脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

DONT BE SPOILED

2015-02-27 | Weblog

藤子不二雄の漫画でパーマンと言うかなり古い漫画がある。パーマンは1号から5号までそれぞれキャラクターが違うのだが、なぜかパーマン2号はサルだ。と言うと3号以下はサルにまけているのかと思うのだが、私はDQNのようなその手の奴らをパーマン3号と呼んでいる。運動系にはパーマン3号が多い、中には4号とか5号レベルかとさえ思えるような人間もいるのだが、こういうやつらは時には自分勝手で無神経なことをするので非常に腹ただしい。前にも言ったが個性と言う言葉は非常に難しい言葉だ。個性と言うのは自分の言いたいことや主張を人に押し付けたり、奇抜な格好を人に見せつけるものでもない、いろいろと他者と比較して悩むことが自分の個性につながっていく、雪の女王のLet it goは根本的に訳が違う。ありのままでなんて言うのは誤訳でLet it goは大きな悩みなどにぶち当たった時に気にしないでいいよというような感じで使われる言葉だ、だから韓国語の訳タイジョ(すべて忘れよう)と言う訳のほうが正しい、日本人はこういう言葉を好んで使うと言うようなことを言ったと思う。私自身はかなり個性が強いと思う。たぶん人とは違う能力もあると自負しているし、人に与えるインパクトも強いであろう。外国人も個性があると言っているのだが、しかし髪を染めているわけではあるまいし、奇抜な格好もしていない、むしろいい年をして目立とうとするような奴らの気が知れないと思っている。私の個性はどこから来たかと言うのは若い時にいろいろとたくさん葛藤し悩んだからだ。人と交われば交わるほど人との違いが見えてくる。だから時には広く他の国に出ていくことも人間の成長には必要なことでそういう他者との出会いによって人間は大きく成長するのだと思っている。しかし最近の若い人たちは思いっきり激しい議論はしないように思える。もっぱらfacebookやLineなどで情報交換をしたりほめあったり、慰めあっているように見えるのだが、過渡期と言われる時期には思いっきり議論しあうことは大事なことだ。私の洞察では最近の若い人はお互いをかばいあったり、慰めあったりはできるが、しかし違うことは違うおかしいことはおかしいと言えない。何かかなり気をつかいあっているように見える。しかしその一方親とか教師など迷惑をかける相手には思いっきり迷惑をかけるのだがそのバランスが何とも言えないぐらいわるいのだ。ありのままでとか個性なんて言いすぎると人間関係にくだらない遠慮ができる。相手に意見することは相手の個性を認めないと言うことになるし、それこそ違うなんて言うことを言ったらまさにそうである。最近道徳心というのが問題になっているが根本的には悪いことがわるいと言えない、間違っていることは間違っていると言えない、そういう傾向が道徳心の欠落と言うことと関係しているように思えるのだ。勉強をするのに金髪や変な髪の色のやつらに対して不快だとなぜ言えないのか?勉強を教える側としてはそういうくだらないかたちで自分を主張するような奴がいれば不快で授業はやりにくい、こういうことも個性と言う言葉でかたづけられるのだろうが、しかし教える側には権利などないように思える。実は教育と言う場においてはこの権利が大事なことだ。英語も理解できないたいした知識もないような奴が、これが俺の主張だと言わせてもらえるような世界で大人にそうかそういう考えもあるよなと庇護されて偉そうに言うのはちゃんちゃら笑える。勉強する気があるのならきちんとノートを持ってこい、さわぐなら出ていけ、人が見て不快な格好をするなバランスがくずれるだろぐらい全体のバランスを考えてそいつらに行動に不快感があって弊害になるならば言ってもいい、はっきり言って教室にサルが入って来たら授業になるのか?追い出すだろ、そういうレベルの奴が義務教育と言う世界であぐらをかいている。世界には勉強したくてもできない人間がいる。もっとそういう国を顧みて自分たちがいかに恵まれているかを知る必要がある。今の世の中は個性と言う言葉が強調されて言いたいことが先に言える世界である。ある社会学者はこう言っている。若者の言っていることは間違っている。しかし主張することは正しいことだと。友達同士で言いたいことを言いあったり大人に意見されることは大事なことなのだが、しかしこれが俺の個性と言うのがそういう成長の過程をさまたげている。いろいろな人の意見を聞いて時には否定されることも必要だが、しかしそういう経験をしようとしないのが現代人かもしれない。人に言われて時には傷つくこともある。しかしそれを成長の糧にできるのは若いからだ。私自身は生まれた時から他者との違いがあるのであくが強くありのままにがうけいれられなかった人間だ、ありのままにが受け入れなかったから成長して今の個性がある。私はありのままにと言う言葉はあまったれるなに聞こえる、Let it goではなくdont be spoiledである。

昔韓国に行った時に趙君と言う友人に「自分の友達が日本語を勉強しているので話をしてやってくれ」と頼まれた。行けば3人ぐらいの男が来てて日本語を勉強しているのだと言う。近くの店で話をしたのだが話すと必ず戦争責任の問題になる。まあ多少は予想していたがしかしこういう場でずけずけと言ってくるのはルール違反だ、で頭に来たので言った。当時はそれほど問題が明らかにされていなかったのではっきりとした事実関係に基づいて言えなかったが、しかし私はお前ら過去よりも前を見ろだから日本に勝てないんじゃみたいなことを言ってすごく険悪な雰囲気になった。問題はその趙君の友人たちでたぶん帰りに袋叩きに会うんじゃないかと言うぐらい険悪で、お前今なんて言ったんじゃみたいなことを韓国語で言ってきて一触即発であった。すると趙君が間に入って俺の友人に何かがあればゆるさんと助けてくれたのだ。人間は否定されることもあれば肯定されることもある、しかしこういう過程の中で成長していくのが人間だ。趙君とはよく議論もした日本のこと韓国のこと韓国人のおっさんは最低だと言うことは同じ意見であるが、しかしこういう関係があったからこそ本当の友人を持つことができたとさえ思っている。

 


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BoxingじゃなくTo box

2015-02-19 | Weblog

 サルに近い奴は自分のテリトリーを常に持ちたがる。それは試合会場に行っても言えることだ。日本人は思いっきりかたまる、試合会場でもここは俺たちのなわばりとばかりに荷物を置いて固まっている集団があるが、そういう集団を見るとかなりの違和感を感じる。確かにHIでもかたまって待機している人間はいたが、しかしそれとはかなり雰囲気が違う、どう違うのかと言うと説明することはむずかしいがそれは遠くから見てもこいつはこの軍団の一員だと言うことがわかる。日本のアスリートや監督は内弁慶な奴が多い、特にそれは海外に行った時にわかる。英語がわからないし議論ができないので通訳を通さなくては何も言えない。最近ではこりゃだめだと言葉を勉強しているアスリートたちも増えてきたがしかしボクシングはひどい。この前英語を話せるアスリートがあげられていたがボクシング関係はいない、英語を話せるアスリートはおろか100万人の英語でとりあげられた英語を勉強しているアスリートにさえも名前は出てこず、東京オリンピックがはじまろうとしているのに共通語でコミニュケーションをとれる奴はいないのかと思えば情けない話だ。少し前にボクサーで俺が世界をかえると豪語していた人間がいた。英語も話せないのにどう世界と対峙するの?と思ったが、結局彼はバラエティでお笑い芸人にいじられていたからその程度だ。英語が話せないこわさというのは海外にいないとわからないし、単一民族では理解できないだろうと思う。シンポジウムなどで英語で発表したりプレゼンするこわさはやったものにしかわからない。多くのしかも考え方の違う人間たちの前で主張するのだから、それなりの戦略や考え方がなければおそまつにおわってしまう。手厳しい意見であるが海外に行くとある程度英語が話せないと自分の行動に責任がとれないということである。

だいぶ昔にはやった未来へと言う歌がある。私はヘイリーウエスタンラがカバーして歌っていたので知っているのだがなかなかの名曲である。その歌詞のはじまりは「Wont you look down upon your feet. this is yours to take Look ahead.」であるがここでなぜthis is yours to take a look ahead はyours taking a look aheadではなくto take a look aheadになるのか?would you mind my sitting hereのようにyoursが来たらtakingとくるのが自然だと思うが、しかしあえてto不定詞をとっている。なぜそうしているのかというとこの歌詞のタイトルが「未来へ」だからだ。動名詞と言うのは一般的に過去の反復や習慣をあらわすときに用いられる。それにたいしてto不定詞はこれからのことや未来の事柄をあらわすときに使うものでhope wish promiseなどのにともなうのがto不定詞だ。だからここであえてto不定詞をとっているのはそれはこの歌詞が未来の事柄をうたっているからである。boxingと言うのはbox(拳でうちあう)の動名詞であるがboxingと言うと英語的には過去の反復や習慣を表現することなので、これからはboxingではなくto boxと言う積極的な表現にしたほうがいいだろう。そしてさらに言えばto studyと言うのもつけくわえる必要があるだろう。

 

 

 

 


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そういう時はShit!と言う

2015-02-19 | Weblog

あれから10年私は学生時代にトレーニングしていたジムに久しぶりに訪ねていった。私のトレーニングしていたジムはカラカウアジムと言うわりと有名なジムとカリヒと言う今は少しデェインジャラスなってしまって行かないほうがいいジムである。私は友人のピーターとカラカウアジムと言う一番トレーニングをしたジムに行ったのだがそこでのまったくかわらない雰囲気に安堵感をおぼえた。トレーニングをしばらく見ているとそこにいた少し年をとったトレーナーがミットをやるかと聞く、私はよろしくとグローブをかりて2分ほどうったのだが、そのあとそのトレーナーがお前はあの時のボーイだろとおぼえてくれていたからミットをとってくれたのだという。10年以上たっても何もかわらず自分のことをうけいれてくれたことに私はその時ここに来ていいんだ何か自分の遊び場にかえってきたような気がした。ボクシングはマイノリティが生き生きと競技できるスポーツである。ここには日本のようにリングサイドからえらそうにおいそことかアスリートをひよっこあつかいするような雰囲気はなくそれぞれが目標をもって生き生きとトレーニングしている遊び場である。

ある東洋人がラウンド中に納得がいかなかって帰ってくる時にコーナーマットを思い切りけったらしい。もちろんこういうことをやってはいけないことだ反則をとられてもおかしくない行為である。その行為に関しては特にファウルをとられることはなかったが、しかしその後レフリーをつとめてくれたピータージュンと言う中国系の人がそのアスリートのところに来てこういったらしい。「BOW」「えっ」と何のことかとためらっていると「BOW君たちの国にはそういう習慣があるだろ。東洋人はポライトな民族だ今日君はコーナーをけったけど次はもっと紳士的にふるまうことを期待してるよ」と言うようなことを言ってさって行ったらしい。彼はこの粋なはからいに深く感動して次からは自らの行為を慎んだそうである。私はHIのボクシングの雰囲気を経験しているのでどうしても日本の雰囲気にはなじめない。日本の競技者はどちらかというと自分たちが競技していると言うよりもやらされている感があるのだが、それは親玉のえらそうな態度や競技者の態度に出ていると思う。私が不思議に思うのはファウルをした時にあやまる姿だ別にわるいことをしたわけでもないのにペコペコとすいませんと頭をさげる。試合前にも審判に印象をよくしろだとかこういう言葉にも権威主義が見え隠れしている俺たちは競技させてやっているのだと、普通ファウルをとられたらShit!ダウンをとられて立ち上がるときはSon of bitch!だろ。何もここで口汚くののしることがいいと言うことではないし、私のようなことをまねするのがいいと言うわけでもない根本的に言いたいことそれは日本のボクシングは自由度がひくい一部の親玉の子飼いぐらいしか本当に生き生きと試合会場で競技できていないからだ。私は世の中で一番えげつないのは人種差別だと思っているがヒトラーのホロコーストはまさにそうである。しかしボクシングと言うスポーツはその壁をこえて存在するものだと信じているが、日本人の自分たちの世界と言うような狭いボクシング事情を見ていると何かとけこめないこれが私の本音だ。


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something Iv been into lately

2015-02-18 | Weblog

最近はまっているというか面白いと思っているのは和製英語だ。言葉によってはえげつないのもあるが近畿と言うのはその代表的な例、英語でkinkyと言えば変態のこと盗撮をするようなkinky gymと言うのが高知にはあるが近畿連合とか近畿連盟と言うと英語では変態連合と聞こえる。ボクシングにも和製英語がたくさんある。しかもその和製英語は猿まねを間違ってまねした程度のものだが、ラスト30なんとよく聞くがその30秒以内に誰かが死ぬのだろうか?しかも試合や減量で疲れ果てた奴らが全員声をあわせて言っているのでお前ら死神かとつっこんでしまいそうになるが、ラスト30と聞くとそういう切実さが伝わってくる。もしのこり30秒と言いたければラスト30ではなく30sec to goである。ダイエットというのも思いっきり和製英語だ。Im on dietと言うと医者から食事制限をしろと言われていると言う意味だ。はずかしながらこの和製英語は定着しているのでここでもつかっているのだが、しかし運動してやせるはworkout、実はこのworkoutと言うのはボクシングのトレーニングをするときにも使う。例えばI work out with my partner(パートナー(スパーリング)と一緒にボクシングの練習する)みたいな感じで使うのだがおそらくworkoutがやせるために運動しようと言う意味で浸透しなかったのは日本人に運動してやせるという習慣がなかったからではないかと思っているのだがダイエットは和製英語である。さらにシェイプアップも和製英語だシェイプアップと言うと「襟をただす」と言う意味すなわち「ちゃんとせい」と言うことだ。じゃあ体をひきしめろは英語で何というかと言うとget in shapeアメリカの広告にget in shape for womenなんて言うのがあったがまさにそれはひきしめのことを言っている。ブログでよく言っていることだが海外では共通語が話せないと通用しない日本では偉そうにしている親玉が海外に行くと借りてきた猫の子のようにおとなしいのを見てなさけないとは思わないか?インチョンでも韓国人や中国人になめられっぱなし、日の丸を侮辱されても何も言えずに帰ってきている姿を見て歯がゆい思いをしているが、国内でギャアギャア言っても意味がない。とにかく言葉をつかって主張できなければ海外では何もできないのと同じだ、これからは東京オリンピックにむけて語学習得を強化していく必要があると思ってるが、なんせ日本にはそれしかできないような奴がごろごろしている。過激な意見だがGymとかも英語のテストをうけさせてランク付けをしてもいいだろう。それぞれAからCランクまでわけて盗撮ジムのように話にならないGymはFランクだ、こういう差別化をはかれば語学にも自ずと興味がわく、事実MOBでも英語を教えているのだが中にはTOEICや英検をうけるものも出てきている。語学を取得させるためには興味をもたせなくてはだめだ、そのためにはまずはそういう英語音痴とも思えるような和製英語をつかっていてはダメだ。


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I was so reckless

2015-02-17 | Weblog

日本のアマチュアボクシングは権威主義である。なぜそこまで偉そうに見せたがるのか理解できないが海外に行っても何も言えないような奴が日本のしかも聞いてくれるような人間だけの前で偉そうにしてもみっともないだけいいかげんに気づけよと思う。私が競技したところは競技者と監督コーチはフラットな関係だったので、監督やコーチがあそこまでえばっていると言うような感じもなく競技者の自由度は日本よりもかなり高く、会場でもそれだけしかできないような奴らが偉そうにしているというような雰囲気もなかったので我々のようにへたれでもやりやすかった。話はHIでのボクシングの話だが今から考えたら私はふとときなことをしたと思う。一番でかかったのは元世界チャンピオンをおこらせた話、HIと言えばこの人が有名、HIは大きな体育館のようなジムがあっそこで自由にトレーニングできるのだが、そのチャンピオンも時々来て指導をしていた。そういうチャンピオンをまわりは敬意を払い教えをうけていたのだが、しかし私の態度がわるかったのか言った一言がいけなかったのかチャンピオンを大激怒させてしまいまわりを巻き込んであわや乱闘となりかけたのだ。多分その時そこにいた長老のサムが入って事なきをえたがその日から1週間ジムでは肩身の狭い思いをした。さらにカリヒジムと言うそこも大きな体育館の中のジムだが、そこのリングでトレーニングの後にプロレスごっこをしていて管理人に思いっきりおこられた。ここはボクシングのトレーニングで使用させていてプロレスは認めていないとか何とか言われてI understandの連発であったがいい年をした学生が集まってプロレスごっこをしておこられるのははずかしい話である。映画ゴッドファーザーでレックレスなビンセントにその親分であるマイケルがよく言うのがDo you understandだ。レックレスなことをしてまでも任務を遂行させようとするビンセントに向かってやりすぎだととも言わんばかりに言うセリフである。理由こそ違うが私もよくジョージに言われた。アメリカは自由度が高かったので多少レックレスなことをしてしまい注意されたのだが向こうのボクシングは面白かった。これあるフィリピン系のクラブの人間ととうちのクラブの人間との間にいざこざがあって(いわゆるやくざのようないざこざではないが)次の試合でお互いの選手があたった時にかなりエキサイトした。その時私はミラ何とかと言うフィリピーノによくある名前らしいがそいつとの代理戦争みたいになってしまってちょっとした大会にもかかわらずすごいプレッシャーであった。向こうもそう思っていたのか激しいうちあいに結局私が判定勝ちであったが、その時周りはウオーッと盛り上がって、たぶんこんなこと日本でしたら問題にされると思っているが、ガッツポーズもできない日本のアマチュアはそういう意味では面白くない、競技者もやっているというよりはやらされていると言う感じである。ボクシングと言うスポーツはマイノリティが生き生きとできるスポーツである。私もこれによって救われたことは確かなことでそういう点においてはボクシングは素晴らしいと言える。HAPAと言うコミュニティがある。これはバイレイシャルやミックスの人たちが集まるコミュニティであるがHAPAと言うのはハワイ語で半分と言う意味、ハワイではバイレイシャルやミックスが当たり前だ、日本ではマイノリティであってもここではマイノリティではない。ボクシングも同じことでHiでは比較的貧困層のフィリピーノやミックスが自由に堂々と楽しく競技している姿がここにあったことは確かなことで日本では一部の盛り上がりはあってもすべての人がというようなことではない、日本のアマチュアは英語が話せない人が多いのか人種や文化をこえてその多様性を認めると言うセンスがない、それが親玉の態度によく出ている。

 

 

 


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Valentains gift

2015-02-13 | Weblog

2月14日はバレンタインデーだ。実はバレンタインにチョコレートと言うのは日本ならではの習慣で一般的には女性が男性にというような習慣はなく特に子供たちが感謝の気持ちを込めてカードやキャンディ、マシュマロなどを送る日である。なぜチョコレートを贈る日になったのかと言うのは日本のチョコレート産業の戦略であると言われているが、実はこのチョコレートと人身売買がふかくかかわっていることを知っているだろうか。人身売買と言うのは英語ではhuman traffickingである。少し前アフリカのテロリストたちが少女たちを誘拐して人身売買するなどということがあったが人身売買はテロリストともふかくかかわっていて国際社会でも非常に問題となっている。しかしこれは何も海外の遠い話ではなく日本も国連から再三勧告を受けているそうであるが、事実日本においても人身売買が盛んに行われているようだ。これはある韓国人の女性の証言である。彼女は人身売買で売春を強要されていてNYで保護されたようであるが驚くことに彼女は韓国から一度日本に売られてそしてさらに転売というようなかたちでNYに来たそうである。あるNOPの団体によると韓国人だけに限らず人身売買で日本に売られてきた人間は性産業などで無理やり働かせられているそうだ。この前衝撃的であったのはあるシンポジウムの証言である。タイなどからかなり幼い未成年が売られてきて売春を強要されているそうだが、私が不快になったのはそれを買っている奴らである。普通そういう子供は明らかに未成年とわかるだろう。それを警察に届けることなく加害者になってしまうと言う心境はどう考えても理解できない、なぜ助けようとしなかったのか?証言によれば若い男から老人に至るまでその子を買ったそうであるが、こういう無関心さというか自分たちさえよければいいというような考え方に対して非常に憤りを感じる。話はコートジボワールの話に戻るがコートジボワールはカカオの原産国世界第一位で2位のインドネシアが94万トンに対してコートジボワールは165万トンという2倍近くの原産国であるが、実はこのカカオの生産でも多くの子供たちが農園に売られそこで過酷な労働を強いられているそうである。アメリカ政府はコートジボワールの人身売買を撲滅するためそれを禁止するハーキンユンゲル議定書というのを大手10社のチョコレート会社によって締結させたが、しかしこれがあいまいで未だその人身売買が盛んに行われているそうである。人身売買と言うのは遠い外国の話ではないそれは日本国内で事実おこっていることであり、その加害者が日本人であるのだ。アメリカ国務省はその人身売買の(tier watchlistも含む)危険度を4段階にわけているが、残念ながら日本はtier2の国でこのランクづけは先進国でもひくく、この結果は日本人の関心のなさからくるものであって、日本は包括的な外国人売春婦に対する人身売買対策法をもたない外国人に対して無関心であるからだと思っている。おとついうちの会員の人と英字新聞のクロスワードをといていた。その中にvatentains giftと言うのがあったのだが、その答えは英語で5文字、もちろんチョコレートではないcandyかなんていろいろ考えていたら、ある人がheartですよと、そこにいた人たちはみなあっそうかと納得したのだが、日本人は単一民族で英語がわからないから情報に疎く、裕福で平和ボケしているから大切なものを見落としている。valentains giftって何だチョコレートかマショマロかそれともキャンディかと悩むのではなく、いやハートなんだと気づくことが大事なことだ。

 


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I wont say just the way you are この前の新しいブログも見てよ

2015-02-12 | Weblog

日本語と韓国語は文法がよくにていて語順が同じである。だから歌をカバーする時もほとんど直訳でOkだ。私が好きな映画のチルソの夏のエンディングで流れているなごり雪も日本語とほとんど同じ言葉が使われているが日本語と韓国語は本当によく似た言葉である。しかし英語の訳で考え方の違いが出る。雪の女王の主題歌であるがその主題歌の有名な錆の部分のlet it goは日本語ではありのままでであるが韓国語はかなり違うその部分はタイジョ(すべて忘れよう)だ。はっきり言って日本語よりも韓国語のほうが英語の訳に近いような気がするが、日本語のありのままでと言う訳は不十分だ。もともとlet it goと言うのは大きな悩みなどがある人に対して気にするなと言う意味で使われる言葉だ、たぶんそれを受け流して行けと言うような意味であると思うのだが、ありのままでなんていう訳は私はあまりいい訳ではないと思っている。日本人は何かと言うとこういうたぐいの言葉を好んで使うがこういう言葉にはうんざりしている。ありのままでとかそのままの君がいいなどと言うフレーズをテレビなどでよく聞くが、私はこういう言葉を聞くたびに進歩がないなーと思ってしまう。まあとどのつまり個性を大事にしろと言っているのだと思うのだが、じゃあ個性って何なのだ?人と違う奇抜な格好をして吠えることが個性なのだろうか、あるいは支離滅裂な考え方を人に押し付けることが個性なのか、個性とかありのままになんて言っているとそういうバカが跋扈する。個性と言うのはただ自分のしたいことをしたり自分の言いたいことを言うのではない、個性と言うのは他者とのかかわりの中で見えてくるものである。前にも言ったがバイレイシャルなんかがまさにそうだ、二つの文化そして言葉を持っているのでいろいろと悩み葛藤する、そして自分はなぜそうなんだということを他者と比較して考えた時に自分には人とは違うアドバンテージがあることが実感できる。個性と言うのはそういう他者とのかかわりの中で自分が悩み考えた時に見えてくる。けつを半分出すような奇抜な格好をしてわけのわからないことを言う、そんなものは個性ではないバカがみんなやっているではないか。ああいう奴らの個性を認めることはサルの個性を認めることに等しいことである。自分たちでは個性と思っているが同じような格好をした奴らがあつまってたむろするどういう区別があるのかわからないが色で見分けるのか髪の毛で見分けるのか、個人的には外国人の参政権を認めるよりも成人式と言うのに奇抜な格好で警察沙汰になったりするようなバカの個性を認めるほうが深刻な問題だろう。何もバイレイシャルだけが個性を持っていると言うわけではないが、しかし個性と言う言葉があまりにも軽々しく使われるようになって自分勝手な奴が増えてきている。個性と言う言葉を一人歩きさせる前にもっと傷つき悩むことも今の若い人たちには大事なことだ、そうやって悩み考えた時に本当の個性が見えてくる。しかしありのままでとかそういう言葉がそれをさせることを妨げている。

 


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temporary patoriot

2015-02-06 | Weblog

最近ハーフタレントと言うのが目立ってきている。ハーフはバイレイシャルであるが私の中でのバイレイシャルの定義は2つ以上の国籍をもっている、あるいはもっていた。そして2つ以上の言葉を話す人たちがバイレイシャルだと思っている。だいぶ前に東京のアムネスティホールでhafuと言う映画が上映されていた。これはTEDでもコメンテーターがその主張をしていたのだが日本人は多様性を認めることに疎いから自分たちのアイデンティティが受け入れられにくいと言うことだったが、たぶんこのことは一般の日本人には何を言っているんかと言うことが理解できないできないからその自分たちの日常やちょっとした意見を映画にして伝えているのだと思う。

実は私はハーフタレントと言う存在をあまり肯定的には受け止めていない。正直うっとうしいと思っているぐらいである。なぜなら彼ら彼女らが勝手にバイレイシャルのイメージをつくっているからでテレビに出て華やかな世界でちやほやされているのがすべてのバイレイシャルの世界ではないからだ。その映画でバイレイシャルのイメージを歩いている人にインタヴューしているシーンがあった「かっこいい」とか「バイリンガルでうらやましい」と言う肯定的な言葉しか聞こえてこなかったが、しかし根本的なところでそれを受け入れているわけでもなく、彼ら彼女らはそういう複雑な文化があるということよりも何かハーフと言うグループのような存在をファッション的に受け入れているようにも聞こえる。バイレイシャルと言うのは内面で葛藤している。自分には二つのアイデンティティがあってそれが微妙に揺れ動いている。私はどちらかというと右寄りの考え方だ。日本国籍を持っていて日常は日本語を使う。そのこととアイデンティティを求めることがそうさせている部分もあるのだが、しかしこれがよその国の文化で生きてその国の言葉を話せばひょっとしたら自分はその国のパトリオットになっている可能性がなきにしもあらず、そういう二つの文化と言葉を同時に持っていてどっちつかずの状態でいるのがバイレイシャルである。ある方の著書であるがその方は現行の日本憲法は未熟だと理解しておられ、その憲法改正の全文の草案として日本国憲法(明治憲法)が参考として挙げられていた。私自身明治憲法と言うのはすぐれた憲法であると言うことは信じて疑わない、特に全文は天皇と言う専制君主的な存在を認めているにせよ、そこには平和と平等が歌われている。杉原千畝がユダヤ人にビザを発行した時に天皇のもとに人は平等だと言う思想があったと思うが、杉原がユダヤ人にビザを書いたのはそういう考えかたのもとであり本人もそういっているはずである。こんなことを言えば強い反対意見もあると思うのだが日本人と言うのはその天皇と言う名においては平和で平等である可能性がある民族だと言えると思っているが、それだけ天皇と言うのは日本人ときってもきりはなせない強い存在だ。それは当時キリスト教徒であった杉原がその思想に基づいてビザを発行したということからもよくわかると思う。しかし時代は変化しつつある。特に日本人の定義は今日ハーフと言う存在があるように今までの民族的なことだけでは決めつけることができるものでもなく、文化や民族の多様性を考えなくてはならない時代に来ている。これは私の意見であるが最近にわかにパトリオットが出てきてやたら日本人の誇りとか日本人としての何とかという言葉を聞くが、日本人、日本人と言う前にまず日本人とは何かということをこう言った問題をとらえつつ考えてもらいたいと思う。

 

 


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ここがヘンだよ イサンヘヨ

2015-02-06 | Weblog

今日はここがヘンだよ日本のボクシングと言うことで書きたい。

「自分のボクシングをしろ」

いつも思うことだが日本人はよくこの言葉をつかう。自分のボクシングって今やっているのが自分のボクシングだろ。じゃあ誰のボクシングなんだと突っ込みたくなるのだが、日本人はやたら基本いかえれとか自分の何々をしろと言えばみょうに納得をするが、しかしこういう言葉はかなり抽象的である。ここをこうしたらもっとアドバンテージがとれるとかリラックスしろとなぜそのようなかたちでは伝えないのか不思議である。ただだいぶ前にあるトレーナーが試合前の競技者にミットうちと同じようにうっていったらいいと言うアドバイスはナイスだと思ったのだが、しかし最近ではましになったのだろうが日本人は具体的に物事を伝えるのはへたくそであると思う。はっきり言ってこういう言葉が生まれてくるのは体育会的集団が上意下達の世界で考えることに疎い集団だからだ。よくコーチは考えろと言うがしかしどうやって考えるのかと言うメソッドは教えてくれない。最近気づくことだが最近ボクシングをはじめる人は我々の時代の人間よりもかたちがきれいでさまになっている。おそらく今の時代はyoutubeなどの動画などを簡単に見れるのでそういう視聴覚によるものだと思っているが、ボクシングと言うのは空手のように型がない、型がないから相手の動きを見てコピーして上手になっていくのがボクシングが上達するメソッドだ。私が担当している健康維持やダイエット目的の人たちには誰かがマスボクシングをやっている時にそれにあわせてシャドウをするように言っているが、こういうかたちでおぼえていくのが一番てっとりばやくボクシングの動きをおぼえることができると思っているからだ。ボクシングにおいてシャドウボクシングと言うのは重要なトレーニングだリングを使ってシャドウができればある程度ボクシングがマスターで来ていると思っている。しかし人にどうやったらシャドウボクシングがうまくできるのかというと明確な答えがかえってこない、実戦をイメージするとか自然におぼえたとかかなりあいまいな答えがかえってくるのだがボクシングは他のスポーツに比べてメソッドがない、それはどうやったらどうなるということを大げさかもしれないが科学的に考えないからだ。私はスポーツ全般において最初に重要なのはコピー力だと思うある程度人のまねができれば技術も上がるそしてそのコピーする能力は個人差があるがビギナーを上達させるためにはマスを観察させたりそれにあわせてシャドウさせたりとそういう環境をつくってやることも大事だと思っている。昔はボクシングはケンカだだからケンカと思って行けなどと言うようなことを言ってもそういう輩が来ていたので妙に納得する奴もいたものだが、しかしここMOBに至っては女性や普通のサラリーマンがほとんどである、だからそういう人間にケンカと思って行けないなどと言うのはナンセンスで21世紀は昔のような時代ではないのだからそういう荒々しさを削って、そういう一般の人たちが気安くトレーニングしやすい雰囲気と環境をつくることが大事なことで、そういう意味ではメソッドを持つと言うことは大事なことだと思う。

「相手もしんどい」

試合中によく言っているのを聞くがこんなこと言ってどうなるのだ。逆にそいつがしんどいのがばれてしまうのではないか。日本人は人に同意を求める民族であるがこういう時にでもあてに同意を求めるのかと驚いてしまうが、自分がしんどいからと言って相手もしんどいとは限らない私はこの言葉を聞くたびにそんなはずないだろと思ってしまうのだがもう少しましなことばはないのだろうか。

「Rush」

時々だが試合会場で聞いた。rushって突撃であるが軍隊でもあるまいし突撃って笑える。fightと叫ぶのもケンカだと言っているようなものであるがボクシングにはこういう英語の間違った使い方があるが本当にこの世界は語学に疎い世界である。たぶんかつてはボクシングは一番オリンピックで参加国が多かったと思う。他民族が集まるのだからせめて共通語は話せなくてはならないのだが、しかしこの世界は語学に疎い人間が多い。英語が話せないと国際社会ではなめられる。日本人の親玉が海外に行って猫の子のようにおとなしくなるのは英語が話せないのときちんとした議論ができないからだと思っている。特にこの英語が理解できない最低でも自分の意思を伝えるぐらいの語学力は必要であるがしかし自己紹介もできないような人間がほとんどである。これからの東京オリンピックに向けて特にそういうスタッフには語学研修が必要だ。この世界はよくわけのわからないオウンルールやへんな疑惑があるのは語学の疎さと関係していると思うのだが、最近ボクシングはアムネスティが問題視する国が台頭してきているのだからそういう国を相手にするためには語学を養うことは不可欠なことだと思う。


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イルミ ムウオエヨ 名前は

2015-02-02 | Weblog

何年か前にエクソシストのリメイク映画が上映された。日本ではなじみはないがエクソシストはイタリアやヨーロッパでは盛んに行われているそうである。ところでエクソシストにおいて一番重要なことは何かわかるだろうか?これは私の見解なのであるが、まずそれを語る前にユダヤの神について語りたいのだが実はユダヤ教では神は名前を持たない。神を直接見たり知ることは死を意味するので当時はそのことを恐れて神を主と書く時も母音を表記せずに子音のみで表記したそうであるが、聖書から影響を受けたヨーロッパの人間にとって名前には神の力が込められていたり魔術的な意味合いがあると言ってもいいと思うが、それは日本の言霊とよく似た概念であると思う。話はエクソシストの話に戻るが神父はとりつかれた人によく言うシーンがある。お前は一体何者なのだ!実はエクソシストにおいてこれが重要である。名前と言うのはこういうオカルト的な事柄においては相手を支配することに等しい。神父たちが聖水をふりかけ聖なる言葉をあびせるのは相手を弱らせ名前を聞くためであり、そしてその弱らせたところで相手の名前を聞く名前を聞いたらもう99パーセントエクソシスト完了。相手は苦しくなって俺の名はベゼバブルだとか名前を言う、その時in the name of Godによって退散しろと言葉を投げかけてエクソシストは完了する。たぶん映画を見る人は聖水をふりかけたり聖なる言葉によって相手を弱らせそのまま追い込んでやっつけると思っていると思うが、しかしエクソシストは相手の名前を聞き出さなくてはいけないのである。私はエクソシストってこういう手順で行われるんだなあということはわかる。しかしそれを行うためには修行をしたりその前に断食したりと実践的な行いが重要である。

 

 


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