<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

去って行くということの意義の深さ

2016年12月30日 20時04分38秒 | Weblog

明日一日で2016年がなくなってしまう。なくなってしまうとそこに突如として2017年が迫り上がってくる。ここらへんのカラクリにとても興味を引かれる。はたしてほんとうに2016年は埋没してしまうのか。消滅してしまうのか。影も形もなくしてしまうのか。そうだとするとそれは何故なのか。偏にそれは新しくするためである。世界を新しく設定するためである。というふうに言えるのかも知れない。2016年に713月があって、さらに14月があって、それがどんどん続くばかりで打ち止めにもならないとすれば、新しい2017年の登場はないのである。われわれは新年を迎えられないのである。明けましておめでとうなんかの挨拶を交わせないのである。去って行くということが、どれほど意味深長なことかがこれで判明するであろう。その通りなのだ、われわれが姿を消していくのはそのためでもあるのだ。次の人、また次の人に、潔い新世界を提供して行くためでもあるのだ。

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無智であっても無智にはなれない

2016年12月30日 16時34分52秒 | Weblog

「一文不智の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじうして、智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」    法然上人「一枚起請文」より

仏法は愚鈍の身を持つ者の救いの道である。もちろん俊英の者、開明の者の道でもある。愚鈍の身はしかし自力では仏法の扉を開く力はない。だから自力以外の力を頼まねばならない。俊英の者、開明の者は努力精進によって自力で扉を開くことができる。力量を示すことが出来る者はしかしその極々一部である。仏と同じほどの智慧を得た者に限られてくる。それでは助かることが出来ない者はここから遠離っていくしかない。つまりは助からないで終わってしまう。

われわれは己の智慧才能をひけらかす。自慢にしたがる。一部のエリートになりたがる。なったふうに思い込む。特権意識を持つ。支配する側に就きたがる。そういう人は、だから、己以上の存在を認めたがらない。他力に頼ることを恥じる。依存しないでいいという算段、腹積もりをする。それ以上に、己を他者の見本にさせる。己の論に背く者を許さない。なんでも知っているぞの顔になる。それが日常の挙措になる。

己を高くし得ない者はではどうすればいいのか。この問いが起きる。法然上人の時代にも多くの人たちがこの問いを起こしたであろう。戦乱の世である。殺す殺されるが日常の時代である。租庸調、兵役苦役をも逃れられなかったであろう。天変地異に逃げ惑ったであろう。天災人災に苦しめられていたであろう。疫病難病にも為す術がなかったであろう。文字の読み書きもできない人たちもいたであろう。

しかし、一文不知の受け止めは案外難しいのだ。一文くらいは知っていると思いたいのだ。人には自尊心がある。智者のふるまいをして己を少しでも値打ちがあるように価値評価しておきたいのだ。念仏ができるまでに落ちるのは案外に難しいのだ。己を落として掛かるのは至難の業なのだ。落ちて落ちて落ちまくらないと念仏が口から出てこない。絶対他力に頼れないのだ。

法然上人は無智になることを勧められた。無智であることと無智になることは違う。無智であっても無智にはなれない。無智の滝壺に下りて行って初めて滝の高さが仰げるのである。念仏には何も要らないのである。知識も知恵も要らないのである。ここがまた難しい。智者を自認している者には法外に難しい。

 

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アメーバブログ「8888waoh」へもどうぞ

2016年12月30日 09時46分58秒 | Weblog

さぶろうは、アメーバブログでもブログを書いています。8888waohでヤフー検索するとここへ辿れます。「嬉しいね、わっはっはっは、ワオワオ」をもじっています。今日も幾つか書きました。いつも読者数がごくごく希です。内容が黴びた線香蝋燭臭いんですよね。あまり読まれてはいません。わっはっはっはになっていないところ、これもミソです。

「わっはっはっは」がいいですよね。万事こうして笑い飛ばす。じめじめしない。恨まない嫉まない蔑まない。これができればいいですよね。「ワオワオ、やったぞー」もいいですよね。何かを自分でしなくても、それを傍で見たり聞いたりして、「ああ、そうなんだなあ、そうだったんだなあ」などと思って、揺れている振り子をしばらく止める。そしてそこで伸び伸びした開放感に誘われる。どれも願望ですけど。

昇って来た日射しの熱で霜が解けて木々の枝先の雫がきらきらきらきら光っています。小さい小さいきらきらですが、きれいです。ここに焦点を当てているとなんだかこちらまできらきらきらきらができそうな錯覚に誘われます。視界を狭くするというのも一利があります。

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冬の小鳥たちはどうやって夜寒をしのぐのか

2016年12月30日 08時02分40秒 | Weblog

外気温が一挙に下がっている。冬の小鳥たちはどんなところで夜を過ごすのだろう。この夜寒をどうやってしのぐのだろう。霜が降りてこないところ、屋根があるところが森の中にあるのだろうか。火を焚いてあたたまることはできないだろうから、ただ互いに寄り添って温め合うしかないはずだ。山からは木を枯らすほどの木枯らしが吹き下ろして来るだろうし。寒さで到底眠れなくて、ちらちらする満天の星を眺めていたりするのだろうか。心配は要らないだろう、しかし。彼らにも知恵がある。草藁や産毛で編んだ家のような上等な巣が出来上がっていて、そこは案外にふかふかとしているのかもしれない。櫟の広い大きな枯れ葉が布団の役をしているかもしれない。

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ザックザック霜柱が鳴る

2016年12月30日 07時50分33秒 | Weblog

霜が降りている。畑を踏むとザックザック霜柱が鳴る。隣家の屋根が凍り付いている。手指が悴(かじか)む。12月30日の朝。やっと光が射し初めてきた。朝ご飯はピザ。パン焼き器で焼いてから頂いた。味噌汁。入っていた大根がとろりとした。京都から昨夜遅く帰省した娘の土産の、茄子漬けに箸が向かった。予定していた餅搗きは明日へ延期になった。今日こそベランダの片付け、外の掃き掃除をするつもりだ。

 

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生まれたての赤ん坊になって

2016年12月30日 03時27分12秒 | Weblog

冷えてきたぞ。真夜中の3時半。12月30日になっている。柱時計の針の進む音。カチカチカチカチ。夜中の針が時を刻んでいる。おいらはそれを聞いている。己の残り時間が刻まれているとも知らず。冷えてきたぞ。鼻水が垂れてきたぞ。布団を引っ被って、膝小僧を抱いて、さ、もう一度、生まれたての赤ん坊になって、熟睡の海の底を眠ろう。老爺71歳。まだ他愛ない、すととんとんの軽いおいらでいる。

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居辛いだろうなあ

2016年12月30日 03時19分03秒 | Weblog

狡いよなあ。悪賢いなあ。あくどいなあ。夕食に海鼠を喰ったその同じ口で今度は念仏かあ。ナーモアーミダーンブかあ。お助けくださいお助けくださいかあ。己ひとりを助けてもらうためのお念仏の中にほんとうに仏様はおいでになるのかなあ。居辛いだろうなあ。

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今日を生きられた人間と生きられなかった海鼠との同居

2016年12月30日 03時03分23秒 | Weblog

夕食に海鼠をうまいうまいと言って喰った人間は、その後熱い湯に浸かり、湯舟の中で念仏を唱えだした。ぶつぶつぶつぶつ。ナーモアーミダーンブ。ナーモアーミダーンブ。ナーモアーミダーンブ。ありがたやありがたや。今日を無事に生きられたとも言った。しみじみしみじみ言った。今日を生きられなかった海鼠がこの人間のはらわたの中で、念仏というものを聞かされた。湯舟であたたまって顔を真っ赤にした。それから湯冷めしないうちにと言いながら布団に潜り込んだ。

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このうち最後の人間は酒好きで

2016年12月30日 02時44分05秒 | Weblog

夕食に海鼠を食べた。

なまこは海のネズミ。海の底に這いつくばっていたのを人間に見つかって、人間の住む家の食卓にまで連れてこられたって訳である。遠い旅をしてきて、そこで、切り刻まれた。摺りおろした大根と酸っぱい酢と塩辛い醤油にまぶされ、人間の真っ赤な口の中に抛りこまれた。歯でごりごり噛み砕かれて、それから喉元から深い滝壷まで呑み込まれた。そういうことになる。この最後の人間は酒好きで、酒をちびりちびり飲んでは海鼠を箸に掴む。そしてその度に、うまい、こいつはうまいと感嘆の声を挙げた。

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葬儀は何のため? 諸説あるかなあ

2016年12月29日 20時17分20秒 | Weblog

葬儀はなんのためにやるか。一説に、行き先を決めるためだという説がある。死者がバスのターミナルに行ったらそこへバスが来る。バスには行き先が書いてある。「○○方面行きの方はご乗車下さい」とアナウンスがかかる。クリスチャンの方は天国へ行くバスに乗る。神道の方は神の国へ行くバスに乗る。仏教徒だったら仏国土に行くバスに乗る。

行く先が定まっていないといつまでもバスに乗れない。それは困る。困らないでいいように行き先を決める。それが葬儀の役目だという説。

ほんとうはどのバスに乗ってもいいのだろう。行った先でみな歓迎を受けるのだから。それに宗教の違いなんかで差別されないはず。そんなふうにも思う。

仏教の経典には「俱会一処(ぐえいっしょ)」とある。みな俱(とも)に一つの場所で落ち合おう、ということだ。その通りだ。思想信条の自由はあの世でも有効していると思う。みすず詩人流の「みんな違ってみんないい」じゃないか。みんなわいわいがやがやでいいと思う。

行き着くところは寛容な世界のはず。仏陀も神も天照大神も寛容の精神の持ち主だと思う。

じゃ、葬儀は何のためにするのか。「長いことお世話になりました」「いや、こちらこそ。あなたには大変お世話を頂きました」「有り難うございます」「こちらこそ、ありがとうございます」のお礼言上を交わすためなんじゃないかなあ。それとも送別会や慰労会なのかなあ。この世の卒業式なのかなあ。ともあれ、あんまり重々しくなくていいのかもしれないなあ。

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