脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

外国語は日本人から習え

2018-11-29 | Weblog

友人(語学学校で教えた経験あり)からフランス語を習うことにしたが今日が1回目、失礼だが欧米人はモティベーションをあげるのは上手だが、しかし語学に関して言えば教えるのがへただと思う。よくあるのがフレーズをそのままおぼえさせて細かいことは言わない。ただそれを教えて発音がわるいとそれでは通用しないとなおさせる。本人たちは実践的で日常的なのであきないで楽しくできると思っているのだろうが、でもフランス語とかドイツ語は規則や活用が多く、フレーズをそのままおぼえても、なぜそういう形になるのかということを教えなければ応用がきかない、いわゆる文法をしっかりと教えなくてはマスターできないのだ。文化教室で語学をまったくやったことがなような人ならそれで話せた気になるのだろうが、しかしある程度大学とかで語学をマスターした人間にとって物足りないし、その教え方では進歩が見込めないとみなしてしまう。私は彼に「言っていることを繰り返して言うだけできちんと文法から始めないと応用がきかないし、そもそもフランス語を理解できない」と言って、私からテキストを選んでレッスンを誘導しながら発音や文法を確認しながらすることになったが、欧米人は語学を教えるのがへただと思った。前にもアメリカ人が韓国語を教える番組があった。すごく楽しそうにやっているのだが、しかし教え方が雑、そのフレーズをおぼえただけでは、ほかにも例外がいっぱいあるし、パッチムあるかないかによっても後ろにくっつく言葉が違う、しかしその番組ではただそのフレーズにそって何かを言わせて、少し違ってもその文法の違いを説明しないで、そういう時はこういうと言いなおすだけ、テレビ番組でもこの程度だからアメリカ人は語学を教えるのがへただと思う。たぶん欧米は移民が多い分そこまで徹底的に第二語学を教えなくても大丈夫だから語学教育が進歩しないと思っているが、外国語は日本人から習ったほうがいいというのが私の考えだ。どうせ習うならばネイティブからと思うのだろうが、しかし語学は聞くことよりも話すことのほうが大事だと考えている。確かにネイティブだと発音とかにかなりの差がでてくるが、しかし頭の中で言葉を構築して話すならば、やはり文法理解をしっかりさせて自分の考えていることを言葉にできたるほうが、語学を学ぶ上ではアドバンテージだ。その点を考慮して語学を学ぶならば日本人のほうがいいと思う。

これは私の考えだが、三か国語を話す人間でも日本語、英語、フランス語や日本語、英語、イタリア語と日本語、英語、韓国語や日本語、英語、ベトナム語とでは少し違うと思っている。どちらかと言えば3か国語を話しても前者のほうが日本ではアドバンテージだ。


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ヴィトゲンシュタイン的であること

2018-11-27 | Weblog

体育会の常識がすべて正しいと思っている奴は非常に考え方が狭く面倒くさい、こういう奴が集まるとクラブ自体が独特の雰囲気になってしまう。そういうやつは挨拶が基本だとか小学生に言うようなことをあたかもそれが黄金律のように言うが、こういうことははっきり言ってサルでもできる、こういう単純なことを要求しているだけではコミュニティの質は決してあがらないだろう。
前にも書いたがここで小学生から育ってきた子は、自分よりも年下であってもまずこんにちはと言う、たとえ向こうが何も言わなかってもだが、たぶんそれは彼が小学生の時に同じことを大人からしてもらってきたからだと思う。
運動部の先輩にあいさつしなかったということでなぐられた子供がいる、なぐったことは問題になったが、しかし運動部のあいさつなんてこんなもんだ、結局それが親玉から言われて義務になっているのだろうが、しかしできない人間を裁くことは間違っている。ましてやその人間に暴力をふるうのは見当違いであろう。もし本当にあいさつは大事だ、あいさつは基本だと言うのであればサルでもないのだから、ただ頭ごなしにそういうことを言うのではなくなぜ必要かということを説明して、それを自分たちが根気よく実践すればいいのだ。ここで注意しているのはあいさつとか返事、あと意味のない礼儀ということではない、ここで一番気をつかっているのは言葉である。なぜ気をつかっているかというと、そのコミュニティでつかわれる言葉の幅がそのコミュニティの質を意味するからである。
ヴィトゲンシュタインの思想に言語ゲームという概念がある。これは簡単に言うと人はその言葉によって解釈の違いがある、その解釈はその人が持っているインテリジェンスやリテラシーなどがバックボーンとなっているのだが、平たく言えばその言葉の解釈や含みが違うのだから人によって会話のレベルがあるということである。
よくインテリジェンスの高い人間どうしが話している時に、そうでない人間が自分の経験的なことを話して場をしらけさせることがあるが、まさにこう言ったことは、言葉を同じレベルで共有できないからだ。
自己主張などと言わせてもらえる場で言うやつがいるが、しかしとぼしいリテラシー、狭い世界での自分の体験談など語っても恥をかくだけ、本当に自分の考え方を共有し誰にでも伝えたかったら、もう少しいろいろなことを学んでから言わなくてはならない。
言葉やその言葉の理解がとぼしいとそのコミュニティの質はわるくなる。
こういうことは我々のようなコミュニティを築いていく人間にとっては重要なことだ、言葉の質がわるいひくいと質のわるい人間が集まってくる、そういう人間を集めないためには指導者が言葉を学ぶ必要はある。
同じような奴がかたまって、ボクシングのことを得意げに話す奴が目立つようなコミュニティは未熟であると思う、それよりもむしろこの人たちは話していて少し違うな、自分のこんなレベルでこんな小さい世界で考えていることが恥ずかしいと思わせることも必要なわけで、ここではそういうことにかなり気をつかっているが、これはコミュニティをよくしていくための戦略でもある。

偉そうに言うが、私は言葉を選び、なるべく正しい日本語を使うように努力している。あいまいな言葉は必ず国語辞書で調べるし、日本語の語彙力を増やすようにしているつもりだ、そうすることによってまわりがかわりはじめることは確かなこと、もしコミュニティの質をよくしたかったら、親玉が正しい日本語を話すことだと思う。


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弱い人間が集まり、弱者の立場に立つクラブ

2018-11-26 | Weblog

少し前「本当の旅の目的は新しい風景を見ることではなく、新しい視点を持つことである。」と言う宣伝がyoutubeにあった。聞いた時いい言葉だと思った。ボクサーの名言よみたいなものよりもよっぽど意味のある言葉だ。前からも言っているようにこれからは広く物事を理解し考えていくためには、いろいろなところに出て行っていろいろな文化や考え方にふれる必要がある。私が一番バカだと思うのが、狭い世界でしか生きていないのに自分はすべてをわかっていて、自分の考え方が一番正しいと言うことをはばからない奴だ。こういう奴に限ってたいしたこともないのに信念と言う言葉を都合よくつかい自分の考え方に固執しているが、人と話したり、いろいろな勉強をして視点をかえなければ正しい答えなんて出てこない。語学もだめ、本もろくすっぽ読まない、外の世界に出て行ったことがないような人間の世界観なんてたかだか知れている。信念とか俺の考えとか、笑わせるのは哲学とかわかっていないのにつかう人間だが、哲学というような言葉をつかいたかったらもっと深く自分の考え方を考察しなければならない。人間はいちど自分の考え方をばらばらにされなくてはならない、そんなものは通用しないとけちょんけちょんにされて、そこからさらに自分の考え方を構築していって、そのことを繰り返し繰り返し経験することでようやく自分の考えとか哲学とかいう言葉をくちにできると思う。

私はスポーツ指導者は哲学を勉強しなくてはだめだと思っている。前回もある世代より上の指導者はパワハラがわるいことだと認識していない。ただ気をつけなくてはまずいぐらいにしか思っていないと言ったが、こういう問題は失礼だが教育の問題だ。大学に入ったらリベラルアーツできちんと哲学を勉強するし、高校でも倫理学を勉強する。だいたいスポーツ指導者が人権とかハラスメントに関してどこまできちんと理解しているか疑っている。きちんと理解していないからパワハラはまわりがうるさいから気をつける、人権は少々厄介な言葉となるのだと思う。朝からスポーツ、休日もスポーツ、それしかやってこなかった人間が人とディスカッションして自分の考え方を構築するなどということは不可能に等しい。人権は一言でいうと人から否定されないということだ。競技ができないとおこられたり、根性がないとののしられたり、いくら競技の記録をのばすからと言って人を否定することは正しいことではない。まわりもこういうことになれてしまうと、指導者にいじめられたりののしられたりしても、期待しているからそういわれるとか悔しさをばねにしてがんばれとか無神経なことを言い出すが、こういう集合体をつくること自体が罪なことだ。こういう集団の指導者は親子のような関係をつくって人とべたべたして面倒を見ることが人間関係を築くことだと勘違いしてるが、基本的には人を否定しない、できないからとどなったりイライラしたり、根性がないからとダメ人間扱いしたり、できる人間だけを優遇したりしないこと、前回自然法を考えるとき西洋では神様がいて人間はその神様に愛され肯定されている、だからその神様が愛し肯定している人間を否定する権利はないというところから人権が守られていると言ったが、この世界に生まれて来て否定されるなんていうことはあってはならないこと。よく格闘技の世界では俺はハングリーだった、でもその悔しさをばねにしてがんばってきただから今の俺があるみたいな話を針小棒大に語るアホがいるけれども、問題なのはそんなこと自分たちの小さいサクセスストーリーをつくって自己満足するのではなくて、しっかりと哲学や倫理学を学んで人を否定してはいけない、いじめや差別を助長するような行為はゆるしてはいけないと言うこと知る必要がある。

今日ひさしぶりに上げた曲はユナのゲンチャンタ(大丈夫)当時韓国はライブハウスのようなところで小さなライブがあった。飲めないbeerを注文して、シンガーの歌に聞き入るのだが朝鮮半島の女性は歌が上手だ、正直本土の彼ら彼女らにはいい思い出はないが、でも私はライブハウスからただよってくるこの感じがどこよりも好きだ。曲は冬の歌でさびのところがいい。

살다 몇 번쯤은 눈물이 내려오겠죠 그 땐 누가 내게 말해줄래요울어도 괜찮다 괜찮다 괜찮다
生きていたら何度かは涙が出るでしょう。その時は誰が私に言ってくれますか。泣いても大丈夫。


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ヘタレ、弱虫大歓迎

2018-11-23 | Weblog

うちのクラブはヘタレ大歓迎である。運動音痴やビビりで気が弱いそういう人たちは大歓迎でむしろそういう人たちのために開かれたボクシングクラブである。そういうことを公言しているのだからもちろんうちにはコンセプトがある。それはただ「こわい人いませんよ」とか「みんな楽しくやってます」と言うような人集めのうたい文句では決してない。うちではたかだかボクシングができる奴を優遇したり、やんちゃですとかアウトローを入会させないのは、社会人のコモンセンスと正しい言葉理解に基づいた健全な人間関係を目指しているからで、コミュニティの害となるような人間をのぞいては、誰もがどんな人でもここでは平等にボクシングのトレーニングできる。それがうちのクラブの目指しているものである。

そのためここで徹底しているのがまず第一に人を絶対に否定しないこと。最近ほめてのばすとか言ってるけど、しかし根本的には人を否定してはいけないということが分かっていなければ意味がない。私はどちらかというと日本のスポーツ指導者には不信感を持っている。それは前にも言ったが、相手を否定したり、暴言や時には暴力的な行為をわるいことだと思っていないからだ。ひどい奴になると親のしつけがわるいとかひどいことを言う奴がいるが、スポーツの世界では、いまだにパワハラの記事が後をたたない、それらが氷山の一角であるのは、おそらくある世代から上はパワハラをわるいことだと思っていない、自分がそうされて上手になってきたから、時にはそれが本当にためになると思っていて、そういう人権を無視した考え方が根本的にまだのこっているからだと思う。そしてまわりもまわりでひどい仕打ちをうけた人に対して「それはお前のためだ」とか、「喝を入れてくれているんだ」とか「それをバネにしてがんばれ」とか意味不明のことを言っているが、人格を否定されてここまでポジティブに考えるのは日本の競技者ぐらいだと思っている。人間があつまるコミュニティにおいて問題にしなければならないのは言葉だ。人には言っていこととわるいことがある。私から見たら日本の指導者は私とは違う口のわるさがあって、テレビを見てても中にはまったく人権を考えていないんじゃないかとさえ思う発言もあるが、人権と言うのは単なる権利ではない。日本人特にある世代から上はこの考え方が希薄であり、時にはネガティブにとらえることさえある。

法哲学に自然法と言う概念がある。自然法って聞いたようで聞いたことがないような言葉であるが、自然法とはとどのつまり人間がもともと持っている理性や西洋では神みたいな存在に基づいた正しさで実定法に先立って存在する正しさである。おそらく人権のとらえかたの違いは日本人と西洋人とでは自然法のとらえかたにある。西洋ではいろいろな人種がいて文化があって、でもそれらは神からみたら平等でその平等と言う観点から人間の基本的な人権は保障される。そしてその人権がもっとも重要であるのは人間は平等であることと同時に、神の存在によって愛されている大事にされていると言う考え方が人権の根底にあると言うことだ。西洋では神が愛した人間を否定することは冒涜であり、人間はすべて価値があって、愛されているというのが彼ら彼女らの宗教観で、そのことと人権とはまったく同じことであると思う。わるいことをしたらまだしも基本的にスポーツをすることにおいて人から否定されり、暴言をはかれたり暴力をうけるなんていうことはありえないことだ。それをバネにして強くなれとか見返してやれとか人権侵害も甚だしい。私はこういう考え方を全く受け入れることはできない。

言葉にしろ行為にしろ人を否定したり、暴力を容認してはいけない。私は宗教を肯定しないが、しかしスポーツには何か大きな力が働いていることを感じていることは確かだ。もしそれが神とか言う存在であるならば、その存在によって人は愛されいかされているのだから、人を尊重し大事にする。ましてや否定などしてはいけないと思う。うちのクラブでは裸でトレーニングしない。マスの時にカーッと来て敵意むき出しで殴りかかって行くのは暴力とみなしているが、裸でトレーニングするのは女性からしたら威圧感がある。私は女性が見学に来たら、安心させるために裸でトレーニングするのは禁止していると言うのだが、前にふんっそんなことぐらいと鼻で笑って私は大丈夫だと言う人がいた。しかし私が大丈夫ではなくて、不快に感じたり、威圧されてこわいと感じる人がどうかということである。うちのクラブのヘタレ大歓迎は言葉をかえれば「弱者の立場に立て」と言うことだ。たかだかボクシングができる奴とか集団でいるような人間たちよりもむしろ一人で来ている女性やおっさん、そういう人たちが気軽に来てここで楽しくトレーニングさせることがプライオリティであり、私はうまい競技者が育つよりもむしろそうなってくれることを願い、方針としている。

私は弱い、本当に弱い。でもそうだから支えあう気持ちの大切さが見えてくる。

 


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Harassment理解は英語理解だ

2018-11-19 | Weblog

最近はじめたフランス語勉強の仕方はわかるのだが、時間を管理する意味でも知り合いに少し報酬をあげて教えてもらうことにした。私が語学を勉強するのは頭の中のイマジネーション能力を広げることといろいろな角度で物事を見るためである。

この前雑誌を読んでいたら元スポーツ選手の記事で「監督の厳しい指導をすべてパワハラと言う言葉でかたづけるな」見たいなことが書かれてあった。とどのつまりしごきがあるから潜在的な能力がひきだされる。パワハラに見えることは愛のムチだといったような内容だったと思う。しかし書いている人の年齢からしてパワハラに関してどうこう言うのはナンセンスだ。多少の犠牲を払ってもスポーツが上達したら文句はないだろうと言うような考え方自体が人権無視してるし、問題にしている論点がせますぎる、それはいささか功利主義的でもあると思うが、考え方がせまいと物事を多面的に見れないから自分たちがやってきたことが正しいと錯覚するのだろう。特にその競技を最後まで続けてある程度実績が残せたものはそう思うだろうが、彼ら彼女らの中ではいまだに愛ある体罰は必要で、パワハラはわるいことだと理解していると言うよりむしろ世間がうるさくなってきたぐらいの感覚でしかとらえていないのだろうと思う。

ある世代以上の指導者は私から見たらハラスメントがわるいことだと理解していない人間が多いように思う。暴言をはいたり、無理なトレーニングをさせたり、朝練なんていうのも過度な練習で勉強の機会をうばうから虐待だと理解しているが、人のいる前で「おいそこ」なんて言うのは言語道断、物でもないのだからたいへん失礼、私はもしそういうことを言われたら「Fuck you asshole!」ぐらいは言うと思うし、実際パワハラではないが米国でよそのコーチに言われて「お前よりましじゃ」と言って、どえらい目にあいかけたことがある。

話は日本の死刑制度の話になるが、少し前から死刑廃止をとなえる人たちがでてきた。日本人の多くは死刑制度を肯定するが、確かに政治哲学上で「功利主義」をもとにすれば、重犯罪の1人の命と人権よりも、それを失うことによって得られる社会的利益のほうが大きいと判断することができると考えたらそれは肯定できる。しかし西洋では死刑廃止国が多いのは自然法を根拠とする人権が絶対であるから、そういう犠牲を強いる功利主義を採ることはできないのだが、日本人が死刑に対して肯定的なのは単一民族で全体主義でその点においてはどちらかと言えば功利主義的であるからだ。

西洋では自然法に基づいて人権がもっとも重要視される。英語が話せない、海外留学の経験がとぼしいのはある世代から上の人たちだが、私はパワハラ(英語ではHarassment)なるもの人権の理解にとぼしい、多面的な見方ができないできないからで、文化や言語などをふくめて単一民族から見たから正しさや利益というものしか見えていない、それは若い世代に比べて語学が苦手、海外留学がとぼしいと言うことに関係しているように思える。何度も言うがパワハラはやってはいけないと言う程度で理解するのではなく暴力であり悪いことである。体操のコーチが競技者に暴行を加えて、その説明がきとんと親になぜそうしたか説明しているとかなんとか言っていたが、そういうことがいいわけとして通ること自体おかしな世界、人権を軽んじている世界だからおこりうると思う。


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私のちょっとした組織論 トレーナー編

2018-11-19 | Weblog

前みそであるがうちのクラブは来た人に雰囲気がいいとよく言われる。時には教育的で考え方がしっかりしていると言われることもあるが、最近よくほかの人からコミュニティの管理について聞かれることがある。うちのクラブの雰囲気がいいというのはそれは決してのりがいいといいことではない。それは常識のある大人たち健全な人たちが集まるゆえの安心感であると言ってもいいだろう。

私がこのコミュニティをよくするためにまず考えたのは誰をトレーナーにするかと言うこと、競技者の中からトレーナーを選び、そしてここで成長させるということだ。基本的にトレーナーは自分のクラブから出す。いわゆるはえぬきと言うやつであるが、そういうトレーナーをクラブの中心に選ぶということは重要なことである。十年ぐらい前に原監督がチームに就任した時、方針を聞かれてジャイアンツ愛だと言っていっていたが、それはプロの集団を率いていくにしてはいささか甘いと響く言葉であった。その時はなんかしっくりこんなと思ったものだが、しかしチーム愛と言うのは大事なことだ。生え抜きを選ぶというのも、競技者としてそのジムに在籍し、そしてそのクラブにかかわっている人間にはそのチーム愛があると思うからだ。ある程度ボクシングの技術もあって人間的にもポテンシャルの高い、最初から完成されている人間だとお互い変化が求められないし、進歩もない。それは粗削りであっても失敗してもクラブとともに成長できるポテンシャルのある人間を選ぶことは大事なこと。さらにただボクシングができるだけではだめだ。人としての能力も重要だ。面倒見がいい、何よりも弱い存在をおぼえてサポートできるということ、そして自分だけが得をするというような人間はなく、大人としての自己犠牲がある人間。そういう人間はおのずとまわりから信用されるものだが、そういうチーム愛がある人間を中心におくことで、群れの存在は安定する。みんなが安心してトレーニングできるだろう。
私自身いろいろな人間を見てきたがくだらない人間と言うのはすぐに言い訳をするし、結果的に自分が得をすることしか考えていない。そういう奴らは往々にしてクラブを利用しようとする。中途半端にジムだからいばれると自分の実績をこれみよがしに自慢する奴がまさにそうだが、金をもらえないからトレーナーをしないとか、特別扱いされるからとか、何もすることがないから教えているというような人間にはここでは教えることはできない。なぜならここに来てくれている会員の人も同じ共同体の仲間であり、そういう人たちが楽しくトレーニングできるためのクラブでもあるのだから、そういう人たちからも信用されないといけないと思うし、そうでなければここまでは雰囲気はよくならないであろうと思うからだ。私自身はトレーナーもそうだがここに来た会員の人たちにはここに来てよかったと思ってくれたらいいと思っている。そのため全体の雰囲気をどうよくしていくかということは重要である。


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海外でえらそうに言え

2018-11-14 | Weblog

私はかつて競技者であったが、たぶん私のように自由すぎる人間は日本では受け入れらなかったであろう。まず米つきバッタのようにへこへこしない態度は横柄にうつるだろうし、大きい声であいさつなどできない、監督の言うことにはいはいはいと従って従順さを示すことができない、所謂素直なバカになれないのだ。さらに私が理解できないのは師匠みたいな奴の存在である。うちでは冗談でビギナーにマスをやってもらったりミットをもってもらったりする時「あれが君の師匠や、なんでも好きなように使ってくれ」と言うが、しかし格闘技の世界はガチでそういう関係があるのでついていけない。たぶんそういう関係をつくるからハラスメントが起きやすいのだと思っているのだが、私から言わせてみたらスポーツをやっている人間は個性がない。素直なんだけども何かが足りない、本当に自己主張できる人間がかなり少ないと思っている。

最近運動クラブのセクハラや暴力が問題になっている。英語ではそういった行為をハラスメントと言うが、こういった行為にたいして欧米では規則があって、そういうことがおこらないようにしているのだが、それはただ指導者をしばるだけのものではなくて、競技者もこういうことをされたら声をあげてもいいよと言うことでもある。日本では競技者は就職などの進路をにぎられているからそう従わざるを得ないと言う人もいるがこの意見は受け身すぎると思う。私にしてみたらなぜもっと自分の権利を主張しないのか不思議だ。自分たちが逆らったら試合に出してもらえない、でもしかしそうだからと言ってアメフトのように人がケガをするぐらいのタックルをするのか、私からしたら言うほうも言うほうだが言われて従うほうにも問題はある。おかしいことはおかしいし、間違っていることは間違っている。たとえ就職を取り消されても試合に出してもらえなくても間違ったことは間違っていると言える強い心を養うのがスポーツの精神だと思う。私から見たらスポーツの監督は自分に服従させて従わせてコントロールすることが第一の関心ごとだ、本当にスポーツを通して精神を鍛えようなんて思っていないと思う。

監督をお父さんのようにあがめて一門みたいなヒエラルキーは個性をのばすには非常にナンセンスだと思っている。やくざでもないのになぜそういう奴を親玉と認めてそいつらの一門に入らなくてはいけないのか。監督によっては親でも言えないようなことを平気で言って、そういうことを言えるのが自分の特権だと思っているが、俺のおしめをかえたわけでもないのに言っていいこととわるいことがある。しかし師弟関係ではそれがゆるされ、ともすれば自分のために言ってくれているとなるからバカげた話だ。

私のコーチであったジョージはまわりから疎んじられていた。アレンも「彼は変人だと思われている」と気にしていたが、彼は名コーチなのだが、気難しく競技者のほとんどは彼から教えてもらわなかった、どちらかと言えば彼をさけていたようであった。でも意外と私とはうまがあったようで、アレンによるとジョージは気難しいが、ジョージは私のことを認めていて、私だから衝突しながらもうまくいっているらしい。自分で言うのもなんだが私は損得では動かない、おかしいことや間違っていることは違うと言うし、暴力には絶対に服従しない。私はその考え方を海外で貫き通してきたし、暴力排除、弱者の立場に立つと言うのはジムでの基本方針であると言ってもいいだろう。そういう私だからこそわかる違和感が日本のスポーツ界にはある。特に家父長制的なヒエラルキーがきてれつでおかしいともいえる人間関係を生み出していると思っているのだが、常に強者である存在の顔色をうかがう、内弁慶で聞いてもらえる立場でしか自分を主張できない、人にぶらさがる、一方的であることが信念だと勘違いしているあさはかさ、日本でえらそうに言えても海外ではおとなしいと私のもっているネガティブなイメージをあげたら枚挙にいとまがないが、スポーツをやるのにお父さんは必要ない、先輩やそういう人間たちの顔色をうかがうようではだめだと思う。


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God Bless you! 모든 것이 기적이라고 생각하며 사는 것이다

2018-11-12 | Weblog

今生きていると言うことは偶然ではなくて必然である。人間が生かされているとしたならば誰にでも生きている意味があるし目的がある。人生は必ずしもいいことばかりではなくわるいこともある。でもしかし自分の苦しかった経験や体験は自分にしかできないことで、もしそのことに意味があるとしたならばその悩みや苦しみはこの私が成長するための試練であって、そこには自分だけが与えられた意味や答えが見つかるだろう。

ジウンの教会のフライデーナイトと言う学生の集まりによく言っていたのだが、ある時、韓国人の宣教師が来て話をした。その宣教師はミンゼと言う男が連れてきた何ともうさんくさいおやじだ。そのおやじはイエスが重い病気の寝たきりで立てなかった男を「この男がここに存在しているのは神の栄光が現れるためだ」と言って男をたたせて奇跡をおこしたという聖書の話から病気が治ったとか、歩けない人が歩けるようになったとかめちゃくちゃうさんくさい話をしていた。それは私にとって聞くに堪えない話で、後でふるまわれるコーヒーとケーキとクッキーがなければ帰っていただろう。そしてその後コーヒータイムと言うのがあって、そのおやじは自分のことを信じない私にさらに信じろとせまってきた。でもあまりに高圧的で宗教や哲学の勉強は自分のほうが知っていると思ったので思わず言ってしまった。「あなたの言う奇跡は自分勝手だ。神があらわす奇跡ってそんなんじゃない。人間が弱いと思っていることが実は本当のアドバンテージであって、そこにおいてこそ一番大きな力がはたらくのだ。イエスが当時盲人や病気の一番弱いとされる人間たちに奇跡をあらわしたのはその弱さを通して神の力をあらわすため、それが奇跡だ。決してご利益なんかではない。人間は傷つき、悩み不安を抱えて生きている。けれどもその悩みや不安があるからこそ人にやさしくなれるし、自分が大きく成長できる。障害を持っていてもその人を通して語られる貴重なメッセージがある。私がここに生まれてきたのは偶然ではなく必然だ。人間はすべて生きる意味を持っていて、我々は目的をもっていかされているのだ。もし奇跡があるとしたら弱いものを強くする力が神の奇跡で俺はそのことを信じる」

キリスト教徒はよくギフトと言う言葉を使う。ギフトと言うのは神から与えられた才能とか能力みたいなものだ。でもしかし私なりに考えて、それはスポーツ選手などが持っている能力とかではなく、自分が持ってるディスアドバンテージがアドバンテージにかえられる何かを私はギフトだと思っている。自分の経験や体験は自分にしかできないものだ。でもその貴重な経験や体験を偶然としてしまえば、運がいいとかわるいとか人生がばくちのようなものになってしまうだろう。でもそのギフトが自分には気づかないむしろ自分がディスアドバンテージの中にあるとしたならば、人生はばくちのようなものではなく、自分の欠点や失敗をおそれることなく生きることができるであろう。失敗や欠点が多い私だからこそ言えるが、人間はむしろ失敗や欠点を通して学ぶことが多いし、そこから得るものも多い。

おやじとのやりとりがあった後、キレておやじを詐欺師呼ばわりした私はてっきりジウンにおこられると思っていた。その帰りに彼女がひとこと「今日のあなたの話、私はよかったよ」とにっこり笑って言ってくれたことを思い出す。ひょっとして私は彼女の言うように見える人なのかも知れない。そのジウンに神様を信じるかと聞かれて「絶対者の存在は信じるかも。でも特定の宗教にこだわりはないし、特にあのおっさんの言葉は信じない」と言ったが、私自身この世界には何か大きなものがあることは認めている。

偉そうに言うが私は生きてきて後ろを振り返ったことがない、常に前を歩いてきたと思う。そして今思うことは自分は何か大きな力によって導かれてきたと言うことだ。前回の動画に「御手の中ですべてはかわる感謝に」と言う歌詞がある。人生はいいことばかりではない、むしろいやなことのほうが多い、でもしかし大きな力によって導かれて本当に自分が生きていると言うことに答えがあって意味があるならば、私の生き方はすべて肯定されるのだと思う。


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On ne voit bien qu'avec le cœur. L'essentiel est invisible pour les yeux.

2018-11-11 | Weblog

よくブログに出てくるアメリカ系韓国人のチングであるジウンは、私が多くのことを教えられたチングのひとりである。ジウン曰く人間には二つのタイプがあって見える人と見えない人がいるらしい。見えるとか見えないとかと言うのは幽霊をみるとかということではなく、彼女の言葉を借りて言うならば(一方的な言い方ではあるが)絶対者の存在に気づきそれを知る人間とそれを知らない人間のことで、彼女から言うと私はそれを見ることができる人間であるそうだ。

私は神がいるとかいないとか言う議論はナンセンスであると思っているし、わたし自身、宗教学と哲学を勉強したが特定の宗教にはこだわりはない。でもこれだけは言えるが外の世界に出て行っていろいろな経験をしたら必ず大きいものにぶちあたる。そうしてその大きな存在にぶち当たった時に、本当に自分は小さな存在だと言うことがわかると言うことだ。人間は弱くてちっぽけな存在である。弱いから悩むし、孤独や不安を感じる。人間は弱くてそういう性質だから、いくら強がって生きてもそこには限界があり、自分では支えきれない現実がある。私自身も自分にはどうすることもできない不条理を経験したときに悔しいとか悲しさを通り越して本当にみじめさだけが残る涙を流したが、人間は本当に弱くてもろい生き物である。私は思う本当によりよく生きたかったら自分の弱さを認めることだ。そしてそこで自分の限界や弱さを知ったら大きな存在が見えてくる。大きな存在を知ると言うことは、その大きさの中で自分が生かされると言うことを知ると言うことである。今までの私は生きている答えや意味を求めて一生懸命がんばって生きてきた。けれども努力すれば努力するほどそれは遠くなっていくのだが、それは孤独や不安がそれをうわまるからだ。しかし我々が大きなものによって生かされると言うことは、目的によってこの私が動かされると言うことだ。目的によって動かされると言うことはすでにそこには答えがあって、我々のすることすべてに意味があると言うことで、その中で自分は生かされているんだと思う時、自分が生きていると言う価値をそこで見出すことができると思う。

私は時々ジムの会員から安定感があると言われる。安定感があるというのは私に能力があるとか、強いとかそういうことではない。それはたぶん私が自分の小ささや弱さを知っているからで、無理をしない、見せようとしない自然体で生きているからだと思っている。自分の小ささを知る。謙遜とかではなく大きいものの存在を認めることだ。自分はちっぽけな存在でそのちっぽけな存在がこの世の中で生かされている。そういう生かしてくれる何かがあると言うことを信じることで前向きに自分を信じて生きていくことができると思う。

今日あげた曲は前と同じく食事にありつきにいった教会でよく聞いた曲「In his hand」日本語であったのでのせるが、私の経験と気持ちにマッチしている。  

                           Hoyoung Kim 


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人間の尊厳 

2018-11-10 | Weblog

Million doller baybeというアカデミー賞を受賞した映画がある。しかしこれはRockyのようなサクセスストーリーではない。物語は一人の低所得層の女性ヒラリースワンク演じるマギーという30歳代の女性が、そこからぬけだすためボクシングに出会いはじめる。しかし30歳という年齢からかなかなか結果を出すことができず、同じジムのフランク(クリントイーストウッド)にトレーナーを頼むが、女には教えんとけんもほろろにことわられる。それでも必死でしがみつき、何とか教えてもらおうとするマギーにフランクも心撃たれ、トレーナーをひきうけ、やがて世界挑戦に挑むのだが、さっきも言ったようにこの話はサクセスストーリではなく話の本筋はここからはじまる。その世界戦に挑戦することになったマギーだが、その世界戦で相手の反則により首を強打してしまい、病院にはこばれる。そしてそこから闘病生活がはじまるのだが、ある日下半身不随でボクシングができないことを知ったマギーは自殺を試みるのである。私はこのシーンですごいなあと思ったのは自殺を試みたしらせを聞いてトレーナーが駆けつけたとき、彼女がさるぐつわのようなものをかまされていて、その理由が何度も舌をかみきろうとするからだというではないか、一度死のうとした人間が何度も何度も舌をかみきろうとするするだろうか、一般的にこの行為は自暴自棄のように見える、しかし私はここにある意味人間の尊厳を守ろうとする一人の姿があるように思える。よく宗教の指導者はいのちの尊さについて高いところから語るが、しかしここにはそれらとは違う命の尊厳、生きることの問いが問いかけられているような気がする。確かに自分の命を絶つことはゆるされることではないし、してはならないことだ、しかし彼女にとってボクシングは命であり、それが自分のすべてであった、そのことを失ってしまえば終わりで、彼女にとって生きることよりもプライドを失うことの方が大きいことである。この映画を見て思ったことは、人間の尊厳とは一体何だろうかということだ。我々は何のために生きているのだろうか?生きがいとかやりがいとか言うけれども、しかし本当にそういうプライドや自分のために何かをすることだけが人間を生かし、豊かにするものかは疑問である。人間は相互関係において生かされている思っている。すなわち相手によって自分は生かされ存在していると言うことが見えなくては本当に生きる意味が見えてこない。すなわち生きる目的とは自分のためにではなく、家族や友人、相手のために何かをすることが自分を生かし幸せにする生き方だと思っている。


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