松山ケンイチと長澤まさみが初共演を果たし、連続殺人犯として逮捕された介護士と検事の対峙を描いた社会派サスペンス。
ある早朝、民家で老人と訪問介護センター所長の死体が発見された。死んだ所長が勤める介護センターの介護士・斯波宗典が犯人として浮上するが、彼は介護家族からも慕われる心優しい青年だった。検事の大友秀美は、斯波が働く介護センターで老人の死亡率が異様に高いことを突き止める。取調室で斯波は多くの老人の命を奪ったことを認めるが、自分がした行為は「殺人」ではなく「救い」であると主張。大友は事件の真相に迫る中で、心を激しく揺さぶられる。
斯波を松山、大友を長澤が演じ、鈴鹿央士、坂井真紀、柄本明が共演。作家・葉真中顕の小説「ロスト・ケア」をもとに、「そして、バトンは渡された」の前田哲が監督、「四月は君の嘘」の龍居由佳里が前田監督と共同で脚本を手がけた。(映画.comより)
<2023年3月26日 劇場鑑賞>
正直、辛かった。最初こそ、献身的な介護士松山ケンイチと、その仲間の女性たち、そして介護される側のお年寄りとその家族の描写が続き、よく気が付いて真面目な松山ケンイチに、誰もが好感を持つスタートなのですが、その後に展開される介護に関するあまりな現実には、頭ではわかっているつもりでいても、衝撃を覚えずにはいられませんでした。冒頭には、検事役の長澤まさみが、なぜか死後3か月(だったと思う。間違っているかも)経って発見された独居老人の部屋を訪ねて来る描写が挿入されます。が、その時点では、どういう関連があって、何を表すのかは全くわかりません。
それで、優しい松山ケンイチは、若い女性の同僚からも憧れられる存在だったわけですが、ある時、彼らの顧客だった年配男性が亡くなっているのが発見されます。そして、同時にその男性の家で、介護施設の施設長、つまりは松山ケンイチをはじめとする介護士たちの上司ですね、彼も死んでいるのが発見されるのです。なぜ施設長が、深夜に患者さんの家で一緒に死んでる?そこから捜査が始まります。美人検事長澤まさみの出番です。
結論は、チラシ・ポスターにも書かれている通り、「なぜ彼は42人もの人を殺したのか」ということで、犯人は松山ケンイチなのですが(厳密に言うと、施設長は事故死)、そこへ行きつくまでの話に、慟哭を禁じ得ませんでした。そして、同時進行で、パリっとした長澤まさみの、認知が進む母親の姿も描かれます。松山ケンイチの父親は柄本明、長澤まさみの母親は藤田弓子が演じます。柄本明の名演、すごすぎてたじろぐほどでした。また、どんどん認知が進む藤田弓子の、歌を歌いながらの、娘の頭をなでて「よしよし、よしよし」というセリフ。涙が止まりませんでした。「お母さん・・・」私も、長澤さんと同じセリフを言ったでしょう。
もちろん、彼らの他にも、たくさんの登場人物があらゆる背景で描かれます。果たして、家族は”呪縛”なのか。最後まで変わらぬ愛情を注ぐべき存在なのか。もちろんそうでしょう。見殺しになど、できるはずはありません。しかし、3人の育ち盛りの子供と、夫の店の手伝い、介護がすべて女性に対して重なった時、どうすれば?しかも、夫の親ではなくて自分の親だったら、夫に「(店の手伝いは)できません」と強く切り出せる?また、シングルマザーで、同じく子育て・親の介護などすべてが重なった時、まだ若くてやり直せる年齢でも自分のことはすべて置き去りになってしまう、それでも仕方ない?仕方ないんでしょうね。でも、ふいにそこで親が年相応に亡くなって、自分の時間が持てたら?また、アルバイトができないほど親の介護の負担が大きくなり、3食も食えなくなって、思い詰めて「生活保護」の申請に行っても「あなた、若いのに働けるでしょ。もう一度トライしてみて。たくさんの人が並んでいますから。はい、次」とけんもほろろに言われてしまったら?次はどこへ行けば?役場の人の言うことにも一理あるのはわかっています。いい加減な気持ちで申し込む人もいるだろうし、誰がどこまで深刻か、なんて受付だけではわからないでしょうし。誰が悪いわけでもないところが、一番難しい。
無用な長生きはしたくないと、誰もが思っているはず。しかし、あちこち悪くなって動けなくなっても、なにもわからないようになっても、生き延びてしまえば仕方ない。この映画は、尊厳死に関しては何の言及もなかったけれど、個人的には、もう少し自分の意志があるうちに、我が息子がわかるうちに、手が打てるようになればいいな、と思います。