<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

羽生結弦選手世界最高得点 新記録更新

2015年11月28日 19時53分55秒 | Weblog

フィギュアスケート男子NHK杯選手権は堂々の一位。頂点を極めた。連続4回転ジャンプがすべて決まった。落ち着きがあった。練習の成果に違いない。誇りに思っただろう、応援をしていた日本の人がみな。彼は何処まで成長を続けるのだろう。

 

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片雲

2015年11月28日 09時38分31秒 | Weblog

「ここへ来ようとは思っていなかったんです」「じゃ、来ようと思っていなかったのにここへ来てしまったというのかね、あなたは」エプロンをしているドロシーおばさんにそう聞かれてパトリシアはこっくりと肯いた。そんなことはよくあることだった。気づいてみたらここへ来ていたということが。此処が何処であったっていいのだけど。あれあれというまに其処に立っているなんて夢遊病者のようだけど、パトリシアはけっしてそうではなかった。雲が湧いて湧いて溢れて流れ出したらこうなるにちがいない。その場所が雲にとってちぐはぐだということはないように、何処へ行っても、彼女にも違和感はなくてすんでいた。此処へ来ようと思ってここに来ているという人の方がもしかしたら少ないのかも知れない。ここへ来たらここですることがすぐ誕生した。それをしているうちに其処に馴染んできた。いのちが片雲になって旅をしているようだった。

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ヘーゼルナッツの実

2015年11月28日 09時03分25秒 | Weblog

「そんなもんかなあ」と言うと「そんなもんだよ」とすぐに返ってきた。「目的なんてあるようでないのさ」「じゃ、なくってもいいってこと?」「そうだね、目的を立てたとしてもずっと同じじゃないんだ。日々を歩いているから、日々に変わって行ってもいいのさ、別のものに。どんどんどんどん新しくして」会話はこういうふうに続いて行った。「目的がなければ何処へ向かって歩いて行っていいのか分からないだろうに」と片方が言い、「なあに、歩けば歩けないことはないさ」と片方が言った。真面目な方が困惑の表情を浮かべたところで、次の授業の鐘が鳴った。そばにいたイザベラは一言も発していなかったが、ジャンとモーリーはそんなことなど気にもしていないようだった。トンプソン先生は眼鏡がずり落ちそうになるのを何度も食い止めて、ぎょろりとした目玉を生徒たちの誰彼に向けるのだった。ハシバミの実であるヘーゼルナッツが一人の男の子のポケットから取り出されこれが教室中を回った。背中から背中へ渡って。これはお昼休みに校庭の一隅にある丘の上で拾ったものだった。

これを辿って行けばよさそうに思えた。しかし、さぶろうは此処には自分の姿を見つけることはできなかった。空想が空想を追いかけて行った。そのうち何処かで彼は彼自身の昔の姿に出会えるように思った。昔の姿でなくともよかった。これから先の未来の自分でもよかった。ともかく自分のいのちの大河を旅してみたくなったのだった。ヘーゼルナッツではなくて、図書室の棚から団栗の実が転がり落ちてきた。見るからに黄色く堅いものだった。

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そこに意図を感じた

2015年11月28日 07時40分51秒 | Weblog

佐賀県鹿島の祐徳稲荷神社の社殿の背後に山がある。小高い丘といってもよさそうな。鬱蒼と木が茂ってな丘はめらかにとんがっている。石造りの階段があってきらびやかな堂々たる社殿まで上っていくことができる。そこから先にも山道が続いていて奥の院があるらしいが、さぶろうはここを参拝したことはない。

さぶろうは神社の静かなたたずまいが好きである。それでよく訪ねる。神域に足を踏み入れていると自然にこころが洗われる。そういう満たされた感覚がある。

あるときのこと、そうやってこころ満たされて戻って来て、神社の前を流れる大川の橋を渡ろうとして振り向いたら、そこに神が出現していた。

そうとしかさぶろうには思えなかった。背後の山の真後ろから這い上がるようにして山頂から瑞光が帯になって社殿の上空を貫き流れ込んでいた。光の川がまっすぐな眩しいばかりの帯を造っていた。帯の横幅はさほど広くはない。それがぐいぐいと流れ込んで飛沫して轟いていて、全身が天空を駈ける龍のようだった。虚空を貫く生きた生き物のようだった。

それはそれを見上げているさぶろうを押し潰すほどの威厳があって、その神の迫力にただただ圧倒された。これは天空で起こっていることだったから、誰もが目にしているはずだが、橋を行き交う人々に驚歎のどよめきはなかった。

さぶろうはこれを見た。そしてそこに意図を感じた。もう数年も前のことであるが、驚きはいまだに新鮮である。

それよりもずっと前にも同種の感動があった。これは海の上の雲と光の天体ショーで、日が沈む夕暮れ時だった。モーゼの海渡りを見ているようで、しばらく身動きが取れなくなってしまった。この種の厳かな天空のショーはよくあることなのかもしれない。

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怪奇な天空のショー

2015年11月28日 07時22分10秒 | Weblog

昨日のお昼間。怪奇な天空ショーが起こった。実に神秘的だった。まったくの偶然が造り上げた天空の造形だったのだろうが、それがそうとは見えずはっきりとした意思を持ってさぶろうに臨んでいるかのように思えた。さぶろうは引き締まった。ここから何を聞き取るべきか目を凝らしてみていた。それは長方形だった。はじめそれが正確を期した長方形だった。そして奥行きがあって厚かった。そこに青空のスクリーンが張られていてそこから光が発射されてさぶろうへ届いていた。長方形を作っているのも白い雲、奥行きを造っているのも白い雲だった。長いことそうしていた。書斎にいてこれを見ていたのだが、さぶろうは目が離せなくなった。何をそこに読み取るのか。読み取るべきだとしながら読み取れなかった。なぜ雲が正確な長方形を造って見せたのか。そこからあれだけの光がさぶろう宛に届けられてきたのか。はっきりとした意図があったはずだが、その意図は達成されなかった。するうちに長方形が緩みだした。崩れて小さくなりだした。ただ不思議だった。多くの人にもそれが見えていただろうが、これはさぶろうひとりのためだったような気がして慄然とした。

 

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わが内なる菩薩さま 億万の菩薩さま

2015年11月28日 06時53分25秒 | Weblog

たださぶろうを生かすそれだけのためにさぶろうに無数の血管が走っている。それが浮き上がっている。この血管の中を赤い血が流れている。胸の心臓が拍動してこれを動脈血管に押し出し、全身の隅々にまで行き渡らせ栄養を送る。消費が終了して不要物となったものが静脈の血管に吸い取られ胸の心臓へと戻って行く。この間に五臓六腑がそれぞれの役割を果たす。眠っているときも目覚めているときにもこれらの活動は停止することがない。するとさぶろうは生き生きとなることができる。でも終始さぶろうは何食わぬ顔をしていられることになっている。我関せずにしていられる。労賃を払うわけでも報奨金をさしあげるわけでもない。お礼も言わない。言って欲しいとも言わない。「あなたが生きていられるのはわたしたちの無償アクテイビテイのせいですよ」などと恩も着せない。どちらもそれを当然としていて構うことがない。さぶろうの全身の、大小の血管の中を赤い血が流れている。ひたすらひたすら。無言の行をしている。行が終わったものはいつのまにか消滅して新しいものに交替をしてこの利他行を譲って行く。まるで万億の菩薩さまのように。これで悪さぶろうが清浄を保つ。健康を保つ。仏陀を仰いで仏道を歩むことができる。守られ支えられ助けられていることがかたじけなく、そしてこの朝はいきなりそれがひどくすまないことに思われる。

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