<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

仏陀を思っていてもさみしい

2014年06月09日 09時35分28秒 | Weblog
これから一っ走り阿蘇へ行きます。阿蘇の草原にはキスゲが花を着けているだろうから、それを見に。今日はそこで一泊してきます。

さみしい。

ときおりこの真空のエアーポケットに入り込む。人に会いたいが、やさしくしてくれそうな人がそうそう周りにいるものではない。いたとしても声をかける勇気は出ない。だったら断念するしかない。

草原に行って、こころの真空をキスゲに埋めてもらおうという魂胆だけど、図々しいかな、やはり。

人に声をかけられないのはどうしてだろう? 自分が相手にプラスになれるという自信が持てないのだ。会ってもその人はたちどころに気まずさを覚えてしまいそうで、心配なのだ。

で、やたら気を遣うことになる。てったって、相手を楽しくさせるような明るい話題があるわけではない。と、黙る。そして声をかけたことをきっと悔やみだすことになる。

どうしてやさしくされたいなんて思うんだろう? 人にやさしくしない人間がそうしてもらえるわけがないではないか。真綿であたたかく包んでもらいたいなんて欲望を、どうして軽々と起こすのだろう? そこは母親の胎内? 蚕の繭の中?

やさしくやさしくされていたい。まるで乳飲み子だ。愛情を欲しがる乳飲み子だ。気が狂っている。わたしは高齢だ。赤ん坊ではない。いい加減、悟り済ましていていい頃なのに、それをそうしていない。

じゃ、これまでは何をやっていたのだ、ということになる。何の修行をもしてこなかったことになるではないか。どんな進歩をも勝ち取ってこなかったということになるではないか。

阿蘇までは車で2時間~3時間は見ておかねばならない。途中は高速を使おう。山道に入れば、みちみち、ハーモニカで童謡を吹くのもいい。黙って雲を眺めているのもいい。

阿蘇は煙を上げているだろうか。牛は牧場の青々とした草を悠然として食んでいるだろうから、これをぼんやり見て、虚ろなこころの財布をなんとかやりくりさせることになりそうだ。

さみしい。仏陀を思っていてもさみしい。
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人間に相手にされなくなった人間は

2014年06月09日 09時14分18秒 | Weblog
インゲン豆の収穫。プランター作りのインゲン豆。これでけっこう実が実る。種を蒔くだけであまり手を取らない。葉も茎も虫に食べられない。柔らかくておいしい。油炒めにすれば青々と食卓を飾る。目のご馳走だ。

筋剥きもしなくていい。摘み出すとあっという間に手の平いっぱいになる。我が家だけでは食べきれないので、道行く人にお分けする。早め早めに収獲するといいようだ。

今朝も又、残っていた種蒔き用の種を、これもプランターに植え付けた。やがて発芽してくる。葉を伸ばす。茎が立つ。日々成長する。見ているだけでも楽しい。

インゲン豆には種類が多いようだ。わたしが育てているのは蔓なし。丸鞘。これに加えて長豆の三尺ささげを育てている。これは蔓があるので、しっかりした棚を作ってあげねばならない。

人間に相手にされなくなった老齢不細工人間はこうやって、つらつら、植物に遊んでもらうことができる。これで無心になれる。茂みを掻き分け掻き分けしながら、座椅子に座って草取りに精を出す。日は暮れってやっと腰を上げる。
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