銀河夜想曲   ~Fantastic Ballades~

月が蒼く囁くと、人はいつしか海に浮かぶ舟に揺られ、
そして彼方、海原ワインのコルクに触れるを夢見、また、眠りにつく……

いずくの友へ

2006年12月31日 22時00分11秒 | 散文(覚書)
今この歓心の音を

友よ

あなたはどこで聞いている

凍てついたとばかり思っていた観照は目を醒まし

夢向こうに見ていた華は互いに差し向かい

いつやら

凡ての頬に紅が差し

あまねく大気は鏡となって垣根を払う



生ける者の談笑が

味醂と醤油に混じって

この大夜を燃やしている

暦年の掉尾を飾って

この大地を揺るがしている



今この求心の原に立って

友よ

除夜の鐘は美しく

天空の星々は一等の高みにあって

わたしたちもその高みにありて

あまねく凡ては魔方陣の上に立ちて

早暁の草を食んでいる



友よ

またいつか会おう

その時まで

除夜の音を

除夜の音を

風上から鳴らしておくれ

握る鐘綱の音の限りに





プーランク 即興曲第15番 “ エディット・ピアフを讃えて ”

2006年12月24日 00時12分51秒 | クラシック音楽
この曲を初めて聴いたのは、全盲のピアニスト辻井伸行がテレビ番組にて演奏している時だった。それは正に、衝撃そのものだった。
それまでプーランクのピアノを含む曲は “ 2台のピアノのための協奏曲 ” と他幾つかの室内楽作品しか耳にした事がなかったし、かといってソロ・ピアノ曲まで聴いてみたいという思いは湧かなかった。

この作品は全15曲ある即興曲の中で、というより彼のピアノ・ソロ作品の中でも異彩を放っている。
調性はハ短調で、物悲しくもその感情に流され過ぎない颯爽さも持ち合わせている。ガブリエル・タッキーノが弾く世界感は、正にその様な感じである。

しかし勿論、ピアニストによっては雰囲気が変わる。
田部京子が弾いたCDでは終始落ち着いた、緩やかなテンポになっていて、冬の冷えた窓に群がった露たちが人知れずそっと集って流れるかの如く静かな気配・風合いで、焦心の詩情に溢れている。“ エディット・ピアフに捧ぐ ” と訳される事もあるこの曲を、彼女が如何に愛しているかが分かる閑吟の演奏だ。

ちなみにこの “ ロマンス ” と題された曲集、どれもこれもが際立った名演ばかりで、1人で物思いに耽りたい夜には一等優れた語り部となってくれる。

エディット・ピアフがシャンソン歌手で、その歌声を聴いた事がなくとも、その人となりを知らなくとも、この作品に接した途端に心は憂愁へと導かれる。作曲したプーランクは、この1曲のみでも充分に作曲家足り得る。

今1度、辻井伸行の演奏を耳に宿したいと思う今日この頃である。




マズルカ 第32番 嬰ハ短調 作品50-3  

2006年12月17日 23時47分24秒 | ショパン作品からのイメージ素描
遠い星

余韻氷

その欠片

ただ1つの音を

あぶみ骨に響かせて



新聞に刻まれた一文字目掛けて

短い月影になった

柄の長い錐

その机の下で

中指は漂い

母の様にいつまでも膝を摩る



窓から忍ぶ隙間風

素知らぬ顔しても見逃してはくれまい

夜天のプールはそこから馳せて来て

頬と鼻の間を泳ぐ



壊したくない静けさに

懐かしく幼い少年だけが誘われて

平気な顔して泳いでる

静かに波打つハンカチーフは

それでも窓辺の青を拭って

あるべきところへと

ひとり気ままにはためいて

その青を

失楽の想い出にする



静かなる虚空のダンス

目蓋をなぞる中指



机に刻まれた錐の文字が

ちろちろと燃える火が

ちおちおと揺れ

木の色を嗅ぎ過ぎた鼻は

いつしか火傷を負う



冬の夜の恥じらい

寝しなはまた訪れ

薪は折れた






敬愛なるベートーヴェン

2006年12月14日 23時59分13秒 | 映画
監督:アニエスカ・ホランド
脚本:クリストファー・ウィルキンソン&スティーブン・リヴェル
出演:エド・ハリス
    ダイアン・クルーガー
                (他)
音楽:マーク・アイシャム



<物語前半の粗筋>

“ 第9 ” の初演を4日後に控えた1824年のウィーン。楽譜が完成しない中、ベートーヴェンのもとに写譜師としてアンナが派遣されてくる。ベートーヴェンはアンナを冷たくあしらうが、彼女の才能を知り、仕事を任せる事に。尊大で傲慢なベートーヴェンだが、ただ1人の肉親である甥のカールだけは溺愛していた。しかしカールがその一方的な愛を疎ましく感じている事に気付かない。やがて初演の日が来た。難聴から指揮を怖れるベートーヴェンを助けたのはアンナだった…。



現在公開中の映画、“ 敬愛なるベートーヴェン ” を観てきた。クラシック音楽にまつわる映画だと、どうしても観たくなってしまう。

注)ネタバレの感想なので、これから鑑賞したいと思っている方は、この先を読まないで下さい。



エド・ハリスがベートーヴェンの狂人じみた傲慢不遜な性格と、彼の音楽に対する姿勢・情念といったものをなかなか上手く演じていたと思う。またその風貌は、現存する肖像画等からスタッフが緻密に練り上げた成果だろう、画面上に登場しても特別な違和感はなかった(実際のベートーヴェンはもっと汚らしい姿だったのだろうが)。


アンナ・ホルツを演じたダイアン・クルーガーは美しく、どこかのレビューにフェルメールの絵画を想わせるとあったが正にそんな感じで、衣装の効果もあるだろうが、陰影に富んだ映像の中でよく映えていた。




初めにこの作品の難点から言ってしまうと、全編が英語で通されるという事である。やはりベートーヴェンにはドイツ語で話してほしい。制作国がイギリスとハンガリーだから英語になったのだと短絡的には思えないが、ともあれこの点を気にしなければ、それなりに楽しめる映画ではないだろうか。



物語はフィクションだが、着想が女性監督から湧いたのか、アンナのベートーヴェンに対する敬意がメインであり、それは原題の “ Copying Beethoven ” からも窺える。故に、ベートーヴェンの耳の疾病にまつわる苦悩と対人への在り方、自身の楽曲に取り組む姿勢や音楽そのものに対する考えが劇中で描かれてはいるものの、それ等を重点として受け手が捉えてしまうと鑑賞後は消化不良になりかねない。



さて、この映画には他では見られないような手法がある。

ベートーヴェン自身の指揮による “ 第9 ” 演奏を物語の最後に置くのではなく、中盤に据える事によってその後のベートーヴェンとアンナの、ある意味落ち着いた関係が築かれた事を静かに物語っているという点である。一等盛り上がる “ 第9 ” 演奏のシーンをクライマックスに持ってくるのが常套手段であるはずなのに、この映画ではそれをしていない。これに不満や違和感を覚える人もあろうが、これはこれで巧みな演出であると思う。だからこそ、それまで人間的に心を通い合わせられなかった彼等がようやく互いに尊敬し、信じ合えるようになったその後をじっくりと丹念に描いてほしかっという想いで一杯である。
“ 大フーガ ” に着手したベートーヴェンの意図と作品そのものの世界が分からないアンナは、時を経た物語冒頭の、死の床に伏したベートーヴェンの元でようやく自分の内に “ 大フーガ ” を聴く事ができるようになるのだが、それまでの時間経過における彼等2人の様々な遣り取り、その心模様を観たかったと強く感じたのは僕だけだろうか。冒頭でアンナが馬車に揺られながら田園風景を目に流してゆく様が、“ 大フーガ ” の旋律と相俟って視聴側に強い緊張感と、一体これから何が始まるのだという期待感を持たせるのが実に印象的で良かっただけに(このシーンは青ないし青緑色を基調とした画像になっているが、次第に大きく揺れ動いてゆくアンナの顔や風光と “ 大フーガ ” の絡み合いを、この色彩が上手く取りまとめていると感じた)、長年孤独に苛まれてきた楽聖ベートーヴェンが “ 第9 ” 初演後にアンナを真の意味で身近に感じた時、また、恋人を捨ててまで作曲の道に身を投じたアンナの覚悟・決意が以前にも増して高じた時、そこからが本当のドラマとして花開いていくのではないだろうか。さすれば、死するベートーヴェンとそこに駆け付けたアンナの描写を序盤に据えた意義が出てくると思う。だから3時間並みの大作になっても良かったのでは、と思えて仕方ない。



また “ 第9 ” の場面そのものについてだが、耳の聴こえ具合がいよいよ劣悪になったベートーヴェンを助けるべくアンナが弦楽セクションの後方に座して、彼に曲の入りとテンポを指示するのがこの作品の最大の見所である。

アンナが実在しなかった人物で、且つこの様なシチュエーションが実際にはなかったと分かってはいても、2人の “ 第9 ” を成功させたいという想いが次第にこちらにも乗り移ってくる。殊にベートーヴェンが指揮する両の手の中にアンナの指揮する姿が入ってくるカットは、いささか演出的に過ぎている感もあるが、それだけに作り手側のメッセージが匂い立ってくる。
曲が終わりに近付く箇所で、彼等の顔をカメラが意図的に揺らしているが、これもまた2人の高揚感を醸し出すための演出として好感が持てなくもない。ただし、甥のカールが舞台袖で演奏に接し涙を流すのは蛇足に感じた。そこまで彼を物語の引き合いに出すのなら、後半にもう1シーンか2シーン、彼のエピソードを加えるべきである。



劇中流れる曲は、晩年のベートーヴェンを描いた作品だけあって後期の楽曲がメインである。“ 第9 ” をはじめ、“ 弦楽四重奏曲第14番 ” や “ 同第15番 ”、“ ピアノ・ソナタ第32番 ”、“ ピアノ協奏曲第4番 ”、“ 交響曲第7番 ”、そして “ 大フーガ ” 等、名曲が目白押しである。この作品に興味を持った方がいたら、是非とも臨場感ある劇場で観る事をお勧めする。



アンナという1人の女性写譜師を起用し、彼女を物語の軸に据えた事で、今までになかったベートーヴェン映画が登場したと断言できる。とはいえ、好みは様々に分かれるだろう。クラシック音楽やベートーヴェン自身に想い入れの強い人ならば全くの捏造だと批判するかもしれないが、新しい視点でのベートーヴェン像を作り上げたという(フィクションとしての)点においては画期的だったと思う。



以下、余談。

本編中指揮をするシーンはクリストファー・ホグウッドが監修を努めたそうだ。日本で公開される字幕スーパー版では、指揮者の佐渡裕とベートーヴェン研究の第一人者である平野昭が監修を行っている。
アンナ・ホルツは架空の女性だが、ベートーヴェン晩年の作品を写譜した人物の中にはカール・ホルツという似た名前の男性が実在したそうで、ベートーヴェンのお気に入りだった写譜師のヴェンツェル・シュレンマー(1823年没)には妻がいて、やはり写譜を手伝っていた。もう1人、“ 第9 ” の写譜を行ったヴェンツェル・ランプルもアンナのモデルになったとの事。




シンフォニック・オーダー

2006年12月13日 01時13分31秒 | クラシック音楽
mixi のマイミク、マトさんがやってらしたので、僕も考えてみました



<ルール>
・交響曲第1番~第9番まで、どの作曲家の交響曲が好きかを書く。
・野球の打順の様に、二重登録はしない(作曲家がダブってはいけない)。
・「DH」には10以上の作品、又は番号のないものを書く。


1番)カリンニコフ
2番)ラフマニノフ
3番)サン=サーンス
4番)ブラームス
5番)チャイコフスキー
6番)ドヴォルザーク
7番)ベートーヴェン
8番)ブルックナー
9番)シューベルト
DH)リスト:ファウスト交響曲


う~ん、至極まともな選出で面白味がないですね バランスはいいけれども。
大穴はドヴォルザークとカリンニコフ。今のところ、これ以外に該当する曲がないですね…。とはいえ、カリンニコフは名曲です 未聴の方には是非お薦めします ドヴォルザークの交響曲第6番はチョン・ミュンフン指揮ウィーン・フィルのCDを唯一持っています。
余談として、ハイドン、そして特にモーツァルトが入り得ないのが残念といえば残念ですね。シベリウスやシューマン、メンデルスゾーンも入れたかったけれど



これを曲の内容を加味した上(大曲度合いと内容の濃さ・充実性)で、実質的な野球の、個人的な好みの打順に組み替えると……


1番・ショート)カリンニコフ:第1
2番・セカンド)ラフマニノフ:第2
3番・サード)ベートーヴェン:第7
4番・キャッチャー)ブルックナー:第8
5番・DH)シューベルト:第9
6番・ファースト)チャイコフスキー:第5
7番・ライト)ブラームス:第4
8番・レフト)リスト:ファウスト交響曲
9番・センター)ドヴォルザーク:第6
ピッチャー)サン=サーンス:第3


クリーン・アップは、いかにも大砲を打ちまくりそうな感じですよね?(笑)
守備ポジションに関しては、もはやイメージが適当になっています ピッチャーは変化球主体になりそうな気配が…。



皆さんのシンフォニック・オーダーはどうなりますか?野球を知らない方でも、最初の組み合わせをやってみると悩みに悩んで面白いですよ




ちひろの絵・その5

2006年12月05日 01時36分00秒 | いわさきちひろ、その人と作品
暖炉の前で猫を抱く少女
1971年



だんだん だんろ

あったかろ

この子重くて ねむたかろ

パチパチ燃えてる 火の中に

わたしのあかぎれ

とんでゆけ



こっそり立った うさぎさん

わたしのえくぼに

雪のせて

ミー子に掻かれる その前に

どうぞお嫁に ゆきなさい



だんだん だんろ

あったかろ

明日がパチパチ 燃えている 

お目々もゆらゆら およいでる

小舟は だんろの

向こう側

あったかセーター

浮かんでる