外に出た。日が照っていない家の東側の庭の草取りを始めた。この庭は通りに面していて行き交う人が声をかけて来る。これに応じていると雨が降り出した。人は行き過ぎる。雨が落ちてくると体が冷える。これが気持ちいい。草取りに精を出す。たいした雨ではないのに、海で泳いで来たかのようにいつしかびしょ濡れに濡れていた。禿げ頭のほっかむりから雨垂れが滴り落ちている。風が吹いている。これが涼風になる。でももう限界である。下着が濡れそぼって重たい。7時。もういい。作業を中止した。
十方法界の土地草木牆壁瓦礰皆仏事を作す 禅宗経典「修証義」より
じっぽうほっかい の とち そうもく しょうへき がりゃく みな ぶつじ を なす
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皆それぞれ相手を生かしながら生きていることができるので、仏陀に等しいのである。仏陀に等しいのであるから、十方は法界仏界となっているのである。しかも彼らは無為であり無作(むさ)であって、常時に菩提心を発している。甚だ妙不可思議というよりない。
大地は草や木を生やす。木や草は大地を肥らせる。小石は川床となり、川床は小石を列べて平らかになる。垣根も壁も瓦もそこにあってそれぞれの大事を果たして、互を利益(りやく)して止まず。互を慰めて止まず。励まして止まず。褒めて止まず。
いわんやわれわれ人間をや。己を無用として蔑むなかれ、また一人高し尊しとして驕るなかれ。皆おのずからに仏事を作す。
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草も木もおのずからなる仏陀かな 草の仏陀が木の仏陀見て 釈 応帰
仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならん。 禅宗経典「修証義」より
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先を歩いて仏道の道をつけてくれた先達者がいる。吾等が安らいでここを歩いて行けるように。だから吾等もまたやがて歩いて来る後続の者たちのために、いま此処で仏道の修行に励むべきである。無尽法界、仏の法門にはこうして往昔と当来の双方の功徳が満ちているものである。となると、達磨大師が千人も万人もいることになる。
一度にわれを咲かせるようにくちづけるベンチに厚き本を落として 梅内美華子
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二人は公園のベンチにいてそれぞれ厚手の本を読んでいた、しばらく。ときが満ちた。隔たりがなくなった。立ち上がった。互の本が音を立てて足元に落ちた。伸び上がってことばが出ない唇を吸った。有無を言わせない。彼女の夏の花はそこで一度に開花した。ロシア向日葵のように大輪だった。人もまた己の内に花を準備しているのだ。やがて来るべき開花に備えているのだ。ドラマがある短歌ではないか。恋は蜂だから、にんげんたちを咲かせて飛び回る。
性欲のこととつとつと語りをれば水仙はひかりを吸ひてみひらく 米川千嘉子
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とつとつとだから、まあ女性同士で語り合っているのかな。話題にしてもいい相手だから仲良しなのかな。普段はしない。異性にはしないのが普通。でも、それを語っている内にことばが熱くなってきてしまって、からだが発熱してひかりを放っている。やがてそれが花瓶に生けてある水仙にまで届くようになった。水仙はやおらこれを吸って目を見開いた。花は植物の性器である。聞いていて同情が出来るからだろう。性欲が昂じれば始末に困る。減退していれば萎んだ朝顔のように寂しい。欲しがって悩み、欲しがらずして悩む。にんげんがにんげんでいることの難しさ。水仙が水仙でいるときの容易さ。どのみち、人間たちの話題には事欠かないのだ。
蜘蛛の巣をとめたまわりの直線の光る夏日の婦人はどちらへ 釈 応帰
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婦人がどちらかへ出掛けようとしている。パラソルの下の顔は見えない。おめかししてあるようだ。いざ出陣か。動の傍に静がある。庭の木々の中間に丸い蜘蛛の巣がある。真ん中に蜘蛛の陣十郎がいる。巣をぴたりと静止するために直線の糸が幾本か渡してある。上の句575までは序詞。きらきら光るこの夏の日に彼女はさてどちらへか趣こうとしてともかく意を決したようだ。叙景で叙情が成り立つのか。止めてあっても止められないのがこころだ。直線が彼女のこれからを仄めかす。婦人の夏の日のお出かけ。それだけではロマンにならないか。
舗道には何も通らぬひとときが折々ありぬ硝子戸のそと 佐藤佐太郎
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人も馬も自転車も通らないそういう時間がある。舗道がなんのための舗道なのか分からなくなる。日は照っているが、動くべきものの何も動かず。無音の世界が立ち上がっている。ここでは真空とナッシングネスがからからに乾いているきり。折々こうなる。いまもまたこうだ。しょうがないなあ。ここは死者の国なのか。硝子戸の中の生者が哲学をして物を思う。歌人というのは妙なものを眺める職業のようだ。
草取りをした夏草の山が日照りですぐにからからに乾く。次の日に、畑の真ん中でこれに火をつける。めらめら燃え上がる。そして燃え尽きる。存在はこれで無に尽きる。見事だ。変容ぶりが実に見事だ。畑は剥き出しの土だけになる。ここから新しく秋が始まる。存在は無に尽きるのだ。それでいいのだ。すべてが順当な推移なのだ。ここでもさぶろうはそれを教えられる。さぶろうも枯れてめらめらと燃え上がるだろう。そしてさぶろうの物質は無に尽きるだろうが、そこに爽やかな秋が来ているに違いない。
行きつ戻りつしている。70を過ぎてもこうだ。おんなのひとが恋しくて、そこへ行く。おんなのひとはいつもやさしい。やさしくされる。オシロイバナの匂いにしばらくとろりとしている。行きはそこで行き止まり。それ以上には進展しない。それからは帰りになる。冷や汗を掻き掻き今度は大慌てで戻ってくる。そのていたらくを恥じる。妄想の中ではあるが。
妄想の中であろうと、おんなの人の中に居るとさぶろうはそこそこ明るくなっている。はなやいでいる。けっこうなことだ。そして悔いる。なんだ、おまえまだそんなところにいたのか。もう一人の堅物が責めて来る。責められた「やわ」が目を伏せる。そして肩を落として戻ってくる。後ろ髪を引かれているくせに。その証拠、また夜の夢の中で再会を果たしている。
なんのために読経しているのだ。仏陀を目指して歩いていたのではなかったのか。すべてが嘘になる。積み重ねて来たはずのが、そこで一気に灰燼に帰してしまう。散らばっているのは真っ白な灰。また初めからやり直しだ。仏典を読むことにする。朗読はおこがましいから黙読しか出来ない。何がブッダンサラナンガッチャーミー(わたしは仏に帰依を致します)だ。
この通りだ。さぶろうは最後の最後までこうかもしれない。行きつ戻りつで終わるのかも知れない。野を行けば百花の香気が鼻を弄る。妖しい視線の合歓の花が目をいたぶる。風に靡いた秋萩が我が身の肩に触れてくる。鼬にも貂にも蟻にも蜘蛛にも劣る。
白雲のカーテンが開いてそこに青空が見えて来た。これは作為的である。さぶろうのこころを青空にしようとする作為である。彼の意思が見える。これを尊重する。彼はこうして愛するさぶろうに贈り物をして来る。ふんだんに。そのどれもが晴れやかな贈り物である。さぶろうのライフを晴れやかにしようとする壮大な企画である。