<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

家守がかわいい

2016年05月05日 22時15分30秒 | Weblog

ヤモリが台所の窓のガラスに貼りついいている。ぺったりと。2匹から3匹。親子だろうか。夜ごと、灯りがつくと集まってくる。蛾の類を捕まえて喰っているようだ。ヤモリは家守なんだろうか。守宮とも書くらしい。スケートリンクを滑っている。仕草がかわいい。

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それにしてもなんと低い鼻なんだろう

2016年05月05日 10時07分55秒 | Weblog

なんと低い鼻だろう。鏡に映ったさぶろうに声を掛けた。かけたのもさぶろうだ。歯磨きをしているときにふいに鏡に映ってしまったのだ。そう思うから鏡を見ないようにしているのに。たびたびそう思う。思わされてしまう。

お婆さまが、小さい頃、この鼻をつまんで「なあに、そのうちに高くなるさ。我が家は鼻が高い血筋なんだから」といって慰めてくれたが、そうはならなかった。70を過ぎてもお婆の言葉は慰めを出ることがなかった。父の血筋はたしかに兄弟姉妹衆みなしっかりした高嶺を為していた。

鼻が低いのはしかし、これはこれで意味があったのだ、さぶろうはそう思うことにしていた。あんまりいい男過ぎてしまうのにブレーキを掛けてあったのだ。それで普通にして暮らせたのだ、という具合にうまく折り合いを付けさせているところがあった。ほんとは友人みたいに女性にもててみたくてならなかったのに。

何事であれ、パーフェクトではなく、100ではなく、20か30か、あるいは50か60か差し引いてある。すると悪難を免れるのだ、そう考えてみると不平が少し収まった。

人はパーフェクトを欲しがる。そうなれればそうなった方がいいに決まっている。だが、事実はそうはなっていない。欠けがある。欠けをつけてもらっている。すると屹立しないで、なだらかになるのだ。弧峯ではなくて連峰になっておさまりがつくのだ。

パーフェクトを乗りこなす能力がない者にはそうしてあるのだ。さぶろうはこういうふうに物の見方を曲げて見ていた。そして自分の不完全さに住み込むため、隅っこに安住域をこしらえていた。なかなか健気だった。

それにしてもなんと低い鼻なんだろう。結局は今朝もそう呟いてしまった。まあいい、もういい。鼻の低い人生ももう終わる。そうも思った。外に出た。椿の新緑が光を浴びていた。きらきらと光っていた。爽やかな五月が季節の本を開いて5ページ目になっていた。

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老いた一匹の蝶々が蜘蛛の巣にかかっている

2016年05月05日 08時37分30秒 | Weblog

わからない。わからなことだらけだ。

死んで行く人はもうあと1日をわたしにください、と願う。さぶろうはその1日が積もり積もって365日x71年=25915日を生きている。生きながらえている。

それでもわからない。

今日何をしたら「わたしは生きています」と言えるのか。胸を張れるのか。

胸を張るポーズだけですませてもらっているけれども、ときどきそのポーズにも疑いの目を向けてしまう。

ポーズではなくなると、では、どうなるのか。

胸を張ったらもうそれで完了していいのではないか。

ほんとうに胸を張って生きるということになればそれから先は何年でも生きていていいということになっているのか。

わからない。

今日は五月五日だ。節句だ。お祝いだ。鯉幟が上がっている。あまつさえ飛びっきりの上天気だ。それなのにおれは蜘蛛の巣にかかっている一匹の蝶々だ。老いた蝶々だ。疑問が疑問を生んで巣を広げている。

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生きているというのはどういうことなのだろう

2016年05月05日 07時50分47秒 | Weblog

生きているというのはどういうことを指すのか。さぶろうはときどきこれを考える。生きているという実感を伴っているときにだけ生きているのか。そういう実感がなくてもやはり生きているということになるのか。

苦しいという実感、悲しいという実感、楽しいという実感、いろいろさまざまな実感が移り変わり座を占めている。これがあると生きていることが炙り絵になって映し出されて来る。だったら、それは実感が生きているということになる。炙り絵の絵の方は、じゃ、なんなんだろう。

何処まで生きてみなければ、生きたという満足に至らないか。これも気になる。今日ここでその満足を手に入れて、次のバスに乗り換えることだってできそうな気もする。ここに根を下ろしてしぶとく生きれば生きるほどそれだけ何かがプラスになって積み増しされるのか。それともそのしぶとさが災いして逆にマイナスの積み下ろしということになるのか。疑問がふつふつと沼地の泡になる。

生きている時間の長さというものには、忽(ゆるがせ)せには出来ないほどの重大さが含まれている。そういう先入観がある。席巻されている。長く生きたい長く生きたいと人は思う。さぶろうも思う。でもいつまで生きていたら約束の場所に辿り着けるのか。そこまでしぶとく生きた者にだけ手形決済が下りることになるか。

今日が、生きているというその紛れもない今日になっているのか。無収獲でもそうなのか。じゃ、しみじみと嬉しいのか。しみじみと嬉しいのならそこでどうしてすっかり満足できないのか。「これであなたは十分です、十分に尊く生きました」という完了にならないのか。不満足をまた明日まで担ぎ込んで歩く。重たい荷物を背中に背負ってとぼとぼと歩く。歩き通す。そのうち厖大な時間が経っている。おれは長生きをした、という述懐が生まれる。

何日同じことの復習をさせられていれば気が済むのか。書き上げたレポートが100点満点がとれない。満点を取るのは至難の業だ。せいぜいが20点、30点止まりだ。評価の丸はところどころにしか付いていない。だから、こうなっているのだろうか。じゃ、いつか満点をとれる日というのが来るのか。

空が青い。五月晴れをしている。これを見ている。見飽きることがない。毎日、自分の頭上には青い空がある。毎日毎日これを仰いで見てもそれでも美しい。晴れがましい。見飽きることがない。磨り減らない。そうであって、自分は懐疑の泡をぷかりぷかり浮かばせている。「ほんとうに生きた」「今日を生きた」という「ほんとうの今日」は今日の今日なのではないか。そういう気もしている。

懐疑の泡を浮かばせないでいると「ほんとうに生きている今日」を過ごしていけることになっているのかもしれない。

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風がない まったくない

2016年05月05日 07時16分35秒 | Weblog

風がない。まったくない。昨日はあれほど吹きまくったのに。強風注意報が発令されていたのが嘘みたい。おだやかだ。こんなふうに何事もよい方向へ向かってくれますように。イタイイタイを繰り返すリュウマチの指が、こんなふうにある朝けろりと改善されていたら、さぶろうだってこんなにおだやかになれるだろう。顔をしかめずに済むだろう。東から昇ってくるお日様に両の手をすっと伸ばし、ぴったり手を合わせ、それはそれは大切に拝むことができるだろう、容易に。リュウマチの指の10本が痛い。進行が想った以上に早い。骨が曲がってずきずき、きんきんしている。病院には行かない。薬は飲まない。寿命の成行にまかせることにする。今日を精一杯生きていればいい。怠け者だから、そんなふうな諦観に腰を下ろさせる。春の日の草藪にそっと腰を下ろさせる。努力が嫌いなのだ。懸命に生きようという執着心が薄れている。いまのところこころを逆立てさせる風はないが、しかし、そこへいつか強風注意報が発令されるやもしれない。それで耐えられなくなって防風壁へ逃げ込むかも知れない。

さぶろうという老人の住んでいる家の、庭の一角に透かし百合の蕾が見える。わずかにだが色を見せて来た。大輪の芍薬の花心に、花という剥き出しの植物性器に、揚羽蝶が下りてひとり静かに快を貪っている。

 

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