午前4時。まもなく。まもなく夜が明ける。新しい一日になる。さてどうしよう。することがない。今日は何をして過ごそう。しなければならないということがない。仕事とすることが何もない。スッカラカン。空の空手。では何をするか。息をすること以外に見つからない。とりあえず深い息をしてみる。これは怠け者ができることである。これを貪る。下腹の丹田がぷくりぷくりしている。
午前4時。まもなく。まもなく夜が明ける。新しい一日になる。さてどうしよう。することがない。今日は何をして過ごそう。しなければならないということがない。仕事とすることが何もない。スッカラカン。空の空手。では何をするか。息をすること以外に見つからない。とりあえず深い息をしてみる。これは怠け者ができることである。これを貪る。下腹の丹田がぷくりぷくりしている。
働いて働いてどうするのか? 寝る間も惜しんで駆け回って駆け回ってどうするのか? お金を儲けて儲けて、それでどうするのか? 偉くなって偉くなってどうするのか? それでその後どうするのか?
営々と営々と人は精を出す。働く。億万長者になる。人に尊敬される。賞を独り占めにする。銅像が建つ。威張る。己でもシミジミシミジミ己の業績を讃える。そういう人生もある。
さぶろうにはそのシミジミシミジミがない。業績をあげていないから、そのシミジミはない。億万長者ではないからそのシミジミはない。賞をもらったこともないのでシミジミはない。ぐうたらにはそれがない。怠け者にはそれがない。
その代わり我が畑で育てたネギが食べられる。掘ってきてすぐに食べられる。うまいうまいと言っていられる。ネギを食べたくらいでも葱幸福になっていられる。しばらくこれを味わっていられる。安上がりができる。元手がかかっていない。威張ることもないが、威張って己を据える労もない。己を尊大誇張してかかる労もない。
ネギ殿に感謝する。働きもしないで、最後の最後の幸福に、さっとすばやく与っていることに感謝する。
昨日、畑からフカネギを引いてきてすき焼きにした。ドッサリドッサリ焼いた。甘くて美味しくてドッサリドッサリ食べた。上等の牛肉以上だった。葱幸福を感じた。まだ畑にはネギが数列も育っている。それから種から蒔いたのもおいおい育って来ている。まだこれはようやく10cmほど。ぽよぽよぽよ。もう少ししたら、あたたかい春になれば、植え替えてあげよう。さぶろうはぐうたらである。偉くない。なのにこの幸福者でいられる。葱幸福者でいられる。有難い話である。
息をするのはどうしてか? 死なないためである。では、どうして息をすると死なないのか? わからない。そのカラダの仕組みがわからない。科学に疎い男にはそのシークレットがシークレットのままである。それを知ればこの男はさぞさぞ感動するであろう。酸素を吸って炭酸ガスを吐く。するとブドウ糖が分解される。熱で体温が保たれる。それは何故なのか? どうしてなのか? なぜそれで、そんなことくらいで人は死なないでいられるのか? 無学の者にはその一つ一つの過程が深い深い謎である。次に生まれてきたときには、ここを解明できる生理学者、医学者になってみたいものである。
昨日もまるまる一日、一日中、クレヨンスケッチ水彩画を描いて過ごした。絵の横に詩を添えた。一枚30分。頂いた賀状の返書とした。ボールペンで下書きをしてここに色をつける。幼い者がする塗り絵のようなもの。飽きもせずに長々と机にへばりついていた。年賀状は書かないと決めていたのに。何年も書かずに来たのに。あの人この人が懐かしくなってしまったのだろう。便りをするとなると念がこもってしまった。暇人だからできること。仕事のないさぶろうは根っからの暇人である。暇を持て余している男である。ところが、ところがである。何十枚と描いて来ると次第に腕が上がるもの。素人なりに。たまたま描いた絵が巧く出来上がるとケチが眼を覚ましてしまうのだ。人にあげるのが惜しくなってしまう。煩悩人は愛着を起こしてしまうのである。畳に並べて飾ってみたが、明朝はしかし別れよう、思い切って。
お正月早々、風邪を引いたらしい、我が善友は。四五日も寝付いていたらしい。朝夕散歩を欠かさない彼は辛かったろう、さぞや。働き者の彼は外にも出て行けず難儀したであろう。美味いものを喰って精をつけて、快復を図ってほしい。冬は寒い。早く春よ来い。