私がよく使っていた英語がある。
子供がまだ2歳ぐらいの時、保育園での話である。その日は少し早めにおむかえに行ったのだが、その時まだおやつを食べていたようで、みんなでリンゴを食べていた。
おいしそうに慣れないホークを使ってみんな食べていたのだが、しかしその時間違ってうちの子がリンゴをぽとりとおとしてしまった。
一瞬静まりかえったその時息子が一言「shit!」タイミングとしてはばっちしだが、しかしこの言葉は使ってはいけない言葉である。
その時まわりの先生も何を言ったかはよくわかっていなかったが、まさか2、3歳の子供がリンゴをおとして「shit」なんていうと思うはずがない。正直冷や汗ものであったが、うちの子は私の言葉を聞いていていつの間にかおぼえたのだが「オットケハジョ」である。
私の子供の保育園は郊外であったが、市内の保育園や幼稚園などとは人と人との距離感が違うように思える。
市内はわりと都会なのでひとりびとりの距離感があるのだが、しかし田舎は親同士が、お互いをよく知り、親によっては子供のころからつながっているのでひとりびとりの距離が近く、子供同士も同じようにそだてられているので、お互いがそれほど距離を感じることがないのだが、正直都会ぐらしに慣れている私にはへきえきさせるものがあった。
ただ子供同士の付き合いはどうかと言えば、大人同士の距離が近いので、子供同士すぐに仲良くなれる。子供の付き合いを通して親も仲良くなると言うようなケースが見られるが、田舎生活と都会生活は一長一短である。
最近友達ができない子供が増えていると言うようなことを聞いたのだが、これが意外と多いらしい。
インターネットなどでも検索したら親がもっている悩みとしてかなりヒットするようだが、おそらくこれは都市型の生活が進み大人通しの距離が遠くなり、人間関係が疎遠になってきたことと関係しているように思える。
話はオリーヴの話になるが、ここには非常に才能のある人が在籍している。私自身もこういうスポーツにと驚いているのだが、わりと教育水準も高くて、中にはバイリングアルやトライリングアルの人もいるのだが、こういう人たちと話をすると非常におもしろくてかなりためになる。
ただおもしろいのは留学経験があったり、都会に出ていたからと言って考え方が個人主義的かというと必ずしもそうではない、付き合いなんかをみていたらべたべたとするわけではないが、それなりの距離感を保ちながら、ざっくばらんにつきあえるのだが、それは大人だけではなく子供にたいしてもそうだが、非常に人間関係というものを大切にとらえていて、子供やまわりにいい影響を与えてくれていると思っているが、ここに来る社会人の人たちはオンとオフの切り替えがはっきりしている、それゆえに大人のいい付き合いができるのだと思う。
最近の話であるが修学旅行に行かないという子供がいたのだが、彼は学校の教員が行けと言っても「行かない」と言っていたそうだ。
しかしある時この話を聞いたクラブの大人の人たちに「お前修学旅行にいかんということはどういうことか。小学校の最後の思い出だから将来後悔するぞ、行け。」と言われて行ったのだが、彼はまわりの人を本当に正しい大人だと信じている。おそらく正しさに中で語られる正しさだからこそ伝わったのだと思っている。
私から見れば、日本にあるクラブのほとんどが「村」か「組」である。
日本のクラブはそれをやるとすべてが犠牲になってしまうのだが、システムも監督中心の縦社会でかなり保守的だ。
ボクシングにいたっては審判の印象や反則をはじめから考えて練習しているのだが、シンクロでもあるまいし、まずこんな特殊なことを考えるスポーツはないだろう。
ルールもあれだけがんじがらめでは応用がきかないし、きかせられない。ただでさえバカなスポーツだと言われているのに、さらにその競技に応用をきかなくさせているのだが、時々「もっと考えろ」と言う奴がいるが、しかし私に言わせてみればこういうがんじがらめにルールや雰囲気の中で考えろと言うのは、囚人にあしかせをして、脱獄しろと言っているのに等しい。
こういう「村」や「組」のようなところにどっぷりつかると、自分の考えをもって自己主張できるような人間にはそだたないということは、よく言っていることだ。
日ごろから勢いのある言葉は聞いているので、我々のようなよわい相手には偉そうには言えるのだが、しかし本当に言わなくてはいけない相手には何も言えない。たとえ批判を持っていてもただハイとしか言えないのだが、それは縦社会の考え方がしみついているからである。
リングでの戦いはどうかわからないが、しかしこういう「村」や「組」が中心の世界で生きても、将来生きていく上での大事なものが育たない。
偉そうに自分のやってきたことをいかにすごいかと言うことは言うけれども、しかしふたを開ければ社会で生きていくための言葉や知識という武器を持たない、いわゆるスポーツバカと言われる存在だが、意外とそういう人間は結構目につくのではないか。
私は何を言いたいかと言うともっと先のことを考えろということである。
そういう保守的なヒエラルキーの中に入れて、服従させて、それが生活の中心になってしまうようなシステムでは、まともに社会人で生きていくアビリティなど身につくはずはないと思っているが、私はこういう入部したらそれ中心になるようなクラブのシステムや、監督中心のヒエラルキーを解体させなくてはいけないと思っている。
スポーツのコミュニティーは村や組ではない。ひとりびとりが強いられることなく、自発的に権利を主張して形成される場であり、むしろそういう場であるからこそ、子供にとって考え方や自己主張が育つのではないかと思う。
実は私の子供は個性が強いのでなかなかまわりに合わせることができず。少し心配していた。
そこでオリーヴのコミュニティーに入れたのだが、これが功を奏して徐々にではあるが人間関係を築きはじめている。
しかしコミュニティーに入れると言ってもボクシングなどはしない、本人もボクシングはあぶないからできんときっぱり言っているし、私自身もこういう村社会には入れたくないので反対である。
で彼はクラブに来たら何をしているかと言うとお手伝い、人がたたいているサンドバックを持ってあげたり、足を使う練習と言って女性をリングの上でおいかける。パンチのうちかたなどわからないのでただグローヴをつけておいかけるだけだが、これが意外とビギナーには練習になるらしい。
しんどいけど本人も結構おもしろがってやっているが、彼が徐々にではあるが人間関係と言うものを築きはじめることができているのは、みなさんのおかげである。最近では楽しいのか塾が終わるとすぐに来て手伝ってくれるのだが、ここのようにある程度教育水準が高くて、社会の中でがんばって生きている人たちのコミュニティーは健全であり、非常に得るものが多い。
子供がまだ2歳ぐらいの時、保育園での話である。その日は少し早めにおむかえに行ったのだが、その時まだおやつを食べていたようで、みんなでリンゴを食べていた。
おいしそうに慣れないホークを使ってみんな食べていたのだが、しかしその時間違ってうちの子がリンゴをぽとりとおとしてしまった。
一瞬静まりかえったその時息子が一言「shit!」タイミングとしてはばっちしだが、しかしこの言葉は使ってはいけない言葉である。
その時まわりの先生も何を言ったかはよくわかっていなかったが、まさか2、3歳の子供がリンゴをおとして「shit」なんていうと思うはずがない。正直冷や汗ものであったが、うちの子は私の言葉を聞いていていつの間にかおぼえたのだが「オットケハジョ」である。
私の子供の保育園は郊外であったが、市内の保育園や幼稚園などとは人と人との距離感が違うように思える。
市内はわりと都会なのでひとりびとりの距離感があるのだが、しかし田舎は親同士が、お互いをよく知り、親によっては子供のころからつながっているのでひとりびとりの距離が近く、子供同士も同じようにそだてられているので、お互いがそれほど距離を感じることがないのだが、正直都会ぐらしに慣れている私にはへきえきさせるものがあった。
ただ子供同士の付き合いはどうかと言えば、大人同士の距離が近いので、子供同士すぐに仲良くなれる。子供の付き合いを通して親も仲良くなると言うようなケースが見られるが、田舎生活と都会生活は一長一短である。
最近友達ができない子供が増えていると言うようなことを聞いたのだが、これが意外と多いらしい。
インターネットなどでも検索したら親がもっている悩みとしてかなりヒットするようだが、おそらくこれは都市型の生活が進み大人通しの距離が遠くなり、人間関係が疎遠になってきたことと関係しているように思える。
話はオリーヴの話になるが、ここには非常に才能のある人が在籍している。私自身もこういうスポーツにと驚いているのだが、わりと教育水準も高くて、中にはバイリングアルやトライリングアルの人もいるのだが、こういう人たちと話をすると非常におもしろくてかなりためになる。
ただおもしろいのは留学経験があったり、都会に出ていたからと言って考え方が個人主義的かというと必ずしもそうではない、付き合いなんかをみていたらべたべたとするわけではないが、それなりの距離感を保ちながら、ざっくばらんにつきあえるのだが、それは大人だけではなく子供にたいしてもそうだが、非常に人間関係というものを大切にとらえていて、子供やまわりにいい影響を与えてくれていると思っているが、ここに来る社会人の人たちはオンとオフの切り替えがはっきりしている、それゆえに大人のいい付き合いができるのだと思う。
最近の話であるが修学旅行に行かないという子供がいたのだが、彼は学校の教員が行けと言っても「行かない」と言っていたそうだ。
しかしある時この話を聞いたクラブの大人の人たちに「お前修学旅行にいかんということはどういうことか。小学校の最後の思い出だから将来後悔するぞ、行け。」と言われて行ったのだが、彼はまわりの人を本当に正しい大人だと信じている。おそらく正しさに中で語られる正しさだからこそ伝わったのだと思っている。
私から見れば、日本にあるクラブのほとんどが「村」か「組」である。
日本のクラブはそれをやるとすべてが犠牲になってしまうのだが、システムも監督中心の縦社会でかなり保守的だ。
ボクシングにいたっては審判の印象や反則をはじめから考えて練習しているのだが、シンクロでもあるまいし、まずこんな特殊なことを考えるスポーツはないだろう。
ルールもあれだけがんじがらめでは応用がきかないし、きかせられない。ただでさえバカなスポーツだと言われているのに、さらにその競技に応用をきかなくさせているのだが、時々「もっと考えろ」と言う奴がいるが、しかし私に言わせてみればこういうがんじがらめにルールや雰囲気の中で考えろと言うのは、囚人にあしかせをして、脱獄しろと言っているのに等しい。
こういう「村」や「組」のようなところにどっぷりつかると、自分の考えをもって自己主張できるような人間にはそだたないということは、よく言っていることだ。
日ごろから勢いのある言葉は聞いているので、我々のようなよわい相手には偉そうには言えるのだが、しかし本当に言わなくてはいけない相手には何も言えない。たとえ批判を持っていてもただハイとしか言えないのだが、それは縦社会の考え方がしみついているからである。
リングでの戦いはどうかわからないが、しかしこういう「村」や「組」が中心の世界で生きても、将来生きていく上での大事なものが育たない。
偉そうに自分のやってきたことをいかにすごいかと言うことは言うけれども、しかしふたを開ければ社会で生きていくための言葉や知識という武器を持たない、いわゆるスポーツバカと言われる存在だが、意外とそういう人間は結構目につくのではないか。
私は何を言いたいかと言うともっと先のことを考えろということである。
そういう保守的なヒエラルキーの中に入れて、服従させて、それが生活の中心になってしまうようなシステムでは、まともに社会人で生きていくアビリティなど身につくはずはないと思っているが、私はこういう入部したらそれ中心になるようなクラブのシステムや、監督中心のヒエラルキーを解体させなくてはいけないと思っている。
スポーツのコミュニティーは村や組ではない。ひとりびとりが強いられることなく、自発的に権利を主張して形成される場であり、むしろそういう場であるからこそ、子供にとって考え方や自己主張が育つのではないかと思う。
実は私の子供は個性が強いのでなかなかまわりに合わせることができず。少し心配していた。
そこでオリーヴのコミュニティーに入れたのだが、これが功を奏して徐々にではあるが人間関係を築きはじめている。
しかしコミュニティーに入れると言ってもボクシングなどはしない、本人もボクシングはあぶないからできんときっぱり言っているし、私自身もこういう村社会には入れたくないので反対である。
で彼はクラブに来たら何をしているかと言うとお手伝い、人がたたいているサンドバックを持ってあげたり、足を使う練習と言って女性をリングの上でおいかける。パンチのうちかたなどわからないのでただグローヴをつけておいかけるだけだが、これが意外とビギナーには練習になるらしい。
しんどいけど本人も結構おもしろがってやっているが、彼が徐々にではあるが人間関係と言うものを築きはじめることができているのは、みなさんのおかげである。最近では楽しいのか塾が終わるとすぐに来て手伝ってくれるのだが、ここのようにある程度教育水準が高くて、社会の中でがんばって生きている人たちのコミュニティーは健全であり、非常に得るものが多い。