<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

死ぬ覚悟はあるか

2008年03月17日 11時01分21秒 | Weblog
いつかは死ぬ。やがて死ぬ。明日かもしれない。今夜かもしれない。

    *

自分はその覚悟はできているか? 
できていようといまいとお構いなしに死は強行される。
それでいい。それがいい。

    *

やりかけのままで、仕事はうっちゃっておさらばになることになる。それでも
それでいいのである。

    *

やりかけているものは、今度生まれてきたときに回せばいいのである。

    *

いまと同じ肉体をもって再生することはできない。これは復活のイエスにしかできない。

    *

古い皮衣は脱ぎ捨てて新しい産着を用意されるはずであるから、そういうわけなら、
同じ肉体でなくとも心配はない。

    *

覚悟はあった方がいいだろうが、ない。感謝があればそれが覚悟だ。生きたことに対する感謝だ。

    *

こんなぐうたらをよくもまあ面倒見てもらったものである。
六〇年もの長い間、守られ導かれ、衣食住の世話をことこまかにしてもらったのである。

    *

悪いことのし通しだったのである。余罪も数え上げたらきりがない。あるわあるわ、だろう。
裁判にかけられたら、問答無用の無期懲役どころである。

    *

刑に服す覚悟はあるか。これもできていない。始末に悪い。そうだ、後始末も悪いのだ。

    *

感謝以前にすまないすまないである。詫びばかりである。

    *

それに、これまでしていただいたことのお返しもできていない。ひとつも。

    *

考えていたらとても死にきれない。でも、死ぬのは自分の力で死ぬのではないから安心である。

    *

生まれてきたと同じように、死なされるのである。
仏の慈悲の力によってわたしの死が完了するのである。

    *

じたばたじたばたすることもいらない。有り難い話である。こちらの力を問われない。
なにからなにまで無条件でいいというのである。死ぬが死ぬまで有り難い娑婆世界である。
   
    *

この感謝は、してもしても、してもしても、し尽くせないだろう。

    *

子曰く、「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」論語にこうある。

    *

論語の新解釈を敢えてやろう。愚かな者のわたしに合わせるための新解釈を。

仏教では聞法を説いてある。「道を聞く」だけでいいのである。
「道を実行する」となると、夕ではとうてい間に合いそうにない。

    *

道を聞く。そうだと頷く。それを信じる。わたしの場合は仏の道を聞くである。
この世に仏の道があることを信じる。
過去現在未来の三世にわたって仏の道が続いていることを信じる。

@ 大いなる道といふもの世にありと思ふこころはいまだも消えず  下村湖人
コメント
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