寂しがりたいから寂しがっているんだよね。そうかもしれない。嬉しがりたいから、嬉しがっているんだよね。
空の空。もともと実態はない。こちらの受け取り次第。
どう受け取りたいのか。それに掛かっている。気ままなのだ、畢竟。
寂しがりたいから寂しがっているんだよね。そうかもしれない。嬉しがりたいから、嬉しがっているんだよね。
空の空。もともと実態はない。こちらの受け取り次第。
どう受け取りたいのか。それに掛かっている。気ままなのだ、畢竟。
そんなこととはどうでもいいんだよなあ。そう思う。どうでもいいことなのに、それが、どうでもいいことにならないで苦しむ。しかし、大局的には、ほんとうはどうでもいことなんだよなあ。
色々な色々な悩み事がある。現に悩んでいる。でもね、ほんとうはそんなことどうでもいいことばかりに悩んでるのだろう。
おれはいま酒を飲んでいる。酒を飲んでいられるのだ。文句はあるか。あるはずがない。
ほんとうに温泉かどうかは知らない。京都市内に温泉が沸いているかどうか。そんなこととはどうでもいい。あつ湯して、ともかくいい気持ちになった。京都は学生の街。学生さんふうがおおかった。そこであたたまってから、飲み屋さんに行った。外は木枯らし。小雨になっていた。
飲み屋さんで飲んでいる。コース料理を頼んだ。松茸の天麩羅が出た。無論僅かの僅か。ふうふう、熱い。おいしかった。芋焼酎お湯割りちびりちびり。このまま朝まで飲んでてもいいなあ。外は雨。降り出した。
僕には驚きだった。僕には、だよ。
それは僕の一部なのか、僕自身なのか。
たとえば心臓。ぱくぱくぱくぱく打つ心臓。
僕を生かすためのぱくぱくぱくぱくのはずなんだけとど、その通りなんだけど、それにしては恩を着せない。マイペースである。淡々としている。あなたのためだよなんて言わない。しかもペースを崩さない。
僕にそういう心臓が内在しているというのが、あらためて驚きだった。
人間。人間は形のある体をしている。それが動いている。生きて活動している。
人間。人間の体の中は空っぽではない。いろいろなものが詰まっている。詰まっているだけではなくて、それも動いている。生きて活動している。
人間。人間の体の中に臓器がある。たくさんのたくさんの臓器が動いている。活動している。しかもどれも不可欠である。一つも欠かせない。
それがみな正常に活動している。しかもいつもいつも正常に活動している。長い間、怠けもせず正常に活動している。
それが不思議でたまらない。わたし自身は正常ではない。怠け者である。活動もしないで遊んでいる。臓器はそうしない。いつも正常に活動している。
水上勉の「五番町夕霧楼]の舞台になった遊郭街の一角に報土寺があった。阿弥陀如来立像の特別拝観を見た。寺の境内に小さな遊女観音像が立っていた。引き取り手のない遊女の亡骸を慰めるために立てられたのであろうか。なんだか悲しそうに見えた。
華頂山の扁額がある。いきなり冬の到来を告げて風が出て来た。寒い。枯葉が舞う。カラカラカラと音を立てて。ジャンパーを着込む。足に自信がないので、急階段を上がってはいけない。下り口で家内と娘を待つ。ここも外国人旅行者が多い。石のソファーに座る。冷たい。帽子が吹き飛ぶほどの凩が吹く。鼻水が出る。もうすぐお昼御飯だ。
午前9時40分、薄曇り。いまにも雨が降り出して来そうな。人が行き交う、様々な異国の人が行き交う。日本の古都はインターナショナルだ。手っ取り早く観光バスに乗る。10時20分発だからもう少し時間がある。行き交う人の人間観察をすることにした。ここには若い人もいる。年寄りだらけの我が田舎とはちょっと違う。足先から頭のトッペンまでファッションしている。僕とは異なる。子どもたちも走り回っている。軽快だ。オトナは重たいリュックを一様に背負っている。
あの人という人がいて、そのあの人がわたしの淋しさを吸い取る吸い取り紙になってくれるというのであれば、わたしはあの人がほしい。そのあの人が、でも煩わしさを吐き出すのであれば、わたしはすぐにも手放したくなってしまう。その辺の兼ね合いはどうなっているのであろう? よいこと100全部のあの人というのもいるまい。