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穏やかな日々を

「心の安定に少しでも貢献」 小児科医有志が寄贈 児童相談所へ「役立てて」

2017年06月25日 18時53分09秒 | 地域
「心の安定に少しでも貢献」 小児科医有志が寄贈 児童相談所へ「役立てて」
2017年6月23日 (金)配信千葉日報

 千葉市医師会小児科医会有志が、市の児童相談所(千葉市美浜区高浜3)に9部屋分の畳計76枚を寄贈した。市は子どもが一時的に滞在する居室に活用。畳は約20年間交換されず古くなっていたといい、同会の今田進会長は「子どもの居心地の向上に役立ててほしい」と要望する。
 寄贈のきっかけは、昨年11月に行われた市社会福祉審議会メンバーによる視察。「こんだこども医院」(千葉市緑区おゆみ野)院長で同審議会の委員も務める今田会長が畳が古くなってすり切れていることに気が付いた。同会メンバーの小児科医らに協力を呼び掛けると、購入費約40万円が集まり、寄贈が実現したという。
 居室は虐待や保護者の病気などで家にいられない子どもが一定期間滞在するための設備で、担当者によると常にほぼ満室の状態。同相談所は1996年の建設当時から、老朽化した場所の補修を随時実施。しかし、居室の畳はまだ使えるとして、費用などの面から一度も交換されていなかった。
 今田会長は「小児科医有志一同、子どもの心の安定に少しでも貢献したい」と思いを話す。寄贈された新しい畳を設置した同相談所の担当者は「雰囲気がよくなった。子どもたちもはだしで快適そうにしている」と感謝した。
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「スマートドラッグ」厚労省規制へ 「頭良くなる」若者ら乱用懸念

2017年06月25日 18時52分37秒 | 医療情報
「スマートドラッグ」厚労省規制へ 「頭良くなる」若者ら乱用懸念
行政・政治 2017年6月23日 (金)配信朝日新聞

 「頭が良くなる」「記憶力向上」といった「効果」をうたい、インターネット上で販売されている「スマートドラッグ」の規制に厚生労働省がのりだす。22日に開かれた同省の部会で、健康被害や乱用につながる恐れがある医薬品が個人輸入され、出回っている可能性が報告され、危険性の高い薬の個人輸入を原則、禁止することを確認した。
 スマートドラッグは脳機能に作用する、てんかんや認知症の治療薬を含むとみられる。大半は海外で作られ国内では未承認、有効性や安全性は確認されていないと同省はみている。
 同省研究班の2007年の報告では、扱う個人輸入代行業者が多数、確認されている。健康な若者らが本来の目的から外れて使うケースがあると問題視されている。
 この日の医薬品医療機器制度部会で同省は、輸入されている薬を調べ、関係の学会や団体から意見を聞くと説明。健康被害や依存につながる恐れが高いと判断した薬は、医師の処方箋(せん)や指示がなければ個人輸入を認めないようにすると合意した。
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沖縄戦前の写真

2017年06月25日 18時46分07秒 | 地域
沖縄戦前の写真、色探す旅へ AIと現地取材で再現試み
2017年6月23日05時00分

那覇市にあった市場の様子。人工知能を使って自動で色づけした写真を現地の資料や記憶を元に補正(レタッチ)をしたもの。この写真をもとに、これから現地で取材を進めていく

 人工知能(AI)と沖縄の人々の記憶が、82年前の「色」をよみがえらせる――。朝日新聞と沖縄タイムスは、首都大学東京の渡邉英徳准教授のチームとともに、戦火にさらされる10年前、1935年撮影の沖縄の白黒写真を、現実の風景に近づけていく取り組みを始める。
沖縄戦が奪った命の色彩、再び 挑む出身記者の思いは…
【写真多数】見つかった画像を一挙公開「沖縄1935」
特集:沖縄はいま
 早稲田大の石川博教授らの研究グループが開発した、人工知能を使った自動色づけの技術などを活用し、カラー化した。ただ、人工知能が判断材料とするデータの蓄積が少ない沖縄特有の風景や建物の色もあるはずで、今後、現地での取材を重ねて、当時の姿になるべく近いものに修正していく。カラー化した一部の写真は、取材過程とともに紙面やデジタル版で紹介する。
 戦後72年。戦争を知る世代は少なくなっている。45年の沖縄戦で焦土と化した沖縄。戦争の悲惨さを改めてかみしめるきっかけになるよう、その10年前の姿を色鮮やかに再現していく。
 沖縄タイムスを休職して渡邉准教授(情報デザイン)の下で学んでいる與那覇(よなは)里子さん(34)とともに、両社の記者が、失われた沖縄の「色」を追いかける。
 写真は35年に、大阪朝日新聞の記者が撮影。朝日新聞大阪本社に大量のネガが保存されていた。戦前の沖縄の写真の多くは焼失しており、貴重な写真群。
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「クズ」罵声の日々、社員自殺 法規制なきパワハラ

2017年06月25日 18時34分32秒 | 仕事
「クズ」罵声の日々、社員自殺 法規制なきパワハラ
鶴信吾、牧内昇平
2017年6月25日03時06分

「自分の人生に幕をおろす事にきめました」。自殺した佐川急便の男性社員が携帯電話に残したメッセージのコピーを手にする父親=6月、岩手県内

 「殺してえな」「むかつく」――。ヤマト運輸で宅配ドライバーとして働いていた46歳の男性は、上司からの叱責(しっせき)に悩んでうつ病を発症し、自ら命を絶ったとして、昨年労災が認められた。深刻な被害が後を絶たないのに、パワハラを防ぐ法規制はない。パワハラは「野放し」にされているのが実情だ。
「殺してぇな」上司の罵声2時間 自殺遺族、ヤマト提訴
上司からエアガン・つば…佐川急便22歳自殺、労災認定
 2015年1月28日、ヤマト運輸の長野県内の営業所で宅配ドライバーをしていた男性が行方不明になり、6日後に県内で遺体で見つかった。46歳だった。1月末ごろに自ら命を絶ったとみられる。
 「25年もヤマトで働いて頑張ってきたのに、俺のやってきたことは何だったんだろう」。失踪の前日、男性は妻に涙目でそう繰り返したという。
 遺族の代理人の鏡味(かがみ)聖善(まさよし)弁護士によると、男性は営業所をまとめる「センター長」からパワーハラスメント(パワハラ)を受けていた形跡があった。
 14年5月10日と同12日、男性は妻の助言を受けてセンター長との会話をスマートフォンで録音していた。
 「俺マジいらないコイツ、殺してえなホントに」「小学生以下だお前は。クソ。クソだ」「どこでも空いてるセンターへ行け」「引きずり殺してやろうかと思った」。10日の録音には、センター長のこんな言葉が残っていたという。会話の内容から判断すると、センター長は男性の営業手法が強引だったとして叱っていたようだ。罵声は約2時間も続いたという。
 12日も2時間以上にわたる叱責(しっせき)が録音されていた。
 「本当に役に立たねえ」「バカなんだよコイツ。それがむかつくんすよ」「ここまでクズだと思ってもなかった」「俺の気に障るようなことが起きたら、その場でたたき殺すぞ」
 センター長の上司にあたる「支店長」も同席していた。録音内容からは、支店長がセンター長の叱責を制止しようとした形跡は確認できなかった。支店長は男性に「まあ逃げ道ねえっすからと思って、やるしかないと思うんですよね」などと話したという。
 男性は1989年7月に入社したベテランのドライバー。11年には「物販個人実績部門第1位」の表彰を受けたこともあった。だが、翌年秋ごろから、センター長を務める年下の男性社員の叱責に悩むようになったという。
 同県内の労働基準監督署は16年3月、「『殺してえ』などといった発言を継続的に受けていたことは事実と認められる」として労災認定した。そうした叱責の結果、14年9月下旬ごろにはうつ病を発症し、自殺に至ったと判断した。
 男性の妻子は今年2月、2年以上にわたるセンター長のパワハラが自殺の原因だとして、会社とセンター長に慰謝料など約9500万円の損害賠償を求めて長野地裁に提訴した。
 ヤマトは4月に提出した答弁書で、センター長が強い口調で注意・指導したことは認める一方、こうした指導は仕事上のミスや勤務態度などで男性に原因があった場合だけだったと反論した。自殺する前の6カ月間は「パワハラなるものが日常的に継続して行われていたとは認められない」と主張。「センター長の注意・指導が男性を自殺に至らしめるほどのものだったか疑義がある」として請求の棄却を求めている。ヤマトの広報担当者は「係争中の事案なのでコメントを差し控える」としている。
 同業の佐川急便では11年12月、仙台市の事業所の男性(当時22)が市内の自宅で自ら命を絶った。自殺の1週間ほど前、SNSにこう書き込んでいた。〈上司に唾(つば)かけられたり、エアガンで打たれたりするんですが、コレってパワハラ?〉
 市内の専門学校を卒業した10年春に入社。亡くなった当時は主に経理業務を担当していた。岩手県に住む父親(54)は「明るくて友達も多い子だった。仕事以外に自殺する理由は何もなかった」と話す。書き込みをした4日後の12月22日、クリニックで意欲の低下や食欲不振を訴え、うつ病と診断された。この日の夜、父親と電話で話し、3回ほど続けて問いかけたという。
 「オレ、頑張ったよね」
 上司はエアガンで撃ったり、唾を吐きかけたりしたことを否定。仙台労基署は労災を認めなかったが、父親は労基署の決定を不服として仙台地裁に行政訴訟を起こした。地裁は昨年10月、自殺を労災と認める判決を言い渡した。
 上司は裁判でも主張を変えなかったが、判決は男性が友人や母に同様の話をしていたことなどを重視。足元をめがけてエアガンを撃ったり、唾を吐いたりしたことを「事実と推認できる」と判断。上司の行為は「社会通念上認められる範囲を逸脱した暴行または嫌がらせ」だと指摘した。「あまりにも低次元で悪質な行為が職場で起きていたことが信じられない」と父親は憤る。
 佐川急便の広報担当者は「判決は真摯(しんし)に受け止めている。詳細は現在調査中のため、コメントは控える」としている。
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闘病ブログ、多くの人の心に 麻央さん、20日まで更新

2017年06月25日 06時22分50秒 | 
闘病ブログ、多くの人の心に 麻央さん、20日まで更新
2017年6月24日05時02分

最後に更新した2017年6月20日付のブログで近況をつづった小林麻央さん・写真・

 「ずっと麻央は、きっと皆様のそばにもいると思う」「『愛している』と言って旅立ちました」。フリーキャスターの小林麻央さんが亡くなったことを受け、23日、東京都内で会見を開いた夫で歌舞伎俳優の市川海老蔵さん(39)は、涙ながらに語った。梨園(りえん)の妻として夫を支え、闘病ブログの筆者としてがんの患者たちを励ました麻央さん。喪失感が広がった。
麻央さんが息を引き取る瞬間そばに 海老蔵さん会見詳報
特集:小林麻央さん
 海老蔵さんによると、麻央さんは22日に都内の自宅で息を引き取った。海老蔵さんは23日朝、自らのブログに「人生で一番泣いた日です」などと書いた。
 「私もお姉さんの麻耶さんも、子どもたちも、そばにいられた。本当にかけがえのない時間を過ごせた」「笑顔と勇気と愛情。そして、決してぶれない自分。どんな状況でも相手のことを思いやる気持ち、愛ですよね。そういった力が、最後まであった」と振り返った。
 麻央さんは新潟県生まれ。大学時代からバラエティー番組に出演し、2006~10年、日本テレビ系「NEWS ZERO」のキャスターも務めた。多くの読者を獲得したブログ「KOKORO.」などでは「誇らしい妻、強い母でありたい」「私の人生は、夢を叶(かな)え、時に苦しみもがき、愛する人に出会い、2人の宝物を授かり、家族に愛され、愛した、色どり豊かな人生……より色どり豊かなものにするために」などと記した。
 16年6月に乳がんの治療を公表した時、海老蔵さんは「かなりスピードの速いもの」と語った。海老蔵さんは会見で「多くの人の救いになれるように一生懸命、闘病しました。ブログを始め、同じ病の人たちと悲しみや喜びを分かち合う姿は、人ではないというか、すごい人と思う」と話した。
 さらに「こんなに愛されていたのはよく分かっていたんですけど、最後の最後まで愛してくれていた」「教わったこと、今後も教わり続けることは愛なんだと思います」と力を込めた。
 「ここ数日、絞ったオレンジジュースを毎朝飲んでいます……朝から笑顔になれます。皆様にも、今日 笑顔になれることがありますように」。今月20日に更新された麻央さんのブログの記述だ。これが最後となった。
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職場で突然の過呼吸

2017年06月25日 06時05分41秒 | 仕事
職場で突然の過呼吸
06月22日15時24分

つたない文章なので読みづらかったらすみません。

私は急性期病棟に勤務する今年で2年目になる看護師です。
わたしには新人の頃から苦手とする経験年数10年目のベテランナースがいました。
そのベテランナース、仮にAさんとしますが、Aさんは新人嫌いで有名な看護師でした。

うちの病棟では夜勤を5回、経験年数の長い看護師とペアになって学ぶのですが、そのうち4回がそのAさんとペアでした。(準夜も深夜も)
Aさんは何を言うにも威圧的で、初めての夜勤ではかなり傷つく言い方を何度もされました。
性格を悪く言うこと、脅すようなこと、些細な行動でも叱責に繋がり、何をするにもビクビクしていました。
さすがに参ってしまって、最後の夜勤の練習の際に倒れました。
その時は「倒れてる暇なんてない、怒られる」と思いすぐ起き上がり(たぶん5分も気を失っていなかった)具合が悪いことも言いませんでしたが、別の日、体調的にもメンタル的にも優れない私をみたプリセプターの先輩が師長に私が限界であることを伝えてくれました。
(実は日勤帯でもかなり酷く言われていたため、他の先輩も師長に相談してくれていたようです)
その結果、夜勤でAさんと組むことがなくなりました。
師長もその後個人的に面談をしてくださり、本当に感謝しました。
先輩方のお陰で辛い1年目を乗り越えることができました。

しかし2年目になり、チームのリーダーや日勤帯のリーダーを任されるようになり、Aさんと夜勤で組むことがなくなっても報告や送りなどで関わることが増えてきました。
するとやはり対応は冷たく「だから?」「で?」は当たり前、しまいには「あっそ」などの返事、無視をされるようになりました。
(ちなみに同期やほかの職員には嘘みたいに優しいです)

責任のある仕事が増えたこと、Aさんの対応でわたしはまたすっかり落ちこんでしまっていました。
あるとき大きなミスをしてしまい、師長に「あなたは強く言うとすぐ具合悪くなるけどね、Aさんは間違ったことは言ってないよ?みんなが優しいわけじゃないの!」と怒られました。
ミスに関しては私に完全な落ち度があったので素直に反省できましたが、師長の言葉はショックでした。
ああ、私はそんな風に思われていたんだなと悲しくなり、もう師長に弱い部分を見せることはしないと誓いました。

するとそのあたりから食欲が落ち始め、眠れなくなりました。
他の信頼できる看護師にAさんのことを相談しても「頑張るしかない、乗り越えるしかない」という言葉しかありませんでした。(そりゃそうですが)

頑張るしかないのだな、乗り越えるしかないのだなと素直に思い、いろいろと諦めて仕事をしていました。

だんだんと体重が落ち、あばらが浮き出ているし気持ち悪い体になりました。
その頃には食べても吐くようになりました。
それでも、頑張っていました。

ある日、午後での仕事で休憩室で待機していたとき(その時は別に辛いとか嫌だとか感情はありませんでしたが)「さ、働くか」と立ち上がろうとしたとき、立ち上がれませんでした。その瞬間動悸がして息苦しくなって涙が止まらなくなり、過呼吸のような症状が出て指先や唇まで痺れてきました。
何が起きたのかわからず呼吸を落ちつけようとしていたら主任に発見され休憩室に寝かされました。
本格的に過呼吸になり、死ぬのかと思いました。師長や他の看護師も来て、恥ずかしい起きなければと思いましたが無理でした。
師長は優しく解放してくれました。
落ち着いたとき、看護師のトップである看護部長と面談となりました。

いままでのこと(上記)を打ち明けました。
Aさんのこと、師長には頼れないこと、いまの職場は好きなのに、逃げ出したい気持ちもあるということ。
すると私が望むなら異動という手もあると部長は言いました。
しかし私は素直に喜べませんでした。
夜勤でAさんから逃げたのに、また逃げるのかと。
これ以上逃げた先に何があるのか、いつかまた同じ壁にぶつかる、好きな職場だし、先輩達のことも好きなのにといろんな感情がわき上がりました。
でも、異動したいという気持ちもあります。

この職場に残れば確実にまた辛い思いをするのはわかっています。だからといって異動して状況が必ずしもよくなるとは限りません。

わたしは2週間後に精神内科の受診を控えています。
その結果次第では、しっかりと考えなければなりません。
突然の過呼吸がまたいつ起こるかもわからない状況で、正直焦り、悩みがあります。
最後に決めるのは私ですが、皆さんの意見、なんでもください。
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