<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

それは一切問われることはなかった

2017年07月03日 22時56分55秒 | Weblog

わたしは支えられていると思う。導かれていると思う。守られていると思う。恵まれていると思う。育まれていると思う。すべてに助けられていると思う。そうでなければわたしの今日はありえなかったはずである。それらの行為をなしてくださった主体者が無数にいてくださったのである。それらの実践実行をしてくださった方が無数にいてくださったのである。それでここまで辿り着いたのである。

慈悲されていると思う。慈愛されていると思う。支持されていると思う。支援されていると思う。信頼されていると思う。仏陀その人と変わることなく尊重されて来たと思う。わたしは深い深い愛情を注がれて来たと思う。どれも受動態でしか表現が出ないが、そうでなければ夜になってわたしが安らかな呼吸をすることなどあり得なかったはずである。

わたしがそれらの主宰者になることは一度もなかったのだが、一方的にそうせしめられて来たのである。無条件でそうなさしめられて来たのである。それだけの愛情を受けるだけの値打ちがわたしに有るかどうか、それは一切問われることはなく。寸刻の休みもなくわたしは力付けられて来た。ここまで心臓の音が途絶えることがなかった、それがもっとも身近な具体例である。

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「人を困らせるのヤーメタっ」ってことにならないかなあ

2017年07月03日 20時05分53秒 | Weblog

台風接近の夜。夕ご飯を済ませた後、雨戸を繰って早々と寝ている。もちろんシャワーを浴びてからだけど。

一日シャワーを三回。着替えを三回。汗ふきタオルも拭いては捨て拭いては捨てしている。夏場は数倍も洗濯機のお世話になる。

締め括った家の中はなおさらに暑苦しい。部屋の風通しも悪い。働きのない老爺には勿体ないけど、冷房をきかした。

いま夜の8時をやや過ぎたところ。雨の音、風の音も止んでいる。台風さんが「人を困らせるのヤーメタっ」と言って、このまま空中分解してくれたらいいのになあ。

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そよとも吹いていない

2017年07月03日 18時04分39秒 | Weblog

そよとも吹いていない。台風3号は自然消滅したのかもしれない。「人を困らせるのはもう嫌だ」と仏の慈悲心を起こしたのかもしれない。嘘のようにぽっかりしている。姫林檎の新しい枝葉の咲きもそよろともしていない。雨も止んで、穏やかな朝になっている。大事を取ってこの辺りの学校は一斉に休校措置をとったようである。こどもたちはさぞかし嬉しがっていることだろう。よかったよかった。被害がなくてすんだようだ。白い桔梗が咲いている。赤いダリアが笑っている。

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蚕繭自縛 さんけんじばく

2017年07月03日 13時44分25秒 | Weblog

蚕は糸を紡いで己のサイズに合った繭を作る。そこに閉じ籠もる。それが自縄自縛の様相を呈しているようにも見える。人間の煩悩は己の世界に己を縛り付ける。そうやっておいて藻掻く。そこから抜け出して行けないと言って苦しむ。だが、そうさせているのも他ならぬ己である。繭があるわけではない。しかし、それが繭を作って己を縛り付けているように見える。そうなると息苦しくなる。自由がないように見える。

そこをどうするか。一人一人にそれが問われている。仏教は空を教えている。そんな実態はないとしている。解脱を指し示している。解脱とは己を縛り付けている繭の糸を解き放つことである。そこから抜け出ることである。己が紡いだ狭い世界を抜けて出ることである。広々としたところへ出て来て背伸びをし、楽な呼吸をすることである。己を束縛している者など誰もいないということを達観することである。広い天地に遊ぶ楽しさを覚える、仏教はその方法を仄めかしてくれているのだが、どっこい、なかなかそうはいかない。息苦しくしている。

さぶろうの日常を見ていると「蚕繭自縛」とは己の暮らし方のようである。いつも狭いところにいて狭い思想、息苦しい世界観に甘んじている。広々とした天地があるのだから、そこへ出て来て遊べばいいのだ。ここへの出入りは無制限なのだから。

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台風の風が出始めてきたようだ

2017年07月03日 11時44分01秒 | Weblog

風が出始めたようだ。台風の前兆を思わせる。やはり来ているのか。木立がゆらゆら揺れている。畑の里芋の巨大葉っぱも、耐えきれないで大袈裟に左右へ揺れている。雨も一時激しく降った。これでは何処にも行かれない。じっとして籠もっているしかない。

夏蝉が鳴いている。ニイニイゼミだ。小さな軽い体の彼らは、いよいよ当来の段階には、空の上まで吹き飛ばされてしまいかねまい。小さい虫たち、蝶々やトンボたちはどこでどうやってそれを凌ぐのだろう。

ズッキーニも随分巨体になったので、抵抗が出来まい。ねじ伏せられてしまうに違いない。土の中の根が風と綱引きをして勝てるかどうか。2m、3mと大空へ伸び上がった胡瓜は早々と白旗を揚げるだろう。トウモロコシはこの時期せっかく花の穂を着けたのに穂ごとそっくり煽られてしまうだろう。

梨園の人たちは梨が落下してしまうのをどうやって防ぐのだろうか。当県には伊万里梨の梨園が広がっている。梨ばかりではない。桃園もある。柿園もある。葡萄園もある。

 

 

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まったく贅沢な暮らしだ

2017年07月03日 08時29分57秒 | Weblog

木で熟れたトマトはおいしい。真っ赤だ。拳のようにでかい。そこへ大陽がはち切れている。糖度が高くなって甘い。がぶりがぶりそれを口に放り込む。汁が滴る。我は王なりと思う。トマトの木もすでに2mは超えた。勢いがある。夏本番の7月。緑を濃くしている。幹が太って堅い木になっている。百戦錬磨の猛者(もさ)のようにしている。丸々と太った実が房なりしている。トマトがとうとう木に昇格して、それが畑にずらりと並んでいる。彼らはわたしが今日を生きるエネルギーをふんだんに提供してくる。わたしは朝も昼も晩もこれを食べる。皮を剥いて適当な大きさに切り分けてこれを冷やして、おいしいおいしいと食べる。食べきれない。家内はトマトソースを作った。これがまたおいしい。毎朝毎朝トマトが赤くなる。籠一杯にもいでくる。客人や近隣、知人にお分けする。それでもまだ台所の片隅に積まれている。我が家の小さな一夏農園での話。まったく贅沢な暮らしだ。

 

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低いのに高く見せるのが己の気位

2017年07月03日 07時50分07秒 | Weblog

「高いようで低いのが教養」「低いようで高いのが気位」「薄いのが人情」「厚いのが面の皮」という文言が今朝の新聞に載っていた。お寺の門前に掛けてあったのだそうな。「そこを行くお前さんたち我が身を糾せ」という趣意なのだろうか。

低いのを高く見せておきたいのが教養、高いのを低く見せておきたいのが気位なのであろう。我が身がそうである。薄いのに厚いと見せたがるのが人情、厚いのに薄く見せておきたいのが面の皮のようだ。我が身がそうである。そういう擬態思惑を身の内に抱えている。我が思惑は我が身の事実実際とは大きくかけ離れている。そういう違背を知ってはいるのだが、それを修正制圧できない。

教養も気位もちょいと水たまりに溜まるだけで加温されて発酵するもののようだ。心地よい酩酊が起こる。しばらく時間をおくともう息臭くなる。口元に湿気があって黴菌がうようよしてくる。面皮から腐臭が漂うようになる。乱心する。コントロール不可能の状態に立ち入る。これで人を脅す。これ見よとひけらかす。狼になる虎になる。威張る。威圧する。人を責める。差別する。罵倒する。

これを抜こうものなら、しかし、たちまち、空気が抜けた風船状態になる。地に落ちた風船はもう飛んではいけない。行動も出来ない。意気消沈、意欲消失する。萎えてしまう。こうなるともう一直線に自己を蔑む方向へ傾いて、不安定極まりなくなる。だから、身の毒かもしれないが、風船にして飛ばしておくには、これで我が身を膨らませておくことが不可欠のようでもある。

己は気位だけが高いのである。そして処方箋なし。ほとほと我が身とは扱いにくい。いやはや厄介なものを携帯しているものだ。

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