銀河夜想曲   ~Fantastic Ballades~

月が蒼く囁くと、人はいつしか海に浮かぶ舟に揺られ、
そして彼方、海原ワインのコルクに触れるを夢見、また、眠りにつく……

生まれきて

2007年02月26日 01時51分01秒 | 散文(覚書)
生まれきて

泣かなかった者はいない

心に傷を負わなかった者はいない

過去を振り返った事のない者はいない

近い未来でも想像しなかった者はいない

手をつながなかった者はいない

眠りの中で奔放に駆けなかった者はいない

空を仰がなかった者はいない

生ける者の声を耳にしなかった者はいない



いいや

涙を流さずに去った者もいる

心に傷を負う事無く去った者もいる

過去という過去を持たずに去った者もいる

近くも遠くも未来そのものを抱かずに去った者もいる

手をつながれる事無く去った者もいる

眠ったまま去った者もいる

空の青さを目にできずに去った者もいる

己自身が声を立てる事無く去った者もいる



生まれきて

一体どれだけの

さよならを言うのだろう

生まれきて

一体どれだけの

さよならを聞かねばならないのだろう



睦まじく平行線を描く飛行機雲に憧れてみたりもするけれど

いつやら両者は霞になって

そして消え行く

さよならを見守る空だけが ただただ広く

空を映す海だけが さよならの響きの意味を知る



胸に しっかと生きる剣を従えているのなら

さよならを斬るのでなく

そこに轟き立つ波濤を浴びて

残された水飛沫の静かに流れる様を剣に映し

鞘の中に

己だけの海を静かに

強く湛えよ

そうして剣を手にする度に

蒼穹に海を投げ掛けよ



その剣を最後に抜く時

生まれきて良かったと

心底思えるだろう

飛行機雲に届かんばかりの華々が辺り一面に咲き誇り

剣の先端はようやっと

母なる大地の接吻を受け

刃先に煌く己が

また生きるのだから




生きてこそ

2007年02月23日 02時55分31秒 | 散文(覚書)
芽吹き始めた春

静かな気配を額に乗せ

山野の連なり

胸の鼓動

あなたの元に届けたい



雪は降り

いつ溶けたのか

小川の流れはゆるりと去り

いつか

またここに戻るのです



まばゆい緑はいつだって

生きてこそ

指間にふくらむシャボン玉はいつだって

生きてこそ



比翼の鳥は

あなたも



比翼の鳥は

わたしの

生きてこそ



雄渾な羽根を

あなたの元に



生きてこそ

万感の灯を分かち合えるのです




赤い蝋燭と人魚

2007年02月12日 03時42分12秒 | 絵本・童話・児童文学
作 小川未明
絵 酒井駒子
偕成社



小川未明の代表作として名高い “ 赤い蝋燭と人魚 ” は、いわさきちひろを含め何人かの絵本作家が絵を手掛けている。
その中にあって、この絵本は『幽玄』という言葉が非常に似つかわしく、酒井駒子の仄暗い世界観が文章と上手く溶け合い、また、見事に凝縮されている。原作の童話からして人間の業や人魚の感情起伏を鋭く描き出しているのだが、そこに酒井駒子の絵が挿す事で一層それは能弁さを帯びる。

何より特筆したいのは、物語冒頭における文章と、それに付帯する絵の頁配分である。これ程までに読者をドギマギさせる絵本もそうそうないだろう。原作からこの物語に触れた者としては、「よくぞこの手法で制作してくれた!」という思いにさせられる。
蝋燭の描き方もいい。とりわけ23頁で見られるその美しさには暫し目を奪われる。

荒れ狂う海と、沈静した海。そこに棲む生き物達の、声無き声。作品の全体像は物静かな気配であるはずなのに、酒井駒子のタッチはその感興だけを抱いて読み終えるのを許さない。本を閉じても、海鳴りに交じって底知れぬ、畏敬すべき魂が立ち昇ってくる。

心の奥まで轟いてくる、“ 赤い蝋燭と人魚 ” の傑作である。




“ 千と千尋の神隠し ” における電車のシーン

2007年02月02日 02時55分33秒 | 宮崎駿、その人と作品
映画 “ 千と千尋の神隠し ” には、電車(またはその音)と線路だけが登場する箇所が合計10シーンある。それ等を劇中の時間経過通りに挙げると、以下の様になる。



〈1〉.(5分12秒過ぎから)
トンネルを潜ってステンド・グラスの光が差し込む空間に入った時、電車の走る音を千尋が耳にする。

〈2〉.(11分3秒過ぎから)
露店にて食い物を頬張る両親を残し、1人千尋が油屋に架かる橋に立って何気なく下を見るとそこに線路があり、丁度通りかかった電車を目にした千尋は思わず「電車だ!」と口にする。

〈3〉.(20分46秒過ぎから)
釜爺のいるボイラー室へ向かう木の階段に初めて差し掛かった時、その断崖絶壁さ故に油屋の壁伝いに歩を進める千尋の耳に電車の走る音が届き、そしてすぐ、眼下に電車が走り去る。

〈4〉.(42分23秒過ぎから)
湯婆婆と仕事の契約を済ませた千に、リンが「お前、上手くやったなぁ」と話し掛け、それに対して「足がフラフラするの」と答えた千の表情、その直後のカットで湯屋をバックにして電車が走り行く。

〈5〉.(46分19秒過ぎから)
ハクに両親と会わせてあげると誘われ、豚舎へと向かう階段の途中で、千が電車の走る音を耳にする。

〈6〉.(1時間7分16秒過ぎから)
川の神様に風呂に浸かってもらう仕事を終え、その夜、欄干にリンと座りながらあんまんの様なものを食している際、千の眼下に広がる海の上をライトを照らしながら電車が過ぎる。


〈7〉.(1時間12分19秒過ぎから)
カオナシが油屋の従業員に砂金をばら撒いている頃、千が欄干に凭れながら「お父さんとお母さん分からなかったらどうしよう」と呟いた際、海中に沈む線路が登場する。

〈8〉.(1時間37分8秒過ぎから)
銭婆の元へ向かうため、千がリンに大桶で駅へ送ってもらい、その際の「こっから歩け」と言うリンに対して「うん」と答える千の会話の遣り取りの中で線路が現れる(厳密に言うと、この2つ前のカットのカオナシが青蛙を吐き出したところから線路は登場する)。
これ以降電車に乗り込むまで、「カオナシ、千に何かしたら許さないからな!」とリンが言葉を放つカットでも線路は登場し、またその直後の2カットにおいても海中浅く走る線路は美しく描かれている。そうして1時間38分0秒にて電車が画面に大きく映し出されてからは千とカオナシが共に車内に乗り込み、ここで寂寥感に満ちて儚げな、且つ瞑想に富んだ楽曲 “ 6番目の駅 ” が流れる。


〈9〉.(1時間45分15秒過ぎから)
千とカオナシを乗せ、『沼の底』駅に到着した電車が登場する。

〈10〉.(1時間53分37秒過ぎから)
銭婆の家へ千を迎えに来たハク竜、その背に乗って油屋へ帰る途中、自身とハクとの繋がりを思い出した千の遥か下に、細く長く続く線路とそこを走る電車が現れる。
ちなみに本当の名前を取り戻したハクと千の交感描写がある1時間54分11秒からは、線路と思われるものが2カット描かれている。



海原鉄道という、海上を幻想的に走る2両編成列車は、千とカオナシが銭婆の元へ向かう手段として物語上極めて重要なのだが、上記した様にその登場は10シーンに及び、実は千尋(千)のその時々の心情や状況の変化を隠喩的に物語っているのだ。

〈1〉においては、主人公の千尋が異界へ迷い込み、人間の住まう世界へは直ちに戻れなくなってしまった事の象徴として。

〈2〉においては、ハクとの運命的な再会を直前にした千尋が、以後、油屋に立ち入ってその場所と関わりを持っていく事の象徴として。

〈3〉においては、階段の高さとそこに吹く風に怖れ震えながらも、釜爺と対面しなければ当面の苦境から逃れられない象徴として。また、階段を駆け足で降り切った千尋はその事で図らずも慄きが払え、多少の不安と躊躇を胸に残しつつもボイラー室のドアを開けられるようになる。

〈4〉においては、湯婆婆と何とか無事に雇用契約を交わしたものの、両親と離れ1人身である事の現実感が俄に湧き起こり、不安と恐怖が胸を満たした事の象徴として。

〈5〉においては、昨夜から引き続く慄きと不安のために眠れず、布団の中で1人身を震わす千にとって両親と再会できるという一条の光が差し、またその直後において、ハクが心から信頼しても良い存在であると初めて認識できる、千の意識変化の予兆として。

〈6〉においては、油屋に来るまでは漠然と受動的に生きてきた千尋が1つの大きな仕事をやり遂げた安堵感に浸り、物事を達成する喜びと充実感を知った象徴として。

〈7〉においては、両親を心配しつつも以前程には悲観的でなく、また、ハクのもう1つの姿とその真相を知る導入として。

〈8〉においては、銭婆と対峙しなければ両親を救えないと腹を決めた千の心意気と、反面、車中ではやはり10歳の少女としては不安が胸を支配する事の象徴として。

〈9〉においては、とうとう引き下がれないところまでやって来た千と、その後展開される銭婆との対話における千の心模様の予兆として。

〈10〉においては、ハクとの縁・因果関係を如実に物語る象徴として決定的な場面であり、また、2人が共に本当の名前を取り戻した事によって一気呵成にクライマックスへ向かう予兆として。

と、以上の様に感じた次第である。これ等についてはあくまで個人的な推察にしか過ぎないが、とはいえ、電車(の音)並びに線路が現れる直前と直後では明らかに千尋(千)の心境や立場に多かれ少なかれ変化があるし、注意深く作品を鑑賞していれば早い段階でこう感じていた人もいるだろう。つまり、列車に関する描写は作品中ただ漫然と置かれている訳でなく、監督なりの計算があっての事だと推し量れるのだ。



当時宮崎駿は主人公が列車にて旅するところを、監督自身がまだかまだかと首を長くしながらそこに至るまでの絵コンテを描き進めていて、
「千尋(千)が電車に乗った時は、ようやく彼女がそこまで辿り着けたという気持ちでとても嬉しかった」
といった事を書籍等で述べている。それだけ宮崎駿は、千が電車に乗り込む場面に対して強い想いを抱いていたのだ。
しかし、作品中では比較的そのシーンは短くまとめられている。というのも、当初は車内においてもう1つのエピソードを挿入する予定であったのだが、それを描いてしまうと3時間を越える映画になってしまうという事で、止むを得ず(泣く泣く)割愛したのだそうだ。劇中では、途中立ち止まる駅にて意味深く感じられる影の女の子(ハクの様にも思われる影)が1人佇んでいて、それがもしかしたら割愛されてしまったエピソードの名残であるのかもしれないと、ファンとしては映画を観る度に好奇心・探究心をくすぐられるのだ。
僕が作家として立てる日が来たならば、いつかその挿話を自分なりに書き上げてこの作品へのオマージュとしたい、そう予々思ってきたし、その想いは歳を経る毎に強くなるのである。