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悲しみにはエネルギーが籠もっている

2017年08月23日 11時11分02秒 | Weblog

常懐悲感 心遂醒悟 じょうかいひかん しんすいせいご     法華経の言葉

常に悲しみの感情を懐にしていれば、心は遂に醒めて悟る。こう読むのだろうか。よく知らない。でもなんだか、この句に惹かれる。

普通であれば、できるだけ悲しみからは遠ざかりたいと思う。遠離るとその感情に浸ることが出来ない。しかしこの世には悲しみは満ちている。悲しみを引き起こす原因は溢れているから、その結果を招いている。でも、そこに馴染もうとはしない。悲しみは大木の影である。日を閉ざしているが、影に入れば涼しい。暑い日には特に。炎天の下ばかりを歩くと汗が滲んでしまう。疲労する。立ち止まって疲労をおだやかにして過ごしているとまた力が全身に満ちて来る、そういうこともある。悲しみからはなんにも得られないとして拒否しているが、それは人が生きていく上では不可欠なものである。ここにじっと潜んでみる。座を組んで潜んでみる。そこで瞑想をして、悲しみからはほんとうに何も得られないのかとさまざま思い巡らしてみる。そして落ち着きを得る。するとそこに覚醒が起こり、迷いが解れて悟りに至る。悲しみの感情を否定しない。肯定する。悟りは、ものごとの沈着な肯定の後に静かに訪れて来るものである。

日本にはお盆という行事がある。あれは本来悲しみに浸る行事なのかもしれない。深い深い悲しみの洞穴に入って過ごすような。何が悲しいか。人の死は悲しい。肉親の死は悲しい。しかし、それは無意味ではないのだ。それで以て人は悲しみに沈澱し、深く嘆き苦しみ悲しむ。その時を持つ。真正面から向き合う。そこからエネルギーを吸収して再び蘇ってくる、そういうことの為に置かれているのかも知れない。悲しみには力が籠もっているということを、人はそこで痛感できるのだ。悲しみが無意味なはずはないのだ。そういう自覚が生まれて来れば、人はそこから助かっていくのである。

などと邪推名人十郎が、人の悲しみということから、あれこれと邪推してみた。

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