こんなことがあってもいいのだろうか。あり得てはいけないことがあり得るというのか。
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一生造悪値弘誓 至安養界証妙果 「正信念仏偈」より
いっしょうぞうあくちぐぜい しあんにょうかいしょうみょうか
一生、悪を造れども、弘誓(ぐぜい)に値(もうあい)すれば、安養界(あんにょうかい)に至らしめられて、妙果を証(あか)せり。
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一生の間ひたすら悪を造って生きた来たわたしである。それが阿弥陀仏の本願弘誓(ほんがんぐぜい)に、まるでそうすることが必然であるかのように、遭うべくして遭へるのである。わたしのために建てられていたからである。そしてわたしは阿弥陀仏の浄土、安らかな国に導かれて来て、そこで妙なる結果(仏としての智慧=成仏の位)を受けしめられたことを知るのである。こんなことがあってもいいものか。悪人が善果を受けていいものか。
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仏の世界では逆さまのようだ。悪が悪果を得るのはこの世でのこと。仏界では、あろうことか、善も悪も等しく善果を受けるのである。そうでなければわたしの救われる道はなかった。そしてその逆さまの倒立の理屈が、倒立せずに実現して戸惑うのである。歓喜に涙することになるのである。
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