の運営もあるので、新しくトレーナーを雇いたいのだが、ここの状況を考えたら安易にはやとえず、毎日忙しい日々をおくっている。
オリーヴにはいろいろな職業の人がいるのだが、多くの人は社会で責任のある仕事をもっていて、第一線で活躍している。
だから何も考えていないような、あまりそういうことに洗練されていない人間が関わっても円滑にまとめていくことはできないと言う懸念があり、無知であると言うことは、発言や行動が失礼にあたるからである。
コモンセンスとはAbilityという言葉に示されているように、能力的な言葉でもあり、ただ単に上から垂直に教えられることでもなく、自分で考えて行動しなくてはならない。
すなわち相手とのかかわりの中で理解していくものであり、培われていくものである。
以前運動部が、監督の言葉を何も言わずはいはいと返事しているのを聞いて、はいがワンに聞こえると言うようなことを言ったが、コモンセンスと言うのは、ただ犬のしつけのように、上からあれはだめだと言うような感じで、ただ一方的に教え込まれるものではないからである。
コモンと言うのは日本語では共通という言葉であるが、しかしコモンセンスの共通と言う言葉は日本だけのという意味でもないし、ましてや自分たちの集団だけのということでもない。時々自分たちは、こんなに仲がいいんだと言うことを強調する集団があるが、中高生ならまだしも、大人であれば、程度が低く、公共性に欠けると思っている。
コモンセンスとはグローバルな言葉である。
これを十分認識して、他の国の文化や宗教、習慣などを常に意識しなければ、おらが村のへんてこなルールになってしまいがちなのである。
オリーヴでボクシングを指導すると言うことは、このバランスが非常に問われる。
私は練習生と親しく関係をもったり、師弟関係のようなものを結んだりはしないが、べたべたした関係を持つことは、公共性を重んじることとは違う。それは一種のかたよりであると思っているからである。
言葉の問題もそうであるが、常に公共性が欠けることがないように注意しなくてはならない。だから言葉を知らなかったり、人間関係に無知だとだめなのである。
オリーヴは社会人が多い、そしてこのバランスが問われ、努力しているからこそ、社会人の支持があり、信用があるのだと思っている。






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笑い

2010-05-24 | Weblog
私が提出した宗教学の論文で「Explanation of laughing in The bible」と言うのがある。とどのつまりイエスは実際に笑ったかという問題を取り上げたのもので、中世の修道院がストイックで厳格で会ったのはイエスが笑ったと言う記事が、聖書には書かれていないからである。確かによく観察してみると聖書に彼が笑ったと言う記事はない。
これを聞いたらキリスト教徒は驚くと思うが、聖書にリーダーズというのがあることを知っているだろうか。
リーダーズと言うのはいわゆる「.......」のことで、このリーダーズがあるのだが、これがあるということは、一般的に聖書には心理描写がないという定説をくつがえすかも???
原書を見てもそこは長い棒が記されてして、まさにそれは心理描写を表しているのだが、しかしイエスが笑ったと言う記事は、どこをどう探しても見当たらないのだ。
で彼は笑ったかと言うと、私の見解では間違いなく笑っている。
まず彼の話がユーモアに富んでいたこと、そして彼の弟子たちの態度である。
よく彼らは不真面目だというようなことを言われていたが、当時ストイックな宗教が絶対的であったので、彼らの明るい振る舞いがそううっつたのであろうが、おそらくそこには笑いがあっただろうと考えられる。
当時はローマと言う大国に支配されて、ユダヤの群衆はしいたがられていたらしい。
ユダヤ人は、プライドが高く、誇り高い民族であるので、かなり屈辱であったであろう。国を滅ぼされローマと言う大国に支配されていたこの時代は、彼ら彼女らにとって、かなり暗い時代であったそうだ。
しかしこの時代にあってイエスは笑うということで、その勢力に対抗した。
彼の話はユーモアに富んでいるのだが、その話を聞いてどれだけ多くの人が笑い、勇気づけられたであろうか。
笑いと言うのは何も持たない大衆にとって大きな武器となる。
その笑いを武器にしたのが、彼のたとえ話である。
イエスはユダヤ人であるが、ユダヤ人は笑いを最も大切にする民族である。
アメリカのコメディアンはユダヤ人が多いし、彼ら彼女らはどういう場においてもジョークをもちいて大衆を笑わそうとするのだが、あのアインシュタインも公演の時にはかならずジョークをもちいたそうである。
ユダヤ人は笑いを忘れない。ユダヤ人が迫害にあっても、捲土重来のごとくたちあがっていったのは、この笑うことを忘れなかったのではないだろうか。
まさにLife is beautyfulという映画は、その生きる希望を失いそうになった中でも、笑うことで生きる力を取り戻し、最後まで人間らしく生きようとした人間を描いた名作であるが、こういう笑いの本当の意味をとらえる時、自分はバカだと主張したり、人をいじめて笑いをとる日本のお笑いが、いかにくだらないもので、精神の害になるかということがわかると思う。
ユダヤ人の歴史からわかることは、彼らが苦しい時、いかに笑ったかと言うことである。
イエスも然りあの苦しい時代にあったからこそ、笑いやユーモアを武器にして大国に立ち向かっていったのである。
人間以外の動物は笑わない。笑いと言うのは人間らしさであり、人間らしさの強調である。
オリーヴではしんどい時、苦しい時たちむかえとかがんばれではない「笑え」である。
本当の笑いは人間に余裕をもたらし、人間を豊かにするものだと信じている。
この笑いやユーモアをもって、いろいろなかべを乗り越えて行く力を養いたいと思っている。







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国際交流

2010-05-21 | Weblog
5月からはじまった英会話はかなり好評で、希望者も多いのでコマ数を増やす必要がある。
実際7月からは、海外からのゲストやスタッフたちにジムに来てもらって交流を深めようと言う考えがあるが、こう言った考え方はグローバル化が進む中、特に若い人たちに、スポーツやすべてのことにおいて、いちはやく情報ひろいや感覚などを身につけてほしいからである。
最近異文化交流と言う言葉が使われだしてきているが、これを英語で言えばCross cultural communication訳せば文化的交流であろうか。Crossという言葉は、こえるという意味があって、英語ではその言葉がまず最初に来ているのだから、日本語で言う異文化という言葉に多少閉鎖的な意味合いを感じる。
特にここでは日本語で言うところの異文化交流というものに、興味をもってスポーツと言うものをとらえなおしてほしいのであるが、オリーヴが英会話を始めた理由は、せっかく忙しい中、来てくれている社会人に、ボクシングだけではなく、英会話も受けてもらって一挙両独してもらおうという考えと、若い人たちに、これからのスポーツをまた違うかたちでうけとり、考えて行ってほしいからであり、まさにそのことをスポーツの異文化交流を通して養ってほしいからである。
実際会話でも、うまくなればいろいろとテーマをもって、カンバセーションしたいと思っているのだが、その点オリーヴのスタッフは、日本のことを勉強しているので、上達したらそういう文化の違いについて、意味のある会話ができることは間違いないだろう。
この前も書いたが、最近日本のスポーツ界も、違う国に留学生をおくり、海外からコーチを積極的に採用しているが、これは日本独特のやりかたがメルトダウンしてきている兆候だと思っている。
おそらくそういう人たちが海外からかえってきて、これからも海外のコーチを採用し、日本が英語教育を重要視するのであれば、スポーツ界もかなり変わってくるんではないかと思っている。
その時英語だけではなく、いろいろな情報を得て、そういう感覚を養っていなければ、とりのこされてしまうであろう。
もうちんぴらのような格好をして、わけのわからない男らしさを強調するような時代ではない。ボクシングにおいてもスマートさが要求される時代で、特にメンタル面では、もっと海外から学ばなくてはならないであろう。
実際私が向こうに行った時、日本では水を練習中に飲まない時代だったので、練習しているアスリートたちが水を飲んでいるのを見て驚いたのであるが(中にはペプシを飲んでいる奴もいたのだが)、こういう水を練習中に補給すると言うのは今や当たり前で、しかしかつてのそういう弊害と言うのは未だなお存在し、ヒエラルキーの外から見なければ、わからないことで、最近ではそういうことからでも、少しずつ変わりつつあるのである。
これは私の考え方であるが、オリーヴと言うクラブを通して、ここに来た人たちがボクシングだけではなく、たくさんのプロフィットを得てほしいと思っている。
特に若い人などはここに来たら、不良がここに来ている間はおとなしいというレベルではなく、ボクシングや国際交流を通して、自分の考えをしっかりもって、意見を言えるような影響を与えたいと思っている。

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Euthanasis

2010-05-19 | Weblog
「The right to know euthanasia」日本語に訳せば「安楽死を知る権利」である。
「Euthanasia」というのは少し奇異なrない言葉だが、これは安楽死のことで、ギリシャ語のEu(正しい)とThanatos(死)が語源であり、安楽死とは言葉通り「よい死をむかえる」のことである。
日本では一般的に安楽死というと、我々にはかかわりがあまりなく、むしろ医者の立場から見て、その患者の死をどう受け止めるかという、例えば脳死などに基づく生命倫理の問題のように受け止められているが、しかし西洋では、むしろ一般的に人間が、どういう死をむかえるかと言う問題であり、この「The right to know euthanasia」というのは、厳密には自分はどういう死を迎えるのかということを知り、備えていく権利があるという意味である。
宗教的な違いからであろうか、日本人はこの気をいみ嫌うことが多く、それは身うちなどに死者が出た時に忌引きという習わしがあるのだが、これは本人たちの死を悼むと言うよりも、死そのものがいまわしいものであり、ある種のけがれであるから、当分は近づいてはいけないという神道的な考え方に基づくそうである。
しかし西洋人はもう少し、この死を積極的に受け止めている。
宗教観が違うと言ったらそれまでであるが、しかし彼ら彼女らは、この死に対して真剣に考え、積極的に受け止め、安寧な死を迎えようとしている。
日本の哲学は死を超える思想と言うものはないが、西洋はヤスパースに見られるように、その死をうけとめそれを乗り越えようとする哲学があり、そして最後は宗教にたどり着くと言うかたちがあるのだが、まさにホスピスの存在はそのことが言えるのである。
昔日本にかなり長く住んでいた日系人と、明日のジョーの最後のシーンの話をしたことがある。パンチドランカーと診断され、試合に出場すれば命を落としかねないと医者に宣告されたのだが、ジョーはそれでも、世界一の男が待っているリングにあがるんだと、まわりの説得を聞き入れずリングにあがってホセと対戦し、15ラウンド戦ったのだが、最後には力尽きて真っ白な灰になったといって死んでしまった話は有名で、多くのファンがこのシーンに感動し涙した。
確かに漫画としてはいいできばえで、スポ根漫画としてはこのラストシーンはある種の金字塔をうちたてたであろう。
しかし私からすれば、この物語は日本特有の切腹や特攻隊のように、死は美しいものだというすりこみ的なものにしか見えないのだ。
おそらく作者はそういうすりこみ的なことを考えてつくったわけではないが、しかしこの表現は死そのものの受け止め方にたいする日本人独特の考えが表れているだろう。
日本人の弱いところは、この死をどう受け止めていくかという問題である。
先進国でも、脳死の問題やホスピスなどについて見解の違いがあるが、おそらくそれは積極的にこの死に向かい合うことができないからではないだろうか。
The right to know Eutanasisと言う言葉があるように死と言う問題は医者や専門家の扱う問題ではなく、われわれ自身が考えて向き合う問題である。






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スポーツのビッグバン

2010-05-17 | Weblog
何回かにわたってスポーツにおける語学、特に英語の必要性を述べてきているが、このことは今やグローバル化してきたスポーツ界において、非常に重要であるからである。
日本のスポーツ界は鎖国状態で、それがマイナーなスポーツになれなるほど、そういう傾向にあるように思える。
しかし海外はスポーツに関してメンタル的にも、技術的にもいろいろと研究を重ねてきていて、我々が学ばなくてはならないことが、実に多くあると思う。
最近ではボクシングなんかもスポーツ科学や、スポーツ心理学なんかを取り入れつつ科学的にトレーニングをしているのだが、そういう雰囲気は実際アンテナをはって注意深く観察すればわかることであって、実際洋書でそういう分野の本を検索すれば、いかにそう言った分野の本が多くなって来ているかということがわかるのだが、英語などの語学がわからないと、こういう情報にはついていけない、ディスコネクトされてしまうのである。
日本はそれだけをやればいいと言う、スポーツ馬鹿が多いので、語学などをおぼえる気はさらさらないようだが、しかし本当に賢い競技者は海外に興味を持ち、語学をおぼえて、他国のスポーツを留学したりして学んでいる。
特に日本のフットボール(サッカー)なんかはいい例で、最近はスポーツキャスターなんかも、語学を学びだしてきている。
これは私の希望的観測であるが、こういう人たちが増えてくると、日本のスポーツクラブの形態というものが変わってきて、その時スポーツ界のビッグバンがおこり、縦社会で考え方の古い人間は淘汰されていくのではないかと思っている。
もうすでにフットボール(サッカー)は、毎年サッカー留学などの多くの留学生を送り込み、監督なども積極的に海外の監督を採用しているが、野球なども然り、古い体制から脱却することはないが、それでもかなり海外の情報をあつめて、それを採用したり、自分たちのオリジナリティーに近づけようとしているのは、特筆すべき点である。
不思議なことであるが、なぜ日本の競技者は、他のことに興味をもたないのだろうか。
話をしても特に内容のあることを言うわけではなく、自分から見れば従順であっても個性がない、もっといろんな意味で勉強しなければ、個性など養われず、自分の考えなど持てない。ましてやこの前も言ったが個性と言うのは、同じような考え方の人間ばかり集まっていては養われることはないのだ。
チームプレイか何かわからないが、集まって監督の言うことにハイハイと返事をさせるだけで本当の個性など育つかどうか疑問である。
私の個人的な意見だが、日本では監督に従順で良好関係を結んでいるものが、監督に好かれよく教えてもらってもらっているような気がしてならないが、その関係はどう見ても親分子分のような関係にしか見えないのである。
余談だが昔アレンと言うコーチに10年ぶりに会った時に、日本人がさも言いそうな、今自分があるのはあなたのおかげだと言ったことがある。
しかしそう言うと彼はきょとんとしていたが、むこうでは教えて当たり前、好きだから教えているわけであって、逆にそういうことを恩に着せて師弟関係を結んだり、親分子分の関係を結ぶこと自体おかしいのである。
個性とはいろいろな考え方や文化の違う人間があつまって、その中でもまれるからこそ、育つのではないだろうか。
海外でプレイするために必要なのは個性、日本語でいうところのオリジナリティである。
海外では試合に出場するためには、自己主張しなければならないし、人と同じようなことをやっているだけではだめだ、人とは違ったオリジナリティと言うものが大事であり、そのオリジナリティーは、いろいろな考え方やタイプの中でもまれるからこそ育つのである。
しかし語学もだめ、スポーツ以外何もしたことがない、同じような人間ばかりの中でプレイしているだけでは、肝心な個性は養われることはない。
もう最近では海外からコーチや監督が、採用されるという例は珍しくないであろう。
しかしそういう時にこそ、その人の個性とコミュニケーション能力が求められるのである。






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Im libertarianisum

2010-05-14 | Weblog
おとついSkypeのメッセージボードにスタッフから、日本語のテストがあるので教えてほしいと言うので、コールした。
内容は簡単な日本語で、その内容が正しいかどうかということを聞いてきたのだが、しかし簡単とは言っても他の民族に教える日本語は難しい、特に助詞の使い方であるが、たとえば「大阪に行く」なのか「大阪へ行く」なのか、そしてどちらもつかえるのならば、それはどう違うのか、私はスタッフに日本語を説明することで、日本語の難しさをあらためて知った。彼女は優等生タイプなので、どちらかと言えば失敗することをおそれる。だからベストな選択を求めて、その助詞の意味も詳しく聞いてくるのだが、たいへん難しい、日ごろからそういう助詞を使い分けているわけではないので、説明に困り、自分が思うところの助詞の意味を英語の前置詞を使って説明したのだが、しかしこれだけでは不十分であったであろう。
しかし優等生と言うのはなぜ失敗をおそれるのだろうか。
私は彼女に語学を習う時は韓国人を見習えと言っているのだが、彼ら彼女らは失敗をおそれずに外国語を話そうとする。
以前日本語学校に何日ではあるが、講師で言ったことがある。
私はその時中級から上級の人間と授業し会話をしたのだが、彼ら彼女らのチャレンジ精神はすごいものがある。
おまけに負けず嫌いで、上級者クラスにひとりずつ日本語を習ってどれぐらいになるかと聞いたのだが、端から1年半、1年2カ月、1年と数が減っていき、最後には私は日本語をはじめて3カ月と言うことを言う。「おいおい3カ月でそんなうまくならんやろ」とつっこみを入れたくなるが、しかしこれらは彼ら彼女らの競争心がそうさせているのである。
さらに中級の授業では、今日ここまでに来るまでにやったことを説明しろと言ったのだが、その説明で「銀行に行ってお金をおろしてきた」というのを「銀行に行ってお金を取ってきた」というのがいた。これにはさすがに笑ってしまったが、彼ら彼女らの上達の秘訣は失敗をおそれず大胆にチャレンジすることである。
話は日本語の話に戻るが、日本語は非常に難しいものである。
そして日本語を母国語とする日本人や在日韓国人は非常に優秀である。
しかし日本人は母国語以外の言葉を話すのが、苦手であるがしかし日本人や在日韓国人が日本語をおぼえたら鬼に金棒ではないかと思っている。
オリーヴで英会話を無料で提供しているのは、日本人が英語に興味をもつということだけではなく、その必要性を感じて仕事の幅をひろげたり、チャンスをひろげてほしいからである。
現に実際会社の渉外部を希望している人、自分の会社を海外に広げたいと言う人、専門職で社会問題に取り組もうとしている人たちが、レッスンを受けてくれているが、彼ら彼女らの仕事の役に立ててたいへん光栄である。
オリーヴは中高生が集まる体育会系のクラブではない。
むしろ社会人を中心としたスポーツクラブで、その社会人の人たちにプロフィットをうけてもらうために、サーヴィスを提供し、やり方や理念、そしてその存在意義を問うている。
ボクシングクラブに英語はミスマッチだと思うが、しかしこの英語を学ぶことで、違ったかたちでボクシングというものが見えてくるので、練習においても競技においても意味があることで、さらにボクシングが楽しくなってくるであろう。
私の意見では体育会と言うのは、最近それでも外国から技術的なものを学び得ようとする傾向ははあるが、しかし彼ら彼女らからは、その精神と言うかメンタリティーの在り方を学ぼうとしない、いまだ監督様様の世界である。
何年か前ヴァレー部で事件があった。
そのヴァレー部では補欠にレギュラーのカバン持ちをさせていたらしいが、そのクラブである生徒がしんどいので練習を休みたいと言ったらしい。
しかし監督はその生徒を休ませるどころか、気持ちが弱いからと言って練習させて、その生徒はなくなったかどうかは忘れたが、しかし重大な事態となり、世間を騒がせた事件があった。
未だこういう事件があるということは、驚きであるがおそらくこういうことは、この学校だけではないであろう。
私は個人的に私は教師の理由ある体罰は必要だと思うが、しかしスポーツ部の監督が体罰をふるう必要はないと思っている。
だいたい好きなスポーツをしていて、なぐられたりおこられたりすること自体ばかげたことであるが、教師の体罰がだめで、こういう暴力がゆるされるのであるから恐ろしい世界である。
海外でプレーするとこういうシステムが、いかにばかげているかわかる。
私自身外国でかなりの試合をしたが、監督やコーチの顔色をうかがうことなんてなかったし、向こうでは常に競技者が中心であった。
だからもちろん当たり前だがこういう人権を無視した事件はおこりにくく、もしそういうことが起これば、日本以上にたいへんなことになりかねないと思う。
毎回失礼なことを書くが、意味があるのかわからないが、監督を中心にして何を言っているのかわからないが、選手が「はい、はい」とでかい声で言っているのを聞くと、かわいそうとさえ思える感情がわいてくる。
聞いているうちに「はい」が「はい」でなく「ワン」に聞こえてしまうのであるが、スポーツに従順性なんか求めても意味がない。大事なのは個性ではないのか。
ある外国人が日本人のスタイルは、みんな同じだからやりやすいと言ったが、従順性を求める弊害がまさにこういうかたち出てくるのである。
個性はいろいろな人間がいるところに行ってもまれなければ、確立させることは難しい、髪の形を変えたり、わけのわからないことを言うのが個性だと思っているのがいるが、そんなものが個性と言えるのだろうか。
本当の個性はいろいろな人間にもまれて確立していく。同じような人間どうし集まっていても個性なんて磨かれない。だからこそ、英語をおぼえて海外に行ってもまれて、個性を磨かれることは大事なことであり、そういう本当の個性と言うものが、今求められてきているのではないだろうか。




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Libertarianism

2010-05-12 | Weblog
ここ何年か前から格闘技がブームになりつつある。
おおみそかのイヴェントなどの格闘技の番組が何局か放映されているが、しかしその中でもボクシングは相変わらずである。
おそらくボクシングは他のスポーツに比べたら動きが単調なので、見ていてもさほどおもしろくないからであろう。
しかしそれでもそれなりにおもしろさというか、ボクシングの醍醐味はある。
原始的ではあるが拳だけで相手を倒す真剣勝負は、世界的に見て多くの人たちの心を魅了していると言ってもいいだろう。
ネルソンマンデラは若い時にボクシングを相当やっていたそうであるが、大統領選挙にノミネートされたマケインも若いころは競技者としてならし、今でも相当なボクシングファンであるというが、こういった政治家や有名人たちにファンが多いのも、単純ではあるが、ボクシングはスポーツとして見ごたえがあり、何かそこには魅了させるものがあるからである。
話はアマチュアの試合に話になるが、7月と12月に兵庫県でゴールデングラブという大会が毎年開催されているが、この大会は非常に意味のある大会だと思っている。
この大会は2日間かけて最大2試合の階級とレベルにわけたトーナメントで、この試合によってコンペティティションの幅が広げられ、今まで練習を十分に積んだアスリートしか出れなかったボクシングの試合にも、一般の仕事を持つ社会人が出場できる機会を与えたことは大きな功績で、オリーヴのようなへたれジムにはありがたいことである。
しかしまだまだこの競技は、一部の人間のためのものであるというイメージが強い。
うちに入会してくる人たちの話であるが、その人たちの話によると、ボクシングクラブは敷居が高く、ここに来ることさえもなかなか踏ん切りがつかず、おそるおそる見学に来たという。
これは何年か自分も含めて、ボクシングの世界を見て来て思うことだが、この競技をやる人間はナルシスト的である。人から特別に思われたい、かっこよく思われたい、そういう雰囲気を醸し出しているのだが、そういうことは、その人の発言や行動にでてくるもので、私も若い時代はそうであったかもしれないが、おそらくそういう人たちが醸し出す独特の雰囲気に、他の人は入って行きにくさを感じているのではないだろうか。
オリーヴでも経験者を警戒しているのは実にこの点である。
自分はもとプロだとか、経験者たちそういう人たちはジムにきても、自分は特別に見られたいという思いが強い。すべての人がそうではないが、しかしいろいろな話や経験から考えて、むしろそう思わざる点が多い。
もちろん自分にも、そういうところがあったということは否めないことであるが、もしこういう人たちがうちのクラブに来て、たいしたインテリジェンスもないのに、皮肉たっぷりに、俺はお前らとは違うなどと、上から目線でジム内で優位な立場に立ち、集団ができると間違いなく、一般の人たちの足を遠ざけるからである。
今やジムにはいろいろな人が来ているのだから、それぞれの立場が尊重されなければいけない。試合に出場する人間がメインで、そのほかは単なるお客さん的な発想では、ジム内を刷新し、支持者を獲得していくことは難しいことであろう。
大人のジムが体育会の延長で、独特の世界を醸し出し、それがかっこいいんだということをうりにしていては、生き残りは難しく、今やボクシングの一般化をはかる必要があるかもしれない。
しかし一般化という抽象的な言葉を使ったが、何もそれは難しいことではない、メキシコやフィリピンはボクシングが盛んな国であるが、いろいろな人に話を聞くと、来ている人も子供から老人そしてレヴェルも様々で、いろいろな人が普通のスポーツクラブに来るような感じでジムに来て練習しているらしいが、ここがこれらの国でボクシングをポピュラーにさせている要因であろうと思われるが、日本人ももはやボクシングは特別なスポーツではないというようにFlexibilityに考えることも必要であろう。
アメリカのボクシングクラブに行って感じたことは、それぞれがボクシングを楽しんでいるということである。
大きな体育館のようなところに、それぞれのチームが集まって練習するのだが、そこでは試合に出る人も健康維持でやる人も、みんなそれぞれお互いの立場が尊重され、みんなそれぞれの立場で、真剣に楽しんで練習していることが伝わってくる。
ダイエットであろうが健康維持であろうが、やっている人は真剣である。
オリーヴはそういう人たちがお客さん的な立場に立たされることがないように、細心を払っている。
少し妙な話であるが、オリーヴではボクシングに意外と関心のない人が多い。
なんでここに入ってきたかと言う問いに対しても、ここだったら楽しく運動できると思ったからとか、中には自分に興味を持ってきたという人もいるのだが、ある人たちにとっては、試合に出たとか、優勝したということを言っても「So what」で、こういう立場であっても、その人たちはお客さんあつかいをうけることなく、堂々と練習をしてくれていると信じている。
しかしこういう人たちもまた将来ボクシングの支持者になり、興味をもってくれるはずである。ボクシングはおもしろいし、楽しい、純粋に楽しいと言うことを自分たちの持論を抜きにして、伝えていかなくてはならないのではないだろうか。
だから日本のように上下関係を結んで教えると言うやり方にいささかの懸念がある。
指導者も厳しくしかって、ほめるというようなあめとムチの使い分をしているのであろうが、しかし私から見れば、そういう関係は一方的であって、もしそこに喜びがあっても、それらの喜びは、はいはいと言うことを聞いた代償であり、型にはめられた喜びのようにしか思えない。
w隊にしてみれば、あれだけおこられて何も言い返さないこと自体不思議なことであり、失礼であるが、ここまでくれば忠犬である。
余談だが韓国も先輩には服従を求められるが、しかし彼ら彼女らの思想にはタジダという概念があって、これはいくら目上の人でも理不尽なことを言った場合は、言い返していいという考えがある。
楽しさとか喜びというのは自分で探し見出さなくてはならない。
それを上から言われたことに「はい、はい」というだけでは、見出すことは困難であろう。
大事なことはオウンペースをしっかりもって、楽しむことである。
自分には自分のペースとやり方があると思えば、指導者にやたらはいはいと返事をすることはないだろう。






















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