申し訳がありません。読んで下さる方はさぞかし落胆されるでしょう。すべからく、情報はすぐに役に立つものでなくてはなりません。さぶろうが書いているものはあの世に行ってからやっと合点が行くくらいでまことに悠長です。現代インスタント食品の対局にあります。この世からあの世まで効き目が長く持続すれば、しかし、価値はありますよね。急ぐことはありません。あの世が逃げてしまうことはないのですから。
光が見えるようになったのは/いつ頃のことだったかしらん/はじめ/これは見えなかった/僕には見えなかった/軽くて透き通ってて/まばゆくてまばゆくて/見えなかった/空のこころのようだった/あんまりやわらかいので/見えなかった/あんまりまっすぐなので/見えなかった/
そこへ草が生まれた/光は草にとまることができるようになった/それからなんだ/光が見えるようになったのは/それから僕の前に/あなたが来て/僕を見つめた/それからなんだ/僕に光が見えるようになったのは/僕に光が見えるようになったのは/
この詩を捧げます。中学生に捧げます。どなたか奇特な方、合唱曲に作ってみて下さい。
長すぎますか? だったら縮めます。
僕に/光が見えるようになったのは/いつごろからだっただろう/ある日ふいに/大地に草が生まれた/光は草を大切にした/それからなんだ/光が/いきものの目に/見えるようになったのは/ある日ふいに今度は/あなたが生まれて/僕の前にあらわれた/それからなんだ/僕に光が見えるようになったのは/あなたの瞳に/光が見えるようになったのは/
もっと短い方がいいですか?
大地に草が生まれた/ある日ふいに/それからなんだ/光が見えるようになったのは/光は草を愛した/ある日ふいに/大地にあなたが生まれた/それからなんだ/僕に光が見えるようになったのは/あなたの瞳にはいつも光があった/
もっともっと短くした方がいいですか?
ある日/ふいに/この大地に/あなたが生まれた/それからなんだ/僕に/光が/見えるようになったのは/光は/いつも/大空と/あなたの瞳と/わたしの瞳を/愛した
たんぽぽの綿毛を/放ってごらん/右手の風船を/放ってごらん/飛んで行く先は/きまって大空だよ/ほかに行くところはないのだから/綿毛のわたしを放ってごらん/風船のあなたを放ってごらん/飛んで行く先は大空だよ/青い大きな大空だよ/明るく透けた大空だよ/どこまでもどこまでも高いから/どこまでもどこまでも/昇って行くことができるよ/
作曲料はいらないという奇特な方、どなたか作曲をお願いします。こどもたちが澄んだ歌声を放って合唱をしてくれたらいいなあ。
今日の新聞に詩人・作詞家の藤浦洸さん(1898~1979)の記事(「ながさき・さが新偉人紀行」)が特集で組まれていた。興味をそそられた。藤原さんは長崎県平戸市のご出身だったらしい。誠実でオーソドックスな詩のほかに、かずかずの歌謡曲の、名曲の作詞を手がけられたようだ。各方面に博学多才で名を馳せておられたようだ。おしゃれでダンデイでもあったらしい。
淡谷のり子の「別れのブルース」美空ひばりの「悲しき口笛」「東京キット」などの名曲は彼の作詞による。ほかには「水色のワルツ」「長崎ブルース」などもある。彼の手になった「ラジオ体操の歌」はいまでも毎朝6時半に流れている。NHKの人気番組「私の秘密」には12年間もレギュラー出演をされていた。これは少年の頃に幾度か耳にしたことがあった。懐かしい。
空いっぱいに/空があるように/海いっぱいに/海があるように/人よ/心いっぱいに/美しい心をもって/この空を/この海を/この土を/愛そう
これは團伊玖磨作曲交響詩「西海賛歌」の詩だ。いい詩だ。簡潔で明るくて広々と広がっていて、力が籠もっていて。やにわに聞いてみたくなった。聞いたらぶるぶる震えるかも知れない。平戸市大久保町の常燈の鼻から眺める空と海がこの歌の背景にあるらしいから、ここへも行ってその空と海を眺めてみたい。ここから平戸は近い。3時間あればゆっくりドライブもできそうだ。
彼はクリスチャンだったらしいが、親しい友人に誘われて、友人といっしょに海と空の眺めが美しい場所、平戸市大久保町の雄香寺(平戸藩主松浦公の菩提寺)に遺骨を納めている。
一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたまふ。 浄土真宗御文章「聖人一流の章」より
一心に阿弥陀如来の仰せに従っておまかせをすれば、わたしたちの思慮を超えた如来の本願力によって、浄土に生まれることを決定してくださるのである。 (早島鏡正・田中教照 訳)
此処に生まれたのも自力ではなかった。仏のおはからいに由ったものであった。次生に生まれて行くのもやはりわが自力ではなく、仏のおはからいに由るものであった。これは阿弥陀仏の本願力のせしむる結果である。帰命をするより他にどんな手立てもあり得ないのである。思慮を超えていることを思量して恐がっても始まらないことだが、悲しいかな、われらは無明煩悩の人、現実は恐がって恐がって死ぬが死ぬまでうろちょろしてしまうばかりだ。
わたしの死とその先の往生はみな阿弥陀仏の活躍を待つことになる。これが分かっているだけでも安心ではないか。わが力を以てわが死と死後の行き先のケリを付けねばならないとしたら、これはまさしく恐るべきことだったのだが。何度も言うようだが、わたしたちはその初めから終わりまで安心の世界にいていいように仕向けられていたのである。これが阿弥陀仏の本願力というものであった。
今日は月曜日。一週間が明けました。新しい一週間を提供されたからには、それにふさわしくならなくちゃね。ね、さぶろう。(さぶろうが頷く)そしてこんなことを考える。
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さぶろうを構成する60兆個の細胞の内、1兆個は一日で生まれ変わるから、一週間だったら7兆個が新しくなる計算だ。ふううん。新生児がぞくぞくってわけだ。
「こんにちは」
「よろしくね」
わたしの挨拶はこの1回きりだが、向こうから挨拶が7兆回も返ってくるよ。
「おはよう」
「こんにちは」
「こんばんは」
「僕たちは元気だよ」
「兄さんも姉さんもこんなに元気いっぱいだよ」
「この元気はあなたからもらっているよ」
「みんなはあなたが元気にしているのが一番嬉しいらしいよ」
「いつもあなたから勇気をもらっているんだって」
「ここは住み心地がよくてみんな感謝感謝で過ごしているよ」
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そりゃ、こっちの台詞でしょう。さぶろうはそう思う。
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さてと、もうかれこれ11時だ。そろそろ外に出るとしよう。光を浴びることにしよう。光はさぶろうの構成員60兆個の小さな生命体が大好きなご馳走なのだ。
わたしは/ひかりの中に/いました/はい/まちがいありません/何処へ行っても/ひかりは/わたしを中心に据えているきりで/除外することは/一度もなかったのでした/それを嬉しがっていたら/それで一生が/たちまち終わっていたのです/わたしが今もきらきらかがやいているのは/このためです/
尽くす。夫が妻に尽くす。妻が夫に尽くす。人が人に尽くす。社会に尽くす。まごころを尽くす。力を尽くす。見返りなしで尽くす。人の道・天の道を尽くす。仏の世界にあって仏の道を尽くす。(このうち、どの「尽くす」だったら、今のさぶろうにも始められるのかな? 尽くされたいだけかもしれないな)
尽くすってひたむきで直線的でなんだか日本民族的だなあ。
無私というところまで尽力することが尽くすということなのだろうか。
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(でも、相手に尽くすというと相手を立てて自分を殺すみたいなところがあって、なんだか封建的なのかもしれないね。今の時代には合わないね。今は主従関係は隷属的なニュアンスがあって否定されているからね)(そういえばさぶろうは人に尽くしたことがないね。我が儘ばっかりいって己を第一にしているね。これじゃ尽くしようがないよ)
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ミゾソバの花にはその「私」があるのだろうか。はじめっから無私だったのだろうか。それとも尽くされて尽くされているきりなのか。光に尽くされて風に尽くされて大地に尽くされているミゾソバの花。尽くされているということ、これをよろこんでいること、これを素直に受けていられるということ、それがそのまま尽くすことに変容をしているのかもしれない。草は、この秋、気取らず大袈裟にならず、やっぱりさらりとして爽やかな生き方をしているようだ。
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諸事、尽くされて尽くされてきたというところはさぶろうもミゾソバと同じだから、こりゃ、ミゾソバ級だね。他者から尽くされたことが1万億回あって、他者に尽くしたことが0回だったら、これはとてもアンバランスだろうなあ。
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さぶろうの一生涯は全部さぶろう流儀の我が儘に埋め尽くされて来たのじゃないかなあ。これじゃいけないよなあ。せっかくの今生が進歩なしで終わりそうだなあ。
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人間の蝋燭が燃え尽きるまで燃える。これも尽くすことになるのかなあ。これはただ単に尽きることかもしれないね。
異体同心なれば万事を生じ、同体異心なれば諸事叶うことなし。 日蓮宗経典「異体同心事」より
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肉体はそれぞれに異なって生きているがこころが仏のこころ一つなので万事が調和して動いている。仏の心(万法万事 日蓮宗では妙法蓮華経世界)がいのちの中心の軸なのだ。これに違えて個としてばらばらに生きようとすると個の苦しみや個の悲しみが発生してしまう。 (これはさぶろう用の主観的解釈である。日蓮宗の識者ではこういう解釈では満足できないだろう)
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個が全体(万法)から離れて見ようとすると見解は極度に狭くなりあやまってしまうことになる。仏と共に生きるという道がある。仏の宇宙(妙法蓮華経世界)を生きている者はこの道が用意されていてこの道を歩けば導かれていくことができる。
わたしの悲しみを仏が悲しみ、わたしの苦しみを仏が苦しみ、わたしの悦びを仏が悦んでいるのなら、異体であって同心である。同じ同心円を回って暮らしているのに、これをわたし一人が恐れることがあろうか。
これは間違った推理かも知れない。
仏教には「捨身飼虎」の故事が載せられている。王子が森に入ったとき、そこに飢えて我が子を食べようとしている母虎を見つけた。彼は岩の上から身を投げて飢えている虎に我が身を食べさせた。彼は己を捨てて他を生かそうとしたのだ。これはお釈迦様の前生譚である。この自己犠牲の功徳を以てこの後、釈迦は如来となることが出来た。
これに肖(あやか)る。飢えているのは虎ばかりではない。喰わねば飢えてしまう。飢えれば死んでしまう。人間の体内に巣喰う病原菌とてこうではないか。病原菌の中には共生ができる特殊な種族もいるが、たいていはそうではなく未進化の過程にあって、相手を殺して自分を生きようとする。すると進化を辿っている人間は病気になってしまう。病気になった人間は自分が仏道で謂うところの自己犠牲を発揮しているなどとは思いもしないけれども、実際は己を捨てて他(ここでは未進化の病原菌)を生かしていることになる。生かされた病原菌はやがて進化を遂げて共生をする(相手にも利益を与える)ようになるのだが、いまは無明の迷いを過ごしている。迷いのときを過ごしているけれども、仏教的な考えに即せば、これもまた立派なかけがえのないいのちであることに変わりはない。
故に病んだ者、病原菌によってむしばまれている者は仏教で説くところの自己犠牲(サックリファイス)を無意識下において実行している者である。彼はこの功徳を以て来世には仏陀となるであろう。病者の死はしたがって利他の実践の証明である。誰もが見捨てて顧みなかった極微の悪玉の病原菌にすら慈悲を覚えて自己を捨身したのである。病者の死は、したがって崇高な菩薩の実践である。
わが弟が病に苦しんでいる。苦しんでいる弟を見るのは忍びない。悲しい。辛い。だが、弟の表情にはこれがない。おだやかである。痛み止めの薬が効かなくなったときには苦悶をしているが、じっとこれに耐えているようである。ああ、立派な弟だと思っている。苦しい時を過ごしているが同時にダイアモンドのように黄金に輝く自己凝視の時をも過ごしている。体の諸器官がすでに病原菌に冒されていてぼろぼろになっているようだが、彼は睡魔から逃れ得たときには、仏教書を読んで安心を勝ち取ろうとしている。弟は、本人はそれと意識をしてはいないだろうが、自己犠牲(病原菌をいのちあるものと見做してこれを生かす実践)に身を投じて菩薩行を実践しているのだ。病原菌はこの人間の大いなる功徳を以て次生にはもっと向上を果たして行くだろう。そんなふうにも思えて来たのだった。
これはしかし間違った推理かも知れない。菩薩行をして来世に仏陀と成るよりもこの肉体の現世を元気で長生きする方が、誰人であろうと、よほどよほど強く願われていることに違いないのだから。