庭にアマリリスが咲き出した。立ち止まる。息を飲む。飲んだ息がおいしい。嬉しいことが開花したことに等しい。キレイだ。日没の静かな時間を華やかにしている。大輪なのに、そういう華やかさを前面には出さず、むしろ控え目に見える。だから却ってはっとさせられる。
「代受苦の菩薩の横に代受楽の者がいる」シリーズは残り4回が消えてしまいました。パソコンの故障です。復元が出来ません。がっかりです。もう同じ事は書けません。お終いにします。
5)
観音菩薩は我が身の解決をなさっておられるのだから寂光無為の都に暮らしておられていいご身分である。それだけの自利に甘んじておられてもいい方である。しかし、それだと苦界衆生が救われない。そこで補陀洛浄土という仏国土を建設された。ここは苦界衆生の収容所と性格を持っている。さぶろうは観音菩薩の御名を呼ぶ。たちまち観音さまがスーパーマンとなって現れてくる。
なにしろ立てる音を聞くのはおろか、すばやくそれと察知してSOSの音を観ることができるスーパーマンである。尋常一様ではない。観音菩薩の別名は観自在菩薩である。自在を観ることもなさる。自在の行動に打って出られる方でもある。
4)
観世音菩薩は利他がお仕事である。利他の実践をされている。いわば実戦部隊である。利他の中身は衆生済度である。苦しむ者の苦を除去してあげることである。
どうやってなさるか。代受苦をされるのである。苦しむ者に代わって苦を受けて下さるのである。
代受苦をされるのは観世音菩薩。さぶろうの方は代受楽となる。
観音さまが受けられるはずの楽を受けてのうのうとしていることになる。もっとも、観音さまの楽というものの価値が分かっているかどうか怪しいが。
3)
さぶろうは迷いの雲が払えないでとうとう三途の川に来てしまった。その後は地獄行きになった。そこでのたうち回っている。こうして現世来世に苦患を受けている。そういう人間である。どうしようもない悪業人間である。ではどうするか。打つ手があるか、さぶろうに。ありそうにもない。
迷いの雲は己のなした煩悩妄想の雲である。火の車から立ち上る火炎の雲である。
火の車造る大工はおらねども己(おの)が造りて己(おの)が乗り行く
煩悩妄想の火はなかなかに消えない。因果は煩悩妄想の因果である。莫煩悩(まくぼんのう)、莫妄想(まくもぞう)すれば消えてしまうのに、執着をして消そうともしない。
2)
今朝はこの御和讃を味わう。おいしいおいしいと味わう。味わっているのは魂である。どの句もどの偈も咀嚼すればするほどに味が出る。 だから本来は一句一偈ですむ。胃袋の小さいさぶろうには僅かですむ。そうであるのに長い経典にして、易しい和讃にして、噛み砕くように説いてある。
「さぶろういいか」「さうろう分かったか」「どうださぶろう」「安心ができたか」などと行間に声がする。
2)
今朝はこの御和讃を味わう。おいしいおいしいと味わう。味わっているのは魂である。どの句もどの偈も咀嚼すればするほどに味が出る。 だから本来は一句一偈ですむ。胃袋の小さいさぶろうには僅かですむ。そうであるのに長い経典にして、易しい和讃にして、噛み砕くように説いてある。
「さぶろういいか」「さうろう分かったか」「どうださぶろう」「安心ができたか」などと行間に声がする。
1)
帰命(きみょう)頂礼(ちょうらい)観世音 寂光無為の都より 補陀洛(ふだらく)浄土に出現し 苦界の衆生を度したまふ
・・・・御名を唱えて頼みなば 限り知られぬ後の世の 迷いの雲を払いつつ 安養浄土に引接す
・・・・今日の因縁有るならば 忝くも観世音 無間三途の中にても 代わりて苦患(くげん)を受けたまふ ・・・・ 「観世音御和讃」より
夏は朝が来るのが早い。4時半くらいからもううっすら明るくなって来る。窓の外が明るくなって来ると、長い夜を過ごしてきた老人は、じっとしていられなくなる。居ても立ってもいられなくなる。で、6時には外に出た。タオルで禿げ頭を蔽って。成育が良かった庭のコクリコが倒れていたので、それが目について通り過ぎられなくて、支柱を立ててやり細い紐で全体を大きく取り囲み結んでやった。それから西の畑へ回りピーマンの畝、枝豆の畝、オクラの畝の草取りをした。どっこいしょと丸椅子に腰を下ろし、丸椅子を移動させながら。最後にフカネギの列に土寄せをして上げた。雨が降らないため硬い土になってしまっているので、手の指に血豆が出来てしまった。9時半に腰を上げた。空腹を覚えた。