銀河夜想曲   ~Fantastic Ballades~

月が蒼く囁くと、人はいつしか海に浮かぶ舟に揺られ、
そして彼方、海原ワインのコルクに触れるを夢見、また、眠りにつく……

湛然たる水平線

2007年08月26日 23時58分36秒 | 散文(覚書)
額の汗が音もなく

在るか無きかの蟀谷(こめかみ)に落ちる度

私は

海にいる

深き滄溟に沈み行きながら眉宇に手を翳し

在るか無きかの水平線を

懸命に

仰ぎ見る



この広い海に投げ入れた煙草の音を

あなたは

どこで聴いている

遥かこの海のどこにいても

あなたは

その小さき名残を耳にする事ができるか

駒の足掻に則して

その痛みを胸に妬く事ができるだろうか



あなたの鎖骨には

私の唇がピタリと合う

浮き出た骨をなぞる度

私の唇は一寸の闇を従え

あなたは震えた

それが私の生きる証で

夜も朝も無に帰す愉悦だった

しかし

母なる海のどこに鎖骨があるというのだろう



さもありなん

首筋を這わせた上唇と

胸の狭間を這わせた下唇を嘲笑うかのように

鎖骨の窪みに はらりと落ちた一本の毛髪

震えたあなたの弾みで零れた

一片の哭

それだけが本当の蒼さを知っていて

ただ

その事だけが憎かった



心臓と心臓を重ね合わせ

溶けゆく時の倦怠と恍惚を

共に味わい尽くしたあなたは

もう

酔い醒めの水ではない



私の足元に広がる海底が

再び暗さを帯びてゆく

日差しはここまで届かない

夏の気配が

薄らいでゆくのだ



振り返った私の背中に

また

水平線が落ちた




“ 崖の上のポニョ ” 情報・その3

2007年08月10日 23時40分01秒 | 宮崎駿、その人と作品
毎月10日に発行されているスタジオ・ジブリの無料冊子 “ 熱風 ”、その今月号にて、作曲家の久石譲が “ 崖の上のポニョ ” で使われる歌に関して記述している。
以下、引用。





宮崎さんとの最初の打ち合わせは昨年の秋だった。「子供から大人まで誰もが口ずさめるような歌を作ってほしい」という依頼だった。そのとき最初に思い浮かんだのは、“ となりのトトロ ” の “ さんぽ ” を作曲したときのことだった。声を張り上げて元気に歌える曲を、という依頼だったと思うが(20年前のことなので不確かだが)今回も同じ世界観なのだろうか? と考えた。
“ さんぽ ” は幸運なことに最初の打ち合わせのときに、「あるこう あるこう わたしは げんき」のメロディーが浮かんだ。密かに絵コンテの裏に五線を引いて書きつけた覚えがある。絵本 “ ぐりとぐら ” で知られる児童文学作家の中川李枝子さんが書いた詩、その言葉の持つ力強さが自然にメロディーを喚起したのだと思う。

--(中略)--

ところが、“ となりのトトロ ” から20年経った今、新しいアプローチでこの作品に挑もうと思った矢先、本当に幸運なことに今回もメロディーが浮かんできたのである。それも宮崎さんと鈴木さんの目の前で。「ポニョ」という言葉は新鮮で独特のリズムがある。「ポ」は破裂音で発音時にアクセントが自然につくし、「ニョ」はそれを受け止める『ぬめり感』がある。「ポ」から「ニョ」へはイントネーションが下降しているので、メロディーラインも上昇形ではなく下がっていくほうが自然だ。基本的にボクは言葉のリズムやイントネーションには逆らわない方法をとる。

--(中略)--

「ポニョ、ポニョ……」と何度か呟いているうちに自然にメロディーの輪郭が浮かんできた。もちろんこの2音節だけではサビのインパクトには欠けるので何度か繰り返す方法をとった。和音はできるだけ簡単なものがいい。いつもはテンションがかったモーダルなコードを好むが(ボクの場合はコードネームにはまらないものも多いのだが)シンプルで強くいくときは何も足さない3和音のほうがいい。和音の進行もシンプルなものを使用することにした。

--(中略)--

音楽の3要素であるメロディー、ハーモニー、リズムをそれぞれ決定して、その結果「ポーニョ ポーニョ ポニョ」は「ソーミ ドーソ ソソ」というメロディーになった。何のことかわかりませんね、これでは(笑)。さすがにシンプルすぎて、目の前にいる宮崎さんや鈴木さんにはそのメロディーを伝えずその日はジブリを後にした。
それから日々考えた末の3ヶ月後、年も明けた今年の2月、ボクはピアノと仮のメロディーをいれたシンプルなデモ曲を持ってジブリに行った。あのとき浮かんだメロディーは多少の変更はあったものの、ほぼ同じだった。宮崎さんと鈴木さんは気に入ってくれて(あまりの単純さに驚いたのかどうかはわからないが)、早速作詞に取りかかることになった。

--(中略)--

“ ポニョ ” の作詞は作画監督の近藤勝也さんが引き受けてくれた(補作は宮崎さん)。上がってきた言葉は擬音的な表現も多く、普通の作詞とは大きく異なっていたが、近藤さんが毎日何回も宮崎さんの前で歌いながら作ったせいか、言葉と音のリズムが妙に心地いい。レコーディングも無事終了した。
宮崎さんは日頃「最近は気軽に口ずさめる歌がない」と、言われているそうだが、この曲を宮崎さんの鼻歌で聴けることがあったらボクは満足なのである。





実はここに転載した以外にも、久石譲は山田耕筰の “ 赤とんぼ ” を例に挙げて言葉とメロディーの関係性について言及していたり、また、歌は音楽なのかという視点を皮切りにして、音楽が言葉に奉仕していた時代、反対に、言葉が音楽に奉仕せざるを得ない現況、つまりは配信やダウンロードで入手できる『お気軽な(言葉の力を失った)歌』に関してもやんわりとではあるが問題提起していて、少なからず興味深い。

しかしそれにしても、作詞を近藤勝也が担当したとは予想し得ていなかった。当然の事ながら宮崎駿自身が手掛けるものとばかり思っていたのだが、何か特別な理由があるのだろうか。補作という立場をとったのは、彼自身の監督作品ではないが “ 耳をすませば ” 以来である。

“ ポニョ ” のレコーディングは既に終わっているとの事。一体誰が歌ったのだろうか。ポニョ役の人物かもしれないが、その当の人物が大人なのか子供なのか、プロの声優なのかそうでないのかも今の段階では判然としない。
とにもかくにも強く推察できるのは、“ 崖の上のポニョ ” の主題歌と思われるこの歌が、“ となりのトトロ ” の公開から20年を経る来年、老若男女に親しまれるであろう愛らしさを伴って御目見え(御耳聴こえ?)するだろうという事である。