有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み 雨降らば降れ風吹かば吹け
この歌は一休宗純禅師の歌。どうやらお若い頃の歌のようだ。お若い頃から既に覚り澄ましておられたのかなあ。風狂の人。老いては森(しん)という女性とともに暮らした。臨済禅の使い手。
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有漏路とは迷いの世界を指している。「漏」は煩悩の漏電状態か。無漏路はその対極。悟りの世界。涅槃界。仏国土・仏の浄土。この世は有漏路、あの世は無漏路という解釈も成り立つ。
「帰る」とあるから、もとの故郷に帰るということだろう。法然上人もそんなふうに言われていたらしい。真如世界の仏の国から生まれ出てきたんだから帰るところも此処しかない。此処に定まっている、と。
まあちょっと、有漏路までお遣いに来たという認識だろうか。煩悩を買いに。買ってどうするか。これが値打ちがある。無漏路には煩悩がないから、煩悩はいわば舶来品。これを持ち帰れば新鮮な食材になるのである。
この世の一生涯はだから、一休みをしているところだとこの臨済宗の使い手は裁断しているのである。切って捨てているといってもいい。ゆっくりしているところだから、雨も風も花も月もあっていい。人も鳥も虫も獣もいていい。吉凶、禍福、生老病死は有漏路の色彩。そのどれもが目のご馳走、耳のご馳走になる。
だから、雨降らば降れ風吹けば吹け、であろうか。やけくそになっている訳ではない。この世の万事を積極的に受け入れているのである。
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この世ではわれわれは「一休み」しているのだから、ゆっくり足をのばして寛いでいた方がいい。やがてお土産持参へ帰るべき処へ帰っていくことができる。そうできないなら、あれこれ」できるようにどりょくをしなければならないが。
行くも帰るも無条件なのである。それらしい体裁を着けているが、一休禅師に言わせれば、それも無用かもしれない。