福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

こころと体2022(45) いじめ(13) 校⻑や教育委員会の責任が分かる2冊

2022年04月30日 07時27分29秒 | コラム、エッセイ
 大津市の「いじめ関連自死」事件に関して断片的な新聞記事からだけでは情報が不足する。この事件に関しては関連著作が数冊出版されているが、以下の2冊から私は情報と知識を得た。これらから、事件の概要、「いじめ」の詳細、学校・教育委員会、加害者と保護者の責任などの詳細を知った。

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(1)共同通信大阪社会部 「大津中2いじめ自殺 学校は何故目を背けたのか」PHP新書   2013
 大津中の「いじめ」事件について、突っ込んだ取材結果が示されている。被害者や加害者、教育現場の実像に迫る努力をしている。
 報道しにくい事件を被害者・加害者の両立場に偏ることなく、調査で得られれた重要な情報を冷静に分析し真実を捉えようとした。絶対先生とかも気づいていたと思う。大人のエゴのせいでみんな傷ついた。隠さず話してほしい(全校生徒アンケート)。子供達の声も吸い上げている。
 「自殺の練習をさせられていた」生徒たちの小さな証言から事件は発覚した。ただ、加害者側への取材は難しかったのだろう。やむを得まい。
 学校と教育委員会の対応も問題で社会問題となった。
 教員は教科以外に道徳、生徒指導、部活動指導などで業務過重である。
 学校は世間の常識が通用しない世界である。今後は、開かれた学校として保護者との密接な連携や、多様な識者の参加を得て、少しでも子供の声をすくい取り、最悪の事態を未然に防いでいくしかない。
 学校、教師が置かれている状況をふまえると、「いじめ」は対症療法でどうにかなるような問題ではない。

(1)越直美著 「教室のいじめとたたかう 大津いじめ事件・女性市長の改革」ワニブックス新書   2014

(上記図書の表紙)

 市長就任前に起きた「いじめ」事件に急遽対峙しなければならなかった36歳の女性市長が自身のいじめ体験、弁護士としての経験を背景に、高機能の第三者調査委員会を設置し、その結果を受けて教育委員会と学校に面と向かった記録である。
 市長は遺族の気持ちを重視した。我が子を「いじめ」で亡くした当事者が、訴訟の被告となる自治体のトップに大きな信頼を寄せていることからも、市長の姿勢が本物であることを見抜き、結果的に和解に至った。
 調査委員会が「いじめ」に対して全国でも初めてといえるような詳細な状況を明らかした。改めて大津市の対応が如何に画期的だったかがわかる。
 この本は第3者委員会報告書の要約がメインだが、教育関係者であってもなかなか読み切れない分厚い報告書を、一般の我々にもわかり易く説明している。
 加えて、権限と責任の所在があいまいな教育委員会制度そのものの問題点をも明らかにしている。また、大津市が再発防止のために設置制定した様々なサポート組織や制度・運用を紹介しており、実際多くの自治体から大津モデルの相談を受けているとの事である。
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 しかし、大津「いじめ」事件の後も現在に至るまで全国で「いじめ」の報道が後を絶たない。昨今問題になっているSNS「いじめ」を含めると、相当根が深い問題であることが認識できる。
 文科省が2020年10月に公表したいじめの認知件数は、18年度が小学校2万4545件、中学校 11万6524件で、いずれも過去最多を更新。8年に「いじめ防止対策推進法」が施行され、学校現場に早期発見や報告が強く求められていることが増加の要因にもなっているという。







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こころと体2022(44) いじめ(12) 大津事件に賠償命令 学校・教育委員会・加害者と保護者の責任

2022年04月29日 16時37分42秒 | コラム、エッセイ
 「いじめ関連自死」事件を追っていると学校自体の問題に加えて「教育委員会」の判断がネガティブな判断をして事実解明の足を引っ張っていることが多い様な気がする。正当にその任務を果たしている「教育委員会」もあると思われるが、私が集めたケースの中にはその様な例は見られない。

 「教育委員会」は門外漢には何しているところかわからない組織であるが、大津市の「いじめ関連自死」訴訟を通じて「教育委員会」の責務が問われた。

 「いじめ」を苦に2011年10月、当時中学2年の男子が大津市の自宅マンション14階からから飛び降り自殺した。「市教育委員会」は当初、いじめと自殺の関係を不明としていたが、市が設置した外部の第三者委員会が13年1月、因果関係を認めた。 
 遺族が市などに損害賠償を求めた訴訟で、15年遺族側と市との和解が大津地裁で成立した。自殺を防げなかったことや、「学校」と「教育委員会」の対応に問題があったことを謝罪した。

 和解では元同級生から殴られたり、持ち物を隠されたりした計19件のいじめを認定。「学校」が男子生徒へのいじめ行為を認識し、自殺を予見できたのに適切な対応をしなかったこと、「市教育委員会」が学校の調査打ち切りを追認した責任について、市が謝罪した。
 安全配慮を怠った市は賠償責任を負うとして、賠償額を4100万円と算定。支払い済みの死亡見舞金2800万円を除き、1300万円を和解金とした。

 この和解とは別に、遺族が元同級生3人と保護者に損害賠償を求めた訴訟で、大津地裁は2019年2月、元同級生2人に約3700万円の賠償を命じる判決を言い渡した。裁判長は「いじめが自殺の原因で、予見可能性はあった」と 述べた。もう一人の同級生について判決は、「一体となって関与していたとまではいえない」として、賠償を命じなかった。 

 「いじめ」で人を死に追いやったり傷つけたりすれば、子どもでも厳しく責任を問われうる。社会にそのことを認識させる画期的と言える判決である。再発防止に生かしたいものである。

 この事件では、「いじめ」のむごさに加え、「学校」や「教育委員会」の対応の鈍さや保身に走った振る舞いが指摘され、「いじめ防止法」の制定につながった。

 「いじめ防止法」は二つの柱を掲げる。
 教職員らの情報共有を徹底し、「学校」が組織として対処する。自殺や長期の不登校などの「重大事態」が起きたら、すみやかに調査に着手し、事実関係を解明する、というもの。

 だが、実践はなお遠い。
 公表されている各地の「いじめ関連自死」調査報告書を見ると、判で押したように「情報共有の欠如」が指摘され、真相究明に後ろ向きな「学校」や「教育委員会」の姿勢がしばしば批判の対象になっている。

 教員の多忙の解消が社会の課題になるなか、さらに業務を増やすのかとの声もある。だが、「学校」側の「いじめ」に対する認識の甘さ、危機感の薄さは驚くばかりである。先生たちは重く受け止めてほしい。

 教育関係者は何を考えているのか??これほど「いじめ」が問題になって多数報道されているのに、自分達は関係ない、とでも思っているのだろうか??


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こころと身体2022(43) いじめ(11) 教育委員会とは何するところ??

2022年04月28日 04時29分10秒 | コラム、エッセイ
 「いじめ」のニュースなどでは「教育委員会」での判断が問われることが多い様に思われるが、教育委員会て何をしているのかよくわからない組織である。
 しかし、学校教育の中では大きな権限があるから学校教育を語るさいに決して無視できない。

 そのために「いじめ」の際に学校と同じ立場で、あるいはそれ以上に話題になる。
 私は「いじめ関連自死事件」についてのニュースを追っているが、大津市、神戸市、横浜市、仙台、青森、茨城、取手、岩手矢巾町、そのほかの例でも教育委員会はネガティブな意味での判断をして事実解明の足を引っ張っている。大津市のいじめ問題でも、他のいずれのケースでも「教育委員は何をしてたのか」と疑問の声がある。
 これは何故だろうか?

 教育委員会は学校その他の教育機関を管理し、学校の組織編制、教育課程、教科書その他の教材の取扱、及び教育職員の身分取扱に関する事務を行い、社会教育その他、教育、学術及び文化に関する事務を管理する。
 教育委員会は都道府県と市区町村に置かれていて、全国で1600以上もの委員会があり、地域の教育行政の方針を決めている。委員は原則5人で、教員人事や学校の教育の方針を決め、 使う教科書の選定、地域の文化財の保存など幅広い。 教育長は首長に任命される。教育委員が話し合いで方針を決め、それに従って自治体職員らの事務局が実務を行う。

 委員がどんな人がなるのかは特に決まりはない。教育学者や教員経験者のほか、地域団体の長といった「地域の名士」やPTA役員経験者も多い。事務局トップの教育長も入るが、教育行政に関する「人」が加わって方針を決める点が特徴となっている。

 決定内容は重要な項目が多いが、素人も参加することがある教育委員会に大事なことが決められるのか否かに関しては以前から問題として指摘されている。委員は非常勤で、定例会は月1~2回。だから会議では、玄人である事務局の方針を追認するケースが大半らしい。「形骸化している」と批判される所以になっている。実際に「いじめ関連自死事件」を追っているとそう思わざるを得ない事例にぶち当たる。

 教育委員会が作られた背景は、過去に無謀な戦争に突き進んだ政治に、教育も引きずられてしまったという戦前の反省からである。政治から距離を置き、首長が直接舵を取らないようにする。教育は住民に身近な問題だから、一般人も加わって幅広い意見を反映させようとしてる。そういう理念が十分生かされているかは門外漢にはなかなかわからない。

 それでも、最近は「教育の責任の所在があいまい」と見直しも提起されている。 

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こころと身体2022(42) いじめ(10) 義務教育とは、学校とは

2022年04月27日 07時40分51秒 | コラム、エッセイ
 「いじめ」が成立するためには、被害者が簡単に逃れられない環境が関係している。我が国では義務教育は学校での教育を基本にしており、これが閉鎖的環境を作っている。学校は自由が乏しく子供たちの行動を大きく規制しているが「義務」ではない。この辺が誤解の元になっている。

 憲法には国民の様々な権利が規定されているが、国民の義務として規定されているのは、『教育の義務』『勤労の義務』『納税の義務』だけである。

 「教育の義務」は憲法26条に規定されている。
1項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

 無償とは「授業料の無償」を意味する。
 義務教育は9年間。義務教育は子供たちの「権利」ではあるが「義務」ではないとしている。義務は市町村と保護者に課せられている。

 私立中学は、学校法人として教育理念を掲げている学校。全国における中学生のうち、7%が私立中学で学んでいる。義務教育であるが、授業料は有償である。

 制度としては、教育義務型と就学義務型がある。日本は後者で、学校へ就学しそこでの教育によってのみ義務教育が行なわれる。
 学校教育法の第38条、49条で市町村は、その区域内にある学齢児童を就学させるに必要な小中学校を設置しなければならない。

 そのため、保護者は、学齢期の子供を地域の小中学校などに通学するように取り計らう義務がある。

 これは6歳から15歳までの9年間を義務教育期間とし、完全な年齢主義で運用するようにしたものである。
 保護者が子供が学校に就学できるよう充分な便宜を図ったにもかかわらず、子供自身が登校しない、あるいは出来ない10万人超の不登校者問題が生じている。最近では民間教育施設への通所も出席に算入できるようになり、さらに中学校卒業程度認定試験(中検)と大学入学資格検定(大検)を経れば大学に進学できるようにしたなど、就学義務制は緩和されており、就学に代わる家庭教育も可能になりつつある。

 しかし、国際学校、外国人学校、民族学校などをはじめとする無認可校に子女を通わせる保護者は義務教育不履行と教育委員会から通告を受ける場合がある。

 ここで教育委員会とは何かという疑問だ生じてくる。
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こころと身体2022(41) いじめ(9) 時代の変化と少年の心の変化

2022年04月26日 05時13分05秒 | 未分類
 かつて、子供の立場で大人を批判した自分であったのに、親になっていつしか立場が逆転していた。子どもの反抗や指摘に、一方的に大人の立場を押しつけている自分に気づき愕然としたことが何度かある。

 時には声を荒げたこともあった。でも、それにもかかわらず、三人の子どもはつまずくこともなく育ってくれた。数知れぬ私の失敗にもかかわらず、である。

 さて、「少年期」は子どもが親の庇護から離れ「生き方を分ち合うような仲間を広く求めるようになる時期」であり、これはいわば自己中心的ながら「社会化の時期、または最初の社会的人格の成立の時期」、とも言える。

 つまり、それ以前は両親の像を通してのみ社会を見ていた子どもが、同年輩の遊び仲間を通じて直接的に社会と接触するようになる重要な時期となる。どのようにして社会的に適合するか、またどのようにして他人とうまくやっていくか、を学ぶ時期である。

 同じく「少年期」といっても、時代を通じて不変なものもあるし、時代の変化と関わりながら、たとえば戦前と戦後ではその様相が多きく変わってしまった。同じ戦後でも、さらに細かくみれば、各年代ごとに微妙な変化がある。

 かっては近所の子達はたいてい仲よしであった。お互いの家には開放的な縁側があり、その家の家族も含め勝手知ったるわれらが領分であった。ところが、今は、各家々は一つ一つが独立して一枚のドアで仕切られている。

 家へ帰れば、TVという受身一方の情報が流され、その間にもあれこれと制約を加えられて、少年たちが自主的に生きる空間と時間の「自由」を選択することなど、どだい困難な状況になっている。
 これは、核家族化や住宅事情の変化に伴う団地化などとも深く関わりあっており、私どもの少年期の環境を「自由・開放系」とするなら、現代のそれは「不自由・閉鎖系」と言わざるえない。

 こうしたなかで、家族内の不和とか経済的困難とかの何らかの不安をもたらす要因が生じれば、少年たちの心にダイレクトにその影響があらわれてくる。

 少年少女たちの大部分は、自身たちが招いた問題というよりは、周囲の環境に影響されたもので、いわば自我が弱い立場の子どもが一番最初に犠牲となる。

 少年たちにとって一番大切なのは、彼らの自由な空間と時間の保障である。年少者にとっては「遊び」の保障であり、年長者にとっては「自主性」の保障が大切である。そして、それらをやさしく見守る親や教師の心の「ゆとり」が必要である。

 子ども時代に祖母や母のやさしさを経験せず、少年時代に遊びを通じて少年らしさを発揮することのできず、大人になったとき、その分だけの、いやそれに数倍する代償を払わされることにもなり得る。
 少年期の時の経験は、あらゆる面でその後の人生に影響を与えるのだ、と思う。
 「いじめ」への対応も同様である。
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