銀河夜想曲   ~Fantastic Ballades~

月が蒼く囁くと、人はいつしか海に浮かぶ舟に揺られ、
そして彼方、海原ワインのコルクに触れるを夢見、また、眠りにつく……

“ 崖の上のポニョ ” 情報・その2

2007年03月27日 23時57分37秒 | 宮崎駿、その人と作品
今夜22時にNHK総合で放送された『プロフェッショナル 仕事の流儀』にて、“ 崖の上のポニョ ” を制作する宮崎駿の姿が1時間に渡って流れた。



新作映画の件に触れる前に、気になった点を幾つか。

カメラが回っている時は、これまでほとんど「僕は」と言っていた宮崎駿だが、今回の番組内の初めの方では「俺は」と口にしていた事にまず驚いた。晩年にカメラの前で同じ単語を発していた手塚治虫に対して抱いた気持ち同様、彼には「俺」という言葉が似つかわしくない(あくまで個人的な感情だが…)。
もう1つ、年を大分経てきて握力が弱くなってきている証だろうが、自動鉛筆削りを使っていた事にも目を奪われた。以前の宮崎駿なら、カッターやナイフで鉛筆を削っていた姿を目にできたのだが。そして更に、鉛筆の濃さがHBから5Bへ移ったというナレーション及びその映像についてだが、彼が常に濃度の高い鉛筆を手にしているとしたら、これも紛れもなく老いによるものだろう。



さて、本題の新作映画について。

“ ポニョ ” の舞台は7、8割が海で、且つ、水彩画やパステル画風の手書きで表現するというこれまでの情報だったが、その子供が描いたような簡素な画風を今回多く目にして、もがきながらも確かに新しい表現法に挑んでいるのだなと感じた。
しかし絵の上での新たな試みという点で論じればこれまでのジブリ作品( “ おもひでぽろぽろ ” や “ となりの山田くん ”、そして “ ゲド戦記 ” )で試みられており、故に、宮崎駿がロンドンのテート・ギャラリーを訪れてジョン・エヴァレット・ミレイ(Sir John Everett Millais)作の “ オフィーリア ” を始めとする一連の絵画に触れたが為にこの度の新しい表現法を模索してそこに辿り着いたと、制作に関わっていないこちら側がこの理由だけで早計していいものだろうか。

“ オフィーリア ” は僕の大好きな絵画なので画面に登場した時は正直驚いたが、宮崎駿自身はテート・ギャラリーを訪れるまでもなく、ラファエル前派やバルビゾン派、印象派、またそれ等以前における油絵の緻密な描写・画風は絵の才能に長けた彼なら既に熟知しているはずである。実際に本物の絵画を目の当たりにした事により、「自分たちがやってきた微細な表現はある種において行き着き、これ以上同じ方法論を辿っても意味を為さない(同じ事だ)」といった感慨を強めたのは確かかもしれないが、その中段あるいは上段ぐらいまでの想いは予てより抱いていたはずである。何故ならば、それに関連する発言は書籍や映像でこれまでにも少なからずあったからだ。
上記に掲げたジブリ作品の前例を受けて、また、今春公開されたアレクサンドル・ペトロフ監督の “ 春のめざめ ” にも刺激を受けてか、この度の挑戦には並々ならぬ決意の程が窺われるし、老いても尚前進しようとする覇気は若い作り手が見習うべくして見習うもので、彼自身年齢を重ねる事で漂う気配の凄みが増したようでもある。

瀬戸内の知人宅における篭もり様、またその際の不機嫌さは創作家としての本質であると思うが、その様子を撮っていたディレクターに、宮崎駿の作品を生み出す道程、その苦しみ喜ぶ様を引き出し、そしてそれを映し出す才が乏しかったように思われるのは残念であるものの、今作のタイトルにある『崖の上』で孤独と対峙しながら制作準備に取り掛かっていた事が、どうしても意味深長に感じられて仕方ない。物語のキーは、やはり『崖の上』なのだと思う。

映画の冒頭、ポニョに父親らしき存在がある事、本作での山場のカット、これ等が公開前の現段階で披露されたのはファンとしては願ったり叶ったりだが、本編が衆目に晒されるのは来年の夏なのでまだまだ内容は改められるかもしれない。前回の記事で1時間半程の中篇になるかもしれないと勝手な考えを綴ったが、今日の1時間番組に触れてみて、それ以上の規模の作品になるかもしれないとも感じた。
人間になりたいと願うポニョが人の姿になっている絵も公開され、となるとポニョを含めた登場人物の飛行シーンも、宮崎駿の中では自然と連鎖想像されていってるのではないだろうか。



「本来不機嫌な人間でありたいが、それでは(人として)ならないから笑顔でもいる」、「子供が観て面白くないと感じる映画を創りたくない」、「脳みそに釣り糸を垂らす」、「風呂敷を広げる」、更には煙草の量と頭を掻き毟る仕草等々、宮崎駿らしい言動が多々見受けられたのには一種の安堵感を覚えたが、イメージ・ボードや絵コンテ、作画に向かっていて「違うな」という言葉を何度も発していたのには、これも本文序盤で記したように多少の驚きを伴った。どこが痛いといって右脳が一等痛いと答えた彼からも晩年の影が確実に差しているのが如実に知れてしまったが、決してそれが茫洋としたまま終わる事にはならないのは、これまで幾多の作品にて膨大な模索を繰り返し、そのどれもが秀逸な作品として実らせてきた宮崎駿であるから、仮に今後も思索・志向において若かりし頃以上に時間を費やしたとしても、その辺りの決着の仕方は心得ているはずである。

“ 崖の上のポニョ ” がどういった作品に仕上がっていくのか、これからも期待しつつ見守っていきたい。





ショパンのピアノ

2007年03月23日 02時33分27秒 | クラシック音楽
【ロンドン21日時事】
ポーランド出身の作曲家ショパン(1810~49年)が最後の演奏会で使用し、没後150年以上もの間、行方が分からないままだったグランドピアノがこのほど、英国で見つかった。
ロイター通信によると、スイスの音楽研究家が調査を実施。英国人収集家アレック・コベ氏が20年前にオークションで購入したピアノが、1848年にショパンが生前最後となる演奏旅行で英国に持ち込んだものであることを突き止めた。ショパンは英国を離れる際にこのピアノを売却し、翌年パリで死去した。 

以上、[時事通信社]より



ショパン最後の演奏会で、彼が最後に演奏した曲目は一体何だったのだろう? 自作曲なのか、他人の曲なのか…。いずれにせよ、この時のショパンの弱々しいピアノの音に耳を澄ました聴衆はほとんどいなく、この日の行事全体の模様を伝えた新聞に、ショパンの名前は見当たらなかったそうである。

叶う事のない願いであると分かりつつも、そのピアノ(トップ画像のもの)に触れてみたい。
上記コンサートのプログラムがもし判明したら、現代の健康体で実力あるピアニストに、大作曲家が果たせなかった当時の想いを強く奏でてもらいたい、そう夢想してしまう…。




“ 崖の上のポニョ ” 情報・その1(速報)

2007年03月19日 21時16分43秒 | 宮崎駿、その人と作品
宮崎駿監督の新作の詳細が、今夕、日本テレビ系列の『NNN News リアルタイム』内にて流れ、また東宝もその詳細を発表した。タイトルは “ 崖の上のポニョ ”。来年の7月に公開予定との事。

瀬戸内海を思わせる海沿いの町を舞台にしたオリジナル作品で、バケツの中で生きながら「人間になりたい」と願う金魚(監督は金魚姫と呼んでるらしい)ポニョと5才の男の子・宗介の話で、可愛い恋物語のようになるらしい。 宗介という名前が古風に感じられるが、もしかすると “ となりのトトロ ” のように時代設定が現代ではないかも知れない。

2005年春に住んだ瀬戸内の風景を宮崎駿が気に入って海辺を舞台に選んだとの事で、また、彼の息子である宮崎吾朗が5歳だった頃の事が基になっているらしい。一方、本作でのポイントは宗介のお父さんとお母さん、そしてタイトルにもある『崖』、との事。
今回は作画でPCを一切使わず、水彩画やパステル画風の手書きで表現するそうで、鈴木敏夫プロデューサーは「7、8割が海が舞台。手書きでどんな海や波が表現できるのか。それが監督の挑戦」と語ったそうだ。

まだイラスト一枚のみの公開で、とある方が撮った画像を拝借してここに載せるが(御本人の承諾済み)、これを見る限り、ポニョになかなかの存在感があるように思う。


更に現時点での、あくまで勘だが、“ トトロ ” のように1時間半程度の中篇になるような気がする。

詳しい話の筋や声優陣等が明らかになるのはまだまだ先になると思われるが、今月27日22時にNHK総合で放送される『プロフェッショナル 仕事の流儀』で宮崎駿の特集があるので、新作についてまた何かしらの情報が流れるかもしれない。

長らく待たれていた今作、タイトルに『の』が2つ付くのは “ もののけ姫 ” 以来である。“ ゲド戦記 ” の監督を担った息子に対して、宮崎駿がどういった『応戦』をするのか非常に楽しみである。




カラヤン&ベルリン・フィルによる “ 運命 ”

2007年03月15日 23時33分57秒 | クラシック音楽
81年の生涯を送ったカラヤン、彼の指揮した “ 運命 ” の録音が幾種に上るか定かでないが、このYou Tubeからの演奏(第1楽章及び第2楽章)は観ていて(聴いていて)飽きない。

1966年ベルリン・フィルとの共演、との事だが、情報が正しければ当時カラヤンは58歳、老年の初期段階に差し掛かった時期である。とはいえ演奏自体は曲が持つ爆発力と推進力を余すところなく表現していて文句の付けようがないくらい素晴らしく、ティンパニの強打は殊更機関銃の如くで、当指揮者の老い始めた身体を微塵も感じさせなく、それどころかオーケストラを掌握する力が最盛期だったのではと思わせる程だ。

そして更に、上記事項に負けず劣らずこの映像演出に心が釘付けになる。とりわけ第1楽章における、カラヤンの両手を画面手前にアップさせてその奥にオーケストラを映し出している様(1分23秒から)は、何かドイツやロシアのモノクロ映画(例えばフリッツ・ラング監督の作品)の断片でも観ているようだ。
また同楽章を含め、他楽章においてもチェロ群とコントラバス群を斜め横から撮影している箇所があり、1列並び通したその奥行きを感じさせる手法(近影さ)が非常に斬新である。管楽器セクションは棚田のように高く段を組み、オーケストラ自体が180度以上に広がっているポジショリングも面白い。

1966年といえばカラヤンがベルリン・フィルを率いて2度目の来日公演を果たしている年であり、4月12日に東京文化会館で、4月29日に広島市公会堂で同曲を演奏しているが、同年のライヴと映像作品としての演奏ではどれだけ差異があったのか興味津々ではある。そうは言っても前常任指揮者であったフルトヴェングラーが、亡くなった年の1954年まで当楽団を振っていた事を鑑みても、当時はまだ古き良き時代の厳粛さ(指揮者にもオーケストラにも備わっていた動かし難い威厳)が確かに息衝いていたと言っていいだろうから、両者にそれ程の隔たりはなかったかもしれない。

さて、調べたところこの映像は、恐らく、サスペンスやフィルム・ノワールで有名なアンリ=ジョルジュ・クルーゾー(映画監督・映画プロデューサー・脚本家)が撮ったものだと思われる。

このクルーゾーが監督した主な作品は Wikipedia によると11本あって、そのいずれの作品も鑑賞した事はないが、ヴェネチア国際映画祭でグランプリや監督賞を受賞し、更にはカンヌ国際映画祭でグランプリ、ベルリン国際映画祭では金熊賞をも受賞した経歴があるとの事なので、いつか彼の映画を観てみたいと思う。
ともかく、クルーゾーが撮った映像だとはっきり判明した時点で、この本文は書き換えるつもりである。

ちなみに、第3楽章及び第4楽章はこちらで。第4楽章クライマックスでのカラヤンの指揮振りを目にしていると、渾身の力で以って曲を締め括ろうとする意気が良く伝わってくる。しかしそれは決して息巻いているという類のものではなく、耽美派と称された事もある彼の、一種独特な、汗臭さのない清冽な香りを多分に含んでいる姿、とも言えそうだ。




犬神モロの公

2007年03月05日 01時35分10秒 | 宮崎駿、その人と作品
映画 “ もののけ姫 ” のイメージアルバム、その9曲目に “ 犬神モロの公(きみ) ” という楽曲がある。これは本編では流れていなく映画の予告編のみで使用されたものなのだが、3分58秒という短さながらも圧倒的なスケール感が支配し、且つ尋常でない切迫感が満ち満ちている。更に2分16秒過ぎからは、風を切って疾走するような効果音が付与されていて、聴いている者の胸を一層駆り立てる(この曲の冒頭はNeowingで試聴できるので、興味を持たれた方はこちらで)。

当時、本編を鑑賞する前にこのアルバムを耳にしていた僕は “ 犬神モロの公 ” というタイトルにも拘らず、天狗や狐狸、はたまた異形の神々の荒ぶる様子を勝手に想像して興奮していたが、程なくしてこの曲が劇中では流れないと分かり、かなり残念な気持ちを抱いたものだ。
“ もののけ姫 ” を映画館で16回も観たのは、勿論作品自体に多大なる感銘を受けた事もあるが、その一方で、この楽曲で表現したテーマが作品のどこかに潜んでいはしまいかと躍起になって探していたせいもあるかもしれない。言わずもがな、モロ自身の複合的な性格は本編を目にすればそれと知れるものの、実はこの曲こそがモロのキャラクター性を一気に収斂したものではないか、と…。


とはいえ、もし僕がこの作品の演出(もしくは音楽演出)を担当していたら、タタリ神と化した乙事主の体躯に絡み取られてしまったサンを救助しに行くアシタカ、それを描くシーンで存分に使ってみたかったと想像して止まない。それだけこの曲には魅力があり、単に予告編の中だけで眠らせておくにはあまりにも忍びないのである。