福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

徒然日記

2004年10月16日 01時07分43秒 | 未分類
 

3/14(木)小雨のち晴れ 申告家内分終了 iPhone7+電池交換 
 2:00起床、読書、いつもの如し。8:30家内に病院、終日勤務、先に休息から微睡。11:00入院患者対応。12:30近隣の申告会場に家内分の申告届けけ終了とした。iPhone7+の電池交換ドンキホーテ店にて。新聞チェック、自炊2冊。読書、19:30帰宅、夕食、20:30就眠。徒歩Σ3186歩。

東日本大震災・原発事故2024(4)   エネルギー政策は原発復帰に向かっている
■反転するエネルギー政策
 東電福島の原発事故の1年半後、民主党政権は「2030年代に原発ゼロ」の目標を固めた。運転期間の40年制限を厳格に適用し、新設や増設はしないことを原則に掲げた。
 電力の安定供給やコストを考えれば一気に全廃は無理だとしても、再生可能エネルギーを増やしつつ、ゼロに向かうべきだとの考え方で賛同できた。

 2012年11月自民党の政権復帰後、原発ゼロの目標は消えた。それでも安倍・菅政権は「原発依存度を可能な限り低減する」とし、新増設や建て替えは想定しないとしてきた。

 だが、岸田政権は、原発の「最大限活用」へと政策を反転させ、新増設・建て替えや60年を超える運転を認める方針を決めた。次世代炉の開発も加速させるといい、原発に頼り続ける道を描く。60年を超える原発運転は、経済産業省が主導し、原子力規制委員会も多数決で認めた。
 政権の政策転換を具体化していく動きが、徐々にかたちをとり始めている。我が国のエネ政策はどうなるのだろうか!!!

 ■再エネ拡大こそ王道
 脱炭素に向けては、太陽光や風力はコスト低下が進んでいる。
 広大な海を生かした洋上風力、ビルの壁面にも使える次世代太陽電池。自然環境と技術力を十分に生かし、国内で自給できる再エネの主力化に本気で取り組むことこそが、王道だ。

 原発は海外でも経済優位性が下がっている。「核燃料サイクル」の行き詰まりや「核のごみ」の処分など、未解決の問題も山積したままだ。

 何より日本は地震や津波、噴火など災害大国だ。能登の震源地付近にはかつて珠洲原発の計画があった。震災時には道路が寸断され、避難計画が成り立たない状況もきたしうる。

 事故の教訓を忘れず、原発に頼らない未来へ進む。その道を保てるかの分岐点に、日本社会は立っている。

 再エネは太陽光発電が増加して昼に電気が余り始め、時には出力制限を必要とするまでになった。電気は蓄電が難しい。 そのため、地域ごとに必要な量と発電量のバランスを調節している。

 原子力と水力、地熱は細かな調整はしない(できない??)らしいが本当かな??    フランスなどでは比較的細やかに原発の出力を調整しているという。






3/13(水)曇り 歯科治療 家内MRI   講演会
1:30起床、文献整理関連ほか。 家内MRIのため7:50出勤、11:00-13:00歯科治療。微睡、14:30病棟カンファ、患者処置、有熱車あり対応。微睡、新聞データ整理、文献読み、読書など。講演会のために18:20バス狙うも遅れてTaxiにて木の内前から通町書店経由帰宅、2280円。18:45帰宅、夕食、20:30就眠。Σ5568歩。

東日本大震災・原発事故2024(3) 廃炉の進捗状態 能登地震で原発は?
 福島の将来は廃炉の進行状態によって決まると言っていい。

 ところがその廃炉への工程がほとんど進んでいない。1-3号機には推定880トンの燃料でブリがある。政府と東電は当初2号機で2021年度中に数gながら試験的取り出しを始める予定であったがロボットアームなどの開発が遅れ3度延期した。別の装置で本年10月までに取り出しを始め、ロボットアームを使う方針という。

 要するの東電福島原発の廃炉作業はほとんど進んでいない、ということ。これで福島がどうなるのかわからないではないか!!!

 こんな状態なのに、原発再稼働手続きが全国で進められている。これまで10基が再稼働済み。

 今回の能登半島地震は、原子力防災にも多くの課題を突きつけた。
 能登半島地震では志賀原発は休止状態にあったが、
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●使用済み燃料プールの水がこぼれた。
●冷却ポンプも一時止まった。
●外部電源を受ける変圧器が損傷した。
●周辺に自治体や国が設けている放射線量の測定設備のデータの一部が送れなくなった。
●津波の影響について、敷地内に海水を引き込んでいる水槽の「水位変動は確認できなかった」としていたが、約3メートル上昇していた。
●変圧器から漏れた油の量も最初の発表の5倍以上だった。
●原発周辺のアクセス道路が破壊され、避難や救援ができ難くなった。
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 誤情報は住民に不安を与え、被害の過小評価は重大な結果を招きかねない。

 志賀原発は2011年以降休止状態にある。幸いだったといえよう。
 敷地内の断層の評価をめぐり、2号機の再稼働の審査が長引いている。2016年に有識者会合が「活断層と解釈するのが合理的」と評価したが、北陸電力が反論し、原子力規制委員会が2023年、同社の見解を認めたばかりであった。再評価が必要である。

 今回の地震では、道路の寸断による半島の孤立も改めて問題になった。四国電力伊方原発や東北電力女川原発なども半島にある。原発事故が起きた場合に、避難や救援を妨げかねないし、家屋の激しい損壊状況をみれば、放射線を避けるための屋内避難もできない恐れがある。

 規制委は原子力災害対策指針の見直しを検討するというが、緊急対応や避難対策の課題を掘り下げてほしい。

 地震大国日本での原発のリスクが、改めてあらわになった。政府は、原発の活用に前のめりになっているようだが、再考するべきだ、と思う。






3/12(火)曇り小雨 中通病院外来 
3:00起床、いつもの如し。作業に集中しすぎ時間なし。5:50可燃ゴミ2袋準備のみ、6:40バス病院に、まだ寒い。7:10-8:00病棟。読書など。8:45-12:00中通総合病院外来。12:15病院。微睡、15:00-18:00病棟。19:00帰宅・夕食、21:00就眠。5329歩。

東日本大震災・原発事故2024(2) 13年でも地域は再生していない
 自然災害に原発事故が重なった現実が今も福島にある。

 しかし、その問題は風化しつつある。
 岸田政権は原発をより重視する考えである。事故の教訓は生かせていないし、核ゴミの問題も何ら進展していないのに、である。汚染水放出に関しても日中間で何ら進展していない。

 双葉町、大熊町には企業や教育などで復興も進む。だが、それでも両町の居住者は震災前の1割に満たない。原発事故による帰還できない区域がまだ7市町村に残る。県外への避難者は、今も約2万人に達する。

 原発事故の影響で居住者が激減した。過疎や高齢化が進む地域で事故が生じ、復興事業が長引く間に人口が流出してしまった。
 東日本大震災・原発事故は、過疎が進む地域で大災害が起きた時、街並みや産業の再興がいかに難しいか、という現実を浮き彫りにした。再興は無理だ、と思う。

 被災地で人が継続的に生きるためには、産業を発展させ、住民が働ける場所を確保することが必要である。しかし、これは困難を極める。震災前から過疎化が始まっていた地域に活力をとり戻すのは容易なことではない。

 私は、地域で被災された方々には申し訳ないが、本当に申し訳ない無責任な考えであるが、再興・復興は不可能だ、と思う。

 被災地の雇用の創出に関しては、民間の力だけでは不可能だろう。ロボットや航空宇宙など「福島イノベーション・コースト構想」に類似した取り組みがなければ無理。この対応がなければ地域の復興はあり得ない。

 災害の時にはとにかく早期の復興が望まれるが、これではダメだ。特に原発事故では土地や地域の考え方が変わってしまう。津波被害もそうであるが、過疎化する地域では人口減を見据えたコンパクトな街にすべきと思う。13年も経ちながら復旧出来ていない現実は重い。

 福島の将来は「廃炉」が鍵を握る。だが、その「廃炉」は先行きが見通せない。さらに申し訳ない考えを重ねるが、核ゴミの収納場所を福島の被災地内に設けては??と思う。




3/11(月)曇り小雨 東日本大震災・原発事故13年   健康クリニック  
2:00起床、いつもと同じパターン。データ整理、6:40バス病院に。9:00-12:007:10-8:30病棟。9:00-12:00健康クリニックドック13名+結果判定14名+結果説明1名。病院へ、微睡、15:00病棟対応。新聞チェックなど、自炊19:30帰宅、夕食、 21:00就眠。Σ5573歩。

東日本大震災・原発事故2024(1) 13年でインフラは復旧すれど人々の生活は戻らない
 東日本大震災で、東京電力福島第1原発が事故を起こして13年。
 津波の被害などで22.000人を超える死者・行方不明者を出した岩手、宮城両県の沿岸部では、住宅の再建や道路・鉄道網などのインフラ整備がほぼ完了した、という。しかし、人が戻っていない。

 国勢調査では、被災3県は全国水準を上回るスピードで人口減少が進んでいる。原発事故の影響で居住者が激減した福島の沿岸部だけでなく、宮城や岩手でも人口が3-4割減った自治体がある。過疎や高齢化が進む地域で震災が起き、復興事業が長引く間に人口が流出してしまった。

 東日本大震災は、過疎が進む地域で大災害が起きた時、街並みや産業の再興がいかに難しいか、という現実を浮き彫りにした。人口密度が高く、経済活動が旺盛な都市圏を中心とした阪神淡路大震災との違いはここにある。

 被災地で人が継続的に生きるためには、産業を発展させ、住民が働ける場所を確保することが必要である。しかし、これは困難を極める。震災前から過疎化が始まっていた地域に活力をとり戻すのは容易なことではない。

 私は、地域で被災された方々には申し訳ないが、不可能だ、と思う。

 人口減に悩む秋田の事情を見渡すと、秋田は大きな震災こそないが事情はほぼ同じだ、といえる。
 震災では復旧、復興が唱えられるがこれではダメだ。人口減を見据えたコンパクトな街にするべきだった。大震災の後は復旧を急がず新しい発想の地域づくりが必要である。

 被災地の雇用の創出に関しては、民間の力だけでは不可能だろう。ロボットや航空宇宙など最先端の産業を原発周辺の地域に集積させる国家プロジェクト「福島イノベーション・コースト構想」などに類似した取り組みがなければ無理。この対応がなければ地域の復興はあり得ない。

 沿岸部の基幹産業である漁業は近年、主力のサンマや秋サケが記録的な不漁となっている。こうした状況を打開しようと、岩手県大槌町などでは漁協と水産業者が協力し、ギンザケやトラウトサーモンの養殖を進めている。地域で知恵を絞り、新たな特産品を生み出す試みに期待したい。これとて地元のパワーにだけ頼っていては大幅な発展が望み難い。

 東北の被災地が直面する課題は、岩手、宮城、能登だけでなく、日本の各地域が向き合うべき問題でもある。



3/10(日)快晴それでも寒い
2:00起床、蓄積データの整理、本読み、文献読み。午前読書座学。10:40バス病院、患者は落ち着いている。大量にデータ整理。15:30帰宅。読書、微睡、本読み。19:00夕食。20:00就寝、Σ4830歩。夜半に家内岐阜から帰宅。昨年除雪機の整備と収納、自転車の整備、ウオーキングシューズへ。今年はまだ。
納豆(1)   納豆発祥は秋田である! しかも美人とも関連
 朝食時の納豆が好きである。たまらなく好きである。
 しかし、朝食時以外はダメ。何故だろうね。
 また、納豆を食した後に食器等から発する臭い、私はこれもダメ。私は食器には納豆をつけない。だから、臭わない。
 病院でも朝食時に時に納豆が供されるが、その時は病棟中が納豆の臭いが充満する。そのような朝は早朝の回診はキャンセルする。

 納豆の起源は秋田だ、と思う。いうまでもなく後三年の合戦である。平安時代後期の陸奥・出羽(東北地方)を舞台とした戦役である。煮豆を俵に入れ馬にくくりつけて移動していたら馬の体温で発酵し粘っていた、という。それが結構美味かった(馬かった??)のが主たる説である。

 しかし、秋田起源説は全国区ではない。いまだに納豆の起源は水戸だと思っている人が多い。一説では、佐竹の殿様が秋田に赴任するときに、茨城の美女をごっそり連れてきたがそのお返しに、納豆の製法を水戸に教えた、とも言われている。

 私は小さなパックに入ったひきわり納豆(40gx3パックで70-90円前後)を好む。

 (秋田のヤマダフーズのひきわり納豆のデザイン イラストレーター凪氏の作 秋田美人と納豆の関係が示唆される)

 チンで解凍した80gのご飯の上に乗せた納豆の塊に醤油やタレをそっと垂らすだけ。箸でかきませない。時には生卵を乗せることもあるが、かきませない。一箸一箸それぞれの味を楽しむ。  

 昔は納豆と言えば、朝、納豆売りが「納豆、なっとー、ナットー!」と売り声をあげながら売りにきた。このときの納豆は、今で言えば中粒だった。
 今はもう大変。大粒から小粒、極小粒、そしてひき割り。選択に困る。

 そしていま、納豆界は小粒全盛の時代となった、様に思う。
 小粒がもてはやされる時代になった。なぜ小粒が一般大衆に受けいれられたのか??理由は意外に簡単で、一説によれば人間自体が小粒になったから、とも言われている。
 人間はどうか知らないが、納豆は小粒のほうがたくさん糸を引く。大粒は一生懸命かき回してもあまり糸が出てこない。

 納豆の命は糸にある。右回りに50回、左回りに50回かき混ぜるのが良いと、一部の料理本で推奨されているのを見たことがある。
 小粒の場合は十分糸を吐き出させて、発生した泡と共にドロリとさせてゴハンにかける。
 大粒の場合はゴハンに乗せる。

 納豆の粒の大きさによって食べ方も作法も変わる。
 乗せた大粒納豆はゴハンと一体化しないから、豆好きの人で豆の味を味わいたい人は大粒のほうを選ぶことになる。

 しみじみ、納豆は奥が深い、と思う。日本人に生まれてよかったなあ。




3/9(土) 快晴温暖 家内分確定申告 家内はゾンタ会議後岐阜へ
3:15起床、文献検討、徒然など。午前は読書中心、データ整理。10:30家内はゾンタ会議へ。16:00新幹線岐阜へ。午後家内分確定申告に集中終了。19:00夕食。20:45居間のソファーベットで湯たんぽ抱いて就寝。Σ2583歩。

ミカン(2)   冷凍ミカンの思い出 
 私は1965年(昭和40)新潟大学に進学し、6年間盛岡⇆仙台⇆新潟と往復した。
 当時、東北本線は蒸気機関車、磐越西線はディーゼル車で片道約10時間の行程であった。座面はクッション付きの布張りであったが背もたれは硬い木製、直角に固定されていて、長く座っていると身体が痛くなったものである。当然冷房などはなく夏場は大変であった。この辛かった移動の時だけ新潟大学に入ったことをしみじみ恨んだが、勉強不足の身では止むを得なかった。

 この辛い往復の際の最大のオアシス、贅沢は本をたくさん読めることと駅で冷凍ミカンを購入して時間をかけて食べることであった。

 ミカンは季節性の果物で冬から春頃にしか販売されていなかった。これを通年販売できる商品にしようと大洋漁業と鉄道弘済会の共同開発で冷凍ミカンが製造された。昭和30年-40年代が出荷のピークで、売り上げは年間1000万個にも達したという。

 列車の中で冷凍みかんを味わったのはいま70-80代前後の人達だろう。
 冷凍ミカンは、この世代の旅行のちょっとした楽しみのシンボルであった。

 冷凍ミカンを思い出す時、当時の列車の様子がありありと甦ってくる。座席が確保できた場合はまだいいが、当時の列車は遅かった。列車が混雑すると人々は床に新聞紙を敷き座ったものである。

 当時は駅弁は贅沢品で長旅の場合殆どがおにぎり持参であった。ペットボトルがなく車内の飲み物といえば、急須の形をした陶製の容器に入ったお茶だけだった。当時15円だった。

 そうした中の、楽しみが冷凍ミカンだったのである。ガチガチに凍って直ぐには食べることができないが、やがて食べごろ時が来る。時々触っては食べごろを探るが冷凍ミカンは半解凍状態の「ショリショリ感」にあったが、美味しいシャーベット期は短かく、その後はただの冷たいミカンになってしまう。

 冷凍ミカンって随分冷たかった。これは、美味しいか否かの基準を超越した、超貴重な味であった。だから、忘れられない。

 私は今でも時々冷凍ミカンを作って当時を思い出し、楽しんでいる。
 



3/8(金)快晴 大曲外来  
2:45起床、文献・新聞読み、データ整理など。5:30可燃ゴミ提出、7:40Taxi駅に、8:11こまち、8:45大曲中通病院外来、Taxiで移動。長崎やなし。15:20病院。iPhone7+バッテリー予約。19:15帰宅、夕食、21:00就寝。Σ4527歩。

ミカン(1)   ブヨブヨ・しわくちゃ蜜柑が好きなのだが今期は眞穴蜜柑を楽しんだ 
 ミカンが美味しい季節になった。   
 2月-4月は私にとってミカンが美味しい時期で、この時期に集中的に食べる。

 これ以外の時期には従来はほとんど食べなかったが、今期は10月頃から愛媛県産の真穴蜜柑を集中して食べた。
 秋田県の佐竹知事が不用意にも愛媛のじゃこ天などを貧乏くさいと発言したことも関連して、私は意識して真穴蜜柑を購入してもらった。
 私は初めて知ったのであるが、眞穴蜜柑はこの時期の蜜柑としては外側の皮が薄くて剥きやすく、とても甘くて私の好みにあって、蜜柑好きにひと足さきに火がついた。新年になってからは入手できなくなって、他のブランド蜜柑となった。

 岩手の片田舎で、裸電球の灯る、暗く、寒い室内にチョロチョロと赤い炎を見せながら燃える薪ストーヴとコタツが暖房機器の主役であった。その側には静岡産などのミカンが箱のまま無造作に置かれていた。

 秋の旬のミカンは、青いものもあって新鮮そのもの。実がパンパンに詰まっていて実と皮の間に隙間がない、はち切れんばかりである。味は、新鮮な甘酸っぱさ、独特でこれも捨てがたいが、私は成人してからはこの時期のミカンは眺めるだけで手に取ることはなかった。果物類が豊かになったこともあるだろう。

 ところが、2月頃になると私は突然ミカンを食べ始める。この頃の蜜柑は水分を失って実が萎縮し、皮と実の間に広く隙間が出てくる。外見も熟成した余裕の雰囲気が漂う。指先で皮をシゴくと一層皮を剥きやすくなる。こうなると家族達はあまり食べなくなるから私の独壇場となる。味も酸っぱさや強烈な甘みは消え、マイルドな甘さが残っている。実に美味しい。

 このミカンを楽しむ頃になると、どんよりとしていた秋田の空が日に日に春の息吹を帯びてくる。私にとってブヨブヨ・しわくちゃミカンは春の訪れを意識する食品でもある。 

 3月に入ると腐りやすく、値段も急に高くなる。4月に入るとスーパーの店頭からミカンの姿がそろそろ消える。とても寂しい。

 冷凍保存できればいいのだが我が家の冷凍庫にはミカン用の余裕はない。残念である。

 しわくちゃミカン礼賛者の独り言。




3/7(木) 快晴 寒波緩む ゾンタ臨時会議
2:00起床,ネコ対応。文献多数検討など。本読み、など、8:30家内と出勤、午前は座学、読書など。11:00病棟患者対応。比較的ゆったり過ごす、自炊数冊。ゾンタ臨時会議とのことで院内で待機、20:30帰宅、夕食。21;45就寝。Σ3500歩。

おにぎり(2)   握る人と食べる人の絆
 おにぎりが好き、という人は多い。
 食品関係の某アンケートでは、おにぎりを「嫌い」と答えた人は0.1%しかいなかった、という。

 私の幼少期にはご飯はかまどで、薪で炊いた。水蒸気を噴き出し始めた釜をあやしながら、時に声をかけながら炊き上がるのを待ったものである。さらに、この釜にはお焦げというおまけがつき、それをこそぎ取ってしょうゆをひと垂らししてキュッと握り、「ホレ・・」と渡してくれた母のおむすびほど懐かしいのは他にない。朝の楽しみの一つだった。
 あの時間と味を、電気釜以降は失ってしまった。
 
 普通、おにぎりは、朝に握られて、お昼に食べるもの。冷めたおにぎりを一口ほおばる時、子どもの頃の味、を思い出す。
 おにぎりにまつわる豊かな思い出は、いい人生を過ごしてきた、としみじみと思わせてくれる。

 日本人とおにぎりのつきあいは古い。石川県にある弥生時代の遺跡からは、おにぎりの「化石」が見つかっている。奈良時代の書物、「風土記」のひとつ「常陸国風土記」に握飯という記述が残され、平安時代には蒸したもち米を握り固めた屯食があった。戦国時代、江戸時代には携行食として広くおにぎりが普及していった。

 おにぎりの具材も色々楽しみであるが、おにぎりのおいしさは作る人の「ぬくもり」にもある、と思う。「握る」「結ぶ」は単に力を加えることではなく、気持ちをこめる特別な行為でもある。寿司の握りとは自ずと異なる。

 素朴な食べ物のやりとりを通して、握る人と食べる人が互いに絆を深める意味もあっただろう。

 「東北のマザー」と呼ばれた青森県弘前市の佐藤初女氏は岩木山の麓に立つ「森のイスキア」で、人生に迷い心が疲れた女性たちを、おむすびと手料理で迎えた。2016年94歳で亡くなったが、著書の中で「おむすびを握るということは、それを通して握る人の心を伝えることです」と述べている。

 おにぎりの具材で一番人気は塩にぎり。食が細い子どもでも、おにぎりにすると喜んで食べる。

 コンビニでは色々の具材の握りが売られているが、機械で作られるから冷えてなくとも冷たい。先のアンケートでは回答者の約4割が「作るよりも買う」と答えた。
 具材の人気はシャケ> 梅>昆布>明太子>・・・と続くが、豚の角煮、カツ、チーズなど、おにぎりらしからぬ具材も登場した。

 具材でダントツ人気の「サケ」はおにぎりの場合「シャケ」と呼ばれるが、ふたつとも「鮭」の正しい読み方だという。また、「鮭」と「サーモン」は別の魚で「ます」ある。

3/6(水)  快晴 比較的温暖  中通歯科受診 病棟カンファ 薬品説明会
2:00起床、データ整理、文献多数、データ検討など。9:30家内と出勤、病棟対応策、10:30-12:50中通歯科受診、長時間であった。薬品説明会は間に合わず。自分分の申告書類提出、問題なし。14:30病棟カンファ、患者処置対応、19:30帰宅、夕食、20:45就寝。Σ5090歩。

おにぎり(1)   非日常的な美味しさがある不思議な食べ物
 家にあれば 笥(け=食器)に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る 
(万葉集 巻第2-142 有間皇子 ありまのみこ)
 突然に非日常的食事をせざると得なくなった有間皇子の嘆きを味わった。
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 おむすびという名は、私にとってはちょっと遠い印象がある。おにぎりと呼ぶのがいい、と思う。
 今の私の生活の中では日常に、おにぎりはあまり登場しない。
 対して子供の頃、遠足に持っていく「行楽弁当」において、主食はほとんどおにぎりであった。

 握られたご飯は「非日常」を、握っていないご飯は「日常」を象徴する。
 おにぎりは、箸を使わず「手づかみ」で食べるが、これは明らかに非日常的な状態。 「手づかみ」で食べることによって、いつもと同じご飯であっても、その味まで違ってしまう。カレーライスをいつか手で直接食べてみたいと思っているが、まだ果たしていない。

 そして、日本人にとって遠足でおにぎりを食べるということ、そのウキウキ感は、当たり前の日常がそこにあるからこそ、味わうことができる日本人特有の贅沢な感覚と思う。

 おにぎりは地震や台風などの折、避難所に運ばれる。これは箸など使う余裕が無いからで、行楽とは別の意味での非日常状態。阪神大震災、東日本大震災、能登地震ほかでも同様に振る舞われたが、被災者によると長期的になるとこれも辛いらしい。

 私は年に1-2度、病院の売店などでおにぎりを買うことがあるが、おにぎりは「非日常」な感じはしない。市販のパリパリした海苔のおにぎりのアイデアは、素晴らしいが、食事と言うより海苔のスナックの感覚で、食べられるから、私にとっては別物で「非日常」的食べ物。

 これに対し、家庭で朝、握られたおにぎりは昼頃になると湿り気を帯びている。これが当たり前であった。最初から海苔が巻いてあるしっとり系のおにぎり、あの海苔が手にくっついて困る、でもいつもと違って楽しかった感じを、食べる度に思い出す。これも非日常的であるが、最近はアルミホイルやラッピングでより食べやすくなっている。

 私は湿ったノリで包まれたおにぎりの礼賛者である。


3/5(火)曇りやや寒い  中通病院外来 
2:00起床、いつもの如く、文献チェック、読書中心。5:30可燃ゴミ1袋提出。6:40バス病院、7:10-8:15病棟業務、読書、8:40-12:50中通病院外来。若干難渋。病院、微睡。16:00病棟対応、新聞入力、自炊。読書。19:30通町書店経由帰宅、夕食。21:30就眠。Σ5984歩。

牛乳(3)   低温殺菌の牛乳は美味しいが・・・
 「低温殺菌牛乳は味が良い」というイメージを持つ人は少なくないと思う。私もその一人。

 牛乳の殺菌方法は大きく分けて以下のパターンある。
(1)LTLT法(Low temperature long time pasteurization).「低音長時間殺菌」
 63℃~65℃の間で30分間保持する低温保持殺菌法。非耐熱性菌は大方死滅するものの、一部は残存するので、一般的な牛乳よりも、消費期限は短い(5日前後程度)。
 しかし、タンパク質の熱変性は抑えられるので、牛乳本来の風味をほぼそのまま生かすことができる。生産・輸送・販売における品質管理に困難があり大手乳業メーカは殆ど手がけておらず低温殺菌牛乳は小規模の限定的生産にとどまっている。

(2)HTST法(High Temperature Short Time)「高温短時間殺菌
 75℃・15秒間で殺菌する。原料乳由来の酵素は失活し、結核菌、腸チフス菌などの病原性細菌は死滅するが、腐敗菌や耐熱性菌、芽胞は生残する。 

(3)UHT(Ultra High Temperatue)「超高温殺菌
 120~130℃・2~3秒間。牛乳の殺菌処理方法の主流となっている。一般販売されている牛乳の9割以上がこの方法による。

(4)「超高温瞬間殺菌法」
 135~150°C、1~4秒間加熱し滅菌。 ロングライフ(LL)牛乳に用いられる方法で、 滅菌処理後に容器に充填されるので、常温で60日間の長期保存が可能。


 私は(4)の殺菌法を用いたLL牛乳が牛乳の安定消費、輸出につながる可能性があるからもっと推奨すべきと考えている。
 LL牛乳の2022年度の生産量(農水省まとめ)は、前度比7.2%増の4万628リットルで、3年ぶりに増加に転じた。アジア向けの輸出も伸び、財務省の貿易統計ではLL牛乳の輸出額は2022年度で20億円と、前年度比で8・4%増となった。生乳の国内需要はコロナ禍や物価高騰により長らく需要が低迷し、輸出に向け需要開拓の必要性が高まっている。政府は牛乳・乳製品全体の輸出額目標として、25年に328億円と、2019年の8割増を掲げる。

 私は、味の好みで選び分けているつもりである。「低温殺菌牛乳は絶対的に味が良い」と思う。

 しかしながら、日本乳業協会が行う講座で種類別や殺菌温度の違いを飲み比べてもらったところ、低温殺菌牛乳より超高温瞬間殺菌がおいしいと答える方が多かったという。

 私は低温殺菌牛乳が濃厚でコクがあるように感じることと、ほとんどの牛乳が成分無調整とあるが低温殺菌牛乳はより濃厚のような感じがする。スーパーなどでは特選、特濃・・・などの表示の製品もあり面白いが、それらの基準は味としては実感できない。

3/4(月)曇り寒い 健康クリニックドック 積雪3cm 職員健診
2:15起床、メゾン感心しつつ終了。新聞・文献チェック。その他蓄積データ整理。微睡。転倒防止のスパイクアダプター着用、6:30バス病院、7:10-8:15病棟業務、読書、9:00-11:10健康クリニックドック14名+結果判定14名、11:30職員健診、微睡、15:00病棟対応。読書など。19:15帰宅・夕食、21:00就寝。Σ6160歩。

牛乳(2)   私は週に2.7リットル飲む
 我が家では30年以上も宅配の牛乳をとっていた。
 家族全員牛乳が好きというわけではない。たまには料理に使う事もあるが、牛乳が好きな私がひたすら飲む。

 牛乳はカルシウムが豊かであるがそんなことに期待しているわけではない。子供の頃からの習慣で牛乳いつも身近にあったことが理由で、牛乳がないと寂しいからである。

 この数年間で私が把握しているだけでも宅配小売店が3軒廃業した。
 ここ3年ほどは秋田市では唯一となった牧場で生産されている「鈴木牛乳」900ml瓶入りを週3回病院まで配達してもらっている。

 (週に3本私が飲んでいる瓶入り牛乳)

 秋田近郊ではかつては20ヶ所も在った牧場は、今や鈴木牧場のみとなった。秋田市太平山の麓で家族3人で頑張っている、とのことである。

 酪農家の廃業が続いているとのニュースに関して私は無関心ではいられない。
 農水省によると、2022年2月時点の乳用牛の国内飼育戸数は1万3300戸と、前年から3.6%減った。
 ロシアのウクライナ侵攻に端を発した飼料価格の高騰で採算が悪化し、酪農家戸数は約14年前の水準にまで減少した。最後の砦として酪農家の収入を支えてきた子牛の価格急落が重くのしかかる。2020年時は平均10万円以上であった子牛が千円程度のこともある、という。

 我が国の食料危機はこの30年ほど前から懸案事項で、私は心配してきたが、識者や政治家が正当な対策を怠ってきたためにその状況はむしろ悪化傾向にある。この人口減、高齢化の中でもう不可逆的状態に至ったと思っている。よほどドラスティックな対策をしないと改善しないだろう。
 
 牛乳の宅配店は約9千軒。 ピークの2016年から50%も減った。
 宅配店が直面しているのは「需要減」「価格競争」「後継者難」「ガソリン代の高騰」 の四重苦。 
 少子化で学校給食や家庭の牛乳消費が減る一方、若い女性には「太る」イメージで嫌われた。

 宅配店にはコスト増を吸収する余力は乏しく、個人経営が多い宅配店には、高齢化の波がじわりと押し寄せている。

 今後はさらに牛乳の販売はコンビニやスーパーが中心になるかも知れない。牛乳の消費量は一層不安定になると思われる。

 



3/3(日)曇り 家内羽後町講演会 家内分申告書作成 積雪3cm
 2:15起床、データチェック。関連文献検討、本読みなどほかいつもの如く。入浴など。9:00羽後町の講演、ネオニコチノイド関連、にいく家内に同乗病院、座学中心、新聞データ大量入力処理、読書三昧。15:00帰宅、微睡。家内分申告書作成開始。20:00家内帰宅。20:00夕食、21:00就眠。Σ3672歩。

牛乳(1) 懐かしい脱脂粉乳給食 搾りたての牛乳は美味しかった
 私は1952年(昭和27年)に小学校に入学した。

 もうその頃は我が国の食料事情はかなり良くなってきていただろうが、昼食時にアメリカの脱脂粉乳が学校給食として振る舞われた。上下が金属で、側は厚いボール紙で出来た丈夫なドラム缶の中に白い粉乳が入っており、その一定量をブリキのバケツに入れ、ぬるま湯で溶かしたもので、アルミの器で配られた。
 週2~3回ほどあったような気がするが、私の記憶では短期間だけだった気がする。
 脱脂粉乳は「あまりおいしくない」といわれていたが、私は喜んで飲み、アメリカに思いを馳せた。
 上級生が給食係を担当してくれたが、時にバケツをひっくり返してその日の給食がパーになる事もあったが、いい思い出である。

 この脱脂粉乳はアメリカのキリスト教団体など13団体で組織された日本向け援助団体(LALA)によって、1946年~1952年までの間総額400億円の救援物資が届けられた、という。そのうち4分の3が脱脂粉乳などの食料品であったとされる。
 岩手の片田舎の小学校までよく届いたものだ、と感心する。

 粉末化された脱脂粉乳は長期保存が可能で、育ち盛りの子どもに必要なカルシウムやたんぱく質を補給でき、高い栄養価により、戦後の食糧難の中、児童の栄養状態を劇的に改善した、と言われている。

 これとは別に当時、我が家では週に3回ほど親戚の農家から搾りたての牛乳の提供を受けていた。朝7:00に空の4合瓶を持って牛乳をとりに行くのが小学生の私の役目であった。
 生の牛乳は殺菌しないで飲むのは危険とされており、母が毎日2合ずつ小鍋で沸騰させていた。
 牛乳は簡単に吹きこぼれる。炭火の七輪にかけた土鍋を、母は見つめて待っていた。熱くなった牛乳の表面にサワサワと薄膜が張ってくる。それを母は箸で上手に絡め取り小さな湯呑に移し、少量の牛乳を足して私にくれた。これが毎朝の楽しみの一つであった。思い切って火にかける前の牛乳を少量すくって飲んでみたことがあるがとても美味しかった。

 稀にヤギの乳も入手できた。同様に沸かして飲むのであるが、雑草ぽい匂いがして私は好きになれなかった。
 子ネコの代わりに母ネコの乳房から直接吸ってみた事もあるが、量は少なく、かなり塩っぱかった印象が残っている。





3/2(土)寒波朝-3度 曇り小雪 申告自分分終了 
2:45起床、疲労?調子に乗らずグダグダ過ごす。新聞チェック、4:00頃から調子戻る。疲労の影響か? 朝までは座学中心。自分分の申告最終コース。微睡、新聞チェック。申告終了。19:00夕食、20:30就寝。Σ1805歩。部屋からはほとんど出ず、運動不足。微睡の時間も長かった。
香辛料・添加物(2)  私は料理人から嫌われている(2)
 私はどちらかといえば辛い味が好き。それに塩分もそう深刻には気にしない方である。
 だから、香辛料や添加物を大量に用いる。だから、料理を作ってくれる人たちの評判はよくない。

 香辛料や添加物の例
⚫︎焼きそば、チャーハンなどと紅しょうが
 私は焼きそば、チャーハン、ガーリックライスなどをホットプレートで作りながら食べるのが好きである。その際は紅しょうがを添えて食べる。家人たちは紅しょうがの量を見て紅しょうが主役か??、と嫌な表情である。
 
(一昨日の焼きそば これは一例)

⚫︎カレーライスには福神漬けとラッキョウ
 私はカレーが好きである。しかもかなり辛いタイプがいい。自宅ではカレーには福神漬けと細ぎりしたラッキョウを大量にまぶす。家人たちは福神漬けとラッキョウが主役でないか??、と嫌な表情である。

 私は滅多に外食しないがその際にカレーライスを注文することが多い。各店の特徴あるカレーライスを味わってみるためである。その際の不満はカレーが全体に少ないことと、福神漬けやラッキョウがホンのわずかしかついてこない事である。少なくとも5倍は欲しい。別会計でラッキョウを希望しても多くは対応してもらえない。

 私はカレーライス以外のカレー味の料理は100%嫌。カレーパン、カレーうどんなども受け付けないが、キャベツの千切りにカレーをかけて食べるキャベツカレーはいい。その際も、もちろん福神漬けやラッキョウは必須である。

(我が家のカレー 今回は肉なし 大豆から作った人工肉使用 福神漬けやラッキョウの瓶も側にある)

⚫︎ラーメンに胡椒とめんま
 ラーメンにはたっぷり胡椒をふりかけ、めんまを大量に載せる。我が家ではシナちくラーメンと呼ぶ。

⚫︎パスタにタバスコと粉チーズ
 パスタ類にはタバスコと粉チーズであるが、時には調子に乗って前者をかけ過ぎ、人知れず辛さに耐える事もある。

⚫︎そば うどんに唐辛子
 一味か七味か問わない。どんぶりの底に大量に残り驚く。

⚫︎フライには辛子をたっぷり塗る。

⚫︎・・・などなど

 私はどちらかといえば不健康な食事をとっていることになるだろうが、この味が好きだから、今後も我が道をいきたい。




3/1(金)寒波小雨曇り   大曲中通病院  
1:45起床。文献・本読み、徒然他、データ処理。積雪1cm。6:00雨の中可燃ゴミ一袋提出。7:35Taxi駅、8:11こまち。大曲は往復タクシー、8:50大曲中通病院外来。患者中等度。秋田駅、15:30長崎屋古書店経由病院7冊購入、微睡、新聞入力できず、読書、メゾン中心。19:20帰宅、夕食。20:30就寝。歩数6617歩。

香辛料・添加物(1)  私は料理人から嫌われている
 我が家の食器棚には、香辛料の瓶がたくさん置いてあるように見える。 個々の香辛料、それは料理に微妙な香りや味をつけるものらしいが、料理を全くしない私がそれらの効能は殆ど知らない。

 確かに、その棚だけを見ていると我が家では様々な香辛料を駆使して美味しいものを作りまくっているような印象がある。

 では、なぜ我が家には香辛料の瓶がたくさんあるのか。
 それは、我が家では私以外の三人が料理をするから個々人によって用いる香辛料が異なるからであろう。

 食器棚に並ぶ香辛料は、時には「料理を作るぞ・・・」という意欲を盛り上げることにもなるだろうし、その日の料理の選択、新い工夫にも関わってくるかもしれない。

 私がパソコン上で作っている書籍のリストのようなものなのだろう。その数千冊にも及ぶ既読書のリストを見ていると懐かしさが込み上げてくるし、再読したい書籍が浮き出てくる。
 食器棚にある香辛料にもそんな効果があるのだろう。

 食器棚にある香辛料とは別に、私の食卓の上には常に胡椒、唐辛子が置いてある他に、料理によっては福神漬けラッキョウ、タバスコ、洋和風の辛子類が並ぶ。

 私は食卓上で添加する、香辛料や添加物をあまりにも大量に用いるから料理を作ってくれる人たちの評判はよくない。せっかく整えた味が台無しになる・・・とのことである。その気持ちは理解できるが、私にとっては一層美味しくなるから気にしてはいられない。

 私は、料理の微妙な味がよくわからない。塩味さえ適当であれば何をいただいても美味しいし、素材の味を堪能し満足できる。夕食後の私の感想はワンパターン、「とても美味しかった・・・」だけで詳細は言わない、いや言えないのだ。

 私には食事の感想を詳細に述べる語彙に欠けている。だから、下手に表現しようとすればするほど「物言えば くちびるさむし 秋の風」(芭蕉)、に似た様な心境になる。

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