ここ数年、「紅葉」に心を動かされ過ぎて、自分でも自分を持て余している。
美しすぎるのだ山が。どこもかしこも。
トラックの同僚に同意を求めると、決まってみんな怪訝そうな顔をする。
彼らはあれを、特に美しいとは思わないみたいだ。・・別にいいけど。
山の木々の葉っぱが赤や黄色に染まるくらい、何てことないのだ。
確かに・・・・・・・・・・・・・そうかもしれない。
それはただの、季節における自然現象なのだ。
しかし、美しいものは美しい。
試しに何枚か、写真にとってみたのだが予想通り、見事にその「感動」は映らない。
ただの「木々」しか写らないのだ写真には。
その「オーラ」みたいなものが写らない。当然と言えば当然なのだが。
しかし、考えてみたらこんな光景、もっと若かった頃にも見ているはずだし、
何なら子供の頃だって・・・・秋になればこの紅葉の風景を目にしていたはずである。
しかし過去の僕は、何にも感じなかった。
若いヤツにはわからないのだ、「紅葉」の美しさが。
確かに・・・「紅葉狩り」ツアーとかは老人が多い、という印象が強い。
女子高生がバスを借り切って「紅葉狩り」には、いかないかもしれない。
例えば幼稚園児が「紅葉」に感動していたとしたら、その光景は奇妙なものだろう。
「紅葉」の美しさはある程度、歳を重ねなければわからないものなのだ・・・・きっと。
ところでさっき「紅葉狩り」という単語が出たが、
「紅葉」を見に行くのに「紅葉狩り」という名称は、あまりにもそぐわない。
そう思いませんか。
「狩り」という行為は、動物とか獲物を殺して持ち帰る行為で、それは「狩猟」だ。
「狩猟」が悪いことではない、もちろん。(レジャーでやるならどうか?とも思うが。)
「オヤジ狩り」なら話は別だ。「オヤジ狩り」は単なる弱者標的の恐喝で、卑怯な犯罪だ。
「狩猟」に対して、「紅葉」を見て楽しむ、という行為はとても平和的で、
いい意味で受動的だ。
「草食」的でもある。
「狩り」と正反対の行為だからこそ、「紅葉狩り」は、単語として面白いのであろうけれども、
僕は違和感ばかりを感じる。
「紅葉」を見て楽しむ、という行為はもっと崇高で、悪い意味ではなく「老婆心的」である。
僕は単なる老青年であるのだが、
(自慢になどならないから言うのだが)・・・老婆心すら、持ち合わせているのかもしれない。
しかし「紅葉」の季節は、今しかないのだ。
あと半月もすれば葉っぱは落ちてしまって、山の風景は灰色に染まる。
灰色と、常緑樹の緑色だ。
燃えるような鮮やかな赤と、輝くような黄色の葉っぱを拝めるのは、あと少しの間だけなのだ。
ああ僕はもしかして映画「12モンキーズ」に出てきた、
未来からタイムスリップしてきた囚人なのかもしれない。
映画の中で彼は、海を見て感動しつつ、こう言っていたのだ(うろ覚えだが)
「俺は海を初めて見たんだ!俺たちの時代にはもう海なんかないんだ!」
と。
今の僕には「紅葉」が、とても貴重で、はかなく消えて行ってしまうものに見える。
っていうか、
そうとしか見えない。
写真は、オーラの映らなかった「紅葉」の風景。