時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

工房の世界を覗き見る: トレイシー・シュヴァリエ『貴婦人と一角獣』

2005年05月15日 | 書棚の片隅から
  このブログでも取り上げているラ・トゥールの人生は、多くの謎に包まれているが、そのひとつは画家として初期の修業をどこで、いかに過ごしたかということにある。16世紀末から17世紀という時代に画家という職業で生きてゆくには、天賦の才能に恵まれるだけでは、とうてい不可能であった。

画家の修業時代?
  他方、画家という職業を求める人も多く、ラ・トゥールの生まれたロレーヌのヴィック・ド・セイユという小さな町でも、多くの画家が活動していた。1593年にヴィックに生まれたラ・トゥールが、1617年に24歳で結婚するまで、画家としていかなる修業をしたかという点については、なにも推定する材料が発見されていない。しかし、リュネヴィルの貴族の娘ディアーヌ・ル・ネルフと結婚するについては、その時までにラ・トゥールが画家として、かなりの実績を上げていたに違いないと推定されている。パン屋の息子が社会階級としては上層のグループに入り込むことは、並大抵のことではなかった。この時までに、ラ・トゥールは若い画家として、将来を期待されるだけの仕事をしていたものと考えられる。ラ・トゥールが結婚を機に、妻の実家のあるリュネヴィルに住居を移すのも、画家の間の市場競争も考えての上であったと推定されている。

徒弟の世界
  中世以来、多くの職業において、必要な熟練を習得するには、徒弟制度apprenticeship という経路をたどることが必要条件であった。時代や職業においても差異はあるが、徒弟制度は社会的に確立された熟練養成の仕組みであった。当時の徒弟は、職種などで異なるが、ほぼ14歳でスタートし、4~6年間、親方や兄弟子職人の下で修業する慣わしであった。ラ・トゥールも、画家としてロレーヌで認知されるについては、どこかの工房に徒弟として住み込み、親方の指導の下で、画法や顔料など必要な知識や技能を習得する時代を過ごしたに違いない。
  推定では、ロレーヌで画家およびエッチング(銅版画)作家として名声の高かったジャック・ベランジェJacques Bellange (c.1575-1616)あるいはヴィックですでに画家として認められていたドゴスClaude Dogoz(1570-1633)の工房で修業したのではないかともいわれているが、確認する資料はなにも発見されていない(この推測のひとつの理由は、後年ラ・トゥールの息子エティエンヌがドゴスの姪アンヌ・カトリーヌ・フリオと結婚していることが挙げられている)。ラ・トゥールは、結婚する前にパリにいたとの資料上の推測もあるが、当時の状況を考えると、少なくもどこかの工房で修業をしなければならなかったと思われる。

『貴婦人と一角獣』にみる親方と徒弟
  ラ・トゥールの修業時代については、新たな資料の発見を待つ以外にない。それに関連した問題は別にとりあげるとして、ここでは、最近手にしたひとつの時代小説を紹介しよう。トレイシー・シュヴァリエ Tracey Chevalierの最新作『貴婦人と一角獣』(The Lady and the Unicorn, Harper and Collins, 2003, 木下哲夫訳、白水社、2005年)である。前作のフェルメールの名作に因んだ『真珠の耳飾りの少女』は、映画化もされたのでご存じの方も多いだろう。美術の好きな方は、表題をみて直ちにパリの国立中世美術館(旧クリュニー美術館)が所蔵する「一角獣を連れた貴婦人」と題する有名なタピスリー(英語ではタピストリ)を思い浮かべることと思う
  このタピスリーは、フランス中世美術の至宝といわれる作品である。小説家トレイシー・シュヴァリエは、この作品を題材に想像の世界を繰り広げた。タピスリーの注文主である貴族の一家、画商、絵師、タピスリーの工房の親方、徒弟などを登場させ、タピスリー(つづれ織り)のような愛と官能の世界を描き出した。
  1490年から92年にかけてのパリとブリュッセルを舞台に、タピスリーの発注から完成にいたる過程で、登場人物が織りなす場面はそれぞれ興趣があり、読者をひきつける。

クリュニーのタピスリー
  パリ・カルチェラタンの国立中世美術館(旧クリュニー美術館)の6枚のタピスリーは、私も見たことがある。ローマの要塞都市時代、14世紀に建てられたクリュニー派修道院の院長邸宅が美術館になっている。当時の公共浴場の跡や、サン・シャペルから移したステンド・グラスや、ピエタなど貴重な展示物がある。建物としては、はからずもドイツの小さな町トリアーに残るローマ時代の遺跡ポルタネグラ(黒い門)を思い出してしまった砂岩の壁が特徴である(現在の名称になってから、内部も改装されて明るくなったようだ)。しかし、この美術館の目玉はなんといっても、『貴婦人と一角獣』La Dame a la Licorneの6枚の連作タピスリーである。
  最初に見た時は室内照明も暗くとまどったが、目が慣れてくると赤の鮮やかさが栄え、貴婦人たちの優美さが描かれている。処女しか手なずけることはできないという一角獣が乙女の膝に前足をのせている(*1)。小説にも登場する緻密なミル・フルール(千花模様)、一角獣とともに描かれている獅子やほかの動物たちなどが美しい。

  このタピスリーは、元来リヨンの貴族ル・ヴィスト家の依頼で15世紀後半にフランドルの織元工房で制作された。しかし、短い期間ル・ヴィスト家に留まっただけで他人の手に渡り、19世紀に史跡検査官に再発見され、ジョルジュ・サンドはその擁護者になった。のちにフランス政府が購入、修復し、クリュニーに保管されたという経緯がある。

ラ・トゥールを思い浮かべて
  小説に描かれたブリュッセルの工房の情景は、大変興味をひく。詳細は実物をお読みいただくとして、大変面白いのは、この小説家トレイシー・シュヴァリエがこの小説を書くについて、明らかにジョルジュ・ド・ラ・トゥールを念頭においていることが分かる部分が時々登場する。
  ブリュッセルのタピスリー工房の親方の名前は、ジョルジュ・ド・シャペル、孫はエティエンヌ(ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの息子と同名で画家になる)、徒弟の一人はフィリップ・ド・ラ・トゥールである。タピスリーの下絵描きとタピスリー工房の関係なども描かれており、大変面白い。
  なお、トレイシー・シュヴァリエは、Home Page (*2)も開いているので、ご関心のある方は訪れることをお勧めしたい(2005年5月14日記)。

*1)ちなみに、レオナルド・ダ・ヴィンチは一角獣について、次のように記している:「不節制―一角獣は不節制で克己力がないため、小娘が好きで、自分の凶暴性も野生も忘れてしまう。一切の疑念などそっちのけで、坐っている小娘のところへ行き、その膝で眠ってしまう。猟師はこういう風にして一角獣をとらえる。」(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記、上』杉浦明平訳、岩波文庫、2002年、126頁)

*2)http://www.tchevalier.com/index.html

Image:Courtesy of the Tracy Chevalier's HP

*このタペストリー(クリュニー国立中世美術館蔵)に関する記事が掲載されている「美の美:一角獣がやってきた」『朝日新聞』2005年11月20日
コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ラ・トゥールを追いかけて(... | トップ | 揺らぐドイツの労働市場:拡... »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ラ・トゥ-ルを眺めながら昼ごはん (三紗)
2005-05-15 00:48:02
こんばんは



>不節制で克己力がないため、小娘が好きで、自分の凶暴性も野生も忘れてしまう

この一角獣の表情を見ると、本当にそうなのかなと思ってしまいます。うれしそうですもの。



今晩、レンヌの美術館が夜8時から11時まで無料解放されるので、ラ・トゥ-ル見てきます。それから「ラ・トゥ-ルを眺めながら昼ごはんを食べる」という15人限定企画が来週金曜にあるらしいです。これも是非行きます。近くにいらっしゃるならお誘いするのに、ちょっと遠すぎますね。
返信する
工房の世界を覗き見る:トレイシー・シュヴァリエ『貴婦人to』 (桑原靖夫)
2005-05-15 10:47:43
三紗さん



早速コメントいただき有り難うございます。



想像の世界の動物とはいえ、ダ・ヴィンチも面白いことをいうものですね。



レンヌの美術館の環境、うらやましいかぎりです。
返信する
アペリティフは?食事は? (三紗)
2005-05-31 19:42:26
こんにちは。



以前の書き込みの訂正です。「美術館で昼食を食べる」という企画はボザールの美術の先生に聞いたのですが、参加してみると、毎週1人のひとつの作品を1時間、アシスタントが説明するだけで、飲み物も出てきませんでした。最後は美術館を閉めるからと途中で展示室から追い出され、それでおしまい。



私は最後まで、「別の場所でご飯を食べるんだ」と楽しみにしていたのに、な~~んにもありませんでした??? 先生は確かに「2ユーロで解説も聞けて食事もでるから行きなさいよ」と行ったのに・・・ やっぱりフランス人のいうことは、疑ったほうがいいです。よくわからないことでも、自信たっぷりで教えてくれますからね。
返信する
アペリティフは?食事は? (桑原靖夫)
2005-05-31 22:05:24
三紗さん



素晴らしい企画、さすが美術大国フランスと思いましたが、残念でしたね。



フランスのEU憲法協定「ノン」は、日本のメディアも大きくとりあげています。グローバル化の進行が速すぎて、ついて行けない人たちが多くなっているようです。



上野のラ・トゥール展は終了しましたが、私の私家版ラ・トゥール回顧展?は続きますので、どうぞよろしく。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

書棚の片隅から」カテゴリの最新記事