時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

よみがえったブルッヘン

2008年04月13日 | 絵のある部屋

The Crucifixion with the Virgin and Saint John, ca. 1625
Hendrick ter Brugghen (Dutch, 1588�1629)
Oil on canvas; 61 x 40 1/4 in. (154.9 x 102.2 cm)
Funds from various donors, 1956 (56.228)



  美術館が所蔵する作品の中には、数奇な運命を辿ったものもある。作品の来歴 provenance を見ることで、時には思いがけないことを知ることができる。波乱万丈の自伝を読むような気がすることもある。メトロポリタン美術館の歴史にそのひとつの例を見た。

  1956年、メトロポリタン美術館は、カラヴァッジォの流れを汲んだユトレヒトの画家ヘンドリック・テル・ブルッヘンHendrick ter Brugghen(1588-1629)の手になる「キリストの磔刑」The Crucifixion with the Virgin and Saint John (ca.1624-25)を購入した。この作品、テーマやイメージから見て個人の礼拝堂か“隠れた”カトリック教会の祭壇を飾っていた作品と考えられている。一見して、その古風な様式や雰囲気から、このブログでも話題としたことのあるアルブレヒト・デューラー(1471-1528)やマサイアス・グリューネヴァルト(1475・80―1528)を思い起こさせる。実際、そう考えられたこともあるらしい。さらに、ブルッヘン自身もカトリックではないかと推定された(今日では、誤りとされているようだ)。

  よく見てみると、グリューネヴァルトの作品にも大変似た様式で描かれたものがある。しかし、陰鬱な印象が強いグリューネヴァルトと比較して、こちらは色の使い方、光など、なんとなく新しさを感じる。実はブルッヘンは、友人であったホントホルストと並び、かなりごひいきの画家なのだが、この絵はあまり好みではない。

  この作品、実は初期の来歴は闇に包まれている。最新の調査の結果では、1624-25年頃の作品と推定され、19世紀後半から20世紀中頃まで80年近くの間、ロンドンのサウス・ハックニーにある小さなヴィクトリア風の教会クライスト・チャーチの小礼拝堂に掲げられていたことが分かっている。ルーベンスの「キリストの降架」Deposition のコピーと並んで掲げられていたらしい。その当時は作品自体がかなり汚れており、ラベルもなにもついていなかった。クライスト・チャーチ最後の司祭の息子にあたるニジェール・フォクセルNigel Foxell によると、イタリア、カラッチ派の画家の作品とされてきたらしい。

  これから明らかなように、当時は作品につけられていたブルッヘンのモノグラム HTBに、誰も気づいていなかった。このモノグラムは後になって発見されたのだが、作品に描かれている十字架の下部、頭蓋骨の上辺りに記されていた。なぜ、モノグラムに気づかなかったのだろうか。保存状態があまりよくない教会堂で、画面が汚れており、読めなかったのかもしれない。確かに、この部分は暗色に塗られていて気をつけてみないと分からないと思われる。

  クライスト・チャーチは第二次大戦中に爆撃を受け、その後、1955年に撤去され、教会自体が消滅してしまった。幸いブルッヘンの作品とルーベンスのコピーは、画家や来歴などを調べられることもなく、近くのより大きな教会であるセント・ジョン教会に移管された。戦後のどさくさで余裕もなかったのだろう。

  その後まもなく、フォクセルがこの教会に立ち寄り、自分の父親の教会にあった、あの「カトリックのような」“popish” 絵画はどうなっているか調べたところ、教会身廊nave の聖具室の屋根に画面を上にして放置されていたのを見つけた。漆喰や塵が作品の表面を覆っていたけれども、幸い特に損傷していないことが分かった。そこで、フォクセルは牧師に80ポンドという当時としてもささやかな額を差し出し、この絵を引き取った。

  その後、1956年の秋のこと、著名な競売会社サザビーズのスタッフがこの絵を鑑定し、ブルッヘンの作品であることを確認した。それを知って、フォクセルはこの作品をロンドンのオークションに出品した。結果として、ニューヨークのメトロポリタン美術館が、美術品ディーラーのハリー・スパーリングを介して落札した。価格は15,000ポンドという破格な高額だった。フォクセルは、この取引で得た利益をロンドンの教区へ寄付した。

  ブルッヘンは、時に作品がラ・トゥールと間違えられたこともあるホントホルスト Cerrit van Honthorst(1592-1656)などと同時代人である。ハーグに生まれ、1590年代にユトレヒトへ移った。この時代の多くの画家の憧れの地であったローマへ画業の修業に行っている。時期は1606年頃ではないかとみられ、カラヴァッジォが活躍していた時期と推定されている(カラヴァッジォは罪を犯し、1606年にローマから追放された)。その後、1614年にユトレヒトへ戻ると、伝統的なオランダ絵画の主題に新たな試みを持ち込み、宗教的あるいは世俗的主題において、当時の最新のイタリアの様式を導入した。それはカラヴァッジョの作品から学んだラディカルな自然主義とドラマティックなキアロスクーロ(明暗法)だった。ブルッヘンは蝋燭あるいは油燭の明かりによる独特な雰囲気を生み出した。

  かくして爆撃を受けた廃墟からよみがえった作品は、オークションという場を介して、大西洋を渡った。ブルッヘンは、ユトレヒト、オランダの画壇においても、アウトサイダーであり、孤立した存在だったとされている(しかし、研究は必ずしも十分なされているとはいえない)。この作品からは想像しがたいが、他の作品におけるリア
リスティックな描き方、光の使い方などから、ユトレヒトにおけるカラヴァッジョ風の画家と考えられている。その後のオランダ絵画への影響力はさほどではなかったが、その光と色の扱い方は、レンブラントやフェルメールの先駆者とみなされている。(ラ・トゥールとも大変近い点が処々に感じられるが、その問題はいずれ記したい。)

  ブルッヘンの「オランダ的でない」祭壇画は、自然な風景や人物画を好んだ19世紀末から20世紀初頭のアメリカの古い世代のコレクターにはアッピールしなかったようだ。当時の富豪や画商の「お買い物リスト」にも載らなかった。この意味でメトロポリタンがブルッヘンのこの作品を取得したことは、時代の嗜好の変化を示すものとして注目される。メトロポリタン美術館は、次第に自らの収集方針を明確にし、ある程度は自力で作品を購入できるまでに充実してきた。実際、このブルッヘンも、多数の個人の寄付金で購入されている。メトロポリタンは、富豪たちに支えられてきた状況から、自らの方針を持った美術館として独り立ちする日を迎えていた。画期的な転機が間もなくやってくる。



Reference
Walter Liedtke. Dutch Paintings in The Metropolitan Museum, Yale University Press, 2007.



  

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