福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

こころと体2022(66) 自己肯定感(9) 外向き自己肯定感と内向き自己肯定感(2)

2022年08月31日 07時51分36秒 | こころと体
 私の自己肯定感はひどく低い。だから、「必死に周囲に合わせて」生きて来た。単語として並べてみると「イエスマン」、「八方美人」などなどの人間像に合致する。この言葉は本来大嫌いな言葉なのだが、人嫌いの私自身の処世術の一つ、として身につけた。

 私は真面目に生きてきた。 必死に努力してきた。 結果として、社会的に見れば「日の当たるコース」を歩んできた、と評価すべきだろう。その立場だったから経験できたことも多いし学んだことも多い。それなのに人生の満足感はとても低い。
 喜寿を迎えるまで生きた現時点で振り返ってみて、「三人の子を育てたこと以外に意味のある足跡は何もない・・・」、と思っている。私は自己を誇るものは何もない。そう考えるのは私の自己肯定感が低いから、と思う。

 一方では、私は個人的には自己満足のレベルでしかないが、ほぼ満足できる良き人生を歩んできた。

 (1)だから、私の場合の自己肯定感は、外的なものと内的なものに分けて考えれば良いと思う。

 (2)私が言う「外向き自己肯定感」は社会的な肯定感、「内むき自己肯定感」は全く自分一人の個人的な問題である。

 (3)「外向き自己肯定感」は、友人関係の付き合いと、医療や病院管理、医師会などの仕事上での問題に分ければいい。
 前者に関しては人との付き合いを中心に考えると、本当に自分をあまり主張することなく、人を傷つけることなくソフトに生きてきた。だから私には「知人はいるが友人はいない」。多分、他人から見て「毒にも足しにもならない、影の薄い、人がいい、都合のいい」人間だったのであろう。
 「日の当たるコース」については、大きな誤りを経ずに過ごし得たが、自分で評価すべき実績は残さなかった。今更ながら、その地位を占めていたことを恥ずかしく、罪深いことと考えている。だから、それを恥じて今は「準引きこもり状態」で過ごしている。私はよき社会人では必ずしも無かった。

 (4)一方、「内ち向き自己肯定感」は全くパーソナルな問題である。この部分に関しては確個たる自己肯定感があった、と考えている。「内ち向き自己肯定感」の面から考えれば、「継続は力なり」の格言に沿って生き、いい人生であった。スケールは小さいがやりたいことは大抵やってみた。この徒然日記、福田の雑記帳はその一例である。乏しい「外向き自己肯定感」を十分補完して生きる力をもらった、と考えている。

 要するに、自分の世界の範囲だけでは自己を心置きなく発揮できていたし、そのことが拠り所となって楽しく生きられた、と思う。今も「準引きこもり状態」に自分を置きながら、この内向き自己肯定感を満足させながらチマチマと生きている。


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こころと体2022(65) 自己肯定感(8) 思春期の自立を支える自己肯定感

2022年08月30日 04時57分25秒 | こころと体
 生後間も無くの赤ちゃんは、親から引き継いだ個々の性格の素地は備わっているが、画材で言えば白いキャンバスの様なもの。毎日のコミュニケーションを通じて徐々に色が塗られていく。その頃に塗られた色が将来の基礎になる。赤ちゃんは脳や心の発達進化から言えば「白ちゃん」と呼んでいい。
 脳機能の発達進化は、従来から言われていたよりもずっと長い時間が必要で、人間の場合約25年かかる、という。【人の発達の謎を解く(明和 政子京都大学教授 ):ちくま新書】。

 自己肯定感は乳幼児期に求めた甘えをしっかりと受けとめられ、この世界が温かく安心できる世界であるという信頼感を獲得していく過程とも言いうる。それを育てるために、「共感的な他者」の存在が大事である。それが親であり、家族である。子供は共感してくれる他者との交わりの中で、「自分を受容し、 自分を信頼する心」を育ていく。この心に住みついた 「共感的な他者」を真似ながら、子どもは「自分がこれで大丈夫なのだ」という心を育ててゆく。


(優しい家族像を描く「にしださちこ氏」の作品 日経の2022.8月クイズ欄より借用 とても暖かい家庭像で私の文脈に合っている)

 思春期に至り、自分の頭と心で立ちあがり、「自分が感じたこと」 「真実心を動かされたこと」などの体験を自分のものとして行く過程が必要である。それを内面から支えるのは「自分がこのように感じ、このように感動する自分であってよいのだ」という自分自身への信頼、すなわち「自分が自分であって大丈夫なのだ」という「自己肯定感」である。

 ところが、共感してもらえず、それを受け容れてもらえない子どもは「自己肯定感」を育むことができない。 親や家族から思ったことを否定され続けられれば、自分が素直に感じたことを、いけないことであるかのように感じ、罪悪感のような感覚をもちはじめる。
 そのうち、親と同じに感じないといけないような気がしてくる。
 それがさらに進行すれば、親が好きだと感じそうなことを先取りするようになる。そうすると親は満足して「そうだね」と肯定してくれる。親の顔を窺いながらビクビクと落ち着かなく生きる子供が出来上がる。
 
 そして、いつの間にか、親の感情と自分の感情とすりかわってしまう。こうして、自分自身の感情を見失っていく。 
 親の感じ方、価値感 (観)を押しつけ、子どもに共感できない親は、こうして子どもの感情を奪っていく。

 こんな状況は、躾や教育なのだと置き換えられることがあり、こんな環境の中では芽生えてきた自己肯定感は摘み取られてしまう。

 私の環境はこれに近かった。
 私を救ってくれたのは、本の中の言葉であり、ネコの存在であった。

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こころと体2022(64) 自己肯定感(7) 幼少・少年期(少女も含む) 自己肯定感に大事な時期

2022年08月29日 17時42分34秒 | こころと体
 職業柄、とはいえ私は小児科医ではないから滅多にないが、心に傷を負った子どもたちに接する機会がある。子供のこの様な病的(?)状態こそが、子供を取り巻く社会や環境、その過程が抱える問題の表れであろう。いわば、自我が乏しい時期の子どもが社会や環境の犠牲になっている。 
 
 子供は、時代とか社会とか周囲の環境に影響されながら育つ。
 私自身が、自分の育った家庭と過程、成人してからの子育ての経験、孫たちを観察することを通じて観察したその親達、について以下の如く感じ取っている。
————————————————————————
 
 少年たちにとって一番大切なのは「自由な空間と時間の保障」、である。
 年少の子供たちにとっては「遊び」の保障であり、年長の子供たちにとっては「自我の成長に合わせた個性の尊重」が大切なのではないか。 
 そして、それらを見守る親の心には「ゆとり」が必要である。 

————————————————————————
 
 世をあげての「教育」「教育」と叫ばれている今日、私の感覚など時代錯誤的、寝呆けたこと言っている、と自分でも思う。が、「遊び」 や母の「やさしさ」、家族たちの「やさしさ」を味わうことができなかった子どもが将来どんな大人になっていくか、考えただけでもゾッとする。大人になってから、その分だけの、いやそれに数倍する代償を払わされることが多いのではないだろうか。

 私は世を震撼させた大事件に関するの詳細な記述本が出ると積極的に集めて読んでいる。メディアの報告だけでは何もわからない。それらを読むと、今更ながら、少年には真の「自由」を保障する時間と空間、それに少年らを受け入れる親のやさしさとゆとりが大切だと、つくづく思う。

 参考となる文献は50冊以上手許にあるが、その一部を例として示した。
  ○一橋文哉  尼崎連続殺人事件の真実 
  ○一橋文弥  オウム帝国
  ○永田洋子  16の墓標(連合赤軍/あさま山荘事件)
  ○森 達也  相模原に現れた世界の憂鬱な断面(障害者施設19人殺害事件)
  ○佐木隆三  深川通り魔殺人事件
  ○杉山 春  虐待 大阪二児置き去り事件
  ○中島岳志  秋葉原事件(通魔事件)
  ○共同通信取材班 大津中2いじめ自殺
  ・・・・

 これらの文献中には「残念な少年期」を過ごした若者達の実例が示されている。だからと言って犯した罪が軽減されるべきものではないが、犯人の心理的背景の一部は理解することができる。

 私はもう何ができるわけではないが、子育ては「子供達の自己肯定感形成に大事な時期である」ことを機会があれば示したい、とは思う。

 
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こころと体2022(63) 自己肯定感(6) 私の自己肯定感はなぜ低い? 優秀な兄と従兄弟

2022年08月28日 04時24分51秒 | こころと体
 自己肯定感について再度考察を進める。
◉今までの自己肯定感の記述
(1)こころと体 自己肯定感(1) 私は自己肯定感が身に付かなかった
(2)こころと体 自己肯定感(2) 対人関係で漫然とした不安感・恐怖感
(3)こころと体 自己肯定感(3) 私は一見優しいイエスマン 
(4)こころと体 自己肯定感(4) イエスマンは不満を抱えているが、私は・・・ 
(5)こころと体 自己肯定感(5) 外向き自己肯定感と内向き自己肯定感

 私は自己肯定感がとても低い。言い換えれば劣等感の塊とも言える。私は何でこんなに自己肯定感が低く育ったのだろうか。この歳になって今更どうしようもないが、自分の足跡として振り返ることは重要であろう。

 自己肯定感は小児期に形成される。
 小児期は人間形成の中でとても重要な時期である。

◉私が育った家庭環境は以下の特徴があった。
 問題を感じるが、時代の問題、社会の問題の反映であり、さらに家庭の個別性があり、誰が悪いわけでもない。私の環境がそうだったということ。
 文章化するとニュアンスがボケるが、私はこの環境を全てネガティブに捉えているわけではない。

―――――――――――――――――――――――――――――
○厳格な祖父が我が家の空気を全て支配していた。躾も厳しかった。私は常に恐怖を感じ、萎縮していた。抜き身の刀を持って追いかけられた時には死の恐怖を味わった。小学5年祖父から解放された。
○父母の影は薄かった。母は多忙で甘える雰囲気ではなかった。父から時折投げられる嫌味がこもった言葉では傷ついた。
○母よりも住み込みのお手伝いさんの手によって育てられた。
○私は二人兄弟で、11歳上の兄はとても優秀で、長男として大切にされていた。全てにおいて比較の対象であり、私は常に劣勢の立場であった。兄と同じ中高一貫校に進んだが、耐え難くて2年で中退した。2015年死去し、私は長い呪縛から解放された。
実兄死去に際して(3) 兄と比較され常に挫折・悲哀を味わって成長(1)https://blog.goo.ne.jp/mfukuda514/d/20150117
○同年齢の従兄弟が盛岡にいて、常に比較され続けた。私は田舎者で常に劣勢の立場であった。高校は将来の進路が同じだったから3年間同じクラスで学んだが、辛かった。彼は東北大医学部に、私は新潟大に進みこの時点で私は解放された。
○書籍は豊かに与えられた。書籍から生きるべき道を学んだ。
○1匹のネコと出会い、小一から高卒まで13年間共に過ごした。彼女は私の全てを受け入れてくれ、心からリラックスできた。大きな存在であった。
―――――――――――――――――――――――――――――

 この環境は心理的には厳しかったが、これを私はポジティブなエネルギーに変換することに成功し生きる力を得た。しかし、自己肯定感の確立にまでは至らなかった。
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徒歩通勤2022(2) 歩行は高齢者にとって最も基礎的運動だが

2022年08月27日 05時15分31秒 | 徒歩通勤 ウォーキング
 今、私は伊能忠敬の足跡を辿りつつ、2回目の日本一周に挑戦している。 一昨日、北海道を終了し秋田に渡った。

 2回目の日本一周スタート日は2020年4月15日だから、北海道終了まで861日かかった。
 

(ズルして2015年の第一回目の秋田終了時の状況を示した)
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 2022年8月25日現在の歩数計のデータ(積算開始後9.4年間)
   全歩数 3.120万歩 / 3433日=9.359歩/day
           距離累計 24.966Km / 3433日=7.27Km/day
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 徒歩通勤を始めた頃にはファイト満々であった。一日25.000歩に達したこともある。この頃に比較すると歩行のモチベーションが低下している。ただ、積算開始後9.4年間のデータを各年ごとに見てもモチベーションの低下は数値上からははっきりしない。そのデータを見てまたちょっと元気が出てきた。
 秋田の海岸線は266Kmと北海道の一割程度である。短期間に通過できるだろう。

◉ここで、高齢者にとって歩行の意義を考えてみる。
 野生の、原野に住む四つ足動物は生まれてから30-60分で立ち上がり自分で哺乳を始める。これが上手くいかないと死に至る厳しい現実がある。

 ヒトの場合は生後は寝返りもできない。手足をバタバタさせているが筋力はほとんどない。狭い子宮の中で制限されていた四肢の自由運動を味わっているのだろう。個人差が大きいが、赤ちゃんが寝返りするのに4-6ヶ月ほどもかかる。ハイハイは8-10ヶ月、立つのは10ヶ月、歩行開始もそのことからやっとである。
 ヒトの場合、これほど時間がかかる理由は立位歩行の準備のためである。立位歩行のためには全身の筋力、特に骨盤周辺、下肢の筋力が強くなくてはならない。それに必須なのはバランス感覚である。

 ヒトの場合、異常に生存期間が長い。筋力が最も充実するのは30歳代でそれ以降は徐々に退行し10年間で5%ほどずつ減少し、成長の逆コースを辿って立位歩行→つかまり歩行→立位歩行不可でハイハイ移動期→寝たきり状態になる。

 歩行関連筋肉の退行は避けられない。100寿者では寝たきりは男性で 20.0%, 女性で 33.9%であり,全体として約8割の百寿者が日常生活に何らかの介護を必要とした(東京都健康長寿 医療センター)。

 その意味で高齢者が自分で可能な範囲で日常から歩くことの意義はとても大きい。しかし安易にサプリメントに頼っている方が多い。

 私もその視点で日常の行動を考えていて、可能な範囲で努力している。
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