銀河夜想曲   ~Fantastic Ballades~

月が蒼く囁くと、人はいつしか海に浮かぶ舟に揺られ、
そして彼方、海原ワインのコルクに触れるを夢見、また、眠りにつく……

赤毛のアン

2006年11月29日 00時39分34秒 | 世界名作劇場
放送 1979年1月7日~12月30日(計50話)



演出:高畑勲(メイン演出)
脚本:千葉茂樹/磯村愛子/高畑勲/高野丈邦/荒木芳久/神山征二郎
場面設定&画面構成:宮崎駿(第15話まで)
キャラクターデザイン&作画監督:近藤喜文
音楽:毛利蔵人
原作:ルーシー・モード・モンゴメリ



古今東西の多くの女性が愛して止まないこの名作中の名作、原作本は恥ずかしながら未だ読んだ事がなく、アニメも今回初めて鑑賞した。
19世紀終わりのカナダ東部、プリンス・エドワード島、そのアヴォンリー村のグリーン・ゲイブルズ(緑の破風館)と呼ばれる家にアンがやって来るところから物語は始まる。


製作陣の名前を列挙しただけでもこの作品の層の厚さが分かる。神山征二郎は言わずと知れた実写の映画監督だし、近藤喜文は “ 耳をすませば ” の監督でもあり、スタジオ・ジブリの歴代の作品に大いに関わってきた人物である。
そして何と言っても高畑勲と宮崎駿の2者…!近藤喜文を含め彼等がこのアニメのスタッフであると前々から知っていたのに、今回初めて鑑賞したとあっては僕も視聴行為が遅過ぎである。

アンを演じた山田栄子はこれがデビュー作で、実は島本須美(ナウシカの声優として1番有名であり、他にも “ ルパン三世・カリオストロの城 ”のクラリス役&“ となりのトトロ ”のお母さん役等で知られる)とオーディションの最終選考までアン役を競っていたそうである。もし島本須美が演じていたらどうなっていただろうと想像を馳せてみるものの、アンの魅力の本質が大きく変わる事はなかったであろう。それだけアン・シャーリーという女性には人を大いに魅了する性質が備わっている。
ともあれ山田栄子の演技はアンの魂が乗り移っているかの様で、すっかり引き込まれる。原作にしか触れていない人の中で、アニメのアンは自分のイメージと違うものだとして鑑賞していない人もいるかも知れないが、そんな憂慮・食わず嫌いは無用である。このアニメは原作に忠実に描かれているし、何より文字だけの単一色では表しきれない魅力が咲き誇っている。原作しか触れていない人でも、必ずやきっと没入するだろう。



この作品は名場面・名言の宝庫で、かつ人物描写に長けている故に各話ずつ感想を書き連ねたいぐらいだ。観る者は笑いに包まれ、時に哀しみもあり、そうして常に深い余韻が底流している。

第1話からアンのお喋りは満開で、ここに若きアンの魅力が集約されていると言ってもいいだろう。
嬉々として話し続けるアンに向かって、「(馬車を)出していいかね?」と遠慮がちに尋ねるマシュウは可笑しく、そしてアンが自身の赤毛について「一生付いてまわる悲しみでしょうね」と深く溜め息をついた時のマシュウの表情は更に可笑しい。
『喜びの白い道』を通り抜ける際のアンの表情、またその夢想の馳せ方(『喜びの白い道』自体の幻想性)はアニメならではの醍醐味だ。これ等は小説では決して描けない(各々の読者の想像に委ねられるところでしかない)し、実写の映画や演劇でもなかなか難しい。

第2話ではアンの想像性が生む反動、つまりは現実とそれとのギャップに苦しむ様が象徴的に描かれている。男の子を望むカスバート家に自分は歓迎される存在ではないという事実を突き付けられ、悲嘆のままに泣き咽ぶ。

「楽しい事がおしまいになると、私いつも悲しくなるの。その後でもっと楽しい事が待ってるかもしれないけど、それが大抵そうでない時の方が多いのよ。私の経験ではね」と第1話で口にした通りの現実に遭遇し、この台詞が物語の随所で、そして最後まで(ある意味道徳的に)活かされるのだが、とにかくこの言葉に誰しもが共感を覚えると思う。

第4話での、アンが揺れる馬車の中でマリラに自分の生い立ちを話す場面での台詞、「良くしてくれるつもりがあったんだもの、それが分かってれば、いつもそうはいかない事があっても、大して気にはならないものでしょ?」は、11歳の子供にしては世間の理解に長けていると思ってしまうものの、この子供ならそう感じる力があっても不思議ではない。

他にも例を挙げれば、クリスマスにマシュウがアンへ膨らみ袖の洋服をプレゼントした時のアンの喜び様は、劇中これに勝るものはないかもしれない。またこの際の、マリラの2人を見るともなくちょっと横目に見やっている様子は実に可笑しい。

そして同日のクリスマス・コンサートでアンが初めて舞台に上がる時、新調されたばかりの靴がキラキラと控え目に光を放つのがアンの気持ちを如実に表していて、これもまたアニメならではの魅力である。

マシュウの口癖「そうさのう…」には、それだけで温かい人柄が感じられる。アンの良き理解者であり、いつでもアンの心の支えとなる彼を演じた槐柳二の声充ては、このアニメに登場するあらゆる人物の中でも山田栄子と並んで随一の聞きものである。特に前半においては、スペンサー夫人の元へ馬車で送り返されてしまうアンを追い掛ける時の、マシュウの声にならない声は御見事としか言い様がなく、その心境が痛い程に伝わってくる。
一方マリラの口癖は「やれやれ」で、現実主義の彼女が毎日の様にアンに手を焼きながらも、心の奥ではアンを愛している事が窺い知れる。マリラは物語前半では時折「アン・シャーリー」とフル・ネーム呼んでいたものの、2年3年と時が経つにつれ「アン」とファースト・ネームだけで呼ぶようになっていくのは、彼女への愛着が殊更に湧いて実の家族の様に感じている証だろう。そしてマリラは物語が進むにつれ、次第とアンへの思慕を包み隠さず、アンの気持ちを尊重しそれを何よりも優先して考える人柄へと変わってゆくのが視聴者にとって何といっても感慨深く、彼女の声を充てた北原文枝の声色の変化と特に物語後半における情感の籠もった熱演は、山田栄子・槐柳二と並んで聞き応えがある。

アンとダイアナの絆の象徴として印象深いものは、彼女たちが永遠の友情を誓い合う2回に及ぶシーンである。
初対面の彼女達が宣誓する1度目は優美で微笑ましく、ダイアナの花畑に水路が走る描写はこれまたアニメでしかでき得ない演出だ。

2度目の際は相当に感銘的である。互いの結婚観や進路の事で擦れ違いが続け様に生じてしまった経緯があるだけに、2人の誓いを交わした時の潤んだ瞳、その輝きがこちらにも否応なく伝播してくる。1度目の様に想像の水路はもう走らないが、それがまた彼女たちの成長を表している様で味わい深い。

このアニメ作品は原作に忠実に描かれていると書いたが、実は第25話と第38話はオリジナルのエピソードである。
第25話《ダイアナへの手紙》は、第24話でアンが足の怪我を負ったエピソードをそのまま上手く活かしている。永遠の友情を誓ったにも拘らず、これまで自分を主体に考えていた事を悔やみ、ダイアナの存在の大きさ・彼女への思慕を一層強く深く認識する件は大変意義深く、また視聴者に対してはそのあまりの自己反省・悔恨振りに一種の可笑しさをもたらしてくれるのだから、このアニメにまた一輪の魅力的な花を添えている。またここでの、物に掴まらなくても歩けるようになったアンの姿は1974年放送の “ アルプスの少女ハイジ ” におけるクララを想起させる(両作とも高畑勲と宮崎駿が制作している)。
第38話《受験番号は13番》は、ミス・ステイシーとの別れとクイーン学院試験の日の模様を描いているが、「帰って来て本当に嬉しいわ。グリーン・ゲイブルズほど素晴らしい所はないわ」と話の最後で喜びを露にするアンの言葉が、第7話におけるアンの「家へ帰るって嬉しいものね。あれは私の家よね」という台詞、及び第32話における「あたし手当たり次第にキスしたいわ、ストーブにも、時計にも」と「一番良かったのはね、一番良かったのは、家に帰って来る事だったわ」の台詞を鮮やかに甦らせてくれるものとなっている。こうした言葉を度々述べるアンが生来如何に孤独な生活を送ってきたか、故に彼女が人の温もりを何にも増して大切にしている事が十二分に分かる。

アンが15歳になって、以前のお喋りでそそっかしい面影が薄れたと感じたマリラが、アンがかつて着ていた小さな服を抱きしめながら涙するシーンもまた胸を打つ。子供の成長を肌身に感じた事のある者なら、一層マリラの心情は伝わってくるはずだ。
アンの15歳以降の絵姿は、実年齢より大人びて見える。そして10代前半の頃より夢想をしなくなって勉学を含めた現実生活に溶け込んでいく様は、視聴者にとっても確かに寂しく映る。だからこそ第41話で、「どこへ行こうと、どれ程外見が変わろうと、心の中ではこれから先もずっとマリラの小さなアンなのよ。--マリラとマシュウと、このグリーン・ゲイブルズの小さなアンだわ」とマリラの胸元で呟くアンと、その言葉を聞き終えたマシュウが1人黙って外に出て、夜空の下で感慨深く独り言つ場面にはどうしたって涙が誘われる。
アンがクイーン学院入学へ向けて下宿先へと発った直後のカスバート兄弟の寂寥感が、あたかもこちら側の寂寥感となって寄せて来るのもこの物語が持つ凄味で、マリラの寝床で堰を切って泣く姿は彼女の老いをも静かに物語っている。

マリラとマシュウとアンの3人が揃って初めて外出する場面も感慨深い。『喜びの白い道』は熟したリンゴで溢れ返り、馬車に積んだリンゴがその後ジュースへと生成される事を喜ぶかの様に木漏れ日に包まれるまま荷台で揺れている。そしてそれがまた、頭上の木々に実ったリンゴたちとあたかも共鳴している様に映る。グリーン・ゲイブルズに来て丁度1年が経った日にアンがマリラを『喜びの白い道』に行かないかと誘うものの、結局アンはマシュウと2人でそこに向かう事になった経緯があるから尚更、時を経た3人での訪れは感慨深いのである。

また、エイヴリー奨学金獲得の旨が認められたアンの手紙を交互に読み交わすマリラとマシュウは実に微笑ましい。更にその吉報をダイアナに知らせようと、アンとダイアナの蝋燭と紙を使った合図を思い出してそのままを実行するカスバート兄妹が無邪気な子供の様だ。携帯電話を筆頭とする通信手段が発達した現代では、こうした創意工夫・楽しみはすっかり廃れている。

第39話に続き第46話でも、自分が男の子だったらどんなにマシュウの手助けができたかしれないとしんみり口にするアン。しかし、「1ダースの男の子よりもお前にいて欲しいんだよ。--(中略)--アンはわしの娘じゃ」と、アンに対して微笑みながら口にするマシュウに、人の持つ偉大な気持ち、輝くまでの優しさ・慈愛が溢れている。言うまでもなくそのマシュウの言葉に偽りはなく、視聴者の胸も目頭も熱くなってしまう。


名台詞・名場面、並びに名カット、その全てを1度には枚挙できない、それがどれだけ凄い事か!そしてこの長い文章を読んで下さる人の中に作品を鑑賞していない方もいると思われるので、本文で第47話以降については触れないでおく。



宮崎駿が第14話の途中(?)で「アンは嫌いだ。後は宜しく」と言い残したという逸話の真相は定かでないが、仮にそれが事実ならば、何故嫌気が差したのか宮崎駿ファンとしては知りたいところである。そのまま彼は劇場用の長編アニメ “ ルパン三世・カリオストロの城 ” に着手し、それっきり戻って来なかったそうだ。
これは僕の憶測にしか過ぎないが、恐らく宮崎駿はお喋りな女の子が嫌いなのだろう。彼の作品で主役を張る女性は皆、思うがまま始終血気盛んに物言いをする人間ではない。ましてアンは起伏の感情が激し過ぎて(想像力の豊かな人間にとっては尤もな性質)、実在する人間ではないが彼女に添い従って制作していくのに疲れて(気が薄れて)しまったのかもしれない。もしくは単純に、ルパン制作に身を入れるための言い訳だったのかもしれないが…。
第16話以降、別のスタッフが場面構成を担っているのは宮崎駿の手腕を大いに感受している者としては残念ではあるが、そのまま彼が今作を制作していたら“ ルパン三世・カリオストロの城 ”は完成の日の目を見なかったかもしれないので、ある意味致し方ないとも言える。

また演出の高畑勲も「どうしてもアンの心情が分からない」と、脚色せずにストーリーを忠実に追うしかなかったそうだ。結果的にはそれが功を奏したと言えるのだが、この真相もまた闇の中だ。

僕にはアンの気持ちが、自分の事の様に良く分かる。
例えばコンプレックスを人に指摘されたり馬鹿にされるアンの心情は上記の2人も当然察するだろうが、何らロマンチックでない自身の名前に代わって華々しい名前を充てがったりするのは夢見る幼い少女らしく、それは平凡で何の変哲もない本名に劣等感を感じる僕と重なる。
他にも、髪の毛やソバカス等のコンプレックスが僕のそれと酷似しているし、また癇癪を起こしてそこに固執してしまう部分等色々とあるが、何と言ってもアンが心の友ダイアナに対して抱くその時々の想い入れはこの物語上極めて重要で、それが実に雄弁に注がれてくるので視聴者にも大なり小なり共感を呼ぶはずだ。初めてダイアナと対面する際に緊張しきってしまう様や、先に書いた様に毎日見舞いに来てくれていた彼女が急に家に顔を出さなくなったり、当のダイアナが病気になったと知れば心配で居ても立ってもいられず心を乱して余計な憶測まで立ててしまう様等々、少なくとも僕にとっては自分と似た傾向をアンの中に多く見て取れる。
憧れる(夢想する)男性と結婚するか独身を通して互いの友情に終生身を捧げるかで喧嘩をしてしまい、また後日、ダイアナがクイーン学院へ進学しない事を知ったアンは殊の外に心を取り乱し、しばし2人の間に不穏な空気が流れる。そこでマリラがアンに、「お前の欠点は物事を自分勝手に考え過ぎる事、誰も自分の生き方を他人に強制する事はできない」と言うのだが、これこそ誰しもへ向けた教訓でもあり、物語中最大のリアリズムでもある。
そして、強情で意地をいつまでも張り続ける性格。難破しそうな船から抜け出して橋脚にしがみ付いているところをギルバート・ブライスに助けられ一瞬表情が緩むのだが、それでも「ニンジン、ニンジン」の言葉が湧き上がってしまって我を張ってしまう。歳を重ねて「ギルバート」と彼の名前を口にする様になるものの、一向にまともに話をしようとしないアンは僕の性格をそのまま切り取ったかの様で驚く。故に、物語最終話で和解する彼等の姿は美しい夕日をバックにしているのもあって、深い感慨が沁み入ってくる。ただ、アンがエイヴリー奨学金を手にした折の第1声「アン・シャーリー万歳!!」がギルバートなのだと、果たして彼女に分かっていたのかどうかがこちらとしては気になるところだ。



三善晃が作曲と編曲を手掛けたオープニング曲&エンディング曲は、世界名作劇場シリーズの歌の歴史上、特別に異質で特別に秀でている。彼の名前は(現代の)クラシック音楽を聴く人にとっては馴染みがあるだろう。

オープニングは宮崎駿と高畑勲の世界観、世界構築が結晶化したものと言っていいだろう。

宮崎駿はこのイメージボードを描いていて、馬車は自由に空を駆け、そうして四季を自在に縫って行く様相は大変美しく、とりわけ馬の駆ける足並みが徐々に緩むカット(♪~風のふるさとへ~♪の部分)は、降りしきる紅葉と相俟って実に幻想的である。

エンディングは簡素な囲い枠の中にスタッフの名前が挙がるだけのものだが、歌の形容し難い素晴らしさが視聴者の様々な想像を掻き立てる程で、ひょっとしたら制作側はそれを狙って、人物や風景が動き流れる通例化したアニメーションを一切排して、何ら動きのないエンディングにしたのかもしれない。事実、後年に高畑勲は「楽曲としての完成度が高いし、中間部が劇的なので、なまじ絵はない方がいいと考えた」と述べている。
簡素な枠と書いたが、これはアンやマシュウやマリラ、そしてダイアナが初登場する折に本編で現れるシンボル的絵柄となっていて、故に各話のエンディング毎において、アンの大切に想っている人に対する深い気持ちを表現しているとも捉えられる。また “ さめない夢 ” はアンがグリーン・ゲイブルズにいても良いと認められた時にも流れるのだが、その際のアンの狂喜乱舞振りを視覚的に無味乾燥なエンディングにおいて、想像というオマージュを与えて活かしているとも考えられるので、このエンディングは単に歌だけで終始しているものではない。



劇伴は当時若手の現代音楽作曲家だった毛利蔵人。三善晃が担当しなかったのは桐朋学園大学の学長であり多忙で体調を壊しがちだったためだそうだが、彼は弟子筋にあたる毛利を制作者に推薦し、その担当が決まったとの事。
劇中流れる音楽は温かみに溢れ、この物語の雰囲気に相応しい。また、荘厳なバロック音楽を思わせる沈痛な楽曲もあって、人生の営みの示唆に富んでいる。



背景美術もまた素晴らしい。風景がそのまま画面の向こうに生きているようで、水のきらめきや木々の囁きが実際に眼前に広がっているかの如く映る。人物がグリーン・ゲイブルズの2階へ上がっていく時、手にした蝋燭の光が作り出す陰影の移ろいも当時としては細やかで好感が持てる。
色彩設定(エンディング画面上では仕上検査となっている)を担当した保田道世は、今やスタジオ・ジブリ作品におけるその道の大御所として名が知られている。



『赤毛のアン症候群(シンドローム)』という言葉が生まれる理由も、このアニメに触れただけでも良く分かる。それだけ受け手は物語に、アン自身に、果てしない良質の夢を見させてもらえるからだ。
“ 赤毛のアン ” を読んだマーク・トウェインはモンゴメリに、1908年10月3日付けで 「“ 不思議の国のアリス ” 以来の魅力的な少女」と絶賛の手紙を送り、これはその後のアンの宣伝コピーとして使われる事になったそうである。

マリラが「アンがいればどんな家庭だって退屈しない」といった様な事をマシュウに言う場面がある。また、ジョセフィン・バリーも「あんな子をいつも手元に置いておけるなら、あたしだってもっと幸せな人間になれるだろうに」と呟く場面もある。それ等は正に、全くその通りだと思う。アンが身近に実在していてくれたら、どれだけ毎日が想像の波で楽しく豊かに過ごせるだろう。

完訳版を含め、非常に多くの訳本が出回っているのも頷ける。きっと、原著に魅せられた女性が自らの手で訳したいと思うのだろう。
長年に渡って幾度も映画化や舞台化がされているのは周知の通りで、その枚挙にも暇がない。



この文章を書き終えるまでの暫くの期間、一体何度繰り返してこのアニメに触れただろう…!寝ても覚めても僕の生活は “ 赤毛のアン ” 一色だったし、これからも事ある毎に飽く事なく鑑賞し続けるだろう。
どうやら僕も『赤毛のアン・シンドローム』にかかったようで、心はすっかり打ち抜かれてしまった。この作品を観ていないと人生の大半を損している、そう声を大きくして言いたい程に。

ここまでの長文になってまで強く推薦したい気持ちがあるのは、前述した様に僕自身とアンに重なる点が多いからでは決してなく、恐らく誰もがアンに共感するところがあると思うからだ。少年期・少女期に感じたもの、考えた事を切なさを伴った甘味で回顧させてくれると思うからだ。ましてお喋り好きな人、空想好きな人、“ 耳をすませば ” の月島雫に魅せられた人ならば、アニメが始まってものの10分もしない内に引き付けられると断言できてしまう。更に、カスバート兄弟の視点で観れば感銘は深まるばかりだ。
人は生きている限りその人生を模索する。子供でも大人でも、それぞれに迷い、立ち止まり、惑う。そうした中にあってこの作品は1等級の彩色手本になるとも思う。また、【Anne】はヘブライ語で『恵み』を意味するとの事で、この物語の登場人物に対してのみならず、この作品を観る者に対してもアンという女性は芳醇な恵みをもたらしてくれる。




深く結ばれた友情の尊さを実感させてくれ、想像という行為がどれだけ価値ある事か、そうした諸々を優しい手触りで滔々と受け渡してくれる “ 赤毛のアン ” には心底感謝をするし、今の、そしてこれからの時代に向けての処世術がふんだんに盛り込まれているが故に敬愛し続ける。

もしも僕が一軒家を持つ日が来たらグリーン・ゲイブルズそっくりの家(特に全体の外装とアンの部屋はそのまま)にして、色彩豊かな想像に委ねられる暮らしがしたい、そう強く夢想してしまう。

「『素晴らしい作品』では全くもって言い足りない…!!」とアンに伝えたい、至高のアニメ作品である。
今生きている人、これから生まれてくる人、ありとあらゆる全ての人に観てもらいたい。



牧場の少女カトリ

2006年11月12日 18時24分43秒 | 世界名作劇場
放送 1984年1月8日~12月23日(計49話)

演出:斉藤博
脚本:宮崎晃
音楽:冬木透
キャラクターデザイン:高野登
原作:アウニ・エリザベス・ヌオリワーラ
   (原題 “ Paimen, piika ja emanta ” )



第1次世界大戦直前から開戦中のフィンランドを舞台にした、田舎育ちの少女カトリ(6歳から12歳まで)の成長を描いた物語。

当時放映中は全く人気が上がらずに、危うく途中で打ち切られるところだったそうだ。同じ時間帯に他局で知的なクイズ番組が始まったという理由もあるが、総体的には内容が地味な故に、アニメ、もしくは子供の世界を描いた何かしらの作品に興味や関心のない人にとって、また2時間の映画や現代のスピーディーな1クール制のドラマに慣れきっている人にとっては、初めの5話ぐらいまではとても退屈に感じるかもしれない。もしかすると、子供でも飽きてしまうかもしれない。現在では考えられない程に、ストーリー運びが丁寧に作られているからである。

農村の牧歌的な風景や人々の他愛ない会話、糸紡ぎやバターの生成といった仕事の積み重ね、つまりは日常が淡々とではあるがしっかりと描けているこの作品の中で、カトリは3つの屋敷を跨いで働いてゆく。前述したように、ややもすると視聴者が飽きてしまいかねない程に物語起伏は全般的にはなだらかではあるが、だからこそカトリの細やかな表情や人々の彼女に対する想いが反って鮮明にストレートに伝わってくる。それがとても新鮮だ。
第23話でカトリが熊に襲われそうになるところを牛(クロ)が助ける場面が、この作品の中では1番緊迫感がある箇所であり、他にも崖を下ってしまった牛たちを懸命に戻そうとするシーンや羊毛泥棒たちとの格闘、主人が大切にしていた花瓶が割れてしまうといった場面でも多少の緊張感が走るものの、カトリの聡明で前向きに生きる姿勢を見ていくにつれてそうした些細な波乱は程なく取り払われていくに違いないと、そう好意的に感じさせてくれる力が少しずつ膨らんでゆくのがこのアニメの醍醐味だ。

1つ目の屋敷での従事が終わり、1年振りに祖父母の元へ帰ってきたカトリが祖母に気付かれないように、祖母の持つ水汲み桶に背後からそっと手を差し出すシーンは、これぞ脚本・演出の妙である。桶を持つ手が軽くなったと感じた祖母は、孫の茶目っ気ある「ただいま」でその帰郷を知り、鑑賞している者としても微笑ましく嬉しくなる。

マルティやペッカはカトリのために至るシーンで尽力し、やがて後半ではレオという男の子もカトリの魅力に取り込まれてゆく。とりわけ前者2人の男の子のカトリへの思慕は微笑ましく、時に言い争いながらも彼女を守っていこうとする姿勢には胸が熱くなる。マルティとペッカとカトリの3人それぞれが少しの別れを経験する展開が幾度もあり、ペッカが涙する気持ちも十二分に伝わってくる。思春期の少年少女の描き方が実に上手いのだ。

屋敷で働く雇い人の中にカトリを良く思わない人間も登場するが、こうした人々もやがて彼女の懸命な働き振りや勉強に対する真摯な取り組みを実感していく事で、次第と打ち解けてゆく。特に都会等の人の多く集まる所では色々なタイプの人間がいるという事を、分かりやすく年少の視聴者に伝えている構成に好感を持てる。

カトリは謙虚で自分の意思を明確に持ち、9歳(~12歳)という年齢にしてはしっかりし過ぎているかもしれない。こんな自立した子供は、現在ではそうそうお目にかかれないだろう。それでも時折苦しさや寂しさに拉がれる場面が用意されているから、彼女が歳相応の子供であると安堵できもする。遠く離れた母親からの手紙に接して、また友達との別離を経験する毎に涙を流す彼女に、それまでの懸命な姿勢がこちらも分かっている故に心から応援したくなる。

そんな幼き少女に魅せられた1人、グニンラおばあさんが登場する冬の時期がある。彼女が糸車を回しながらカトリに話して聞かせた、鶴を助けた家畜番の少女の物語(昔話)の結末は、 “ ハウルの動く城 ” の案山子のカブが元の姿に戻るシーンを想起させるのだが、もしかしたら宮崎駿は当時、この作品を断続的にでも観ていたのかもしれない。

この作品には、原作者のヌオリワーラと同郷の作曲家シベリウスの楽曲が比較的多く使用されている。交響詩 “ フィンランディア ” をはじめ、組曲 “ 恋人 ” や組曲 “ カレリア ”、また、交響詩集 “ カレワラによる4つの伝説 ” からも場面ごとに合ったフレーズが引用されている。アニメ好きでクラシック好きの僕としては嬉しい事この上なしだし、“ フィンランディア ” 以外はあまり聴かれる事の多くない楽曲なので、クラシックを愛する人には是非聴いてもらいたいと思う。

オープニングの主題歌とエンディングの歌は、双方共に素晴らしい。
前者は、特に前奏において、今現在のポップス(歌謡曲)などには聴かれない魅力が存分にある。絵柄としては冒頭から糸車を踏むカトリの存在感がたっぷりと含まれているし、歌に合わせたアニメーション運びも秀逸だ。
後者は、主題歌に続いて物哀しいメロディーに彩られている。全編に渡りカトリの人知れぬ心情を表していて、特にサビの部分はその隠れた気持ちが結晶しているかの様だ。そして絵柄はエンディング作画監督の佐藤好春氏のセンスが光る。カトリとアベルだけの動きだが、その質感が彼の才能を物語っている。

アベルの愛嬌ある姿には、観ていてついつい笑い声が漏れてしまう。世界名作劇場シリーズ上、1番愛嬌があって1番愛らしい動物かもしれない。また、この犬の声を声優が演じているというのだから驚きである。かの江戸屋猫八にも引けをとらないと言ったら言い過ぎかもしれないが、この作品を観る価値はこの犬にさえもある。“ あらいぐまラスカル ” でもラスカルを野沢雅子が演じているが、アベルを演じた龍田直樹はとにかく素晴らしい。ちなみに龍田直樹は “ となりのトトロ ” で、ねこバスの声を担当している。

カトリのかねてからの念願だった入学を果たせてからというもの、物語が終わりに近づいている実感が込み上げてきて、一抹の寂しさを覚えて仕方がなかった。
6年の歳月を経てようやっと再会できた母親との抱擁、馬車に揺られながら故郷へ帰る時の晴れやかな顔立ち、懐かしいペッカとの会話、そうしたものたちが一気に押し寄せてきて、万感の想いになる。

総体的に地味な話であると書いたが、非常に良質な作品である事は間違いない。「カトリは作家になった」と語られて作品は幕を閉じるのだが、様々な夢を抱きつつ生きていれば人生は多様に拓けてゆくのだと教えてくれる。
こうした物語の中にこそ、人間の細やかな悲喜こもごもが内在しているのである。




ロミオの青い空

2006年10月26日 23時19分29秒 | 世界名作劇場
放送 1995年1月15日~12月17日(計33話)

監督:楠葉宏三
脚本:島田満
音楽:若草恵
キャラクターデザイン:佐藤好春
原作:リザ・テツナー( “ 黒い兄弟~ジョルジョの長い旅 ” )



全23作品ある第1期世界名作劇場の中で今でも非常に多くのファンを持つ人気作で、つい先日初めて鑑賞し終えたばかり。まだ当分、この感銘は鮮明に続きそうである。

何と言ってもまず、オープニングの主題歌 “ 空へ… ” が素晴らしい。明日への希望を歌っているのにも拘らず、哀調を帯びた旋律が実に見事に調和しているため、聴く者の心を強く捉えて放さない。歌手の声質がこの曲に良く合っているし、主人公ロミオをはじめ、登場する様々な子供達の心情を表しているからこれほどまでに魅力を感じるのだろう。
エンディングの歌は一転して可愛らしいものになっていて、何度聴いても微笑ましく感じる程度のものだったが、最終話に近づくにつれてこの曲もしみじみとした味わいが出てくるから不思議である。

佐藤好春氏のキャラクターデザインも言う事はない。スタジオ・ジブリで仕事をした事もあるから、宮崎駿やジブリの絵柄に似た感じを受ける人も多くいるだろう。この人の描く絵は、とにかく好きだ。



物語自体についてだが、そんな素手でロウソクを持ったらロウが垂れてきて火傷をするではないかとか、逃亡生活などせずに初めからアルフレドは国王か弁護士の下へでも馳せ参じていれば良かったのではないかとか、突っ込みたくなる細かい箇所は幾らかあるのだが、そうしたものを一切打っ棄ってストーリーは観る者を引き込む。
ロミオの双子の弟の健気さ、家族の絆、人身売買の卑賤さ、そうしたものが前面に出てくる序盤からテーマは友情へと流れ込んで、それがクライマックスまでずっと通される。

アルフレドとロミオの誓いに、幾度胸を打たれたろう。これ程までに固い契りを観て、心を動かされない人は果たしているのかと思ってしまうぐらいだ。
またアンジェレッタの様な気持ちを持った子供(人間)は今や世界のどこを探してもいないのかもしれないが、そうと感じていても彼女のひたむきな他者への想いには、ただただ心が打たれる。

もしもこの物語がもっと多くの話数を重ねていたら、例えば黒い兄弟11人の、それぞれの人物のエピソードに展開させられ(その人物像を深く描き出せて)、更に彼等の友情の結束を目の当たりにする事ができただろう。また、第2代黒い兄弟のリーダーとしてのロミオの奮闘振りがもっと存分に味わえた事だろう。もしくは、アンジェレッタのその後の様子も窺い知れたかもしれない。そう思うと、この物語がそれまでの世界名作劇場と比べて少ない33話で終わってしまった事が少し残念ではある。

アルフレド亡き後のニキータの台詞、
「どこかが、何かが間違っている!」
には、大切な人を失った者がいたく共感するだろう。



“ ロミオの青い空 ” には人を魅了し、牽引する力が強く漲っている。それでいて押し付けがましさがない。
このブログの最初に記したジョルジュ・サンドの以下の言葉、
人間が誤解し合い憎み合う事から世の不幸が生じている様な時代においては、芸術家の使命は、柔和や信頼や友情を顕揚して、清浄な風習や、優しい感情や、昔ながらの心の正しさなどが、まだこの世のものであり、もしくはあり得るという事を、或いは心を荒ませ或いは力を落としている人々に思い出させてやる事である。
これが、“ ロミオの青い空 ” では快い風の様に結実しているからだ。

仮に子供時代にこのアニメに触れていたら、どんなに僕の心が強く広がり、今現在に至るまでどれだけ逞しく生きて来られた事だろう。少なくとも、放送当時に観ていれば良かったと悔やまれる。
とはいえ、今この作品に触れた事は僕にとって大きな意味があり、大きな財産となった。僕にとって宮崎駿作品と肩を並べるぐらいのものと言っても、過言ではない。

こうした友情に憧れる。芯から憧れる。--そして誰でも、きっと憧れるはずだ。

一生涯心に残る作品である。
この作品を観る事なく生涯を終えずに済んで、本当に良かったと思う。