男子バレー日本対エジプト戦を見ています。ダイナミックだなあ。ランキングではエジプトが上位のようです。1セットを日本が勝って、いま2セット目。15対12で3点のビハインドです。19歳の石川選手が大活躍しています。頼もしいなあ。
幾つになっても「僕」でいられる。一人称の「僕」を古稀を迎えた僕が自称している。ちょっと不思議だ。呼称の「僕」は年を取っていかない。いかないでいいようだ。どうしてなんだろう?
水に影ある旅人である 種田山頭火
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行く川がある。川の水は深い。橋の袂に立って深い水を眺めているとそこに黒い影が映った。行乞衣を着ている男の影である。影は風が吹く度に消えてなくなっていく。次の川に出た。ここにも影が映ったがまた風によって消されてしまった。何処まで旅をしても男の黒い影は消されていくだけであった。
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僕は今生きています。でも、そうでなくなるときがやがて訪れます。そのときになると、「僕は今生きている」という実感が得られなくなります。ですから、今を生きているという実感をするなら今です。そういう計算が成り立ちます。
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でも、その計算が間違っているということもありえます。
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未来永劫、その都度その都度そこでの今を生きていくことができるとするなら、どうなるのでしょう? 生の舞台が新しく転じていくだけだとしたら、どうなるのでしょう?
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そうだとしたら、永遠に永久に「僕は今を生きています」「今をかがやいて生きています」を言い続けていけるのかもしれません。
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大空がそうしているように。星々がそうしているように。みな明るくかがやいて生きているように。
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未来永劫そうだとしたら? 嬉しいですよね。
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嬉しいのなら? 未来永劫の中の1点の、現在地点である「今」を明るくかがやいて生きていてもいいということになるはずです。よね。
密教付法第二祖である金剛薩埵(こんごうさった)を讃える呪
おんばざらさとば そぎゃあらかばん ざらあらたんのう まどたらんばん ざらたらま きゃやたいばん ざらきゃら きゃろはんば 真言宗経典「奠供(てんぐ)」より
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金剛薩埵よ、われらは金剛薩埵の慈悲のみ手に包まれて救われていますから、護念を得て、われら凡夫は直ちに無上の金剛宝(大日如来をとりまく四波羅蜜菩薩の一菩薩)となり、金剛薩埵と同位の仏体となることができます。いま薩埵の金剛不壊(こんごうふえ)なる呪を以て薩埵の教法を詠じます。どうか金剛不壊なる教法を受持するものとしてふさわしい修行を成就することができますように。(勝又俊教 訳)
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ここに真言宗の修行をしている人たちの経典である「奠供」を持ち出して来たが、さぶろうはこれが分かっているわけではない。決して分かっていない。ただ、これを詠じ持ち出してくることで、われら凡夫の金剛不壊(ダイアモンドのように堅くて壊れることがない)導きを感受する手立てとしたいだけである。
1,われらは慈悲のみ手に包まれている。
2,われらは護念を得ている。
3,われらは無上の金剛宝菩薩となっている。
4,われらは金剛薩埵と同位の仏体となっている。
5,われらは金剛不壊なる教法を受持している。
6,われらはこれによって金剛不壊の修行を成就して行くことができる。
7,われらは奠供を詠じるにふさわしい者である。
おお、おお、いずれもいずれもなんという力強い肯定宣言なのだろう。
わたしの後押しがなければこの世の一切はことごとく掻き崩れて無に帰して行く。そういうことはない。これでよかった。これでよかったと思います。わたしは怠け者です。後押しなんかできるわけがありません。どんなに怠けていても地球は回り続けて行きます。夕方になると日は沈みます。夜明けになると日が昇りだしてきます。わたしはぐうたらぐうたらを決め込んでいられます。お昼寝をしたいときにお昼寝ができます。ああ、よかったと思います。わたしがどんなに息を抜いても大丈夫です。最後の大きな息を引き取っても大丈夫です。この世がそれでがらがらと崩れてしまうことはありません。
また見ることもない山が遠ざかる 種田山頭火
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山を背にして歩いて行く。どんどん遠離っていくばかりだ。もう二度と見ることはないだろうと思って山頭火はふっと振り返った。ふるさとを遠く離れて行脚をしているが、そのふるさととて帰れるかどうかはわからない。いな、見ているどんな風景だってそうだ。遭っているどんな人だってそうだ。みなが一期を限りなのだ。歩いて来た道を振り返るな。先へ歩いて行け。われわれはみな開けていく新しい風景の中へ歩みを進めて行くしかないのだ。
先日の台風でめくれてしまった壁板を補修しに、知り合いの大工さん二人に来てもらいました。納屋の傍の小さな物置小屋のスレートも吹き飛んでいましたので、これも直してもらいました。一人は中学の同級生です。見るからに頑丈な体躯をしていました。彼は現役の大工さんです。うらやましいほどの元気ぶりでした。もう一人の方はわれわれよりもうんと年上。年齢なんか気にしていないよとのことでした。この気合いが凄いなあと思います。
弟が有明海で獲れた魚を食べたいと電話をして来たので、仲間衆4人と連れだって東与賀のお魚料理屋さんまで行って来ました。クチゾコの煮た料理かれこれを食べてきました。弟も一尾の半分を食べました、おいしいおいしいと舌鼓して。味噌汁も付いていましたがそれも飲んでしまいました。どちらも塩辛いものなのでよくなかったのかもしれません。おまけに飲んではならないビールまで飲んでしまいました。食前と食後には薬を服用していました。そらからこれも弟がかねてから連れて行ってくれと言っていた与賀町の山口亮一記念館に行って絵を鑑賞しました。弟も水彩画を描くのでいつまでも興味深そうに見ていました。3ヶ月近く入院していて体力も不十分なので、これだけ連れ回したら疲れたかもしれません。心配です。
成就殊勝一切如来金剛加持三摩耶智 已得一切如来灌頂宝冠為三界主 已証一切如来一切智智瑜伽自在 能作一切如来一切印平等種々事業 於無尽無余一切衆生界 一切意願作業皆悉円満 真言宗経典「般若理趣経」より
(毘盧遮那仏は)殊勝の一切如来の金剛加持の三摩耶の智を成就し、已に一切如来の潅頂宝冠を得て三界の主と為り、已に一切如来の一切智智の瑜伽を証して自在なり。能く一切如来の一切印平等の種々の事業と、無尽無余の一切の衆生界に於ける一切の意願とを作して、作業皆悉く円満せり。
せいしゅうしゅうしょう いっせいじょうらい こんこうかち さんまやち いとく いっせいじょうらい かんでいほうかん にさんかいしゅ いしょう いっせいじょうらい いっせいちち ゆきゃしさい のうさく いっせいじょうらい いっせいいんぺいとう しょうじょうしぎょう よぶしんぶよ いっせいしゅうせいかい いっせいいげん さくぎょう かいしつてんまん
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世尊・大毘盧遮那(だいびるしゃな)仏はすべての如来の不変なる助力により、すべてのことを知る種々なる智慧を完成し、すべての如来の導きによって、この世の自在者となったことをあらわす宝冠を頭に頂き、三界の主となり、すべての如来の有する深い智慧を得て、深い禅定の世界に自由に至り、すべての如来が平等に司る働きを種々になさり、人間の世界のすべての願いを、余すところなく悉く完成された。 (渡辺宝陽 訳)
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「大毘盧遮那仏 一切衆生界 一切意願作業 皆悉円満」
大毘盧遮那仏(=大日如来)は、人間の世界のすべての願いを余すところなく悉く完成された。
さぶろうはここを提示したくて長々と経典の一部を引用した。ここを読んでくるととても嬉しくなるのである。さぶろうがしたことではなく、大日如来がなさったことなのだが、一切の衆生界が皆悉く円満成就しているということが嬉しいのである。さぶろうがしたことではないということも嬉しいのである。