福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

秋田県の話題;人口減(2) 文明と人口

2021年03月31日 05時29分14秒 | 秋田の話題
 国は少子化対策として出生率向上を問題にしてきた。
 若い女性の数が少なくなった現在、出生率の目標値をあげるならば2.0以上に設定しなければならないが、事実上不可能な数値である。
 出生率でなく出生数を目標に掲げた秋田県の少子化対策の方が理にかなっているが、ここに至ってはやはり実現不可能である。

 何で人は子供を産むのか?何で産まなくなったのか?人口問題はそこから考えなければならない。

 わが国の人口問題の推移を思いつくまま挙げてみる。
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▪️人類は生物としての繁殖能・種の保存能のもと、新生児多死の時代を多産で乗り越えてきた。

▪️社会化と共に、種族・部族の維持繁栄のため多産傾向が一層強まる。農耕文化の発展とともにマンパワーが必要になった。

▪️蓄財が始まり、貧富差が生じた。血筋を重視した家族、家の概念が生じた。上層階級は血筋維持重視となり、下層階級は労働力としてマンパワーが必要となった。

▪️明治以降は富国強兵策を掲げ、国家による意図的な出産・育児・教育政策が画策され、人口が急激に増加した。農業生産力の増大、工業化による経済発展と国民の所得水準の向上と生活の安定、公衆衛生水準の向上等で、人口は増加の一途となった。

▪️国は、人口問題を抱え、将来は経済的に窮乏していくと考え、外に食料、エネルギーを求める大東亜共栄圏構想を打ち立てた。しかし、実現はできなかった。

▪️戦後、従来の価値観の否定と民主化があった。第一次ベビーブームが起こり、朝鮮特需で落ち込んでいた経済は急速に復興を遂げた。

▪️ベビーブームによって生まれた子どもは10歳程度でも労働力となり家庭を支えた。中学卒業後は田舎から都会の工業地帯に大量就職した。日本経済を支え、仕送り等で田舎を潤した。この頃は子供が多い家庭ほど親にとって見返りがあった。
 子供一人あたりの養育期間は15年間程度と短かった。

▪️日本は高度成長期を迎え、国民全体が経済的に余裕が生じた。家庭内の人間関係は変化し、より孤立性となる。子供は高校進学が当たり前となり、家庭内での労働力として当てにならなくなった。子供達は家の手伝いもしなくなった。
 子供の養育期間は18-19年程度。

▪️子育ては夫婦単独で、主に母親が担う。社会資源が乏しい中、妊娠・出産・子育、教育を含め、女性・母親の負担が増大。成長とともに教育費の負担が増大した。大学進学率は高まり、塾や予備校も含め教育費は子育て費用の中心となる。子供は1-2人程度。教育費の一部にするために母親がパート勤務などに出るようになった。出生率は1.3程度で改善なし。
 子供一人あたりの養育期間は22-24年程度と延びた。

▪️子供は結婚を機に親と別居。家庭が持っていた養育・介護、世代間の生活協力等の機能が崩壊。子供から親に対する経済的援助は期待できず。親にとって子育ては無償の労となった。

▪️日本経済は低迷。今後も、長期的には低成長時代を迎える。低成長時代の背景には少子・高齢化の果たした役割は小さくなかった。
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 この少子・高齢化の現実は文明がもたらす自然の摂理である。時代が悪い、世の中がおかしい、と言っても仕方がない。まず。現実を認め対策を考える必要がある。

 日本の将来に向けての国力を維持するには人口減問題にどう対処するかにかかっていた。人口問題に詳しい有識者達は半世紀も前から将来の日本の姿を予想し、主張していた。
 しかし、その声は小さく時の政治家達には伝わらなかった。

 日本は右肩上がりの成長をなしとげ、経済的・物質的豊かさを享受して来た。
 日本の将来に少子・高齢化がからんでいたのに、為政者たちはその自覚は乏しく、不可逆的事態を迎えてしまった。
 子育て世代に対する社会保障の重要性が認識されて、慌てて視点を移し始めたのはここ1-2年であるがそんなことでは出世率は改善しない。

 日本人の日本人による人口維持能力は、出産可能女性の絶対数が減少してしまった今となっては、すでにその機会は失なわれてしまった。

 改善策は、国内にはない。移民に対する捉え方にかかわっている。
 移民政策は、島国日本の文化にとって文化の崩壊につながりかねずなかなか踏み切れない問題であるが、人口問題に関しては忌避してはいられない重要課題である。
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秋田県の話題;人口減 (1)

2021年03月30日 08時41分16秒 | 秋田の話題
 県人口は今年1月に95万人を割った。2017年に100万人を割ってから3.9年で約5万人減ったことになる。近年は年間約1万4千人のペースで減少が続いている。

 2019年の出生数は4.696人、5.000人を割ったのは明治以降の統計開始以来初。1969年には18.056人も生まれていた。

 県の政策として、出生数対策をやってきた。
 ■ 2009-13年元気創造プラン第1期 出生数目標8.000人 実績は6.177人
 ■ 2014−17年元気創造プラン第2期 出生数目標6,100人 実績は未達成
 ■ 2018−21年元気創造プラン第3期 出生数目標6.000人 実績は未達成

 2010年少子化対策局設置、秋田結婚支援センター設置、全国有数の子育て世帯への経済支援で全国有数の支援内容になった。しかし効果を上げていない。
 結婚支援の強化、保育料や医療費の助成の拡充などに積極的に取り組んできた。

 急速に進む本県の人口減少、少子高齢化にいかに歯止めをかけ、地域での県民の暮らしをどう持続していくのか。

 その戦略や政策を示すことが何より求められているが、県の施策では効果を上げるのは困難だと思う。補助金によって出生率をあげることは困難である。

 出生率は文明の成熟とともに低下するのは歴史的に認められる現象である。だから、出生率を上げることではなく、子供を産める若い生産人口を増やすしかない。さらに直截的に言えば、機能する子宮を増やす以外に道はない。これは極めて困難な道である。

 人口減少に特効薬はないと諦めてしまえばこの傾向はさらに加速する。

 最善の方法は、若い人たちが秋田で生活できる様、生活環境、秋田の経済力を高めることしかない。
 産業振興策の役割は大きい。自動車や航空機産業の集積が進んでいる。とはいえ現状では若者にとって十分とはいえないし産業振興策はどこの県でも力を入れている。秋田は決して条件に恵まれているとは言えない。

 私は、農業の振興策が秋田の地にあったベストな方法と思う。
 離農を防ぎ、県内外から農業希望者を呼び込む。東日本大震災と原発事故の避難者はまだ数万人いるが、その中から農業就農者を募集する、などなど。
 さらには外国人にも就農の機会を与える、のもよかろう。
 
 人口密集地で拡大するコロナ禍を機に東京一極集中を見直す動きもある。
 リモートワークの普及により都会の企業で働きながら地方移住が可能な時代。県がこの新しい移住スタイルを積極的に支援するのも良い。
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季節の話題2021(10) サクラ(2) 盛岡の「石割桜」は私の気力のルーツの一つ

2021年03月29日 04時47分24秒 | 季節の話題
 JR東日本の月一回リニューアルされる車内誌「トランヴェール」に浅田次郎氏が巻頭随想を書いていたことがある。

 古い、ある号に南部盛岡について小文を書いていた。
 「盛岡の町、それは岩手山、南には早池峰。北には姫神山。北上川と中津川の合流する先に不来方のお城、ああ、なんと美しい町なのか・・」、「盛岡の桜は、石ば割って咲く」と石割桜を表現し、「盛岡の町並み、自然、風景は日本一である・・」、などと記載していた。
 また、ある号には北国の大学に進学するために、上野駅で夜行列車に乗り込む娘を、悲しい思いで見送る父親の心象を描いた小文もあった。名文として記憶に残っている。娘さんの進学地は多分盛岡であった、と思われる。

 彼に南部盛岡を舞台にした作品があることをその小文から知った。随想を読みつつ浅田氏がどの様に南部盛岡を表現しているのかいたく興味を感じ購入した。文庫本「壬生義士伝(上下巻)」である。

 その作品には、盛岡訛りの言葉がふんだんに盛り込まれている。江戸幕末のころの一人の脱藩武士を中心とした人間模様が語られる。しかもその当時のことを回想する語る場面がでてくるから新しい時代、と言っても明治だろうが、そのころの南部盛岡についても自然、風物が豊かに表現されている。語りの部分が典型的な盛岡弁で語られているところにある。私自身が子供の頃つかってきた言葉が次々と出てくる。半ば忘れかけていた懐かしい言葉が、言い回しが、語尾が、・・・次々と。

 私がもし盛岡近郊出身でなければ読まなかったと思う。方言を豊かに盛り込んだ小説は少なくないが基本的には読むのは嫌。方言を書き込んだ作家の中では三浦哲郎氏の作品はいい。「忍ぶ川」、「白夜を旅する人々」等々だけは集中的に読んだ。彼の場合は津軽弁だからまだ読めた。最近の作品は若竹氏の「オラオラで一人で・・・」は読めた。



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 盛岡市の官庁街のど真ん中、盛岡地方裁判所の庭先に「石割桜」と呼ばれる江戸彼岸がある。周囲21mの花崗岩の割れ目に落ちた桜の種から発芽したのか?その割れ目を広げながら成長した。1922年に天然記念物に指定された。推定樹齢は300−400年。幹周は4.6mの巨木。

 私の子供の頃は、樹勢が弱っていつ枯れるかの話題が新聞紙上を賑わしたが、有能な樹木医たちの関与で樹勢を取り戻した。
 開花は4月中旬から。
 
 (盛岡市HPより借用)

 毎年12月には「石割桜」の防寒対策が行われる。100本以上の吊り縄で枝が雪の重さから守られ、幹には厚くコモが撒かれる。開花シーズンと同様、盛岡市民は暖かい眼を向ける。「石割桜」は市民の温かい目で生かされている感じがする。

 私が中学高校の頃、冬場を除き、樹勢が衰えた「石割桜」の脇を通って自転車通学していた。片道16Kmとハードであったが、「石割桜」の生きる姿を心配し、私は力を得た様な気がする。
 「石割桜」は私の気力の拠り所の中の一つである。尊敬している、といっていいかも知れない。 
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季節の話題2021(9) サクラ(1) 日本特有の文化

2021年03月28日 17時53分43秒 | 季節の話題

 「願はくは 花の下にて春死なん その如月の 望月のころ」  西行
 これは私の最も好きな歌のうちの一つである。ここに出てくる花はサクラのことである。
 なんとしっとりとした寂寥感を伴ううたであろうか。
 サクラといっても今盛んに咲き始めたソメイヨシノではない。ヤマザクラの一種を歌ったのであろう。
 最近、森山直太朗の歌「さくら」は、春の別れと出合いの風景に、舞い散る桜のイメージを重ねた曲で、若者を中心に支持され大ヒットした。
 西行から800余年、サクラは日本人の心の琴線に触れ続けている。いや、むしろ近年の方が強いインパクトを与えている。

 わが国ではサクラの開花は真の春の到来を告げ、日本全体明るくする。日本全体が活気づく。 
 秋田でも間も無く開花が始まる。今年はとりわけ早く咲くらしいが、市内の名所の一つ千秋公園のサクラ祭りはCOVID-19にて昨年に続き今年もお預けである。

 私は自他共に認める人混み嫌悪者。だから、サクラは一人で徒歩や自転車で近隣のサクラを楽しむ。

 サクラはその特徴から簡単に擬人化される花である。こんな花は他にはない。
 咲きかた、散りかたを含め、人生のあり様に容易に重ね合わせる話題に事欠かない。

 クローン化したソメイヨシノが咲き始めた江戸末期から観桜の文化が一層発達した。ソメイヨシノが日本国中に広く植えられたのは1960年代からであるが、地域の花が一気に開花し一気に散る様は擬人化を推し進めた。

 日本人はどうしても人と同じ、という画一性を好む民族でがある。その画一性が好まれる要因の大きなファクターであろう。この民族性が種々の問題を醸し出している。
 私が嫌なのは軍国主義下の時代、国民のナショナリズムの高揚に、兵士の戦意の高揚に用いられた歴史である。サクラが歌われた軍歌、とても嫌だ。もちろん、サクラには罪はない。

 桜は代表的なものだけでも300種類はある。山桜も珍重したい。それによって多様なサクラ文化が楽しめることになる。
 ソメイヨシノの普及で画一化していったサクラのイメージ、もっと多様なサクラも楽しめばいいように思うが、生活圏の中で知れらを味わう機会は得られない。

 「満開のサクラと群木下で」、「飲酒など」、「大勢が群れる」と言う楽しみ方は世界のどこにもない文化とされる。私は真の春を迎える喜びの現れ、と捉えている。

 サクラについて蓄積した情報を検索して勉強したいと思っても、「桜」と入力すると安倍首相の「桜の会」の話題が多数ヒットする。不快である。
 
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季節の話題2021(8) 秋田の雪(7) 過疎の雪国の避難施設の一つが閉所

2021年03月27日 05時57分20秒 | 秋田の話題
 今年は県内は記録的な大雪が続いた。
 雪との闘いに悲鳴を上げている市民が大勢いた。ましてや過疎の田舎は高齢化と高齢者単独世帯で住めなくなっている。
 寒冷で、豪雪の地域ではもはや高齢者が自力で冬を越せるレベルの環境ではない。

 県内の高齢化率は現在の高齢化率は約38%、1人暮らしの高齢者世帯は約32%を占める。
 本来、田舎は農業を中心に、多世代が同居する大家族制の生活様式でなければ成り立たないものである。家族が一団となって農作業を手伝い、冬には雪と対峙し、生活の仕事を分担し乗り切ったものだ。

 人口が減少した今は、まばらにある高齢者の住宅を維持するための道路の雪よせも大変、在宅介護も大変、とても非効率的。地域ごとの共助組織があるが、そのメンバーすら高齢者である。
 住民は日用品の買い物もできない日が何日も続く。高齢者の生活はいずれ立ち行かなくなる。

 この厳しい状況に対しては、豪雪期だけでも高齢者を収容する施設を作り、集中的にお世話してはどうだろうか?
 多分高齢者は自宅の生活にこだわり、是としないだろうが、徐々に発想を転換していかねばならない。

 この様な施設が県内にあった。
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 秋田県北部の大館市にある「こぶしの家」が今月末に閉所することになった。
 老朽化のため維持費の高騰が主たる理由である。1998年設置以降、これまでの利用者は述べ130人。最後の入居者は4人で平均年齢83歳。
 「こぶしの家」は旧営林局の保養施設であった。和室6部屋があり共同の食堂や浴室もある。
 入居期間は11−3月、経費は3食食事付きで7.5万。管理員や調理員の世話で生活してきた。入居者は決して不自由だから入居するのではない。
 春になり雪が消えると自宅や田畑などが心配となり、家に戻って作業を始めるという。

 築37年の建物は雨漏りなどで、修理費がかかり閉所を決めた。
 今後は市の補助を受け大館市内の養護老人ホームが同様の業務を提供するというので機能的に消滅するわけではない。よかった、と思う。
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 私は県内にこの様な施設が何カ所あるか、不勉強にして知らない。ただ。今後はさらに必要な時代を迎える、と思う。

 また、私が子供の頃は岩手県の過疎の田舎では冬季間だけ開校し、生徒が教師他と集団生活する冬季分校があったが、今はどうなっているのだろうか。
 
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