老年者医療のコアとなる点は, 「死をどう捉え、死に向かう本人およびその家族のケアをどう進めていくか」ということにある。
まず、このテーマ、基本は延命治療についてどう考えるか、生きるということはどういうことなのか・・・に到達するのであるが、より身近な問題から具体的に考えてみたい。
高齢者は各種の疾患のみならず加齢によっても何れ口から食べられなくなる時期を迎える。食欲があっても嚥下がうまくいかないという状態である。
通常は舌・咽頭の神経・筋肉・食道が相互に連携して食べたものを胃に送り込むのであるが、何らかの理由でこれらの機能のうちのどれかが正常に動かなくなると、食物が気管支の方にも入っていく事になる。これが「誤嚥」である。「誤嚥」の結果、頻繁に肺炎が起きてしまう。 肺炎は医学的対応をで一旦は治るが、再び誤嚥して肺炎 を繰り返す。
「誤嚥」は食事時だけに生じるのではない。
高齢者の就寝中に、唾液や胃内容物が少しずつ気管に入る現象は頻繁に確認される。口腔内は黴菌が繁殖する不潔な場所である。そのために口腔ケアが勧められているが、短時間でまた黴菌が増殖する。このような状態になると、口から食べるわけにはいかないと判断される。
この状態は人間として生きる能力に限界を迎えたことを示している。私はこの状態をヒトとしての一つの節目と考える。
この時点での治療上の判断がとても大事なのであるが、高齢者の治療にあたっている主治医の大部分は、深く考えもせずに簡単に延命治療に入っていく。家族も何も知らないまま大部分その方針に従っていく。
安易な延命治療の導入こそが、患者に苦痛と忍耐、地獄の苦しみを強いる事になるのだが、医療者も家族も深く関わることをしない。
私は延命治療には消極的な考えを持つ医師である。
私が50年ほどの医師生活で担当した末期状態、節目を迎えた患者のうち、ご本人及びご家族が私の治療方針に納得して点滴や経管栄養を一切しないで死亡された患者は10数名に満たない。
点滴で水分のみを投与し、比較的短期間でお亡くなりになった患者はも50名に満たない。
人の終末期の治療・ケアの考え方は問題が多い分野である。