<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

あまえたい やさしくされたい

2014年06月02日 09時20分23秒 | Weblog
凜々しい若者ふうのヨウシュヤマゴボウを力一杯抜いてみた。ヤマゴボウという名は実を表していた。その根がほんとにゴボウの態を為していた。一番の屈強は痩せた老人の手に負えなかった。ついでに、その辺りに勢力を張っていた独活(うど)も切り払ったら、夏の空間が生まれた。淀んでいた空気が流れ出した。



夕食の後でこっそり饅頭を平らげてしまった。小豆餡子がたっぷり詰まっていた。血糖値が上がるのは必至だが、まあいい。甘い物も食べたいのだ。夕食時には中のビール缶も1缶飲み干した。このごろ食事療法の制約を解き始めている。体重が減っているから、減り続けてしまうのではないかという心配が先に立って来る。すると、食べてしまえということになる。「まあいいか」を連発する。体重を元に戻さないとそれより先に気力が衰えるような気がするのだ。



からだも甘い物を欲しがるが、こころはもっと欲しがる。甘い物を食べるこころは、甘える。夢でおっかあのようなやさしい人間を探し出してきては甘えたがる。その人に言葉におっぱいの匂いを嗅ぎたがる。レーベンスミルクの粉ミルクを溶かして哺乳瓶を銜えたがる。夢の中のわたしはまるで乳児幼児だ。赤ちゃん戻りの兆候かもしれない。甘えるということはやさしくされたいという根本欲求なのかもしれない。それはひた隠しに隠してきたものだけれども、歯止めの土塁堤防が崩れかけてきたようだ。



甘えたい。やさしくされたい。でも、それは現実をともなわない。現実は過酷だ。冷淡だ。だったら非現実を糖分過多にして甘んじているしかない。



今夜は蛍会を企画している。山里は蛍がやさしくしてくれるところだ。祇園山の麓を流れる小川に蛍が飛び交う。



気のやさしい仲間を呼んでいる。しかし、そろそろ雨が降り出しそうだ。雨蛙の鳴き声が高くなってきた。
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身体は一生手厚い貢献をしたのだ わたしに

2014年06月02日 08時17分58秒 | Weblog
天気はどうも下り坂のよう。どんよりした空が覆っている。昼過ぎから降り出すという予報も。気温が下がっている。ひんやりする。鼻水が垂れる。



今朝は畑で収穫したズッキーニの味噌汁だった。ズッキーニは全部で6株育てている。隆々としている。葉っぱの円陣の直径が1mを超えた。



南瓜と胡瓜の合いの子という感じだ。おいしい。毎朝早く起きた家族の者が蝶々の代役をして雄蘂雌蘂を受粉させている。



どういうふうに説明しようともことばの網には捕まるまいが、これは昨夜ひとりでしばらく思ったこと。割と強く。



人間は自分が人間の身体をしているっていうことにもっと大袈裟に感動感涙をしていていいのかもしれない。絶妙の仕組みをしている。



頭が首の上部に位置している。首の下に肩があって重たい脳を左右を釣り合わせて支えている。



遠望ができる高さに目があり耳がある。座ってできるように腰の下に排便口がある。



両手の先に指があって巧みに折れる。これで物がしっかり掴める。



ものを思うこころの組織をその全体にくまなく配置している。涙腺から溢れた涙が頬を伝って流れ下る。



こうした身体の機能の一つ一つのすばらしさもそうだが、それ以上に、それを超えていること。それがすべてわたしになっていること。



わたしがこれを譲り受けることができたこと。(それほどの信任を得ているのだ、わたしは)



しばらくお借りしているだけかもしれないが、それにしてもこれだけの高性能機械機器の操縦をわたしの自由意思に任されたということ、これは凄いことなんじゃないかなあ。



あなたの好きになさってください。わたしはあなたの意のままに従っています。と、わたしのからだがわたしに言う。



一つ一つを命令しなくともいいように自律神経が作用している。胃や腸がひとりでに動いている。



寝ているときにも体温が保たれている。心臓が打ち始めてからは止まったことがない。血液が体内をくまなく流れて新陳代謝をしてくれている。



あれこれ、乏しい知識でわたしのからだの善良ぶりを思いやってみた。そしてそれだけの善良の善意を思いのままにしているわたしとは、神ほどに崇高なのではないか、ということを。



やがてそのわたしの身体もわたしからやがて離れていくだろうが、一生涯、身体というこの神秘の器を我が物顔に保有していたことに変わりはない。この事実に胸を張っていい。もっと感動感激をしていい。



真夜中、わたしは手の平を滑らせて下肢上肢を撫で回してみた。それだけの身体の手厚い貢献を一生の間忝くしていながら、ではわたしはそれに報いてきたか。



疑問が湧きだして来る。来るけれどもそれは不問に付してある。身体がそれを突きつけてくることはない。



それを思いこれを思い、この老人はとうとう感涙してしまうのだった。
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