眠くなってしまった。寝よう。寝たいときに寝る。このわがままが通せるさぶろう。
こりゃあ駄目だ。秋野菜の種蒔きができないで今日を終わった。思い切って朝ご飯後の、涼しい、一番いい時間帯を当てなきゃいけないようだ。昼間は、日が盛んになって暑くて外に出られない。夕方、日が翳るとサイクリングに出掛けたくなる。帰宅したらとっぷり暮れている。これじゃ、日延べ日延べになってしまう。霜が降りだしてきたら、成長が著しく鈍ってしまうから、それまでに太らせておく。これが大事なことだ。よし。明日の朝はさっそく実行に移そう。ラジオ体操の後、仏壇で読経。これは短縮できない。その後のブレックファストを早く取り掛かればいいかもしれない。そして農作業用に着替えて外に飛び出す。そうすりゃ、念願の種蒔きができる。新しく買い込んできた珍しい種ばっかりが増えている。怠けてはおられないぞ。
6時50分、サイクリングから戻って来ました。弟の入院先の病院へ行きました。往復の走行距離は25・5kmでした。行きがけの方が余計疲れました。帰りは行きよりかスピードが出せました。どうしたことだったんでしょう。落日が山の端に落ちて涼しくなっていたからかもしれません。行きも帰りも、トラックに追い立てられないで済む小さな道ばかりを選んで走りました。弟は読書三昧していました。調子がいいのでしょう、明日は一時帰宅ができるようでした。よかったよかった。
不甲斐ない男だ/だらしない男だ/やたら/さみしがる/こんなときこの男は/美しいこころの珠子に/逢いたくなる/何処にもいない珠子に逢いたくなる/そしてますますさみしがる/不甲斐なくなる/だらしなくなる/珠子に逢えないで苦しがる/
日が翳って来たようです。さあ、これからサイクリングに出掛けてきます。これは麻痺の足のリハビリにもなります。約1時間かけて弟を見舞ってきます。帰りは上り坂になるので1・2倍くらい余計にかかります。祇園山あたりから<昼どうこ>が鳴いているのが聞こえて来ます。さみしいのでしょうか。
見ても見ても/見ていない/と言うさぶろうがいる/見ないでなんかいられるはずもないので/見て見て見て/見続けているのに/それでも見ていない/と強情を張っているさぶろうがいる/空の仏が広がっている/さぶろうの頭上いっぱいに広がっている/夏の空には/いっそう激しく眩しく豊かに/光が行き来している/光の仏が行き来している/風の仏が/さわさわさわと吹いて来て/さぶろうを涼しくさせている/
念念見諸仏 我等愚痴身 曠劫来流転 今逢釈迦仏 善導大師「帰三宝偈」より
ねんねんけんしょぶつ がとうぐちしん こうごうらいるてん こんぽうしゃかぶつ
念々に諸仏を見たてまつらんことを! 我等は愚痴の身なり 曠劫よりこのかた流転したれども 今は釈迦仏に逢へるなり
仏さまを念うたびごとに、仏さまを見たてまつることができますように! わたしたちはどれほど長くこう思い詰めてきたことでしょう。わたしたちは愚かで浅はかなために久遠の昔から流転輪廻を繰り返して来ましたが、此処で今やっと釈迦牟尼世尊にお逢いすることがかなったのでありました。嬉しいことでございます。嬉しいことでございます。此処で今やっと釈迦牟尼世尊に逢って阿弥陀仏の教えを聞くことができたのでありました。
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念念見諸仏。仏さまのことを念うたびに仏さまを見たてまつること。それが今かなっているのでありますが、かなっていても猶、猶々、見ないで過ごしているとすれば、これは悲しいことであります。でも、間違いなく見ているのであります。わたしたちは見ているのであります。仏さまを間近に見ているのであります。仏さまの大悲のはたらき、大慈のはたらきを目の当たりにしているのであります。
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さぶろうは今日はここをかみしめています。曠劫よりこの方ずっとずっと愚痴を通し、荒野を彷徨(さまよ)って来たのですから。流転に流転を繰り返すのみで仏陀の教えを聞くことを避けて避けて来たのですから。
詩「そのようになったのでありました」
風が/言うのであります/わたしは仏さまのこころにかなうようでありたい/と言うのであります/今度は/空が/言うのであります/わたしも仏さまのこころにかなうようでありたい/と言うのであります/今度は/雲が/言うのであります/わたしも仏さまのこころにかなうようでありたい/と言うのであります/今度は/山が/わたしも仏さまのこころにかなうようでありたい/と言うのであります/今度は/海が/わたしも仏さまのこころにかなうようでありたい/と言うのであります/今度は/光が/来て/かがやいて/わたしも仏さまのこころにかなうようでありたい/と言うのであります/
そして/みな/そのようになったのでありました/みな/そのようになったのでありました/そのようになったのでありました/天と地のなにもかもすべてがそのようになったのでありました/
与仏心相応(よぶっしんそうおう) (我は)仏心と相応せん 善導大師「帰三宝偈」より
わたしはこれから仏の心に応じてこれに適った者となりましょう。
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この後に、「広開浄土門」と続いているから、具体的にはこれをさしているものと思われる。すなわち、浄土に至る道を開いて二尊(=釈迦牟尼仏と阿弥陀仏)の教えを広く大衆に説き明かしてまいります。
十方恒沙仏(じっぽうごうじゃぶつ) 六通照知我(ろくつうしょうちが)
「ガンジス川の沙の数ほどもおられる十方の仏たちよ、どうか六通(6つの神通力)を以てわたしの行く道を照らして守っていてください」とお祈りになられました。
こうやって善導大師は浄土門を開いて行くことになりました。
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つくつく法師蝉が鳴いて夏の終わりを知らせています。今日のさぶろうは「与仏心相応」の句に強く惹き付けられています。「仏の心に適う者でありたい」といっても、さぶろうにできることではないのですが。
適う者であるためにはどうすればいいか? 善導大師はここで他力を説かれています。他力念仏を説いておられます。念仏の功徳によって、仏の方より何もかもそうせしめられていくのだ、と。
外はかんかん照りなのだが、家の中はそれほどに暑さを感じないでいられる。家の中のエアコンはつけないですむ。今年は秋が早く来ている。草むらには虫が集(すだ)いて鳴いている。トマト、胡瓜など実物(みもの)の夏野菜は終わったようだ。枯れて細くなって萎れている。
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終わった後のわたしはどうしているのだろう。終わった夏野菜からわたしのそれを想起してみる。
わたしはすでに肉体を離れている。それまでは身心の二人同行だったが、身(しん)は滅してしまって心(しん)だけになっている。
身のあったときの楽しみは、それが滅した後では体験できないので、すべて心だけで楽しめる楽しみになっている。悲しみもそうだ。身のあるときに味わった悲しみは身を滅した後ではすっかり掻き消えてしまっている。疲れることもない、病むこともない。エネルギー確保のための睡眠も無用になった。ベッドもいらない。家もいらない。
わたしはもはや物質世界に住むことはできなくなっている。わたしの心は、そういうわけで、非物質世界に移住している。ここには時間も空間もない。なくても自由自在だ。欲しいと思ったものはすぐに手に入るが、手に入らなくとも、困ることもない。だから、欲しいとも思わなくなっている。それほどに満ち満ちている。けっこうな暮らしだ。などと推理してみる。
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夏野菜が終わったら、代わって秋野菜の季節になる。こんどは葉物(はもの)根物(ねもの)だ。別種になる。別種のわたしはあるのか。ふっとそれを思う。あってもいい。あってもいいのかもしれない、などと思ったりする。