福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

失言閣僚(4) 失言者を責めよう 被災者も強く

2017年05月21日 17時05分07秒 | 政治・経済 国際関係
 私は人間関係、社会は建前からだけで成り立っているもので、各人が本音を語ったら人間関係も、社会も簡単に崩壊してしまう。実に脆いものだと思う。

 教育、しつけなどは本音を隠す能力を植え付けるものである。しかし、社会の一員としては大事なことである。

 政治家が相手の心情を逆なでするような言葉が発せられた場合、メディアはこぞって取り上げるし、野党側は火がついたように活性化する。
 メディアの場合は例外なく被災者たちの声を取り上げる。その取り上げ方は例外なく番組に都合のいい発言のみを取り上げる。ほぼ全て御涙頂戴式のコメントである。

 私は被災者でないので無責任な意見は控えたいが、実際の被災者の方々は大変な状況にあるのだということを認めつつ、もはやそんなに弱腰ではない、弱腰では生きられない、と思っている。災害当初こそ社会的関心も高く、被災者の方々も混迷の時期には「絆」などの優しい言葉が飛び交った。それなりに意味があったと思うがもはやそんな甘い言葉は通用しない。

 しかし、メディアで描かれる被災者のイメージは弱者そのもので、救済を待っている、優しい言葉を待っている、と言ったイメージで描く。どうもメディアが関与すると状況が変わっていく。

 災害の記憶を防災・減災の目的で使おうとすれば、体験を語る者にも聴く者にも受け入れやすい教訓に加工されがちである。その際、人々が記憶を共有することが目的である以上、悲しみや不安や恐怖からを語るのが楽である。
 しかし、被災者との記憶の共有はそもそも可能なのか。むしろ、そうした共有は期待できないという認識を明快にしていくことこそ、メディアが世論形成のために目指すべきものではないのか。今村復興相の辞任はこの問題を示唆している。担当相だってこんなものだ。議員たちの頭からもう東日本大震災・原発事故問題は消えているのではないか?

 被災された方々は声を大にして、責任ある立場の者の不遜な発言を責めるべきである。


 
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失言閣僚(3) 政治の世界の言葉 「ぼかす」、「ずらす」、「かわす」・・・  

2017年05月20日 15時24分12秒 | 政治・経済 国際関係
 東日本大震災の被害に関し「まだ東北で良かった」と発言した責任を取って今村復興相が辞任した。
 被災者の心情を逆なでする不適切な発言であった。バカなことを言ったものだと思う。多分本音を語ったのだ、と思う。

 政治の世界の言葉としてよく知られているのは、「ぼかす」、「ずらす」、「かわす」・・・である。どなたの発言であるかわからないが、ポイントをついた言葉だと私は思っている。

 私は診療時間以外はNHK AM第一放送をかそけく流している。音としてはなんとか聞こえているが、内容的には聞こえていない状況にある。大部分は聞き流しているが、ちょっとボリュームを上げ聞き耳をたてるのは国会中継である。実にくだらない論議をしているものだと思う。
 多分国会討論はあらかじめ質問票があってそれに対して閣僚とかが答弁するものだと思う。実に不自然なやりとりが行われる。総理をはじめとする重鎮以外の答弁は書面を読み上げたりで、自由な発想の論争になっていない。

 最も面白いのは安倍総理が答弁に立つ時である。
 安倍首相は手練手管にて、「ぼかす」、「ずらす」、「かわす」を見事に実行している。私が聞いていても、質問に沿っていないおかしな答弁だと思うことは頻回にある。しかし、質問者側が質問論旨を変えてさらに追求する自由はほとんど許されていないらしく、首相にごまかされたまま時間終了となり、曖昧さを残したまま終わってしまう。

 安倍首相の答弁は政治のプロ的で、見事だと思う。
 時折勇み足があって「改憲についての私の意見は読売新聞を参照してほしい・・」などと答えて顰蹙をかったりはする。それでも、決定的な間違いはおかさない。それは、本音を決して語らないからである。
 時に激昂し気色ばみ「森友、加計に関連していたら辞任・・・」と軽口を叩くこともあるが、それでも内容的には矩を超えない。

 政治はその最も顕著な世界だと思うが、社会全体の仕組みは建前からだけで成り立っているものだ、と思う。各人が本音を語ったら人間関係も、社会も簡単に崩壊してしまう。実に脆いものだと思う。

 私は人間関係はそんなものだと思っている。
 だから、今村復興相の発言は驚かなかった。不適切なとことで本音を吐いた、だけ。一方ではよく言ってくれた、とも思った。これで彼の人となりが分かっただけ良かったと思う。バカなことを言ったものだと思う。政治家としては失格である。

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徒歩通勤2017(6) 積算開始1500日目 岩手に強者がいた。

2017年05月19日 16時47分57秒 | 徒歩通勤 ウォーキング
 本日、歩行積算開始してから1.500日目にあたる。総歩行数は1.440万歩、総歩行距離は11.557Kmに達した。1日平均9.600歩、7.7Kmであった。

 開始当初、1日平均12.000歩以上、10.0Kmを目標にしていたが、この4年余の間に勤務形態が変わり、帰宅は19:00前後になったので往復徒歩通勤は困難となってペースが落ちた。現在、往路は原則として徒歩、復路は家内の車に便乗、あるいはバスで帰宅する。当初は夕方の勤務はなく、往復徒歩も可能で1日16.000-2万歩とハイペースであった。

 私は転倒しやすい。積雪期に歩くのは危険であり12月下旬から3月上旬は徒歩通勤の機会が大幅に減る。加えて最近の気力の減退がこれに拍車をかける。
 それを加味して1日平均9.600歩、7.7Kmであったはマアいいか、と妥協の日々である。

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 盛岡市上田の元高校教諭熊谷氏(70)は定年退職後の10年間、毎日ウオーキングを継締し、本年4月で8万Kmに到達した、と岩手日報に紹介されており、氏の計画実行力、気力の維持に感嘆した。

 氏がウオーキングを始めたのは大船渡工高に着任した40歳のころ。時間かあった休日に、市街地から山間岳まで神社を拝みながら気仙地区をほぼ歩き尽くした。盛岡に転勤後も継続た。55歳の時に患った直腸がんを克服し、「前向きに生きよう、歩こうという意志は誰にも負けない・・・」と、歩くことの幸せをかみしめながら15年間一歩一歩データを積み重ねてきた。
 この10年間は台風の日も大雪の日も欠かさず、歩行距離は一日平均21.8Kmで現在8万Km。1周約4万Kmの地球を、2周分歩いたことになる。
 現在は点字翻訳ボランティアに、詩吟などの趣昧に、と忙しい日々を送りながら、あと2年半くらいで「老後10万Km」の目標を達成したい、とさらなる高みを目指す。
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 私などまだデータを取り始めて4年余と短いが、氏と比較すれば完全に劣勢で、脱帽である。
 私など気力の維持にも困難し、雨が降ると背中のディバッグの中のハードディスク、メモリー、iPad 、iPod等のエレクロトロ二クス類が濡れる恐れがある・・、風が強いと危ない、などと理由をつけてはバスに頼ろうとする傾向が出てきた。

 昨年から無目標、無計画的に生きようと発想を変えたので、おそらく私は氏の足元にも及ばないレベルで頓挫することになるかもしれない。氏の姿勢は大きく評価したいが、私の場合はマイペース維持、それでいいと思っている。

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社会保障環境2017年(11) 高齢者定義の見直しと社会保障

2017年05月18日 08時40分39秒 | 医療、医学
 日本老年学会などが本年1月に高齢者を75歳以上とすべき、とする提言を発表した。
 65-74歳は「心身とも元気な人が多く、高齢者とするのは時代に合わない」として、新たに「准高齢者」と位置づけた。「あくまで、医学的な立場から検討した・・・」とコメントが添えられている。

 この提言に対しては若年層は歓迎の様であるが、高齢者からはあまり評判が良くない。高齢者達は定義変更提言が将来の社会保障の劣化につながってくる、と不安がっている。

 高齢者の定義は国際的にも一般的に65歳以上とされている。
 1950年代に国連の報告書が65織以上を高齢者としたことなどから、日本でも慣例的に高齢者を65歳以上としてきた。当時は違和感はなかったらしいが、平均余命が長い日本をはじめとする諸国にとっては必ずしもふさわしくないだろう。生物学的にみた年齢は10-20年前に比べて5-10歳は若返っている。
 童謡に、「村の渡しの船頭さん」と言う歌がある。高齢者のこの童謡ができた時代(1941年)頃は60歳で「おじいさん」と呼ばれていた。しかも、特に矍鑠としていたからこの歌が作られたと思う。現代にしてみれば80歳の・・と言う歌詞になるだろう。

 提言の中にある言葉、「元気だから高齢者とするのは時代に合わない・・」とは何を示すのか。記載はないが、高齢者の社会保障は今後薄くなることはあれ、逆は無理だろうから、「元気だから、社会保障など少なくてもいい・・」とのことだろうか。

 これまでにもこうした議論はあった。
 2012年に政府の有識者検討会は「65歳という年齢で高齢者を一律に区切ることは実態にそぐわない」と指摘して「人生90年時代」を前提とした仕組みにすべきだとの報告書をまとめている。自民党の若手グループも見直しを提言しました。元気な高齢者は社会の支え手に回らないと、今後の超高齢化社会を乗り切れない、という考えであった。

 高齢者の定義を75歳以上にした場合、現在の社会保障制度の多くは65歳以上を高齢者としており、例えば介護保険の利用や国民年金の支給は原則65歳からだから、これらの区分に影響を与える可能性がある。
 国民年金の支給開始年齢を65歳よりも上に引き上げる議論は以前からあるが、反対が強く、実現には至っていない。厚生年金の支給開始年齢は60歳から65歳に引き上げている途中であるが、方針決定から実施完了まで25〜30年ほどかけ慎重に対応してきた。
    .
 高齢者の定義の提言は出たが、社会への影響が大きいので、すぐに見直されることはな
いだろう。
 高齢者は長い人生を生きて来ているから個体差が大きい。高齢集団は多様である。健康的に問題があったり、経済的に、社会的に弱者であったり様々である。
 定義も無視できないが、このような高齢者を拾いあげる仕組みを考えてほしいし、働ける高齢者には働きやすい環境を用意してほしい。
 健康的で豊かな高齢者への社会保障は薄くし、代わりに個々の落ちこぼれを如何に拾い上げるかを考えるならばいい。

 私はこの高齢者の提言を、社会保障そのほかをめぐる高齢者制度の理念、考え方の変更に生かすのであれば賛成である。
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社会保障環境2017年(10) 保障抑制以外に改善案はないのか??

2017年05月17日 10時50分44秒 | 医療、医学
 ほとんどリタイヤした身とはいえ、私はまだ医師の一員として働いている。

 今年及び今後の医療・介護環境を見るとなかなか厳しい現実が待ち受けている。
 若者たちは全般に経済的に余裕は乏しいが、意欲があれば働くことができる。経済的格差はないわけではないがそう大きくはない。しかし子育て世代へは、厚い社会保障が必要である。

 これに対して、高齢者の経済的格差は最初から広く多彩である。高齢者に対する社会保障は決して十分とはいえないが、比較的厚い。数を背景とした民主的政治の場においては「シルバーデモクラシー」現象がある。有権者が多数で投票率も高い高齢者の意向が政治に反映される。この改善のためには、若い世代の政治参加が必要である。

 前回の参議院選から、70年振りに選挙権年齢が引き下げられた。私は長期的には大いに意味あることと考えているが、昨年の投票の結果、秋田県知事選、秋田市長選の投票率
はちょっと期待に反していた。

 全日本民医連の調査によると、昨年1年間に経済的理由で病気の治療か手遅れになり死につながった患者が58人であった、と報告されている。これは全日本民医連な加入の医療機関に調査して結果であり、全国的に見ると氷山の一角にすぎないだろうと思われる。

 「医療費か高くて病院にかかれない」、「介護サービスを減らした」、「国保税が払えず無保険になった」・・・などなど、高齢者に限らず地域では健康に問題があっても医療や介護が受けられずに困難を抱える人が増えている。
 現場ではこのような状況が増えているのに、政府は社会保障費のさらなる削減に乗り出している。高齢者医療費をターゲットにしながら、全世代に負担増を強いる。

 具体的には、
@ 入院袷食費の自己負担:1食260円→昨年360円に→来年460円へ。
@ 紹介状なし大病院を受診:初診で5000円以上の定額負担上乗せ。
@ 75歳以上保険料:軽減措置を縮小、廃止などで大幅増。
@ 70歳以上の医療費窓口負担の上限:年収約370万円程度の一般的所得世帯では、月4万4400円→この8月から5万7600円へ。 
@ 介護サービスの利用料:原則2割、一定所得者は3割負担に。

 以下は検討中の施策、
@ 要介護1と2の生活援助は保険給付から外す(検討中)??
@ 75歳以上の窓口負担:1割から2割に、後期高齢者の保険料の値上げ(検討中)??
@ 湿布薬や痛み止めなど薬局で買える薬は保険から外す、入院患者の水・光熱費負担など(検討中)??
@ 年金の支給額減、支給開始年齢も65歳以降に(検討中)??

 この施策の背景は何か。少子高齢化の進行をふまえての対策である。
 今でも国民医療費は国家予算の43%を占めて大変な状況にあるが、2025年の高齢化のピークに向けて状況は一層の悪化をたどる。従って、可及的早期に対策を開始しなければならない。国も手をこまねいているわけではない。その一つがジェネリック医薬品への切り替えである。これの効果は年間1兆円近くになっていると推計される。
 一方で、オプジーボの如くの超高価役薬が保険診療で次々と用いられるようになっている。抗がん剤のオプジーボは人当たりの年間費用が3600万円と試算されていた。国も慌てて対策し2月から薬価が半額になったが、こんな状況下ではいかにジェネリック医薬品に切り替えても医療費抑制効果はほとんどない。オプジーボはそれほど効くのか??私は経験なく具体的にはコメントできない。

 なかなか万人を納得させる名案は出てこないのが社会保障の世界である。

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失言閣僚(2) 首相が任命責任を取ると言うことは?

2017年05月16日 02時22分45秒 | 政治・経済 国際関係
 首相は最近比較的簡単に「任命責任は私にあります」、と言う。私は、失言閣僚の言葉も軽いが、首相の言葉も軽くなった・・、と感じている。

 任命責任とは何か??読んでのごとく「人選をした任命者に課せられた責任」である。

 野党側が大臣の失言を追求し、大臣を辞任に追いやり、首相の任命責任を攻め、首相に「責任があります」と言わせれば、それでいいのか?

 首相の責任を問うことはどう言うことなのか?「責任があります」と言えばそれが責任をとることになるのだろうか?

 基本的に人間は人間であり、何かしらミスをおかすものである。特に、口を開けば失言につながりやすい。
 医療事故対策の場合、人はミスを犯すものとの前提にたち対策を準備する。これでかなり事故予防ができている。

 閣僚の場合、わずか1-3度のミスや失言に対し、野党側は微に入り細に入り追求し、マスコミもそれに乗じて騒ぎ、追求の雰囲気を高めていく。最後は首相に「任命したのは首相だから責任とれ!」と騒ぐ。
 野党側は、国会論戦も十分できないのに閣僚の不祥事になるとすぐに火がつく。野党側は責任あるポストに就いていないから気楽なものである。

 私は、野党の狭了とマスコミの姿勢が安易な首切りに繋がり、業務を停滞させる因になっていると感じる。失言閣僚がやめたからといって問題が解決するわけではない。任命責任者の責任とは本来は担当者の首をすげ替えることではない。失言閣僚を辞めさせることで野党やマスコミ、世間は一時的にスッキリするのかもしれないが、こんなやり方はが長期的には国益に反しているのではないか?

 閣僚の人事においては人事権のある首相は、人選の段階で適任者をチェックし、その後も継続的に監督し、ミスがあるのならそれが大きくなる前にまえに修正する、そこまで求められているが、現実にはそう簡単でないだろう。大臣候補者は資質や技能に関係なく当選回数などから派閥から推薦される。多分、首相は推薦を拒否できないだろうと思う。推薦した派閥の長に問題がある。真に資質ある議員なら順番が来る前に抜擢されている。

 人事権をもつものの責任、すなわち首相の任命責任とは、内閣の機能と信用を回復させられるか否かであるが、それが見えないのだ。すげ替えすれば一件落着に見える。

 優秀な人材だって表舞台に立てば、口をひらけば勇み足が生じる。本音で話せば特に叩かれやすい。しかも、しつこく過剰に叩かれる。

 今村氏の言動は、残念ながら擁護できない。閣僚として働くには資質に問題があった、としか言いようがない。
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失言閣僚(1) 本音を語るバカ 首相の任命責任はなんと軽いことか

2017年05月15日 10時22分26秒 | 政治・経済 国際関係
 今村復興相が辞任した。
 東日本大震災の被害に関し「まだ東北で良かった」とした発言の責任を取った。

 被災者の心情を逆なでする不適切な発言であった。
 私が不適切というのは、各人思うことは自由だからこそ、その立場にある要人は本音と建前を厳しく使い分けてなくてはならない。復興相の発言は本音だろう。しかし、その言葉が復興相から発せられたことには驚きを禁じ得ない。

 今村氏は4月4日の記者会見で原発事故に伴う自主避難者の帰還について「本人の責任」と述べ、批判を浴びたが、これも本音だあろう。

 氏は4月25日、自民党内で講演し、「社会資本などの毀損もいろんな勘定の仕方があるが、東日本大震災では25兆円という数字もある。これがまだ東北だったから良かったけど、これがもっと首都圏に近かったりすると莫大な、甚大な被害があったと思っている」と発言した。
 私もそう思っている。しかし、東北だったからよかったは言い過ぎである。

 氏は今年1月、「復興はマラソンで言うと30Km地点。一番勝負どころ」と述べ、福島県知事から「まだスタートラインにすら立っていない地域もある」と反発を受けた。今村氏が被災地の実態を把握しているとは思えず、被災者の感覚から懸け離れている。

 これほどの無知と身をわきまえない発言から見て復興相になるべき人物ではなかった??と思う。尤も、何になってもどのポストに就いても似たようなことを繰り返すのではないか。

 2012年に復興庁が発足し、初代から数えて今村氏は5人目である。平野→根本→竹下→高木→今村→吉野氏と続く。在任期間があまりに短く、復興に尽力できたのか疑問である。
 自民党には当選回数などから見て70人ほどの入閣待機組がいるとされるが、これを処理するためのポストに用いられているのではないか?と思う。

 復興庁自体の役割への批判も根強い。私も復興庁、復興担当大臣は何をやっていてどんな実績を上げたか、ほとんど上げることはできない。スキャンダル、不適切発言の際にまた復興相なの??と思うことが多い。

 政治家の最大の武器は言葉である。武器を持たない軽装の、無責任な政治家がなんと多いことか。

 首相は任命責任を認めているが、首相の言葉も異様に軽い。首相の任命責任とはなんなのか?口先だけでいいのだろうか。
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72回目の感謝の日 まだ運良く生き延びています

2017年05月14日 04時30分46秒 | 近況・報告
 今年もなんとか5月14日を迎えられた。72歳になった。私はここまで生きられるとは思っていなかっただけに感慨深い。数人の方から祝いのメールをいただいた。感謝に堪えない。ありがとうございました。

 最近の出来事といえば、2012年秋には自転車による転倒、腸閉塞、脳梗塞を発症した。何れも厳しい状態であったが後遺症なく速やかに回復した。2015年夏、花巻温泉で滝を見に行き2mほどの高さから足を滑らして落下、頭部、腰背部を強打した。この時も大事に至らず、いずれも、千に一つ、万に一つの幸運であった。ただし、これを機会に腰痛は消失することがなくなった。

 一日の無事を願い、不用意な事故に遭わぬよう心がけているが、降雪期には転倒し易くなった。転倒は要注意事項である。
 懸案事項の一つは、右下腹部のヘルニア、手術しないで様子を見ていたが、そろそろ限界を迎えつつある。今年中には対策せざるを得まい。
 もう一つは、この1-2年、月に1度ほど自分でも理解できない腹痛が発来する。医師の立場で観察していても実に不思議な現象と思う。そのうちはっきりしてくるだろう。白か黒か、なんだろうか。

 私は、可能な範囲で社会との関連を絶っている。私には自省すべき言動が数多くあり、それを恥じている。口を開くと同じ過ちを繰り返すからなるべく他所の方との接点を持たない様にしている。社会的に透明人間的存在になりたいと思っている。自分の存在を消したいからである。

 消える日、その日までの生き方は昨年と同じだが、今後以下の如く過ごすつもりである。

(1) 私の社会的使命は終わっている。仕事は最小限の診療に限定する。
(2) 自由に、ホンネで生きる。やりたくないことは受けない。
(3) もう時間がない。だから、堅苦しくなく、意の赴くまま、気ままに生きる。
(4) 移動機能を維持する。
(5) 診療で得られた報酬の20%を岩手の復興資金に送る。
(6) 終活 ・・・、かな。しかし、遅々として進まない。

 矛盾する気持ちでスッキリしないが、まずは72歳のスタートを無事始めることができた。大きな喜び、としたい。
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わが家のゴールデンウイーク2017 腰痛とネコ対策 音楽鑑賞

2017年05月13日 17時34分02秒 | 近況・報告
 今年のゴールデンウイーク(GW)は、巷では4月29日(金)-5月7日までの9日間としているようだ。私はこの間出勤二日と日当直一回、日直一回当たっていた。それでも開放感があった。

 今回のGW期間は4月26日の起床時から生じた原因不明の腰痛に耐え、手を抜けないネコ達の世話に明け暮れた。園芸や畑仕事は全く手をつけられなかった。また、歩数が大幅に減少した。

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@ 4/29(土)昭和の日 GW初日 腰痛4日目 晴れ寒い。北朝鮮ミサイル失敗。 
 ネコタワー修理、2F和室のすだれ、網戸、障子の修理など。掃除機収納ボックス補強。クリーニング店往復。自室にてBR diskで音楽視聴:「N響定期、数回分」、「ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団来日公演 マーラー交響曲No5をインバル指揮で」。歩行7171歩

@ 4/30(日)GW2日目 快晴 腰痛五日目 
 腰痛は深呼吸、咳などの際、体動時にまだ辛い。掃除機収容ボックス強化。文献整理,データ整理など。自室にてBR disk:「読響定期:ペトリューシュカ、他」。持参の人間ドック判定処理こなす。歩行計4804歩

@ 5/1(月)GW3日目 快晴 
 健康クリニック休診、荷物運搬用一輪車修理。午後飯川病院勤務、歩行6606歩。

@ 5/2(火) GW4日目 外来 飯川病院 
 飯川病院玄関脇のポーチにナスタチウム植え付け 歩行5900歩。

@ 5/3(水)憲法記念日 GW5日目 快晴 飯川病院日当直
 長女一家来秋。歩行計5534歩

@ 5/4(木)みどりの日 GW6日目 快晴   
 腰痛再増悪傾向、ネコに破られる網戸の代わりにラティス装着。以後2Fで腰痛へ安静保持。歩数8292歩。

@ 5/5(金)こどもの日 GW7日目 快晴 飯川病院日直
 夕方一家11人が揃い、庭先でバーベキュー。私は一杯のビールで溺酔、早々に退散。Σ8941歩。

@ 5/6(土)降雨・午後晴れ GW8日目
 腰痛あり。読書、BR disk視聴:「NHKso第1793回定期公演Aプログラム:マリナー指揮、ベートーヴェンVn協奏曲、ブラームス交響曲No1」久々じっくり鑑賞。歩行計Σ4659歩、降雨、腰痛もあり自宅から一歩も出ず。

@ 5/7(日)快晴 比較的寒い GW9日目 
 F杉一家離秋。BR disk視聴:「N響定期演奏会」数回分視聴しながら本年分のN響定期のインデックス作成。クラシック関連の録画約1000タイトルとなって驚き。ネコ室の網戸修理諦め、居間間にラティス設置。歩行計7613歩、腰痛のため家から一歩も出ず。
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 今年のGWはとびとびに出勤日があったが、やはり開放感は大きかった。気持ちの上では休養になったが、この間の腰痛は結構きつく辛かった。ネコ7匹分の世話は、相手が生き物だけに手が抜けなかった。この間、私の労力を大幅に救ってくれたのがロボット掃除機「亀ちゃん1号」であった。

 この9日間の歩行数は腰痛のためにわずかに60157歩、48Km、5.4Km/dayと明らかに運動不足であった。

 まあ、まあ、家族がこれだけ集まって一緒に過ごす時間を持てたので良いGWであった、と総括すべきだろう。内容的にはシルバーウイークレベルだったけど。
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ふるさと納税2017(3) 総務省は返礼品は3割以下に?? バカな結論だ 

2017年05月12日 02時36分32秒 | 時事問題 社会問題
 ふるさと納税が返礼品の是非を巡って話題になっている。

 私は、納税者が豪華(?)返礼品に踊らされ、ふるさと納税は本来の趣旨から次第にかけ離れてきている、嘆かわしい制度と思う。
 総務省は、税制などの専門家、地方団体の当事者らから意見を聞いて課題を洗い出し、今春をめどに改善策を取りまとめる方針だ、と言っていた。税の姿をあるべき形に戻すことも独自に決められないのだろうか、と思った。しかも、出てきた結論は返礼品は3割以内が望ましい、という玉虫色の下らない提言であった。

 一方で、総務省は「地方自治体がお互いに競争することも、地域活性化のために良い」との考え方もあるようだが、やはりバカな考えでないか。
 ふるさと納税は今一度原点に立ち返って見直すべき、と思っていたが、今回の提言を見てこんな制度は止めるべきだとに認識を新たにした。

 ふるさと納税は、本来ならよその自治体へ入るべき税収を希望の自治体に振り分ける制度であり、理念としては面白い。しかし、ふるさと納税は返礼品のためにすっかりその姿を変えてしまった。

 自治体が集めた寄付金一は、かなりの部分が返礼一品に消えていく。寄付した人か住む自治体の税収も減る。地方全体で見れば税歳入は確実に減る。それを背景に納税者にはメリットがある。
 もう、ふるさと納税は一日も早くやめるべきだ、と思う。この愚かな仕組みをつくり、国民を扇動してきた国の責任は重い。 

 自治体による返礼品の買い上げで地方か活性化しているという声があるが、それとこれは別問題である。各地の自治体が返礼品に充てる金額を競って引き上げていけば、税の理念が破綻する。変な例えだが、手数料2千円で購入できる不健全なスーパーマーケット化している。
 
 納税は「教育」、「勤労」と共に国民の3大義務として憲法に定められている。国民として果たすべき最重要課題である。かつ崇高な義務である。
 それなのに、国・自治体が半ば国民の義務を「オモチャ扱い」にしているし、納税者も踊らされている、と思っている。
 
 世の中は不公平、不平等で満ちている。
 自治体、国には税を集める義務がある。ふるさと納税を大体的にやっている自治体はそうでない自治体との間で税収に不公平が生じ、結果として住民に不公平を押し付けている。ふるさと納税を受け付けない自治体には節度と慎みがあるものの、損を強いられる。
 納税者の立場で見れば、本来国民として平等に収めるべき税金をダシにして、節税、返礼品を通じて不公平な扱いを享受していることになる。

 ふるさと納税は、08年度にスタートした。総務省によると、寄付総額は08年度は約81億円だったが、15年度は約1.653億円に登った。このうち4割が納税者への返礼品の調達費などに使われている。
 返礼品を高額な品に変えたことによって納税額が著しく増えた自治体もあることから、納税の目的が返礼品にあることは確かである。

 私は、ふるさと納税は止めるべきと思う。もし続けるなら、返礼品はせいぜい1割以内にすべき、と思う。

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展覧会2017(3):県立美術館 オランダ2大巨匠展(2)

2017年05月11日 09時28分52秒 | スポーツ、相撲、芸能など
 フェルメールとレンブラントのオランダの2大巨匠展、この夢の様な展覧会が秋田で開催されている。ただし、全て「リ・クリエイト(再創造)作品」である。

 再創造作品、と言えども決して軽視するべき内容ではなかった。
 大体、せいぜい画集を見る程度でオリジナルの作品を見たこともない私にとっては、もともと区別できないからその価値に大きな差はない。
 光と影の魔術師の異名を持つこの2人の作品を一堂に集めた展示会を企画することはほぼ不可能といっていい。フェルメールの全37作品、レンブラントの選び抜かれた珠玉の30作品を、しかも原寸大のを一気に見ることができたが、そのことの意味は大きい。しかも、オリジナルと大差がない作品に仕上がっているという。

 彼らの作品の画像を最新のデジタルリマスタリング技術によって隅々までデータ化し、美術品がたどる劣化のコースも加味して、当時の色調も再創造した。このことも信じる方が幸せである。

 フェルメール作品の監修は、作品を追い求め研究し、マウリッツハイス美術館から「世界のフェルメール愛好家20人」に選ばれた生物学者の福岡伸一氏。また、レンプラント作品の監修にはレンプラント研究の最高峰「レンブラント・リサーチ・プロジェクト委員長のE・F・デ・ウェテリンク教授だという。この方の名前はレンブラントの画集などで目にすることができる。

 私は利用しなかったが、会場では作品解説の音声ガイドを利用することができる。

 最新デジタル技術を駆使したフェルメール全37点の作品を展示する「フェルメール光の王国展」は、2012年1月から東京・銀座を皮切りに全国34ヵ所、海外1ヵ所で開催され、現在では延べ60万人以上を動員しているという。
 フェルメールのリ・クリエイト作品についてはマウリッツハイス美術館の公認を得ている。

 硬い考えを言えば、美術館とは「本物」を見せる場所である、という認識が強いが、受け手側の多くは、オリジナルと複製画の区別などできない。

 私は「リ・クリエイト(再創造)作品」展覧会は初めから分かっていて、「作品をより理解できる類い稀な場」が秋田で与えられた、なんと恵まれていることか、と考えた。
 優れた技術によって作られた「複製画」と「本物」との間の絶対的な区別が質的にも曖昧化されて行き、たとえ複製であろうと絵画を見る喜びそのものが浮上してくる。そういう時代を迎えている、と私は考えている。


(会場で購入した画集とパンフレット)

 会期は5月25日までである。もう一回、できれば二回、観に行こうと思っている。
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展覧会2017(2):県立美術館 オランダ2大巨匠展(1)

2017年05月10日 07時21分00秒 | スポーツ、相撲、芸能など
 秋田県立美術館でオランダ2大巨匠展、すなわちレンブラントとフェルメール展が開催されている。開催期間は5月3日-25日までと意外と短い。

 本日、勤務フリー日であり、午後のボランティアのために病院に向かう途中で寄ってみた。
 フェルメールの全37作品、レンブラントの選び抜かれた珠玉の30作品を一気に見ることができた。この様な企画が秋田で実現したことは素晴らしいことである。
 この様な企画は、世界中の美術館や愛好家の元に散らばっている作品を一堂に集めるとはほとんど不可能である。それがこの様な形で実現したのは、展示された作品は全てオリジナルの作品でなく、全て「リ・クリエイト(再創造)作品」と言われる複製品だからである。

 「リ・クリエイト(再創造)作品」は写真による複製、コピーによる複製とは全く異なるデジタル技法を通じて、オリジナルを精密に再構成したもので、再創造品と呼ばれている。
通常の複製品の場合はオリジナル作品だけが持つ「筆の力」、色彩などの微妙さが失われるが、再創造品では忠実に再現されている。例えば、描かれた髪の毛は筆の運びに沿って立体的であり、一本一本が光を浴びて固有の光沢を持つ。

 私は日本画、西洋画とも多数の画集を持っている。また、展覧会に行った際には鑑賞できた作品を忘れないためにも、画集を求めることにしている。
 秋田にいながらの鑑賞できる展覧会はそれほど多くはないから、日常的にはどうしても画集に頼らざるを得ないが、画集の世界と展覧会は全く別物である。作品のサイズから受ける印象だけでも異なってくる。
 フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」は大小の2作品があって、小さい方が「青いターバンの少女」・「ターバンを巻いた少女」とも称されるが、概してフェルメール作品は小さい。一方、レンブラントの作品はサイズ的にも多彩である。中でも「夜警」は展示品の中でも大きく圧倒的な存在感であった。

(会場で購入した画集と入場券)

 ちょっと残念だったのは、展示会場が1Fの県民ホールで展示作品数の割に狭かったこと。入場者が20-30人程度と少なかったが、それでも次の作品の前に進む時に観客を避けて進まなければならなかったことである。それと、サイズの大きな作品を鑑賞するには十分な距離が取って鑑賞できなかったことである。

 そうは言えどもフェルメールとレンブラントというオランダの2大巨匠の多くの作品を鑑賞できたことは私にとっては驚きの体験となった。
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日本語2017(6) 日本語にして!!! 「パノプティコン社会」って何だ?

2017年05月09日 03時37分30秒 | 時事問題 社会問題
 最近、新聞等で「パノプティコン社会の恐怖・・・」などという見出しが見られるようになってきた。全く耳慣れない言葉である。内容を見ると「監視社会システム」の概念を示しているようだ。
 
 ならば「パノプティコン社会」などと言わずに「監視社会」で良いじゃないか。その方がずっと意味が通じやすい。
 新聞等のメディアが安易にカタカナ語を用いることには疑問を感じざるを得ない。特に新聞は言葉、活字を通じた情報伝達が使命である。ならば、日本語をもっと大切にしてほしい。

 「パノプティコン」の語源を簡単に示すと、中庭を持ち円形に居室が配列された建築様式の事で、中庭に全室に目が届くような監視等を持つ構造である。イギリスの哲学者ジェレミー・ベンサムが設計した刑務所施設の構想である。この構造によって監視員は少ない人数でいつも囚人を監視できる、というメリットがあった。囚人側にとってはいつも見られているという心理的負荷を感じさせ、服役行動にも影響を与えた、という。

 要するに、この構造の名前を冠した「監視社会」の事である。
 最近、種々の犯罪の捜査において、町に多数設置されている監視カメラを映像が犯人逮捕に役に立っていることが報じられる。デパートや商店の監視カメラ、マンション等の玄関等の監視カメラの数は半端でない。
 この様に、市民を常に監視しているような状況を「パノプティコン社会」と呼ばれる。

 監視カメラは犯罪捜査に役に立っている一方、市民のプライバシーはどこに設置されているかわからない監視カメラで侵害されているとも言える。
 私どもが用いている電子機器を通じても監視されている。パソコンや携帯の通信データは消去されたり、破壊されても実際にはプロバイダーとかのサーバーにデータとして残っている。一般人は閲覧できないが、裁判所の許可のもとでは閲覧可能である。これらの通信記録も「監視社会」の、重要な手段となる。

 最近、違法とされたが警察が被疑者の車に密かに装着するGPS機器による捜査も「監視社会」の考えの典型の一つである。警察側の論理は最高裁で否定された。
 個人のレベルで言えば、子供にGPSがついた携帯を持たせるとか、車につけるドライブレコーダーなど、盗聴器も監視道具の一つである。認知症の徘徊にも役立つケースもある。
 私どもは今いろいろな監視道具を手に入れることができる。そんなことを通じて何かを監視することが可能になってきていて監視することが安易に行われるが、一方では監視される側にもなっていることを強く認識しなければならない。

 いま、国会では共謀罪が論議されている。今後一層社会の監視機構は厚くなっていくことが予想される。

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日本語2017(5) 日本語にして!!! 「ユマニテュード」って何だ?

2017年05月08日 03時11分31秒 | コラム、エッセイ
 日本語が乱れている、とされているが、私は必ずしもそうは思っていない。言葉は生活に密着した生き物であり、生活の変化、時代の変化とともに変わっていく。特に現代はネット等を通じて若者中心に新しい言葉が次々と発信され、広がっていく。中には日本語としてふさわしくないものもある。

 ただ、私が憂慮するのはカタカナ語の頻用である。
 極端な話、将来、カタカナ語の間を日本語の接続詞で繋ぐだけになるような感じを受ける。
 高齢化社会である。高齢者は耳の機能が低下している。さらに、耳と耳との間にある重要な臓器の機能低下もある。日本語で済むなら日本語にしておいて欲しい。

 例として私が今まであげたのは以下の単語である。

@1 「リンデンバウム」って何だ??(2)「ローカルコミュニティーエリア」「エイジフレンドリーシティ」
@2 もっと分かりやすい日本語に(3)「フレイル」ってなんだ?
@3 もっと分かりやすい日本語に(2)「オノマトぺ」ってなんだ?、
@4 もっと分かりやすい日本語に(1)

「サルコペニア」、「ロコモティブシンドローム」 、
@5 「秋田市版ネウボラ」とは何?? 秋田市は横文字好きだね
@6 日本語2017(2) 日本語にして!!! 「コグニサイズ」、「ペアレントメンター」って?

 日本語はとてもタフな言語である。外来語を吸収する力、自国語に取り込んでしまう包容力は、世界のあらゆる言語の中でもトップクラスなのではないか、と思う。でも時に、ちょっと過剰ではないか?とも思う。

 私どもが何とはなしに使っている外来語混じりの日本語、私は安易にカタカナ語を採用して欲しくない、と思う。カタカナにしただけでイメージアップにつながるという考えであろうが、日本語は内容を示唆する名称をつけることができる素晴らしい言語である。例えであるが、英文ではDisease caused by the husbandは夫原病と訳されることが多いが、私はもっと内容がわかり易い「定年退職亭主在宅症候群」と呼んでいる。つくづく日本語っていいなあ、と思う。

 私が最近読んだ書籍に、認知症ケアの新しい技法として「ユマニチュード」が注目が集めているとの記載があった。私は不勉強にして「ユマニチュード」という単語を知らなかった。

 認知症の患者をケアする時に、目をきちんと見て、優しく触れ、話し掛けることを基本にし、患者の人間性を尊重し、患者が持つ力を正しく評価しながら、よりよいケアを目指す、そんな技術である。心ある介護担当者であれば、さりげなく体得していると思われる技術を体系化し「ユマニチュード」と表現している。

 「ユマニチュード」はフランス人のイヴ・ジネスト氏らが開発し体系化した実践技術で、患者とのコミュニケーションを円滑にさせる効果が絶大だという。「ユマニチュード」という言葉は、植民地で黒人が黒人らしさを取り戻そうとする運動「ネグリチュード」が語源という。それに、「人間の」を意味するフランス語「ユマン」を重ねた造語、だと言う。それはそれとして歴史的な意味もあるだろう。

 「ユマニチュード」の技法はそれなりに価値があると思う。その内容は賞賛したいが「ユマニチュード」と表現するのはどうかと思う。

 その道の方々がふさわしい名称を考えてくれればいいのだが、私が一例としてあげると「ユマニテュード(個性尊重の介護技法)」とでも日本語の副題をつけてくれれば、よりいいと思う。
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憲法論議2017(2) 9条

2017年05月07日 15時56分56秒 | 時事問題 社会問題
 9条に関して、仮に9条が改正され、軍隊が憲法に容認されれば、再び日本は侵略的国家へと変身しかねない・・のだろうか。短絡すぎる。平和憲法制定時の理念を守ったまま、国民の生命・財産を守り、国を守ることは出来る、と思う。平和を守るために改正しなければならない。

 日本を取り巻く事情というのは、朝鮮半島有事の可能性が現実昧を帯ぴてきたからである。北朝鮮と米国の間に戦闘が勃発すれば、日本も韓国も戦闘状態にはいる。北朝鮮のミサイル射程は米国本土迄というが、まだまだ実用的ではない。だから、在日米軍基地が狙われるだろう。韓国にいる日本人の安全も確保しなければならない。

 戦争という非常事態が生じても、あくまで平和主義を貫くべきだ、という意見がある。特に護憲派の人たちはそのように言う。「座して死を待て」、ということだろう。
 戦後憲法の基本的な理念に無理があった。9条の非武装平和主義は当時としては価値ある考え方であっただろうが、今日、もはや「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して・・(憲法前文)」と構えているわけにはいかなくなった。 

 戦後憲法の平和主義によって日本を永遠に武装解除した米国は、常に軍事大国として世界の戦争に関わってきた。しかも、その米国が東アジアの拠点として日本を利用するために、日本の安全保障まで司どっている。

 戦後憲法の平和主義と米国の傘の下で日本は大した努力もなしに平和的な歴史を重ねてきた。完全に。こうした他力本願の不自然な姿を日本はずっと放置し、かつ享受してきた。もし、仮に同盟国である米国と中国、北朝鮮が戦争状態になった場合、日本はどう行動すべきなのか。日中間で紛争、北朝鮮との間で紛争が生じた際にはどう行動すべきなのか。それさえもほんど論議されていない。国民に問いかけてもいない。米国がすべて問題を処理してくれるとでも思っているのであろうか。米軍が戦わない我が国の代わりに血を流すとは考えられない。

 憲法9条は、まず前半で侵略戦争の放棄を掲げる。後段では戦力の放棄と交戦権の否定をしている。要するに、自衛権を含めたいっさいの交戦をも否定する。今まではそれでよかった。戦後70年日本を取り巻く世界情勢のなかではそんな危機が一度も生じなかっただけである。

 主権国家の自衛権は固有の権利である。日本国憲法は他国からの脅威に対しても、戦ってはならないことになる。何しろ憲法によって制限されているからである。
 これはおかしなことである。


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