<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

準決勝 侍ジャパン対韓国戦

2015年11月19日 19時05分43秒 | Weblog

世界野球プレミアム12準決勝、侍ジャパン対韓国戦が始まった。大谷承平投手が投げている。一回を3人で終わった。快速球160キロが出ている。1回裏、韓国はイ・デウンが投げている。秋山がバッターボックスに入った。もう何も手が付かない。テレビ観戦をして夜が更ける。

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互を分かり合える仲

2015年11月19日 09時53分02秒 | Weblog

ねえ、面白かった? と聞くから、そりゃあもう、と答えてにっこりする。すると彼女もそうする。にっこりとする。

ここで言う彼女は、彼であってもいい。さぶろうは男性だから対象とするものをやたら女性名詞にしたがるというだけだ。

ねえ、面白かった? 空が聞いてくる。そりゃあもう、と答えてにっこりする。すると彼女もそうする。にっこりとする。

今日の空は薄いブルーの色。

空はさぶろうに何を告げたのか、何を話したのか。どんなドラマをして見せたのか。そしていったいその何処が面白かったのか。

みんな内緒だ。二人の間の内緒ごとだ。

でもふたりがそんな関係だと言うことは内緒にしておかなくともいい。ともかくツーカーの仲なのだ。互を分かり合える仲なのだ。 

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プラーナ

2015年11月19日 09時04分06秒 | Weblog

寝間着のままでいる。朝の9時を回ったというのに。誰も来ないし何処にも行かないから、これですんでいる。

さぶろうはプラーナというものが実在していると思っている。プラーナは目では見えない。

だから所在が掴めないが、廻(めぐ)っている。包んでいる。満たしている。やさしくあたたかく潤(うるお)している。

人間の体(宇宙の天体もそうだけど)は重層構造をしていて、肉体というカラダだけを纏っているのではない。その肉体を外側から内側から支えているカラダがある。それも幾十幾重ねにも。

そしてそれが外側に行けばついには天体というカラダにもで膨張を遂げている。内側に貫いていけば、宇宙の意思という根源体というカラダに収縮収斂される。

プラーナをなんと訳そう。簡単明瞭に「人を元気にする働き」でもいいし、「全宇宙を健康にするエネルギー」とでも訳してもよさそうだ。「個を愉快にして全体との調和を図る歯車」としてもいい。

ともかくさぶろうを元気にして生かそう生かそうとして動き回っている活動組織だ。正義の味方だ。肉体への侵入ももちろん自由自在だ。これがあるとふかふかして来る。あたたかくなってくる。眼が見ているものが明るくなって来る。それですぐに分かる。

体内や体外にこの正義の味方を感じているとにこりとしていられる。不安を覚えないで済む。感じているかいないかの差だけで、こうも違う。もちろん、さぶろうの独占物ではない。万民公平に与えられている。万民を公平に元気にしてかかっている。

プラーナを感じるにはどうすればいいか。さぶろうは集中をするために瞑想に頼る。両手を胸の前に広げて目を閉じているだけだけど。力を抜いて。平和な気分を繕って。

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するとお向こうさんから登場がある。カラダの各所があたたかくなって来る。で、これを迎えとる。「やあ、いらっしゃい」「会いたかったよ」という具合に。

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彼女と待ち合わせをしているときに、そうするようにすればいいのだ。やがて気をよくしたプラーナが彼女のように手を取ってくるのが感じられる。

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昨晩もこれと遊んだ。真夜中4時から5時過ぎまで。単細胞のさぶろうはこれの相手をしていると愉快が誘われて来る。で、ゆっくり受け入れて、満たされた。プラーナももちろんこれで上機嫌のようだった。

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意識すればプラーナはすぐに意識される。意識過ぎると手の平が濃い赤紫に変色してしまうが、恐れる必要はまるでない。「お静かに」を言ってやればおとなしくしている。

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この世は案外多重構造なのだ。見えているものだけに一喜一憂をしなくてもいいのだ。見えていない部分の厚さ大きさが氷山を浮かばせているのと同じ原理だ。

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そして僕らは、見えてはいないけれども、大きな大きな力に包まれ満たされていて、こうしていつも支えられ助けられ、元気をもらっていられるのだ。プラーナがさぶろうに擦り寄って来て、これを耳打ちして遊ぶ。

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シャボン玉のような壊れやすさ

2015年11月19日 08時53分59秒 | Weblog

珠子の居るところへすぐにやって来るさぶろう。だらしない。いるはずのない珠子なのに。いたら、珠子ではなくなってしまうから、それで救われているのだろう。美しい珠子を入念に装わせる。そして美しい位置に立たせる。すると朝の光が射してきて、珠子をそこに初めて浮かび上がらせる。ほどなく風が吹いて来て一瞬きらりと光って消えてしまう。シャボン玉のような壊れやすさ。軽さ透明さ。

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ほほう

2015年11月19日 08時43分59秒 | Weblog

ほほう。空が青いぞ。そこへ朝日が差し掛けて来ている。白い雲が白く光り出した。貧しい目をしたさぶろうが、ほほうと言って見上げている。今日は久しぶりの晴れになりそうだ。貧しくしてなくちゃならないということはないのだが、貧しくしていても青い空。晴れたら青い空が見えて来る。おまけに朝日だ。その上に白い雲のかがやきだ。天空の慈悲は、我が身の置かれた状況の貧しさをはるかにはるかに超えている。さぶろうはもう一度「ほほう」をつぶやいてみた。

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「一人幸福の文学」性

2015年11月19日 08時26分23秒 | Weblog

やれ打つな蝿が手を擦る足を擦る

蠅叩きでパシンと打つと蝿が叩き潰されてお陀仏になる。手の平で打っても同じだ。それを思い止まる。相手にも思い止まらせる。いまは折しも蝿が手を擦り足を擦りしてやっと訪れた幸福を寛いでいるところだ。

痩せ蛙負けるな一茶ここにあり

ここは川土手。柳が生えている。風が長い長い枝を草の上に靡かせている。蛙がそこに飛びつこうとしている。風が強く吹く。すると柳の小枝は靡かれて向こうへ行ってしまう。風が緩む。そおら、こっちへ戻って来たぞ。今だ。飛びつくのは今だ。痩せこけた一茶が応援をしているのはやっぱり痩せこけた老いた青蛙。「おれがついてるぞ。風なんかに負けるなよ」一茶が声をかけている。

今日は小林一茶の命日らしい。どの句もやさしい。一茶は対象に己を見ているようだ。小さな対象を見出して来て小さな己を重ね合わせている。幸福を追い求めながらなかなかそれが手に入らないもどかしさ。でも、それは一茶一人ではなかったのだ。そしてそこにこそ、こころの幸福、「一人幸福の文学」性が発芽していたのだった。

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我々は何処から来て何処へ行くのか

2015年11月19日 07時41分05秒 | Weblog

NHKのBSチャンネルで「ザ・プロファイラー」を見た。画家ゴーギャンを追ってあった。世界最高額で競り落とされた絵はタヒチの娘の絵だった。絵の中に画題が描き込まれていた。「この娘はいつ嫁ぐのか」という意味のタヒチ語だった。生きている内には、故郷フランスの流行の印象派画家と横並びに列んでもてはやされることもなかった。彼はフランスに戻ることなく南海の孤島で病没した。今でこそ世界一のアーテイストの評価を得ているが、生きている間は不評のままだった。タヒチでは13才の娘と同棲して暮らした。彼女がモデルになった裸の絵の一枚が不朽の名作と謳われるまでになった。人間の一生を暗示した最後の傑作にはこういう画題が描き込まれている。「我々は何処から来たのか。我々は何者なのか。我々は何処へ行くのか」

さぶろうだったら、この問題提示になんと答えるだろう。「我々は何処から来たのか」「我々は何処からも来なかった。此処以外から来ることはなかった。なぜなら、此処こそが生死が透徹できる真如界なのだから」だからもちろん、3番目の質問の答えとも重なってくる。「此処以外には行くところがない」からだ。「此処」とはややスケールの大きい此処なのだが。仏教語でならそれは一仏の教化する範囲とされる「三千大千世界」とでも表現すべき世界であるが、其処もやはり此処なのである。2番目の「我々は何者か」には、どう答えていいのだろう。「此処に居ることをよしとしている者」としてもよさそうだ。「此処でゆっくり仏陀を目指している者」とした方が説明が付きやすいかも知れない。「仏陀」とは「完成者」あるいは「自己の完成に目覚めた者」の意味を持つ。

これはさぶろうの現時点での戯れだ。誰もがその都度その都度の立脚地点で思い思いに答を出していいものだろう。

競り落とされた世界最高額は、メモを取らなかったから正確な記憶ではないが、350億円を超えていた。その時、つまり生きて絵を描いているときに、この大金があったらゴーギャンは更に加えて一枚の絵をも描く意義を見出し得なかったことだろう。皮肉なことだが、貧しさと不評価こそが名作を紡ぎ出す鍵なのだ。

ということは? そうなのだ。誰にでもこの名作を描く資格が残っているということなのだ。貧ししさえあれば。死ぬまでの長い不評価に耐えることさえできれば。

 

 

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