福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

本:「10代に語る平成史」後藤謙次著 岩波ジュニア新書 2018年 900円(2)

2018年11月30日 16時05分26秒 | 書評
 著者の後藤謙次によると、本書は白鵬大学での講義内容をベースにまとめたものとのこと。
 次の新しい時代を迎えるにあたって平成を振り返ることには大きな意味があるのでしょう、と述べ、「10代に語る平成史」として出版した。内容的には「70代の私のための平成史」として十二分に通用する。

 あとがきの中に後藤氏は以下のように平成時代の流れをまとめている。表現を適宜変え、若干のコメントを追加し、以下に紹介した。

■ 1945年の終戦以来増え続けてきた人口が減少に転じた。
 少子高齢社会はあらゆる面で日本社会を変えている。出生数が減り、65歳以上の高齢者は4人に1人を超えた。
 労働人口が減り、杜会保障費が膨れているのが現状。
 国際社会の激変によつて、日本の立ち位置が大きく変化した。米ソ冷戦構造が崩れ始めたのも平成元年(1989)。
 しかし、冷戦の終わりは平和の時代の到来ではなかった。米ソの超大国によった力の均衡から民族や宗教を背景にした争いが始まり、2001年9月11日、NYの世界貿易センタービルが過激派によつて破壊された。米国の対テロ戦争がはじまり、日本は米国の要請に沿い、自衛隊を海外に派遣した。

■ 国内では憲法9条をめぐる議論が活発化した。
 そして中国が台頭し、北朝鮮の核・ミサイル対応をめぐつてアジア情勢が大きく揺れたのも平成時代の大きな特徴である。

■ 私たちの生活も激変した。
 ネット社会の到来、携帯電話が普及した。ネット社会は超便利社会を到来させたが、人間の心理状態にも大きな影響をもたらし、新たな脅威にもなつた。
 携帯電話が普及する前に書かれた小説等を読むとその生活の不便さがよく分かる。それだけ携帯電話、スマホの存在は我々の生活、特に人間関係は一変した。

■「格差社会」の到来。
 「改革」や「規制綴和」という前向きの改革によつて様々な分野で賂差が生まれた。労働者の『非正規雇用」は4割を超えた。

■ 社会を映し出す犯罪が頻発した。
 オウム真理教による地下鉄サリン事件、秋葉原の無差別殺傷事件、親による子供の膚待死も頻発。
 虐待の背景にはしばしば貧困と孤立が指摘されている。

■ 五輪やパラ五輪で多くの選手が活躍、野球の米大リーグが身近になった。
 ノーベル貫の日本人受賞者が数多く誕生した。

 平成時代は、日本人が目標を見失った時代であり、探し求めた時代だつた。まだ模索中としか言えないが、それが平成の時代なのだろう。
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本:「10代に語る平成史」後藤謙次著 岩波ジュニア新書 2018年 900円

2018年11月29日 08時35分22秒 | 書評
 「平成」はどんな時代だつたのか。
 私は平成になった1989年時点で44歳であった。
 長く勤務した中通総合病院のキャリアで示すと、14年に副院長、17年に院長、23年に退職、ということになる。この間、医師会の活動もあったので実に多忙な時間を過ごした。もうその頃の考え方には戻れないし、思い出すのも嫌であるが、日々の状況はバッチリ記録されている。

 私自身の過ぎ去った日々は懸案事項を一生懸命こなしながら生きてきたが、いま思い返せば忙しかっただけでいい思い出はそれほどない。虚しい時間でもあった。60歳の時に転職を考えたが実行できずにズルズルと過ごしてしまった。できれば消してしまいたいくらいである。

 だから、今なお平成の時代は自分にとって何なのか評価しきれないでいる。

 その平成も2019年4月30日で幕を下ろす。そこで自分にとって平成の時代何だったのか、新年を迎えたら4ケ月をかけて主な歴史上の出来事と共に自分自身を振り返りたいと思っている。
 そのガイドブックとしてこの本を求めた。類似の書籍も数冊出版され始めている。それら何はも求めたいと思っているが、入門書としてまずこの書籍を入手し読み始めた。

 平成とはどんな時代だったのか?この本のあとがきとしてアンケート調査の結果が載っている。
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「動揺した時代」42%、 ■「沈滞した時代」29%、 ■「進歩的な時代」25%、 ■「保守的な時代」412% 、■「安定した時代」19% 、■「暗い時代」9%、■「活気のある時代」6%、 ■「明るい時代」5%、とのこと。
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 私は現時点では、東日本大震災、阪神・淡路大震災、東電福島原発事故など何度も大きな自然災害、人災が起き、商店街は「シャッター街」化、少子高齢社会、人口減、国際社会の中の立場の変化など・・・、分類上は「どちらかと言うと暗い時代」だったが、同時に「変化の時代」であったととらえたい。

 平成の時代になって、私たちを取り巻く生活環境が一変したとも言えよう。

 本書の内容を目次の項目で示す。
(序)全ては平成元年から始まった
(1)平成政治の主役は消費税
(2)政治を激変させた選挙制度
(3)バブル経済の終焉と失われた20年
(4)今も続く沖縄の苦難
(5)9/11が変えた日本外交
(6)近くてはるかな北方領土
(7)平成は自然災害の時代
(8)中国の台頭と日中関係振幅激しい日韓関係
(9)ゴールが見えない日朝関係

 まだ読みきっていないが何も適正な項目にまとめてあるように思う。
 読み進めるのが楽しみである。
 
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「美しい」論(3) 「美しい」という言葉は安易に使われすぎている

2018年11月28日 05時21分51秒 | コラム、エッセイ
 「美しい」という言葉は安易に使われすぎている、と思う。
 ここ2週間ほど、購読している3紙、購読している月刊誌の記事の見出し、広告記事に注目して集めてみた。書棚にも「美しい」というタイトルの本が2冊あった。
 
 以下のごとくの文例が見つかった。

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■ 「若くなるには、美しくなるには」 ■ 「美しく心暖まる作品だが,不安も」 ■ 「おしゃれ 美しく振舞う」 ■ 「美しく老いる」 ■ 「美しい笑顔になる」 ■ 「美しい文章を書く ■ 「美しく食べる」 ■ 「美しく振舞う」 ■ 「美しく老いる」 ■ 「美しい若者よ」 ■ 「美しく美談に仕上げた戦場の話」 ■ 「美しい夕暮れ」 ■ 「LED明るさから美しさに」 ■ 「あの眼は美しい」 ■ 「もっと美しいお前に」 ■ 「美しい箸使い」 ■ 「美しい文字を書く」 ■ 「美しく食べる」 ■ 「いつまでも美しく」 
「本 激しい生と美しい死」 ■ 「本 美しい国へ 安倍晋三・著」

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 これらの中には正しいと思われる使われ方もあるが、「美しく老いる」、「美しい死」などのように非現実的問題点が「美しい」という単語を冠して前向きのイメージを無理矢理、言葉の演出として使われているのが多い。私は「美しい老い」、「美しい死」などは現実にはないと思っているから違和感を持たざるを得ない。

 日本人は「美しい」という枕詞が好きだ、と思う。
 私も時々使うが、できるだけ少なくしようと努めている。「美しい」という言葉が好きな表現者は「美しくない」という言葉を使うことはなさそうである。「美しくない老い」、「美しくない死」の方を私は好む。
 「美しい」という枕詞は本来「美しくないもの」につけることによって本来忌むべき概念を否定してふんわりと容認できる様にする効能がある。しかし、意味不明な賛美の言葉で、現実否定にも繋がる。

 グルメ番組で、一見かわいい若い女優たちが一口試食して「美味しい!!!」,「スイーティ!!」というのに似ている。そんな表現なら誰でも出来る。言葉を聞く前に、彼女らの食べるマナー、箸の使い方、口元の動きを見てがっかりすることが多い。
 意味不明な賛美のとしての「美しい」の頻用はせっかくの文章をむしろ見すぼらしくする。

 私は「美しい」ものが好きだ。ただ、美しいとはどういうことを指すのか、まだ分からない。

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「美しい」論(2) 「美しい」という感覚は新たな世界への興味を喚起する

2018年11月27日 17時51分09秒 | コラム、エッセイ
 私には「美しい」と感じる対象物は無数にある。あまりにも多くありすぎて、その一つ一つを指摘しピックアップするなんてことは出来ない。分類することもできない。だからこそ、いろんな分野で一瞬一瞬で「美しい」と発見する能力が重要なのだと、考えている。

 「美しい」とは、絵画や写真等の、動きのないものに感じるが、「不自然さを感じない」スムーズな動きの域に達した、流れるような技能・技術を見たり聴いたりした時にも感じる。
 
 さいわい、現代は映像の時代である。映像を記録できなかった時代には現場に行って直接見るか、その経験を元に文字や音声の説明で予想するしかなかった。しかし、今は違う。われわれは比較的簡単にTVを介して映像を見たり聴いたりすることができる。

 たとえぱ、すぐれた技能に到達したスポーツ選手の動きは「美しい」と思う。スポーツのみならず、和洋を問わずバレーや日舞等の世界、演劇の世界、オペラの世界、あるいは楽器を演奏する個人あるいはオーケストラの姿にも「美しい」を感じ取る。

 ある目的のために、特に限界に挑戦している時の肉体の動き、最も自然な、合理的と評してもいいようなスムーズな動き方をした瞬間の動きは、「美しい!!」に尽きる。感動さえする。
 スムーズな動きの基本は「円」を上手に描けるか!!!!にかかっている。
 人間の四肢、頭頸部が胴体に固定されているから、固定された支点を中心に一定の範囲でしか動けない。各人は重なる訓練で関節等の自由度を広げて限界までそれを駆使して表現し、想いを表現する。さらに道具を用いて表現する場合は肉体の可動域を超えて表現できるが、その場合も基本は「円」である。

 この「美しい!!」と感じる背景には、具体的には見えないが、重なる訓練によって到達し得た、長期間のたゆまない努力が感じ取れるから、それへの賛美も含む。それによって「美しい」の味わいが一層深くなる。

 それと重要なのは、限界への挑戦ながらもそれを感じさせない超絶の技術は「笑顔を絶やさない」ことにある。時には必死に作り笑いをしている、と感じさせることもあるが、それであればあるほど努力の跡が見える。だから「美しい」のだ。

 私は「美しい」に関して感受性は高い方だと思う。私以外の方々の感受性は全然分からないが、私がそういう感受性が豊かである事はとても恵まれている事だ、と思う。
 私にとって「美しい」と感じることの意義は、新発見した「美しい」を介してその対象物に無関心ではいられなくなる事である。

 「美しい」の感動は私の視野を広げてくれる効能がある。
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「美しい」論(1) 私は「美しい」ものが好き

2018年11月26日 18時10分30秒 | コラム、エッセイ
 私は「美しい」ものが好きである。
 音楽、絵画、彫刻、人物、自然、花、動物・・・全てを列挙する事は不可能である。私は「美しい」と感じられる感性が備わったことを嬉しく思う。生まれつき備わっていたのか、生きる過程で進歩したのか、・・・・。実はまだよくは分からない。

 先に「かわいい」について若干考察したが、この分野もまだよくわからない。まだ進行中である。ところが「かわいい」を論じる際に、「かわいい」の背景には、小さく無力なものが対象としてあげられるが、人間について「かわいい」を論じる時は、新生児、幼児などの、無力の、小さな、いたいけな存在がある。しかしながら、特に思春期以降の、成人しつつある人間について、特に女性の表情に「かわいい」を感じる際に何らかの形で「美しい」と言う感覚が同居する。両者は決して上手くわけられない。

 なぜわれわれは、「かわいい」と感じるのだろうか?
 「かわいい」論(3) 私の「かわいい」感情の背景(2)
 なぜわれわれは、「美しい」ものを「美しい」と感じるのだろうか?

 脳の生理機能が徐々に明らかになってきた現代にいて、「美しい」と感じる時、脳の中はどうなっているのだろうか??と思う。それにも関心はあるが、そんな事はさておき、ある人は「美しい」が分かり、別の人は「美しい」と感じないということが現実には存在する。こっちの方に関心がある。

 どうして人には、「美しい」と感じる、主観的、個別的なことが起こるのか?と考える。それは「人は個別に次々と「美しい」を発見し、感じ取る能力が備わって行くから」、と思う。

 「美しさ」は、対象の美的な価値が、教育による「美に関する知識の獲得」より客観的に固定されているイメージで、より普遍的な感覚である。
 一方、「美しい」は教育の結果ではない。「美しさ」と「美しい」は互いに近いような気もするが、後者はあくまでも個人的感覚である。

 私は、「美しい」の感覚は、各人がそれぞれに生涯を通じて創り上げるものだ、と考えている。私の場合、自分が″「美しい」と感じたことそのものが、「美しさ」の基礎・原点となるべきだ、と考えている。

 だから、私には「美しい」と感じる対象物は無数にある。あまりにも多くありすぎて、その一つ一つを記憶するなんてことは出来ない。綺麗に分類することもできない。だからこそ、一瞬一瞬で「美しい」と発見する能力が重要なのだと、考えてる。
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