今日取り上げているテーマはわたしの手には負えないようです。だから独断が過ぎています。さぶろうは錯誤をしています。手探りです。でも、安心をしたいのです。
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「わたしは仏に成りません」と仰っておられるのは法蔵菩薩です。ですが、法蔵菩薩は誓願が成就して阿弥陀仏になられました。成就するためにはどうしても阿弥陀仏にならなければならなかったのです。ですから成っておられます。
なっておられますが、果たされていないことがあります。それはさぶろうのことです。さぶろうはまだ仏には成っていません。さぶろうが仏に成っていない内は、約束では、仏に成るのを猶予しておられることになります。さぶろうが極楽往生を果たさなければ阿弥陀仏は仏の資格を抹消されます。それほどにさぶろうの成仏は不可避なことなのです。一対一の果たし合いのようなものです。両者とも避けて通れることではありません。
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さぶろうが「至心に信楽すれば」とか「乃至十念すれば」とか難しい条件を挙げてはおられますが、そんな条件に拘泥することはありません。そこに至らしめるのも仏さまのお仕事だからです。さぶろうにその力量はありません。仏の世界を示して下さらねばさぶろうには見えません。あるかないかも何にも分かってはいません。分かるように尽くしてくださらねばまるでお手上げです。頭のいい人だけがこの大学には入れますなどということとは違うのです。失礼な物言いですが、条件付きを提示するくらいの仏さまには値打ちはありません。救済は無条件です。仏の救済は徹底して無条件です。
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どんなさぶろうだって仏に成って行かねばならないのです。そして成っていくのです。安心をしていていいのです。阿弥陀仏を南無していればいいのです。阿弥陀仏の国があるのです。極楽浄土へのさぶろうの往生が待たれているのです。さぶろうはしかし今はこの世で艱難辛苦をしているばかりです。これはさぶろうのこの世での姿です。