銀河夜想曲   ~Fantastic Ballades~

月が蒼く囁くと、人はいつしか海に浮かぶ舟に揺られ、
そして彼方、海原ワインのコルクに触れるを夢見、また、眠りにつく……

ナウシカという人

2015年03月25日 12時31分51秒 | 宮崎駿、その人と作品
 『風の谷のナウシカ 』~『鳥の人』
You Tubeにupされたこの動画、映像の編集が非常に素晴らしい。
『ナウシカ』という作品を愛しているのが、とてもよく伝わってくる。



宮崎駿作品の中で何が1番好きかよく聞かれるが、順番は付けない。あえて付けない事にしている。
ただ、やはり『ナウシカ』は原作漫画も含め特別な作品。ナウシカこそ、実在して欲しい人物だからかもしれない。
もし今どこかに彼女がいるのなら……昼夜を問わず話を交わしたい、と。



鳥の人『ナウシカ組曲』より ~エレクトーン演奏~

Nausicaä of the Valley of the Wind ~『久石譲 in 武道館 宮崎アニメと共に歩んだ25年間』より~


以前twitterにも書いたが、『もののけ姫』におけるアシタカとサン。彼等の間にできた子どもの、ずっとずっと先の子どもがナウシカかもしれない、と夢想してやまない。きっと、いや、必ずやそうなのだろうと、自分の中では確信に近い思いでいる。

アシタカとサン………そうして生まれた子がナウシカ…





生きてこそ

2014年07月31日 03時02分57秒 | 宮崎駿、その人と作品

「Le vent se lève, il faut tenter de vivre」


生きていれば、夢であろうが幻想だろうが、カプローニにだってマーニーにだって、菜穂子にだって会える。それは、出会えた当人にとっては本物なのだ。

かけがえのないものに焦がれるとき、夏は、一瞬から永遠に変容する。
風が、十二ヶ月の遡りを耳もとでささやく。





“ 崖の上のポニョ ” イメージアルバム

2008年03月10日 23時49分41秒 | 宮崎駿、その人と作品
3月5日に発売になった “ ポニョ ” のイメージアルバムを、本日ようやく入手した。他にクラシックのCDを3枚購入したものの、暫らくはこのイメージアルバムばかりを聴き続けてしまいそうだ。



さて、内容はとても素晴らしいものとなっている。同じイメージアルバムで比較するなら、少なくとも、前作の “ ハウルの動く城 ” のイメージ交響組曲より印象深い。そして更に遡れば、当CDが全10曲中6曲が歌という構成なので、ほぼ似たような作りとなっている “ 千と千尋の神隠し ” のイメージアルバムを彷彿とさせるので、個人的には何とはなしにあの頃の、7年前の懐かしい想いに駆られる。



1曲目は、シングルで先行発売されている “ 崖の上のポニョ ”。これまでFMやその他の媒体で幾度も聴いてきたが、耳にする度に名曲だと感じられるし、いずれ近い内に保育園や幼稚園等で歌われていくようになるのだろうな、と思う。

3曲目の “ ポニョ来る ” は、滑るようなテンポとメロディーライン(ポニョが波に乗ってやって来るイメージか?)がなかなか面白い。

4曲目の “ 海のおかあさん ” でヴァイオリン・ソロを担当しているのが、何とあの豊嶋泰嗣。この1曲のみ参加しているようで、何とも贅沢なアルバムだと思う。しみじみとした、味わい深い楽曲。

5曲目の “ いもうと達 ” は、合唱コンクールのような雰囲気。恐らく劇中ではこのままの歌詞付きの形ではなく、インストに変えられた状態で流れるのではないかと想像される。

藤岡藤巻の2人が歌う “ フジモトのテーマ ” と “ 本当の気持ち ” は、大橋のぞみと共に歌っている1曲目とは声質も雰囲気も全く違い、70年代のフォークソングで聴かれるような哀愁が漂っている。

反対に、8曲目の “ ポニョの子守唄 ” では、大橋のぞみが1人で歌を披露している。これも “ いもうと達 ” 同様、映画の中ではインストとなって観客の耳に届くのではないだろうか。

そして、当アルバムの白眉は何と言っても10曲目の “ ひまわりの家の輪舞曲 ”。この歌は久石譲の娘である麻衣が歌っていて、宮崎駿作品のCDで彼女の歌声が聴けるのは “ もののけ姫 ” のイメージアルバム以来である。更に言うなれば、彼女は “ 風の谷のナウシカ ” の劇中にてナウシカ・レクイエム(「ラン・ランララ・ランランラン…」という歌)を歌った事で知られる(当時4歳)。
それはともかく、この “ ひまわりの家の輪舞曲 ” は1度聴いただけで泣けてしまいそうになる、そんな魅力を備えた名曲中の名曲だと断言して良いと思う。麻衣の声質とメロディーが相俟って、本当に素晴らしい。
この歌は映画のエンディングで流れるのだろうか…。歌詞の内容からしてそんな気がするのだが、もしそうなら、胸が詰まってスクリーンが滲んでしまう人が続出してしまうのでは、と勝手な想像をしてしまう。



ほとんどの歌詞に映画の内容に関する表現があるので、作品を真っ白な状態で観たい人は当CDを聴かない方が良いだろう。聴いてしまったら最後、今夏の公開が益々待ち遠しくなってしまう程に、趣向の富んだアルバムである。




“ ルパン三世 カリオストロの城 ” のインタヴュー

2008年01月14日 20時02分14秒 | 宮崎駿、その人と作品
1979年公開の映画 “ ルパン三世 カリオストロの城 ” はこれまで何度も観たが、本作における貴重な映像は今回初めて目にした。

このインタヴューは、現在日本テレビ系列で放送されている『金曜ロードショー』の前身番組である『水曜ロードショー』内で行われたもので、1983年に参議院議員選挙に出馬するために1度降板した水野晴郎の、その代役を務めていた愛川欽也によるものである(ちなみに彼が司会をしていたのは1983年8月10日から1984年8月1日まで)。

映像に接して感じるのは、とかく4者が4者共若い(当たり前だが)。
そして、愛川欽也がルパンと不二子の関係について宮崎駿に尋ねているが、その彼の返答が “ 紅の豚 ” におけるポルコ・ロッソとジーナの関係を髣髴とさせる。後者の作品においても宮崎駿は、「両者は一緒にはならない」といったような発言をしているからだ。“ もののけ姫 ” でもそうだが、別々の世界に(違った価値観の中で)生きる者同士を安易にくっ付けるような演出はしない監督なのだな、と改めて感じる(“ もののけ姫 ” の最後において、アシタカはサンに対して「会いに行くよ、ヤックルに乗って」とは言うが、その後がどうなったかは劇中で明らかにしていない)。

Wikipediaの中に面白い逸話を見付けたので、以下引用。
宮崎は、アフレコの際にルパンを演じている山田康雄に、おちゃらけたセリフを控えて、クリント・イーストウッドの時のような抑えた声での演技をするよう指示したが、ルパンの人気は自分で持っているという自負心のあった山田は「今さらごちゃごちゃ言われたくねえよ」などと横柄な態度で吐き捨てたという。しかし、試写を見終わった山田は、そのレベルの高さに態度が一変、「先ほどは失礼なことを申しました。どんな注文でもして下さい」と宮崎に頭を下げたという。
これを読んでから先のインタヴューを観返すと、また違った感慨が湧いてくる。




“ 崖の上のポニョ ” 情報・その4

2007年10月12日 23時58分40秒 | 宮崎駿、その人と作品
“ 崖の上のポニョ ” の主題歌を歌う歌手について、このほど発表された。以下、引用。



CDが映画公開に半年以上先立ち、12月5日に発売される事が発表された。主題歌の題名は映画と同名の “ 崖の上のポニョ ”。

歌うのは、中高年サラリーマンの悲哀を歌ってきたバンド『藤岡藤巻』の藤岡孝章と藤巻直哉(共に55歳)に、児童劇団に所属する大橋のぞみ(8歳)を加えた特別ユニット。


藤岡藤巻に関しては、公式サイトでこのようにUPされているので悪しからず(笑)。ちなみにこちらだと、3人一緒の微笑ましい画像が見られる。

まだ言葉がおぼつかない娘が歌っている側で、お父さんが一緒に歌ってあげるという設定。交互に歌う内に掛け合いのようになっていく。宮崎監督は「父娘がお風呂で一緒に歌っている様子をイメージした」という。

鈴木敏夫プロデューサーによると「最初は仮のつもりだった」という。
「とりあえずデモを作成しようと、大橋さんに歌ってもらったら、宮さん(宮崎監督)も久石さんもいっぺんで気に入ってしまったんです。イメージがふくらんだ宮さんは、『一緒に歌うお父さんの声が欲しい、たとえば藤巻さんはどうだろう』と提案してきました。迷ったけど、気心も知れているし、『駄目なら断ればいいや』とお願いしてみたら、これが意外と良かった」
と採用が決まった。
鈴木プロデューサーは、歌い込んだプロに依頼するべきか考えながら、“ となりのトトロ ” を思い出していたという。
「当時、お父さん役を誰に頼んだらいいか悩んでいました。というのも、プロの俳優さんにお願いすると必要以上に立派になりすぎて、リアリティーがなくなってしまうからです。むしろ、自分の方が子供なぐらい勝手な人の方が、それらしく聞こえるのではないかとコピーライターの糸井重里さんにお願いしたら、とても上手くいった。今回も、藤巻さんが歌うことによって、妙なリアリティーが生まれている気がします」
抜擢された藤巻は、
「正直言って驚いています。ジブリも無茶するなぁと思いましたが、自分の娘の一番かわいい時を思い出して歌えた」
と手応えを感じている様子。




12月に発売するのは、父親(ないし保護者)から子供へのクリスマスプレゼントとして見込んでいるからだそうだが、それにしても公開より半年以上前での発売とは随分と思い切った戦略。前回の情報で近藤勝也が作詞を担当したという事にも驚いたが、まさかこのような形での歌手起用になるとはこれも予想外。
曲は鈴木プロデューサーがパーソナリティーを務めるTOKYO FM『ラジオジブリ(仮)』(午後11時)の14日放送分で初披露されるとの事。妙なリアリティーが醸し出されているのか、まずは聴いてみない事には…。
一方で今、何とは無しの勘が働いたのだが、児童劇団に所属するという大橋のぞみが金魚姫・ポニョの声を担当するような気がしてならない。




“ 魔女の宅急便 ” より~ “ 海の見える街 ” ~ “ 風の丘 ” ~ “ めぐる季節 ” ~

2007年09月15日 22時16分50秒 | 宮崎駿、その人と作品
映画 “ 魔女の宅急便 ” では松任谷由美(荒井由美)の “ ルージュの伝言 ” 及び “ やさしさに包まれたなら ” の2曲が印象深いが、この作品を色付けるという意味合いで(例えるならキキの赤いリボンのように)重要な楽曲が他にもある。以下、試聴が可能。



サウンド・トラックより

第3曲 “ 海の見える街 ”


イメージ・アルバムより

第6曲 “ 風の丘 ”


ヴォーカル・アルバムより

第1曲 “ めぐる季節 ”



言うまでもなく、以上3曲は題名こそ違えど同じメロディー・ラインの曲。アレンジされて(楽器編成が異なって)いるか、歌詞が付けられて歌われているかの違いで、これだけ印象が変わるのである。
映画本編で流れているのは “ 海の見える街 ” のみだが、“ 風の丘 ” の0分10秒~同28秒で聴かれるピチカート部分が僕はたまらなく好きで、これまで一体幾度聴いたか分からない。また “ めぐる季節 ” では、“ ラピュタ ” 及び “ トトロ ” で歌声を披露していた井上あずみが、キキの(延いてはあらゆる少女にも当てはまるであろう)切ない心情を、映画そのものからは少し距離を保った形(CD)で優しく投げ掛けているのが何とも心憎い。無論、歌詞は後付けによるものだが、この短い楽曲の中に上手く四季を織り込んだと思う。
ちなみにハイテックシリーズにもイメージ・アルバムと同名の “ 風の丘 ” が収録されているが、こちらのアレンジはあまり好きではない。

You Tube で見付けた、映像編集がなかなか巧みだと思われる “ めぐる季節 ” に接していると、キキの心のアルバムを見ているようで、また劇場初公開年(1989年)当時から現在に至る自分の月日を情感豊かな波のように思い返させてくれるようで、実に感慨深い。




“ 崖の上のポニョ ” 情報・その3

2007年08月10日 23時40分01秒 | 宮崎駿、その人と作品
毎月10日に発行されているスタジオ・ジブリの無料冊子 “ 熱風 ”、その今月号にて、作曲家の久石譲が “ 崖の上のポニョ ” で使われる歌に関して記述している。
以下、引用。





宮崎さんとの最初の打ち合わせは昨年の秋だった。「子供から大人まで誰もが口ずさめるような歌を作ってほしい」という依頼だった。そのとき最初に思い浮かんだのは、“ となりのトトロ ” の “ さんぽ ” を作曲したときのことだった。声を張り上げて元気に歌える曲を、という依頼だったと思うが(20年前のことなので不確かだが)今回も同じ世界観なのだろうか? と考えた。
“ さんぽ ” は幸運なことに最初の打ち合わせのときに、「あるこう あるこう わたしは げんき」のメロディーが浮かんだ。密かに絵コンテの裏に五線を引いて書きつけた覚えがある。絵本 “ ぐりとぐら ” で知られる児童文学作家の中川李枝子さんが書いた詩、その言葉の持つ力強さが自然にメロディーを喚起したのだと思う。

--(中略)--

ところが、“ となりのトトロ ” から20年経った今、新しいアプローチでこの作品に挑もうと思った矢先、本当に幸運なことに今回もメロディーが浮かんできたのである。それも宮崎さんと鈴木さんの目の前で。「ポニョ」という言葉は新鮮で独特のリズムがある。「ポ」は破裂音で発音時にアクセントが自然につくし、「ニョ」はそれを受け止める『ぬめり感』がある。「ポ」から「ニョ」へはイントネーションが下降しているので、メロディーラインも上昇形ではなく下がっていくほうが自然だ。基本的にボクは言葉のリズムやイントネーションには逆らわない方法をとる。

--(中略)--

「ポニョ、ポニョ……」と何度か呟いているうちに自然にメロディーの輪郭が浮かんできた。もちろんこの2音節だけではサビのインパクトには欠けるので何度か繰り返す方法をとった。和音はできるだけ簡単なものがいい。いつもはテンションがかったモーダルなコードを好むが(ボクの場合はコードネームにはまらないものも多いのだが)シンプルで強くいくときは何も足さない3和音のほうがいい。和音の進行もシンプルなものを使用することにした。

--(中略)--

音楽の3要素であるメロディー、ハーモニー、リズムをそれぞれ決定して、その結果「ポーニョ ポーニョ ポニョ」は「ソーミ ドーソ ソソ」というメロディーになった。何のことかわかりませんね、これでは(笑)。さすがにシンプルすぎて、目の前にいる宮崎さんや鈴木さんにはそのメロディーを伝えずその日はジブリを後にした。
それから日々考えた末の3ヶ月後、年も明けた今年の2月、ボクはピアノと仮のメロディーをいれたシンプルなデモ曲を持ってジブリに行った。あのとき浮かんだメロディーは多少の変更はあったものの、ほぼ同じだった。宮崎さんと鈴木さんは気に入ってくれて(あまりの単純さに驚いたのかどうかはわからないが)、早速作詞に取りかかることになった。

--(中略)--

“ ポニョ ” の作詞は作画監督の近藤勝也さんが引き受けてくれた(補作は宮崎さん)。上がってきた言葉は擬音的な表現も多く、普通の作詞とは大きく異なっていたが、近藤さんが毎日何回も宮崎さんの前で歌いながら作ったせいか、言葉と音のリズムが妙に心地いい。レコーディングも無事終了した。
宮崎さんは日頃「最近は気軽に口ずさめる歌がない」と、言われているそうだが、この曲を宮崎さんの鼻歌で聴けることがあったらボクは満足なのである。





実はここに転載した以外にも、久石譲は山田耕筰の “ 赤とんぼ ” を例に挙げて言葉とメロディーの関係性について言及していたり、また、歌は音楽なのかという視点を皮切りにして、音楽が言葉に奉仕していた時代、反対に、言葉が音楽に奉仕せざるを得ない現況、つまりは配信やダウンロードで入手できる『お気軽な(言葉の力を失った)歌』に関してもやんわりとではあるが問題提起していて、少なからず興味深い。

しかしそれにしても、作詞を近藤勝也が担当したとは予想し得ていなかった。当然の事ながら宮崎駿自身が手掛けるものとばかり思っていたのだが、何か特別な理由があるのだろうか。補作という立場をとったのは、彼自身の監督作品ではないが “ 耳をすませば ” 以来である。

“ ポニョ ” のレコーディングは既に終わっているとの事。一体誰が歌ったのだろうか。ポニョ役の人物かもしれないが、その当の人物が大人なのか子供なのか、プロの声優なのかそうでないのかも今の段階では判然としない。
とにもかくにも強く推察できるのは、“ 崖の上のポニョ ” の主題歌と思われるこの歌が、“ となりのトトロ ” の公開から20年を経る来年、老若男女に親しまれるであろう愛らしさを伴って御目見え(御耳聴こえ?)するだろうという事である。





“ 崖の上のポニョ ” 情報・その2

2007年03月27日 23時57分37秒 | 宮崎駿、その人と作品
今夜22時にNHK総合で放送された『プロフェッショナル 仕事の流儀』にて、“ 崖の上のポニョ ” を制作する宮崎駿の姿が1時間に渡って流れた。



新作映画の件に触れる前に、気になった点を幾つか。

カメラが回っている時は、これまでほとんど「僕は」と言っていた宮崎駿だが、今回の番組内の初めの方では「俺は」と口にしていた事にまず驚いた。晩年にカメラの前で同じ単語を発していた手塚治虫に対して抱いた気持ち同様、彼には「俺」という言葉が似つかわしくない(あくまで個人的な感情だが…)。
もう1つ、年を大分経てきて握力が弱くなってきている証だろうが、自動鉛筆削りを使っていた事にも目を奪われた。以前の宮崎駿なら、カッターやナイフで鉛筆を削っていた姿を目にできたのだが。そして更に、鉛筆の濃さがHBから5Bへ移ったというナレーション及びその映像についてだが、彼が常に濃度の高い鉛筆を手にしているとしたら、これも紛れもなく老いによるものだろう。



さて、本題の新作映画について。

“ ポニョ ” の舞台は7、8割が海で、且つ、水彩画やパステル画風の手書きで表現するというこれまでの情報だったが、その子供が描いたような簡素な画風を今回多く目にして、もがきながらも確かに新しい表現法に挑んでいるのだなと感じた。
しかし絵の上での新たな試みという点で論じればこれまでのジブリ作品( “ おもひでぽろぽろ ” や “ となりの山田くん ”、そして “ ゲド戦記 ” )で試みられており、故に、宮崎駿がロンドンのテート・ギャラリーを訪れてジョン・エヴァレット・ミレイ(Sir John Everett Millais)作の “ オフィーリア ” を始めとする一連の絵画に触れたが為にこの度の新しい表現法を模索してそこに辿り着いたと、制作に関わっていないこちら側がこの理由だけで早計していいものだろうか。

“ オフィーリア ” は僕の大好きな絵画なので画面に登場した時は正直驚いたが、宮崎駿自身はテート・ギャラリーを訪れるまでもなく、ラファエル前派やバルビゾン派、印象派、またそれ等以前における油絵の緻密な描写・画風は絵の才能に長けた彼なら既に熟知しているはずである。実際に本物の絵画を目の当たりにした事により、「自分たちがやってきた微細な表現はある種において行き着き、これ以上同じ方法論を辿っても意味を為さない(同じ事だ)」といった感慨を強めたのは確かかもしれないが、その中段あるいは上段ぐらいまでの想いは予てより抱いていたはずである。何故ならば、それに関連する発言は書籍や映像でこれまでにも少なからずあったからだ。
上記に掲げたジブリ作品の前例を受けて、また、今春公開されたアレクサンドル・ペトロフ監督の “ 春のめざめ ” にも刺激を受けてか、この度の挑戦には並々ならぬ決意の程が窺われるし、老いても尚前進しようとする覇気は若い作り手が見習うべくして見習うもので、彼自身年齢を重ねる事で漂う気配の凄みが増したようでもある。

瀬戸内の知人宅における篭もり様、またその際の不機嫌さは創作家としての本質であると思うが、その様子を撮っていたディレクターに、宮崎駿の作品を生み出す道程、その苦しみ喜ぶ様を引き出し、そしてそれを映し出す才が乏しかったように思われるのは残念であるものの、今作のタイトルにある『崖の上』で孤独と対峙しながら制作準備に取り掛かっていた事が、どうしても意味深長に感じられて仕方ない。物語のキーは、やはり『崖の上』なのだと思う。

映画の冒頭、ポニョに父親らしき存在がある事、本作での山場のカット、これ等が公開前の現段階で披露されたのはファンとしては願ったり叶ったりだが、本編が衆目に晒されるのは来年の夏なのでまだまだ内容は改められるかもしれない。前回の記事で1時間半程の中篇になるかもしれないと勝手な考えを綴ったが、今日の1時間番組に触れてみて、それ以上の規模の作品になるかもしれないとも感じた。
人間になりたいと願うポニョが人の姿になっている絵も公開され、となるとポニョを含めた登場人物の飛行シーンも、宮崎駿の中では自然と連鎖想像されていってるのではないだろうか。



「本来不機嫌な人間でありたいが、それでは(人として)ならないから笑顔でもいる」、「子供が観て面白くないと感じる映画を創りたくない」、「脳みそに釣り糸を垂らす」、「風呂敷を広げる」、更には煙草の量と頭を掻き毟る仕草等々、宮崎駿らしい言動が多々見受けられたのには一種の安堵感を覚えたが、イメージ・ボードや絵コンテ、作画に向かっていて「違うな」という言葉を何度も発していたのには、これも本文序盤で記したように多少の驚きを伴った。どこが痛いといって右脳が一等痛いと答えた彼からも晩年の影が確実に差しているのが如実に知れてしまったが、決してそれが茫洋としたまま終わる事にはならないのは、これまで幾多の作品にて膨大な模索を繰り返し、そのどれもが秀逸な作品として実らせてきた宮崎駿であるから、仮に今後も思索・志向において若かりし頃以上に時間を費やしたとしても、その辺りの決着の仕方は心得ているはずである。

“ 崖の上のポニョ ” がどういった作品に仕上がっていくのか、これからも期待しつつ見守っていきたい。





“ 崖の上のポニョ ” 情報・その1(速報)

2007年03月19日 21時16分43秒 | 宮崎駿、その人と作品
宮崎駿監督の新作の詳細が、今夕、日本テレビ系列の『NNN News リアルタイム』内にて流れ、また東宝もその詳細を発表した。タイトルは “ 崖の上のポニョ ”。来年の7月に公開予定との事。

瀬戸内海を思わせる海沿いの町を舞台にしたオリジナル作品で、バケツの中で生きながら「人間になりたい」と願う金魚(監督は金魚姫と呼んでるらしい)ポニョと5才の男の子・宗介の話で、可愛い恋物語のようになるらしい。 宗介という名前が古風に感じられるが、もしかすると “ となりのトトロ ” のように時代設定が現代ではないかも知れない。

2005年春に住んだ瀬戸内の風景を宮崎駿が気に入って海辺を舞台に選んだとの事で、また、彼の息子である宮崎吾朗が5歳だった頃の事が基になっているらしい。一方、本作でのポイントは宗介のお父さんとお母さん、そしてタイトルにもある『崖』、との事。
今回は作画でPCを一切使わず、水彩画やパステル画風の手書きで表現するそうで、鈴木敏夫プロデューサーは「7、8割が海が舞台。手書きでどんな海や波が表現できるのか。それが監督の挑戦」と語ったそうだ。

まだイラスト一枚のみの公開で、とある方が撮った画像を拝借してここに載せるが(御本人の承諾済み)、これを見る限り、ポニョになかなかの存在感があるように思う。


更に現時点での、あくまで勘だが、“ トトロ ” のように1時間半程度の中篇になるような気がする。

詳しい話の筋や声優陣等が明らかになるのはまだまだ先になると思われるが、今月27日22時にNHK総合で放送される『プロフェッショナル 仕事の流儀』で宮崎駿の特集があるので、新作についてまた何かしらの情報が流れるかもしれない。

長らく待たれていた今作、タイトルに『の』が2つ付くのは “ もののけ姫 ” 以来である。“ ゲド戦記 ” の監督を担った息子に対して、宮崎駿がどういった『応戦』をするのか非常に楽しみである。




犬神モロの公

2007年03月05日 01時35分10秒 | 宮崎駿、その人と作品
映画 “ もののけ姫 ” のイメージアルバム、その9曲目に “ 犬神モロの公(きみ) ” という楽曲がある。これは本編では流れていなく映画の予告編のみで使用されたものなのだが、3分58秒という短さながらも圧倒的なスケール感が支配し、且つ尋常でない切迫感が満ち満ちている。更に2分16秒過ぎからは、風を切って疾走するような効果音が付与されていて、聴いている者の胸を一層駆り立てる(この曲の冒頭はNeowingで試聴できるので、興味を持たれた方はこちらで)。

当時、本編を鑑賞する前にこのアルバムを耳にしていた僕は “ 犬神モロの公 ” というタイトルにも拘らず、天狗や狐狸、はたまた異形の神々の荒ぶる様子を勝手に想像して興奮していたが、程なくしてこの曲が劇中では流れないと分かり、かなり残念な気持ちを抱いたものだ。
“ もののけ姫 ” を映画館で16回も観たのは、勿論作品自体に多大なる感銘を受けた事もあるが、その一方で、この楽曲で表現したテーマが作品のどこかに潜んでいはしまいかと躍起になって探していたせいもあるかもしれない。言わずもがな、モロ自身の複合的な性格は本編を目にすればそれと知れるものの、実はこの曲こそがモロのキャラクター性を一気に収斂したものではないか、と…。


とはいえ、もし僕がこの作品の演出(もしくは音楽演出)を担当していたら、タタリ神と化した乙事主の体躯に絡み取られてしまったサンを救助しに行くアシタカ、それを描くシーンで存分に使ってみたかったと想像して止まない。それだけこの曲には魅力があり、単に予告編の中だけで眠らせておくにはあまりにも忍びないのである。




“ 千と千尋の神隠し ” における電車のシーン

2007年02月02日 02時55分33秒 | 宮崎駿、その人と作品
映画 “ 千と千尋の神隠し ” には、電車(またはその音)と線路だけが登場する箇所が合計10シーンある。それ等を劇中の時間経過通りに挙げると、以下の様になる。



〈1〉.(5分12秒過ぎから)
トンネルを潜ってステンド・グラスの光が差し込む空間に入った時、電車の走る音を千尋が耳にする。

〈2〉.(11分3秒過ぎから)
露店にて食い物を頬張る両親を残し、1人千尋が油屋に架かる橋に立って何気なく下を見るとそこに線路があり、丁度通りかかった電車を目にした千尋は思わず「電車だ!」と口にする。

〈3〉.(20分46秒過ぎから)
釜爺のいるボイラー室へ向かう木の階段に初めて差し掛かった時、その断崖絶壁さ故に油屋の壁伝いに歩を進める千尋の耳に電車の走る音が届き、そしてすぐ、眼下に電車が走り去る。

〈4〉.(42分23秒過ぎから)
湯婆婆と仕事の契約を済ませた千に、リンが「お前、上手くやったなぁ」と話し掛け、それに対して「足がフラフラするの」と答えた千の表情、その直後のカットで湯屋をバックにして電車が走り行く。

〈5〉.(46分19秒過ぎから)
ハクに両親と会わせてあげると誘われ、豚舎へと向かう階段の途中で、千が電車の走る音を耳にする。

〈6〉.(1時間7分16秒過ぎから)
川の神様に風呂に浸かってもらう仕事を終え、その夜、欄干にリンと座りながらあんまんの様なものを食している際、千の眼下に広がる海の上をライトを照らしながら電車が過ぎる。


〈7〉.(1時間12分19秒過ぎから)
カオナシが油屋の従業員に砂金をばら撒いている頃、千が欄干に凭れながら「お父さんとお母さん分からなかったらどうしよう」と呟いた際、海中に沈む線路が登場する。

〈8〉.(1時間37分8秒過ぎから)
銭婆の元へ向かうため、千がリンに大桶で駅へ送ってもらい、その際の「こっから歩け」と言うリンに対して「うん」と答える千の会話の遣り取りの中で線路が現れる(厳密に言うと、この2つ前のカットのカオナシが青蛙を吐き出したところから線路は登場する)。
これ以降電車に乗り込むまで、「カオナシ、千に何かしたら許さないからな!」とリンが言葉を放つカットでも線路は登場し、またその直後の2カットにおいても海中浅く走る線路は美しく描かれている。そうして1時間38分0秒にて電車が画面に大きく映し出されてからは千とカオナシが共に車内に乗り込み、ここで寂寥感に満ちて儚げな、且つ瞑想に富んだ楽曲 “ 6番目の駅 ” が流れる。


〈9〉.(1時間45分15秒過ぎから)
千とカオナシを乗せ、『沼の底』駅に到着した電車が登場する。

〈10〉.(1時間53分37秒過ぎから)
銭婆の家へ千を迎えに来たハク竜、その背に乗って油屋へ帰る途中、自身とハクとの繋がりを思い出した千の遥か下に、細く長く続く線路とそこを走る電車が現れる。
ちなみに本当の名前を取り戻したハクと千の交感描写がある1時間54分11秒からは、線路と思われるものが2カット描かれている。



海原鉄道という、海上を幻想的に走る2両編成列車は、千とカオナシが銭婆の元へ向かう手段として物語上極めて重要なのだが、上記した様にその登場は10シーンに及び、実は千尋(千)のその時々の心情や状況の変化を隠喩的に物語っているのだ。

〈1〉においては、主人公の千尋が異界へ迷い込み、人間の住まう世界へは直ちに戻れなくなってしまった事の象徴として。

〈2〉においては、ハクとの運命的な再会を直前にした千尋が、以後、油屋に立ち入ってその場所と関わりを持っていく事の象徴として。

〈3〉においては、階段の高さとそこに吹く風に怖れ震えながらも、釜爺と対面しなければ当面の苦境から逃れられない象徴として。また、階段を駆け足で降り切った千尋はその事で図らずも慄きが払え、多少の不安と躊躇を胸に残しつつもボイラー室のドアを開けられるようになる。

〈4〉においては、湯婆婆と何とか無事に雇用契約を交わしたものの、両親と離れ1人身である事の現実感が俄に湧き起こり、不安と恐怖が胸を満たした事の象徴として。

〈5〉においては、昨夜から引き続く慄きと不安のために眠れず、布団の中で1人身を震わす千にとって両親と再会できるという一条の光が差し、またその直後において、ハクが心から信頼しても良い存在であると初めて認識できる、千の意識変化の予兆として。

〈6〉においては、油屋に来るまでは漠然と受動的に生きてきた千尋が1つの大きな仕事をやり遂げた安堵感に浸り、物事を達成する喜びと充実感を知った象徴として。

〈7〉においては、両親を心配しつつも以前程には悲観的でなく、また、ハクのもう1つの姿とその真相を知る導入として。

〈8〉においては、銭婆と対峙しなければ両親を救えないと腹を決めた千の心意気と、反面、車中ではやはり10歳の少女としては不安が胸を支配する事の象徴として。

〈9〉においては、とうとう引き下がれないところまでやって来た千と、その後展開される銭婆との対話における千の心模様の予兆として。

〈10〉においては、ハクとの縁・因果関係を如実に物語る象徴として決定的な場面であり、また、2人が共に本当の名前を取り戻した事によって一気呵成にクライマックスへ向かう予兆として。

と、以上の様に感じた次第である。これ等についてはあくまで個人的な推察にしか過ぎないが、とはいえ、電車(の音)並びに線路が現れる直前と直後では明らかに千尋(千)の心境や立場に多かれ少なかれ変化があるし、注意深く作品を鑑賞していれば早い段階でこう感じていた人もいるだろう。つまり、列車に関する描写は作品中ただ漫然と置かれている訳でなく、監督なりの計算があっての事だと推し量れるのだ。



当時宮崎駿は主人公が列車にて旅するところを、監督自身がまだかまだかと首を長くしながらそこに至るまでの絵コンテを描き進めていて、
「千尋(千)が電車に乗った時は、ようやく彼女がそこまで辿り着けたという気持ちでとても嬉しかった」
といった事を書籍等で述べている。それだけ宮崎駿は、千が電車に乗り込む場面に対して強い想いを抱いていたのだ。
しかし、作品中では比較的そのシーンは短くまとめられている。というのも、当初は車内においてもう1つのエピソードを挿入する予定であったのだが、それを描いてしまうと3時間を越える映画になってしまうという事で、止むを得ず(泣く泣く)割愛したのだそうだ。劇中では、途中立ち止まる駅にて意味深く感じられる影の女の子(ハクの様にも思われる影)が1人佇んでいて、それがもしかしたら割愛されてしまったエピソードの名残であるのかもしれないと、ファンとしては映画を観る度に好奇心・探究心をくすぐられるのだ。
僕が作家として立てる日が来たならば、いつかその挿話を自分なりに書き上げてこの作品へのオマージュとしたい、そう予々思ってきたし、その想いは歳を経る毎に強くなるのである。




“ もののけ姫 ” の主題歌

2006年09月24日 23時29分21秒 | 宮崎駿、その人と作品
1997年に劇場公開された “ もののけ姫 ” は、当時、興行収入記録と観客動員数記録で日本映画史上トップとなった。作品規模の大きさからもジブリ・ファンの注目度は大きかっただろうし、“ 紅の豚 ” の公開から5年を経ていた事から生粋の宮崎駿ファンの期待度は相当に高かっただろうから、公開されるまでの予備初速とでも言おうか、旋風が吹き荒れる兆しは既に水面下で起こっていたと捉えて良いと思う。

この映画の話題は他にも色々とあるが、主題歌にも世間が注目した事を忘れてはならない。
米良美一(めらよしかず)--彼の功績も実に大きい。カウンターテナー歌手として、それまでクラシック音楽や日本の古い歌曲を歌っていた彼が “ もののけ姫 ” の主題歌の歌い手として抜擢され、一躍その名が知られる事となったのは周知の通りである。

映画館で初めてこの作品を観て、物語中盤で主題歌が流れた時、僕は異様なまでの冷気と畏怖を感じた。空調で館内が冷やされていたのとは別に、何と言えば良いのだろう、もののけ姫であるサンの絶対的な孤独と悲哀が切々と染み渡ってきて、心身丸ごと無常の雨に打たれたのだ。
この曲は序奏からして、人の心に儚い誠たるや如何なるものかを沁みゆかせる力が宿っている。その強靭な引力に、僕は一瞬にして呑み込まれた。
ましてこの歌が流れるシーンは劇中最大の見せ場といっても良いぐらいに緊迫したもので、アシタカとモロが問答する圧巻な様子に、ただただ息を呑むばかりである(トップ画像はその1コマ)。
米良美一の、夜天を覆う様な、そして澄み切った中性的な歌声に魅了された人も多くいるだろう。苦しいまでに、胸を丸ごと掴まれる。


宮崎駿監督作詞による主題歌は、以下の通り。


はりつめた弓の
   ふるえる弦よ
月の光にざわめく
   おまえの心

とぎすまされた
   刃の美しい
その切っ先によく似た
   そなたの横顔

悲しみと怒りにひそむ
   まことの心を知るは
森の精
   もののけ達だけ 
   もののけ達だけ



この曲は1番のみ歌詞が付いていて、2番は uh と ah の2音による歌唱で同じ旋律が繰り返される。
宮崎監督は2番の歌詞も考えたのだが、結局は1番と比べて相応しいものが浮かばなかったため、やむやむ uh と ah の2音による歌唱にしたのだそうだ。
僕はこの2番の、歌詞にならない歌詞も大変好きで、かえって下手な言葉を付帯させなくて良かったと思っている。この方が、サンの言い尽くせぬ複雑な心情が見事に伝わってくるからだ。抽象を以って具象とする技があるのだという事を、僕はここに学んだ訳である。

本心を言えば、ここに僕なりの2番を書き連ねてみようと考えていたのだが、改めて主題歌をじっくりと耳にしてみて、やはりそれが意味を成さないと痛感した次第である。