確かに、今回の寒気は私にとっても久々である。
秋田に転居して約50年、何度か豪雪にも見舞われた。しかし、これほどの寒気の記憶はほとんどない。それでも数年ごとに寒波が襲来する。水道凍結は最低気温が-4℃以下になると危ないとされている。1-2度水道蛇口からジャリジャリと細かい氷が出てきて驚いたことがあったが、秋田では水道の水落としをしたことはない。それでも幸い凍結に至ったことはない。
ただ、寒波が来た時に私は傍観していたわけではない。私は水道管の凍結については厳しい岩手での経験があるから神経質に対応する。
私は早朝1時頃起きている。強い寒波が予想される日には1-2時間ごとに給湯器を含め全蛇口を捻って水を出すことで状況の把握と凍結防止を図ってきた。
私は高校卒業まで岩手で過ごした。新潟で学生時代を過ごし、1973年から秋田に居住した。岩手の冬季間の冷え込みは新潟や秋田に比較して明らかに厳しい。今も時折ニュースで確認しているが、盛岡は秋田に比較して4度Cほどの差がある。
岩手の冬季、気温が0度を下回るようになると、台所にあった人力井戸ポンプの凍結防止は必須であった。その役目は小学生のいつ頃からか忘れたが、私が担っていた。
凍結防止栓は台所の外にあった。極寒期、降雪期には雪を除けながらの作業で実に辛かった。
盛岡での冬季の夜は早く暮れた。夕食や入浴を早く済ませ、20時頃には翌朝用いる「呼び水」をタライに用意し、凍結防止作業を終えたが、その時間でも外にある凍結防止栓の凍結が始まっていてヤカンを持って溶かしながら栓を回したものである。幸い我が家では破裂などに至ったことはない。私のちょっとした自慢事項である。
凍結防止したポンプは母親達が朝の家事を開始する時に水揚げをしなければならない。その役目も私であった。水揚げに用いる「呼び水」は今でいえば台所のシンクの中に置いたがそれでも往々にして凍った。凍っていない状態でもちょっと動かすと一瞬に凍ってしまったこともある。当時は意味がわからなかったが「過冷却」状態の水が揺れたことで一気に凍りついたものであった。
当時はペットボトルなどはなく水はガラス製の一升瓶に2-3本に溜めたほうが作業に便利であったが、時には凍結して破損し危険であった。岩手の台所は極寒気にはそれほど寒かった、ということ。
母親や当時のお手伝いさん方の苦労が偲ばれる。
私が新潟に出る頃、古い井戸を私設のポンプで水道化し、水抜きも室内からできるようにしてとても便利になった。
今回の寒波で病院のスタッフ、患者さん方から水道管凍結や破裂の話を聞いた。私の感覚では考え難いことである。
今回は数100件の水道管凍結が発生した、という。お気の毒ではあるが、日常の便利さのもと生活感覚が甘くなったのでは??と思った。